【つの版】日本刀備忘録55:東海刀工
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
戦国時代に戻りましょう。日本全国で武器の需要が高まったため、各地の刀工集団は大忙しとなり、刀や槍が大量生産されて輸出されました。西国では備前、東国では美濃が刀剣生産の一大拠点でしたが、伊勢桑名で活動した千子村正など、その他の地域でも多くの刀工が活動しました。今回は東海道を東へ向かい、その沿線の刀工集団を見ていきましょう。

◆徳◆
◆川◆
尾張:志賀関兼延
室町時代中期、尾張国春日井郡山田庄の志賀(現・愛知県名古屋市北区志賀町・山田町)には、兼延という刀工が活動していました。初代兼延は明応年間に美濃国直江村で作刀しており「直江志津」の流れを汲みます。二代目は美濃国加茂郡小山(岐阜県美濃加茂市下米田町小山)で活動し、室屋関の流派を学びましたが、のちに尾張の志賀に移住して「志賀関」「山田関」と呼ばれました。二代兼延の後も室町時代末期まで活動しています。
遠江:高天神兼明
大永年間(1521-28年)には、遠江国城東郡土方(現・静岡県掛川市上土方)の高天神城で兼明という刀工が活動していました。高天神城は駿河・遠江の守護大名である今川氏親が街道筋の要として築かせた山城で、今川氏の家来の福島氏、ついで小笠原氏が城代となりました。兼明は通称を右衛門四郎といい、もと美濃国関の刀工でしたが、今川氏に招かれて高天神城に移住し、三代にわたって作刀を行いました。天文6年(1537年)に甲斐の武田信虎が娘を氏親の子・義元に娶せて同盟すると、当時の兼明は信虎から偏諱を授かって「虎明」と改名したらしく、その名での銘が残っています。
今川義元は天文23年(1554年)に後北条氏の娘を嫡男・氏真の正室に迎え三国同盟を締結しますが、永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで織田信長に討ち取られます。跡を継いだ氏真が各地での反乱に手を焼く中、信虎の子・武田信玄は駿河へ侵攻し、三河の徳川家康は遠江へ侵攻しました。高天神城の城主・小笠原信興は家康に服属しますが、相次ぐ武田氏の侵攻に耐えきれず降伏し、以後この城は武田と徳川の戦いの最前線となりました。兼明改め虎明がこの頃にどうしていたかは定かでなく、その後の行方もわかりません。
駿河:島田義助
高天神城の北東、駿河国の嶋田(現静岡県島田市)では、今川氏お抱えの刀工・義助が活動していました。伝説では後鳥羽院の御番鍛冶を務めた備前一文字助宗(五条助宗)の末裔で、正安年間(1299-1302年)に相州五郎入道正宗の教えを受けて義助と名乗り、四代義助が駿河守護の今川義忠に召し抱えられたといいます。しかし義助の名は義忠から偏諱を賜ったものともいい、これが初代と考えられています。
今川義忠は氏親の父で義元の祖父にあたり、寛正2年(1461年)に26歳で駿河守護職を継承しています。応仁の乱では東軍に属し、幕臣伊勢盛定の娘(新九郎盛時の姉)を娶っています。彼は遠江の守護職を巡って斯波義廉と争いますが、幕府(東軍)が遠江守護に任じた斯波義良、守護代に任じた甲斐敏光とも争いとなり、文明8年(1476年)に討ち死にしました。
『古今名尽大全』では、初代義助は義忠が駿河守護職となる前の康正年間(1455-57年)に活動を開始したとされます。この頃の義忠は父の範忠とともに享徳の乱を起こした足利成氏の本拠地・鎌倉を攻め落としており、武器生産の需要があったのでしょう。しかしこの頃の義助の作刀は現存せず、半世紀後の永正2年(1505年)のものが現存最古で、これが二代ないし実質の初代とみなされます。当時の今川家当主は氏親(1526年没)ですから、義忠より偏諱を賜ったのであれば初代は存在はしたのでしょう。初代義助の弟は助宗を名乗り、三代目は明応年間(1492-1501年)に活動しました。
島田は大井川のほとりにあり、西は遠江に接し北東は駿府に達し、東海道の宿場町(島田宿・金谷宿)が存在した交通の要衝です。駿府の今川氏から見れば遠江に接する最前線ですから、武器生産基地は必要不可欠です。
永正の義助はもとの名を片岡新三郎といい、のち五条氏を名乗りました。歴代の義助では最も優れ、永正・大永年間(1504-28年)に活動したと推測されます。三代目は天文・弘治年間(1532-55年)、四代目は天正・文禄年間(1573-96年)に活動しており、今川氏真が駿河から追放された後は武田氏や後北条氏、次いで徳川家に仕えたようです。義助ら島田派の一門には他に広助、義綱、元助などがあり、江戸時代を通じて活動しました。
四代義助は、下総国の大名・結城晴朝の依頼を受けて「御手杵」という槍を作っています。刃長4尺6寸(1.38m)、茎までが7尺1寸(2.15m)、石突までの全長は1丈1尺(3.3m)あり、穂先の断面は三角形、樋は谷のように深く、鞘は中央が窪み手杵のようなのでこの名があります。晴朝は天正18年(1590年)に秀康(家康の子で秀吉の養子)を養嗣子として隠居し、御手杵は秀康の子・松平直基の子孫に伝来しました。参勤交代の時には家門の象徴として御手杵の鞘を馬印に掲げたといい、筑前黒田家に伝わる「日本号」と並び称されましたが、東京大空襲の時に焼失しました。
相模:小田原相州
島田派の作風は、正宗の後裔である末相州鍛冶の影響を濃く受けており、相互に交流がありました。初代義助も相州広正の弟子といいますし、後北条氏の居城・相州小田原に移住した刀工らは「小田原相州」と総称されます。鎌倉が衰退し、後北条氏・今川氏・武田氏ら戦国大名が相争う中、彼らは腕をふるって作刀を競い、武器の需要にこたえたのです。
後北条氏の祖・北条早雲こと伊勢新九郎盛時(早雲庵宗瑞)は、今川義忠の妻の弟です。義忠が戦死すると子の龍王丸(氏親)が幼少であったため内紛が起こり、周辺諸侯も駿河に侵攻しますが、幕府はこれを調停させるため盛時を派遣し、義忠の従兄弟・範満を家督代行者と定めます。のち盛時は再び駿河に下って家督を返さぬ範満を討伐し、氏親の後見人となりました。さらに伊豆公方の足利政知が没した後の争乱にも介入し、幕府の許可を得て伊豆を領有した上、甲斐・相模・武蔵にも侵攻して勢力を広げます。
彼の子の氏綱は伊豆の韮山城から相模の小田原城に拠点を移し、大永3年(1523年)に名字を「北条」と改めますが、これは伊豆・相模の国主として鎌倉幕府の執権北条氏にあやかったもので、家紋も伊勢の対い蝶から北条の三つ鱗に改めています。氏綱の子の氏康、孫の氏政の代まで後北条氏は関東の大大名として繁栄し、小田原はその都として殷賑を極めたのです。小田原で活動した刀工のうち、綱広・綱家は氏綱の偏諱を、康国・康春は氏康の偏諱を授かっています。康春は天文・永禄年間に作刀を行っており、在銘の上作が多いことから、小田原相州を代表する一人です。

武蔵:下原鍛冶
武蔵国は関東管領上杉氏の守護任国の一つであり、宿老の大石氏(木曽義仲の末裔を自称)が守護代を世襲しました。その本拠地は武蔵西部の多摩郡(中世には多東郡・多西郡に分割)にあり、南北朝時代には二宮(現東京都あきる野市)、次に浄福寺城(由井城、現東京都八王子市下恩方町)に居を構え、長禄2年(1458年)に高月城(八王子市高月町)、大永元年(1521年)には滝山城(八王子市丹木町)を築いたといいます(文禄年間とも)。いずれも多摩川南岸の丘陵に築かれた天然の要害です。
時の当主・大石定重は上杉氏を盟主として伊勢宗瑞による武蔵侵攻を防いでいましたが、氏綱が小田原城に移ってから圧力が強まりました。そのため新たに防衛線を築くとともに、相州藤沢から綱広の門人・山本但馬周重らを招聘し、刀や槍を盛んに作らせたのです。これは永正・大永・享禄年間(1504-32年)のこととされ、浄福寺城のある下恩方の辺名、次いで下原に工房を設け、下原鍛冶と呼ばれました。末相州の傍流ですが実用本位の無骨頑丈な姿で、美術品としては評価されていません。
大永7年(1521年)に定重が没すると子の定久が継ぎますが、氏綱の圧力に抗しきれず、子の憲重は氏綱の偏諱を授かり綱周と改名しています。氏綱没後の天文15年(1546年)、北条氏康が河越城で上杉憲政らを破ると大石氏は上杉氏を見限り(綱元は憲政に従い越後へ)、永禄2年(1559年)に氏康の子・氏照を婿養子に迎えました。下原鍛冶も後北条氏に仕え、二代周重は氏康の偏諱を授かり康重、弟は氏照の偏諱を授かり照重と名乗りました。氏照はこの地に滝山城や八王子城を築いて甲斐武田氏の侵攻を防ぎますが、のち北条に復姓し、大石定仲が家督を継いでいます。
下原鍛冶は小田原相州鍛冶とともに後北条氏の武器供給を支えましたが、天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原征伐で後北条氏が滅亡すると、関東に転封された徳川家康に仕えます。八王子は関東の西の防衛拠点として重視され、徳川家の直轄領となり、武田氏の遺臣が国境警備のために配置されました(八王子千人同心)。また大久保長安により甲州街道が整備され、交通の要衝として栄えます。家康が天下を取ると下原鍛冶は徳川家の御用鍛冶として苗字帯刀と麻裃の着用を許され、本宗家と分家を合わせて十家に及び、江戸時代を通じて繁栄を謳歌することとなります。
下原鍛冶のうち江戸時代に有名となったのが武蔵太郎安国です。慶安3年(1650年)に山本金左衛門広重の子として生まれ、はじめ山本藤太広重と名乗りました。貞享2年(1685年)江戸麻生に出て大村加卜に師事し、水戸に赴いて藩主・徳川光国(光圀)に鍛刀を命じられ、彼から武蔵太郎の名乗りと偏諱を賜り安国と改名します。享保4年(1719年)には御浜御殿において子の幸蔵とともに将軍吉宗の上覧鍛冶をつとめ、白銀10枚を賜りました。のち卜宥と号し、享保15年(1730年)に81歳で没しています。
なお小説『大菩薩峠』の主人公・机竜之助の愛刀はこの武蔵太郎安国のものとされています。甲州大菩薩峠は青梅街道から八王子を通った先にありますし、竜之介は八王子同心が学んだ剣術・甲源一刀流の使い手です。
◆徳◆
◆川◆
【続く】
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