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【つの版】日本刀備忘録54:妖刀伝説

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 戦国時代、伊勢桑名で活動した刀工が千子村正です。彼の弟子たちは千子派として伊勢・尾張・三河に広がり、各地の戦国武将が彼らの作った武器を買い求めました。しかし江戸時代以後、村正の刀は「妖刀」「徳川家に仇なすもの」とみなされるようになっていきます。何故でしょうか。

◆徳◆

◆川◆


三代不吉

 天文4年(1535年)12月、徳川家康の祖父・松平清康が尾張国守山(愛知県名古屋市守山)に侵攻した時、家臣の阿部弥七郎正豊に殺害される事件が起きました。これを「守山(森山)崩れ」といいます。事件の背景については諸説ありますが、清康に仕えた大久保忠員の子・彦左衛門忠教は寛永3年(1626年)頃に軍記物語『三河物語』を著し、この時に弥七郎が「せんご(千子)の刀」を用いたと記しています。

 また寛永15年(1638年)以後に書かれた著者不詳の『松平記』では、清康を殺害した弥七郎の差料を「二尺七寸の村正」とし、清康の子で家康の父の広忠も天文15年(1546年)「片目弥八」なる者に「村正の脇差」で突き殺されそうになったと記しています。幸い家来の植村新六郎氏明が弥八を組み伏せ、松平信孝が槍で弥八を突き殺したため、広忠は無事だったといいます(3年後に24歳で死去)。なお新六郎は守山崩れの時に弥七郎をその場で誅殺しており、二代続けて同じような事件で活躍したことになります。

 しかし三河物語でも松平記でも、千子村正の刀が不吉だとは一言も記していません。三河は桑名に近く、千子派らしき正真なども活動していたため、武器を求めれば近場の千子派のものが手に入りやすいのは自然です。家康自身の遺品にも村正の刀剣がありますし、家臣らも村正や千子派の刀槍を普通に使用しています。少なくとも家康の時代には妖刀説はなかったのです。

 村正妖刀説の最初期の文献は『三河後風土記』です。序文では慶長15年(1610年)に犬山藩主の平岩親吉が書いたとしますが、実際の著者は不明であり、成立年代も正保年間(1645-48年)を遡りません。この書では清康・広忠の災難に加え、家康自身も村正の武器で負傷したとしています。

 それによると、関ケ原の戦いで織田有楽斎(信長の弟)の子・長孝は西軍の猛将・戸田勝成を槍で討ち取りましたが、論功行賞の際にその槍を家康に請われて見せたところ、家康は槍を取り落とし、穂先で指に傷を負います。家康は「この鋭さは千子村正の作であろう」と見抜いて褒めましたが、有楽斎は恐れ入って「今後所持しないことにします」と申し出ます。家康は笑って「その必要はない」と告げますが、退出した有楽斎は訝しみ、近習から家康の祖父と父が村正の刀で死傷した因縁を聞きます。そこで「村正は御三代不吉の刀槍だ」と言って槍をへし折ってしまいました。これを伝え聞いた者たちは、以後自発的に村正の所持を禁じたというのです。

 長孝は慶長11年(1606年)、家康は元和2年(1616年)、有楽斎は元和7年(1622年)に没しており、他の同時代史料に村正妖刀説は見えないため、真相は定かでありません。『三河後風土記』でも武器としての村正は優れており、縁起が悪いという風評があったことを記しているだけです。しかし、この風評が独り歩きして後世の文献に引用され、妖刀伝説が広まりました。

村正禁制

『三河後風土記』が編纂されるより前、寛永11年(1634年)に、豊後府内藩主で前長崎奉行の竹中重義が「外国と密貿易を行った」として切腹を命じられています。万治元年(1658年)以後に編纂された幕府の内部資料『寛明日記』によると、この時に重義の財産が没収されましたが、その中に村正の刀が24振りありました。これについて日記では「村正はご当家三代不吉の例あり、直臣はもちろん陪臣に至るまで村正は禁止である。ご当家が滅べば値が上がると思ったのであろう。天罰だ」と重義を批判しています。

 采女正(重義)切腹家内闕所、其金銀財寶夥し、其中に村正之刀脇差二十四腰有之、抑村正ハ御當家三代不吉の例アリ。之ニ依ツテ暫時モ御扶持ヲ蒙ル輩ハ申スニ及バズ、陪臣ニ至ルマデ村正ヲ禁ズ。然ルニ采女正、多ク蓄ヘ置ク心ザシハ何ゾ。按ズルニ村正ハ上作ナリ。其ノ出来甚ダ良シ。然レバ其ノ当代廃シ、若シ天下他家ノ世ト成ラバ必ズソノ代、沢山ナルベシ。調ヘ置ク下心、不忠トヤ云ワン、無道トヤ云ワン、計ルニ足ラズ。此ノ刀、脇差ナクバ、自然遠島アルベシ。最モ悪ニクシミ深キ処ナリ。

寛明日記

 元禄15年(1702年)に新井白石が編纂した『藩翰譜』でもこのことを記しますが、村正所持の件については将軍家光が聞き及び、重義を深く非難してその場で誅殺したことになっています。白石自身は「まことであろうか」と疑いを挟んでいますが、この頃には幕臣・陪臣が村正を所持することが禁止され、あえて所持することは反幕府の意図があることになっていたのです。

 元禄14年(1701年)に没した徳川光圀の逸話集『桃源遺事』によれば、豊臣方の名将・真田信繁(幸村)は家康を宿敵とみなし、常に千子村正の大小(打刀と脇差)を手放しませんでした。これは村正が徳川家に不吉な刀であると聞き及び、家康を調伏(呪殺)する意図があったためで、光圀は「武士とは常日頃からかように忠義に心を尽くすものだ」と称賛したといいます。

 眞田左衛門左信仍は、東照君へ御敵對仕り候はじめより千子村正の大小を常に身をはなさず指し候よし。其の故は、村正の道具は當家へたゝり候と申す説を、信仍聞き候て、當家調伏の心にての事なり。士たる者は平生かやうの事にも、忠義をふくみ、眞田がごとく心をつくし候事、尤に思召し候。

『桃源遺事』

 真田信繁の兄・信之は家康に仕えて信州松代藩主となりましたが、彼の家には村正の弟子という正重の刀が伝来しており、信繁が村正の刀を所持していても不自然ではありません。ただし村正の大小は上述のように家康自身も所持しており(打刀は現存)、徳川家に不吉とされたのも家康の没後ですから、信繁が所持していたなら単に業物ゆえということになるでしょう。

 村正の刀はこの頃まで問題なく売買されていました。慶長15年(1610年)の奥書がある『如手引集』の写本や、万治4年(1661年)初版・元禄15年(1702年)再刊の刀剣書『古今銘尽』には、村正の刀の代付け(標準価格)が記載されています。前者では和泉守兼定、宇多国宗、藤島友重らの作が金2枚(20両)、千子村正、孫六兼元、義助、三州長吉、相州広正らの作は金1枚(10両)とされ、後者でも之定(和泉守兼定)は金1枚5両(15両)に対して千子村正は平安城長吉ともども金1枚です。

 この頃の貨幣価値で比較するに、金1両を現代日本の50万-20万円相当として、10両は200万-500万円です。1969年版『刀剣要覧』標準価格表では、文亀の村正が500万円、大永が450万円、天文が350万円、天正が200万円とされており、之定が450万円、孫六兼元が400万円です。

信康介錯

 とはいえ悪評は止め難く、享保13年(1728年)に兵法家の大道寺友山が著した歴史書『落穂集』においては、家康の長男・信康が切腹した時の介錯に村正が用いられたという伝説が始めて現れます。三河には村正の刀が普及していたのですから実際にそうでも不思議はありませんが、『落穂集』では家康自身が村正を「当家に対して不吉な刀だ」として所持を禁止しています。また清康殺害に用いられた刀も村正作とし、家康が若い頃駿河にいた時に千子村正の小刀で手を切ったとしますが、広忠が村正の脇差で襲われた話はここには出てきません。

 其後御側衆を以て今度山城守(天方道綱)二俣表へさして罷越候脇差の銘の義御尋有之処、千子村正作の由申上候へハ、家康公被聞召、御前伺公の面々へ被仰渡候ハ、以前尾州森山に於て安倍孫七郎乱心仕り清康公を殺害致したるも村正が作の刀の由被及聞召、叉家康公御年若き時分、駿河富ケ崎に於て小刀にて御手を被為切、殊の外御痛被成たる事有つるもい、此小刀の銘も千子村正と有之、今度山城守不存寄信康公の御介錯を遂たるとあるも右同作に候へハ、必竟村正が作の打物ハ御当家に対し不吉とも思召候間、千子が作の打物類をハ悉く取捨候様にと御納戸方の役人中へ被仰渡候と也。

『落穂集』巻之二

 信康が父と対立して切腹したのは史実ですが、なにゆえ村正がこの頃になって持ち出されたかは判然としません。ただ落穂集編纂の同年には、徳川吉宗が将軍家としては65年ぶりに日光社参を行っています。吉宗は紀州徳川家から養嗣子となって秀忠系の将軍家を継いだため、将軍家と紀州家の共通の祖である家康を尊重して権威を箔付けしました。その家康が長男信康に切腹を命じたというのは都合が悪いため、妖刀村正の祟りのせいにしたのではないか、という説があります。この事件に関与した三河武士の末裔にとっても家門の汚名を妖刀のせいにできますし、ありえなくもない説です。村正にとっては風評被害ですが、幕府もこの悪評を規制せずに黙認しています。

 明和4年(1767年)の『川柳評万句合勝句刷』には「村正は闇討ちにする道具なり」との川柳が収録されています。村正で闇討ち(不意打ち)されたのは松平清康ですから、それを踏まえての句でしょう。また明和8年(1771年)に禁書指定された実録本『慶安太平記』では、慶安4年(1651年)に幕府転覆計画を企てて処刑された由井正雪の愛刀を「村正」としています。

 天保年間(1831-45年)に編纂された幕府公式史書『改正三河後風土記』『徳川実紀』にも、これまでの村正伝説はほぼそのまま収録されています。これら権威ある書物に記載されたことで、村正の妖刀伝説はお墨付きを得ることになり、ますます人口に膾炙していきました。

 寛政10年(1798年)までに書かれた『岡崎領主古記』では、家康の父・広忠が岩松八弥(『松平記』にいう片目弥八)によって暗殺されたことになっています。村正が用いられたとはありませんが、松平記の記述を鑑みれば村正で殺されたことになります。広忠は24歳で没したため古来暗殺説がありますが、『三河物語』『松平記』など古い記録では病没とあり、弥八による襲撃では負傷しただけです。これらの伝説をすべて合わせると、清康・広忠・家康・信康の四代続いて村正の刀で死傷したことになります。

妖刀伝説

 天明6年(1786年)頃、幕臣・根岸鎮衛により書かれた雑話集『耳嚢』第2巻では、知人からの又聞きで織田有楽斎の村正廃棄伝説を記す一方、村正の刀が徳川家の者ばかりでなく、広く一般に祟る妖刀であるとの噂を記しています。村正は正宗の弟子で彼自身も狂気に取り憑かれていたとか、末裔が不運続きで廃業したとか、村正の銘を正宗に改竄した商人の妻が村正で自害したといった噂もあり、根岸自身も村正の刀を買うのを控えています(逆に言えば、まだ村正の刀は市場に流通していたようです)。

 文政6年(1823年)4月、江戸城西の丸で旗本の松平外記忠寛が同僚によるいじめを苦に乱心し、同僚3人を脇差で殺し、2人を負傷させて自害する事件が起きました。平戸藩主の松浦静山は『甲子夜話』でこの事件に言及し、「世間は外記の脇差を村正だったとするが、関との説もある」と両論併記しています。のち三田藩主の九鬼隆国と雑談した時、「家中には福島正則から賜った村正を今も伝えている家が4つか5つある」との話を聞いています。

 なお江戸城ではしばしば同様の殺傷事件が発生していますが、天明4年(1784年)に田沼意知を殺傷した佐野善左衛門の脇差は粟田口忠綱ないし保光とされ、その他の事件でも村正が用いられたことは特にないようです。

 幕末の万延元年(1860年)7月には、河竹黙阿弥作の歌舞伎『八幡祭小望月よみやのにぎわい』が上演されましたが、この作品には「手にした者を狂わせる妖刀」として村正の刀が登場します。登場人物の縮屋新助は越後の縮緬商人で、恋人のおみよに振られて悔しがり、手に入れた村正の刀を手にして発狂、殺人鬼と化すという筋書きです。もともと復讐心があるのですから村正でなくともよさそうですが、明治時代にはこれを真似て『籠釣瓶花街酔醒』という歌舞伎が作られました。こちらは水も溜まらぬ村正の妖刀「籠釣瓶」を手にした振られ男が発狂して殺人鬼と化す筋書きです。

 村正の妖刀・籠釣瓶とこの事件を結びつけたのは、この20年ほど前に発表された浮世絵『英名二十八衆句』が最初のようです。遡れば享保年間に吉原の遊女を刺殺した佐野次郎左衛門の事件で、特に村正と関係はありませんでしたが、この頃には妖刀といえば村正ということになっていたのです。

 一方で徳川家に仇なすという風評から、幕末には村正が倒幕の象徴とされるようになり、西郷隆盛や三条実美、戊辰戦争で倒幕軍を率いた東征大総督の有栖川宮熾仁親王らが実際に村正の刀を所持していました。倒幕派の志士は競って村正を求めたため、多数の偽物が出回ったといいます。西郷隆盛が所持していた村正の大小のうち打刀は偽物でしたが、鉄扇仕込みの短刀の方は本物と鑑定され、鉄扇の親骨には「匕首腰間鳴蕭々北風起/平生壮士心可以照寒水」と刻まれていました。伊藤博文は明治40年(1907年)に村正の名刀を手に入れましたが、2年後に暗殺されています。

◆朧◆

◆村正◆

【続く】

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