【つの版】日本刀備忘録76:武公遅参
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
宮本武蔵の「巌流島の決闘」については、武蔵の没後に養子の伊織が記した『小倉碑文』に初めて現れ、武蔵本人が晩年に記した『五輪書』には吉岡一門との戦いと同じく全く記されていません。相手も『小倉碑文』では「岩流」、『沼田家記』は「小次郎」、『江海風帆草』では「上田宗入」、『本朝武芸小伝』では「巌流」、『武将感状記(砕玉記)』では「岸流」、『丹治峯均筆記』では「津田小次郎」とし、仕合の様子についても様々に異なっています。では、「佐々木小次郎」となったのはいつからでしょうか。
◆燕◆
◆返◆
佐々木氏
『丹治峯均筆記』編纂から10年後、元文2年(1737年)夏に、大坂で藤本斗文作『姉小劒妹管鎗敵討巌流島』という歌舞伎が上演されました。この中でようやく「佐々木巌流」の名が出てきますが、対する宮本武蔵は「月本武者之助」となっています。これによると佐々木巌流は伊予城主三好式部太輔なる者の家人でしたが、馬淵角右衛門(信田左衛門とも)なる朋輩を「剣術の意趣」があって斬り殺し、浪人となって小倉に流れ仕官の口を求めてきたことになっています。対する武者之助は小倉城主本田主税に仕える兵法者で、角右衛門の娘らに頼まれ仇討の助太刀をするという筋書きです。なかなか好評を博し、翌年秋には江戸でも上演され、その8年後には人形浄瑠璃『花筏巌流島』で語り直しがされています。
内容はさておき、巌流島で武蔵と戦った相手の姓氏が「佐々木」とされるのはこの作品が初出です。しかし宮本武蔵が月本武者之助とされたように、佐々木氏が史実の巌流の本姓だとは思えません。17世紀後半の諸記録では「上田宗入」とか「津田小次郎」とか記されているのですから、逆に佐々木氏は本姓を隠すためにでっち上げられたと見るべきでしょう。『忠臣蔵』の主人公・大星由良助は、実在人物の大石内蔵助をそのまま出すと差し障りがあるために、わざと姓名をもじったうえで時代を太平記の時代に差し替えています。三好氏は戦国時代に栄えましたが江戸時代には没落しており、幕臣などとして存続はしていますが伊予城主ではありません(本拠地は阿波)。応仁の乱の頃に三好式部少輔という人物はいますから、巌流島の決闘の時代も史実から変えられているのでしょう。
佐々木氏は宇多天皇の末裔・源成頼が近江国蒲生郡佐々木荘に下向し、その子の経方が名乗ったとされ、宇多源氏に属します。その子孫は武家として保元・平治の乱や源平合戦、承久の乱で活躍し、鎌倉幕府より近江守護職を賜りました。のちに大原・高島・六角・京極など諸家に分かれ、京極家の道誉は足利尊氏を輔佐して幕府の維持に尽力しました。
明和9年(1772年)に没した柏崎永以(北畠具元)が著した『古老茶話』では、武蔵と仕合をしたのは「佐々木眼柳」といいます。彼は小笠原氏の領地であった豊前小倉から船で海峡を渡る途中、播州明石の産という武芸者の宮本武蔵と同船し、仕合をすることとなりました。武蔵が櫂を手にしてとある島の岸にあがると、眼柳は船の中から真剣を持って横に薙ぎ払い、皮袴の裾が一寸ばかり切れます。武蔵は櫂で反撃して眼柳を打ち殺し、これよりその島を「眼柳嶌」と名付けたといいます。眼柳とは巌流のことでしょうが、氏を佐々木としたのは歌舞伎や浄瑠璃の影響と思われます。小次郎の名はまだ佐々木と接続しておらず、「佐々木小次郎」ではありません。
勢源家人
宝暦5年(1755年)、肥後で著された宮本武蔵の伝記『武公伝』では「巌流小次郎」としており、佐々木氏とはしませんが、小次郎を「冨田勢源の家人」とするなど、これまで見られなかった記述が多く見られます。
冨田/富田勢源は、前述のように越前の戦国大名・朝倉氏に仕えた剣豪で、京八流の流れをくむ中条流剣術(平法中条流)をおさめた人物です。弟の景政が大永4年(1524年)生まれとされますから、彼がその前年に生まれたと仮定しても武蔵の誕生した年には還暦過ぎで、武蔵が18歳の時には80歳近い老人です。冨田勢源の没年は定かでなく、小次郎が晩年の彼に師事した可能性はあるものの、この話は『小倉碑文』から100年も後に初めて出現するため、信憑性は高くありません。
巌流小次良[郎]ハ劍客冨田勢源ガ家人ニテ、天資豪宕壯健無比。…
小次郎、幼少ヨリ勢源ガ打太刀ヲ勤メ、勢源ハ一尺五寸ノ木太刀ヲ以、三尺ノ刀ニ對シ、勝事ヲ爲ス。小次郎、常ニ三尺ヲ以、勢源ニ對テ粗技能アリ。因テ十八歳ノ時師ノ前ヲ欠落シ、自劍一流ヲ立テ、岩流ト号。
其方術實ニ藍ヨリモ青シ。
それによると、彼は剣客冨田勢源の家人(従僕)で、生まれつき豪宕(気持ちが大きくて細かいことにこだわらず)、壮健無比でした。幼少より勢源の打太刀(稽古の相手)をつとめ、勢源は1尺5寸(45cm)の木太刀を持って3尺の刀に勝つ達人でしたが、小次郎は常に3尺の刀で勢源と対してほぼ互角の技術を持っていました。18歳の時に師のもとを出奔し、自ら剣術の一流派を立てて「巌流」と号しましたが、その術は師に勝っていたといいます。師とはいうものの、冨田勢源は自らの技である小太刀の術を直接教えたわけではなく、小次郎も弟子ではなく家人とされています。『小倉碑文』に「巌流は三尺の白刃を」云々とあることから生じた伝説でしょうか。
長岡佐渡
武者修業ヲシテ諸國ヲ径〔経〕囘シテ、豊前國ニ到ル。太守細川忠興公、其術ヲ稱美シタマイ、暫ク小倉ニ駐ル。武公、從都來[慶長十七年壬子二十九歳]、故長岡佐渡興長ノ第ニ到テ、請テ曰[興長嘗武公ノ父無二ノ門弟ナリ]、「曾テ聞、小次郎劍術奇絶ナリト。庶幾我手技ヲ比ン事ヲ。公ハ家父無二ガ故アリ、因テ可憑テ来者也。謹デ願フ、犱達セラレン事ヲ」ト。興長主應諾シテ、武公ヲ私第ニ留メ、即沙汰ニ及。
諸国を武者修行した末、小次郎は豊前国にやってきます。小倉藩主の細川忠興はその術を評価し、彼はしばらく小倉にとどまりました。慶長17年壬子(1612年)、29歳の宮本武蔵は京都から小倉にやってきて、父・無二の門弟であった長岡佐渡興長の屋敷を訪れ、こう申し出ます。「小次郎の剣術はすごいものだと聞いております。彼と仕合がしたいので、よろしくお願いします」。興長は応諾し、武蔵を屋敷にとどめて相談しました。
この長岡佐渡興長とは、細川家に仕えた家老・松井興長のことです。松井氏は足利尊氏以来室町幕府に仕えた名門で、祖父の正之は足利義晴、伯父の勝之は義輝、父の康之は義輝・義昭に仕えました。義昭が追放されると康之は同じ幕臣の細川藤孝とともに織田信長に仕え、藤孝が丹後国主となると彼の家老となり、藤孝の後を継いだ忠興にも仕えました。忠興は康之の功労を嘉して娘を彼の子・興長に娶せ、小倉藩主となると豊後国杵築城主として2万6000石の知行を授けています。また山城国に秀吉から授かった所領を家康からも安堵されたため、幕府直臣でもあるという特殊な立場でした。
康之は慶長17年1月22日に没しており、興長は30歳でその後を継いだばかりです。佐渡守は父以来の百官名ですが、彼が名乗るようになったのは寛永8年(1631年)冬以降で、それまでは式部でした。長岡氏を名乗るようになったのは忠興の六男・寄之を養嗣子に迎えた正保2年(1646年)以後です。これにより松井氏改め長岡氏は細川家の事実上の分家となり、幕府直臣・別格家老かつ肥後八代3万石の領主として明治維新まで存続しました。
無二の門弟だったかはさておき、興長と同年代の武蔵に交流があったのは確からしく、武蔵が細川家に仕官する直前に興長に宛てた書状があります。寄之は興長の養子になる前から晩年の武蔵の後援者・弟子となり、病床の武蔵の身の世話をし、武蔵の養子である伊織とも書状を交わしています。このため武蔵の手になる水墨画や工芸品などの多くは松井家に伝えられました。かように武蔵と縁が深いにも関わらず、『小倉碑文』などには興長のことは触れられていません。『沼田家記』では門司城代の沼田延元が関わっていたとしますが、彼も長岡氏を賜っています。
そもそも『武公伝』を著した豊田正脩(1706-64年)は、この松井長岡家に仕え、武蔵を開祖とする武蔵流(二天一流)兵法をおさめた人物です。正脩の祖父・高達は父・兄ともども長岡興長に仕え、寄之とその子の直之にも仕えて知行100石を賜り、熊本城下に住んで鉄砲術の師範もしていました。高達の子・正剛(1671-1749年)は宮本武蔵の弟子であった道家角左衛門の子・平蔵に師事して武蔵流兵法を学び、宮本武蔵についての様々な聞き書きを集めましたが、書物にまとめてはいませんでした。正脩は父の没後にこれを見つけ、武蔵の著書や小倉碑文などを参照し、武蔵の伝記として改めて編纂したというのです。わざわざ長岡興長のことを記したのは、彼の主家が武蔵と縁が深かったことを世に知らしめるためでしょう。それゆえ彼が巌流島の決闘に関わっていたことを捏造したふしはあります。
武公遅参
御家老中御寄合、両日及、終ニ忠興公ニ達シ、其日ヲ極テ、於小倉之絶島[向島ト号、又曰舟嶋。今亦曰巌流嶋。豊前ト長門之際。小倉ヨリ舟行一里、下關亦同里数ナリ]勝負ヲ決シム。前日府中ニ令トシテ贔屓及ビ遊観ヲ禁止ス。其号令最モ厳重ナリ。興長主、即武公ニ言テ、明朝辰ノ上刻向島ニ於テ巌流ト會セン事ヲ諭、且ツ小次郎ハ御舟、武公ハ興長ノ舟ニテ可遣ト也。武公喜色面ニ見レ、願望相達セン事ヲ謝ス。
さて御家老中の協議は二日にわたり、ついに忠興の耳に達します。そこで仕合の日が取り決められ、豊前と長門の境である小倉の絶島(向島、舟島、巌流島)で勝負を決することとなりました。勝負の前日には小倉市中に命じて贔屓(加担)や遊観(見物)を厳禁し、両者と立会人だけが島に渡ることとなります。また刻限は明朝辰の上刻(朝7時)とされ、小次郎は忠興の御舟、武蔵は彼を推挙した興長の舟で送られることとなりました。武蔵は喜んで笑顔になり、願いをかなえてもらったことに感謝します。
然ニ、夜來武公頓ニ去テ跡ナシ。遍ク府中ヲ尋求レトモ不見。皆曰、「彼レ此間逗留ノ中、巌流ガ慓〔剽〕捷超絶ナル事ヲ聞テ、恐懼シ逃タリ」ト。興長主モ如何ントモ無仕方、茫然トシテ臍ヲ噛ニ至ル。稍ク夜半ニ至リ、家士ニ命ジテ曰、「ツラ/\按ズルニ、彼レ若恐テ逃ナラバ、何ゾ今日ヲ待ン。何トシテ心持可在。彼サキニ下關ニ着テ翌日爰ニ來シリ〔リシ〕。多分下關ニ到テ夫ヨリ向島ニ往ン事必セリ」ト、急ニ飛脚ヲ馳ス。果シテ下關ニ在。[問屋小林太郎右衛門]
ところが、夜になって武蔵は急に姿を消し、小倉中を探しても見当たりません。皆は「巌流の強さに怖気づいて逃げたのだ」と言い合い、興長もどうしようもなく茫然として悔やんでいましたが、夜半になって家来にこう言いました。「考えてみるに、彼がもし怖気づいて逃げたなら、今日まで待っているはずがない。何か考えがあるのだろう。彼は下関からここに来たのだから、多分下関から向島に行くつもりだろう」。そこで急ぎ飛脚を走らせ下関に遣わすと、果たして下関の問屋・小林太郎右衛門の家にいました。
武公、飛脚ニ向テ云、「明朝佐渡殿御舟ニテ向島ヱ可被遣之由被仰聞、重疊御心遣ノ段、辱奉存候。然共、此度ニ於テ小次郎ト私ハ敵對ノ者ニテ候。然、小次郎ハ御舟ニテ被遣、私ハ[八代ノ城主]佐渡殿御舟ニテ被遣ト有之處、上ニ被對、如何敷奉存候。此度私願之通御取次被下候限ニ、私ニハ御カマイ不被成候而宜ク奉存候。此ダン御直ニ可申上候得共、御承引被成間敷ト存ニ附、不申達候而此元ニ参居申候。御舟之儀ハ幾重ニモ御断リ申上候。明朝此元之舟ニテ向島ヱ参儀、少モ支無御座候。時分ニ参申ニテ可有之」由、返詞ニテ、
武蔵は飛脚に向かっていうには、「明日は佐渡殿(興長)の御舟で向島へ遣わして下さるとのこと、御心遣いかたじけない。しかし、小次郎と私は敵なのですから、小次郎が上様(忠興)の御舟、私が佐渡殿の御舟で行くとなれば、(私が勝てば)上様に対して無礼ではないでしょうか。私のお願いを御取次下さっただけで充分で、後はお構いなされますな。このことは直に申し上げてもご承知あるまいと思い、申し上げませんでした。御舟のことは重ね重ねお断り申しあげます。明朝はここへ来た舟で予定の時刻に向島へ参ります」とのこと。飛脚はこれを承って戻り興長に伝えます。
扨翌朝ニナリ、日高ル迄武公鼾睡シ不起。亭主太郎右衛門、早辰ノ刻ニ及由告ル處ニ、小倉ヨリ又飛脚到來、時刻延引之段追々告來ル事頻數ニ及ビヌ。武公漸ク起テ朝飯ヲ喰、太郎右衛門ニ乞テ艪ヲ以テ木刀ヲ削リ出。梢人ハ即太郎右衛門ガ家奴也。漸巳ノ刻ニ及コロヲイ、舟嶌ニ到リ、島ノ西邊州出ル事長サ数百頃、棹ヲ停テ浅汀ヲ渉ル事数十歩、武公帯ニ挿ム所ノ手巾ヲ以テ一重ノ鉢巻ニシ、袷衣ヲ着[武公皮ノ立附ヲ着ト云ハ非ナルカ。定員云、或人ノ曰、皮ノ袴ヲ着ト云、岩流打拂時ニ皮ノハカマヲ切ト云々]、舟中ニテ紙線ヲ作テ襷トシ、其上ニ綿襖ヲ襲テ舟中ニ伏ス。
ところが翌朝、武蔵は日が高く昇るまで高いびきで寝ており、起きようとしません。宿の亭主の太郎右衛門は「もう辰の刻(朝8時)です」と告げ、小倉からは何度も飛脚がやってきてせっつきます。武蔵はようやく起きて朝飯を食い、太郎右衛門に櫓を乞うてこれを削り、木刀を作ります。そして太郎右衛門の家の使用人に船を漕がせ、巳の刻(午前10時頃)にようやく舟島(向島)に至り、島の西の砂洲(現在は埋め立てられています)に近づきます。武蔵は手拭を鉢巻とし、上着を着、紙の襷をかけ、綿入れを被って船の中に伏せました。
小次郎、太マチツカレ、欠シ伸シスルニ及、武公來テ遥ニ見、憤然トシ進テ水際ニ立テ云、「我ハ期ニ先達テ來レリ。汝何ゾ遅カツヽルヤ。アヽ汝後レタリ」ト。武公黙然トシ不答、不聞ガ如シ。襲所ノ綿襖ヲ脱、短刀ヲ差、裳ヲ高ク褰テ脛ヲ見シ、木刀ヲ堤ゲ跣デ浅汀ヲ渉リ來リ。
小次郎は朝から何時間も待たされて大いに待ち疲れ、あくびやのびをしていましたが、武蔵が来たのを見て憤然とし、水際に立って遅参を叱りつけます。武蔵は黙って答えず、綿入れを脱いで短刀を差し、裾をからげて脛を見せ、木刀を引っ提げて浅瀬を歩いて近づきます。「武蔵が巌流島の戦いにわざと遅参した」という有名な話はこれが初出ですが、『古老茶話』には京都の吉岡兼房(憲法)との仕合にわざと遅参してやる気を削がせたとあり、これを借りて来たのかも知れません。
巌流捨鞘
小次郎ハ、猩々緋ノ袖無羽織[或云、立孝公ヨリ拜領也ト]ニ立附ヲ着、草鞋ヲ履、三尺ノ霜刃ヲ拔テ、鞘ヲ水中ニ投ゲ、水際ニ立テ武公ガ近クヲ迎フ。其時、武公水中ニ蹈留テ笑テ曰、「小次郎負タリ。勝バ何ゾ其鞘ヲ捨ン」ト。小次郎倍怒テ、武公近ヅクト齊ク、先其眉間ヲ打。武公ガ鉢巻ノ締目切レテ割落ツ。同武公所打ノ木刀、小次郎ガ頭ニ中リテ、立所ニ僵テ、武公木刀ヲ堤テ暫ク立、亦振上テ打タントス。小次郎臥ナガラ打拂フ。武公ガ褰タル袷衣ノ裾ノ膝ノ上ニ垂タル所ヲ、三寸許剪リ落ス。同武公ガ木刀、小次良ガ脇ノ下ノ横骨ヲ打折テ、即チ氣絶ス。
小次郎は猩々緋の袖なし羽織を纏い、立附(短い袴)と草鞋を履き、三尺の霜刃(真剣)を抜き、鞘を水中に投げ、水際に立って武蔵が近づくのを迎えます。武蔵は浅瀬の中から笑って「小次郎負けたり。勝てばなぜその鞘を捨てる」と言い放ちます。小次郎はますます怒り、武蔵が近づくとその眉間に斬りつけます。武蔵の鉢巻は眉間にあった結び目を切られて落ちますが、武蔵は負傷することもなく、同時に木刀で小次郎の頭を打って昏倒させました。武蔵はしばらく立っていましたが、再び木刀で打とうとすると、小次郎は倒れた姿勢のまま打ち払い、武蔵の上着の裾を三寸ばかり斬り落としました。武蔵の木刀は小次郎の肋骨を打ち折り、気絶(即死)せしめます。
まことに有名な「小次郎敗れたり」のシーンですが、小次郎が鞘を捨てるシーンは筑前系史料の『江海風帆草』『丹治峯均筆記』にあるものの、この武蔵のセリフはこれ以前の書物にはありません。袴の裾を小次郎が斬るのもこれ以前にありますが、小倉碑文など古い記録には見えません。なお小次郎の羽織は立孝公(忠興の庶子)より拝領したともありますが、彼は元和元年(1615年)生まれなので慶長17年(1612年)にはまだ生まれていません。
少焉、武公木刀ヲ捨、手ヲ以テ小次郎ガ口鼻ヲ蓋テ、死活ヲ窺フコト茶須、然後、遥ニ檢使ノ方ニ向テ一礼シ、起テ木刀ヲ把、舟ニ[或云、鎗或ハ半弓以射トアリ。荒垣ノ上ヲ飛、舟中乘ル。然所箭ニ不中ト也。定員聞書]飛乘、自倶棹差テ帰帆ス。
ややあって武蔵は木刀を横にし、手で小次郎の口と鼻を覆って死んだかどうか確かめます。それから立会人の方向に一礼すると、起き上がって木刀を掴み、舟に飛び乗って去っていきました。一説にこの時、武蔵は槍(銃)や半弓による攻撃を受けましたが、荒垣(目の粗い垣根)を飛び越えて舟に乗り、矢には当たらなかったといいます。これを行ったのは何者でしょうか。決闘の場に「贔屓や遊観」がおらず、小次郎が細川忠興の御舟で来たからには、忠興の命令による攻撃でしょうか。
右武公小倉ニ來、興長主ノ第ニ到テ、勝負ヲ願フ。又御家老中御寄合ニテ、御觸ノ事又不達シテ、下關ニ回リ、勝テ後、興長主ニ書ヲ奉セン事等ハ、田中左太夫語ル。[左太夫幼年ノ時ノコト也ト云]又、正悳〔正徳〕二年春、小倉商人[村屋勘八郎ト云者]語也。武公航セシ時、梢人ハ勘八郎ニテ、老健ニシテ勝負次第咸ク委語之。
これらのことは田中左太夫が幼年の頃に聞いたことであり、また正徳2年(1712年)春に小倉の商人・村屋勘八郎が(豊田正剛に)語ったものです。勘八郎は武蔵の船を漕いだ人物で、年老いていましたが健やかであって、勝負の次第を詳しく語ったといいます。しかし仕合があったという慶長17年(1612年)からは100年が経過しており、当時20歳未満としても尋常の高齢ではありません。あるいは村屋勘八郎が武蔵の舟を漕いだ人物から聞いたこととして語ったのを混同したのでしょうか。
豊田正脩の子・景英は、父が編纂した『武公伝』を添削して再編し、安永5年(1776年)に『二天記』と名付けました。後世に宮本武蔵の伝記や小説の根本資料として扱われた同書ですが、『武公伝』の記述をいくつも省き、出典不明の伝説を書き加えたりしており、読みやすくはなったものの史料価値はむしろ低下しました。巌流小次郎を歌舞伎の影響で佐々木氏としたり、小次郎の出身地を冨田勢源と同じ「越前国宇坂庄浄教寺村」としたり、決闘の日時を「慶長17年4月13日」として武蔵の飛脚への口頭での答えを書状としたり、小次郎の年齢を18歳としたりと、後世に与えた影響は大きいとはいえ、これ以前の諸史料を遡ってみれば随分いい加減なものです。
きりがないので巌流島の話はこれぐらいにしますが、宮本武蔵や巌流にまつわる俗説はその後も増え続けました。佐々木と小次郎を結びつけて「佐々木小次郎」としたり、小次郎が冨田勢源の家人だと年齢があわないからと18歳を78歳としたり、勢源の弟子の鐘捲自斎の弟子としたり、小次郎が「燕返し」なる技を用いただのは、みな近代以後の創作です。武蔵が巌流について特筆していない以上、実際に彼と勝負していたとしても、特筆するほどの存在でもなかったのでしょう。巌流がやたらともてはやされているのは、後世の伝説や小説で有名になったからとしか言いようがありません。
◆笛◆
◆糸◆
【続く】
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