【つの版】日本刀備忘録77:三木之助
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
宮本武蔵の時代に戻りましょう。彼の著書『五輪書』や養子の伊織が記した『小倉碑文』によれば、武蔵は13歳から29歳まで各地を放浪し、兵法者たちと60余度もの勝負を繰り広げましたが、一度も敗れたことがなかったといいます。彼は天正12年(1584年)生まれですから、29歳というと慶長17年(1612年)です。その後の武蔵はどうしていたのでしょうか。
◆漢◆
◆唄◆
大坂兵乱
われ三十を越て、跡をおもひミるに、兵法至極してかつにハあらず。をのづから道の器用ありて、天理をはなれざる故か、又ハ、他流の兵法不足なる所にや。其後、猶も深き道理を得んと、朝鍛夕錬して見れバ、をのづから兵法の道に逢事、我五十歳の比也。
30歳から50歳、慶長18年(1613年)から寛永10年(1633年)にかけて武蔵が何をしていたのか、『五輪書』自序には詳しく記しません。ただ「兵法が極まっていたので勝ったのではない」「なおも深き道理を得ようと朝夕鍛錬し、おのずから兵法の道に逢うようになったのは、50歳の頃であった」と記すのみです。この間には大坂の陣が終わって元和偃武、天下泰平となり、武蔵のような兵法者は戦場で手柄を挙げる機会もなくなります。そんな時代に兵法者として生きるためには、兵法指南役として仕官せねばなりません。
古より兵術の雌雄を決する人、其の数を算ふるに幾千万なるや知らず。然りと雖も夷洛に於て英雄豪傑の前に向かひ、人を打ち殺す、今古其の名を知らず。武藏一人に属するのみ。兵術の威名、四夷に遍く、其の誉れや絶えず、古老の口の今人の肝に銘じる所、誠に奇なるかな妙なるかな。力量の早雄、尤も他に異れり。
武藏、常に言へり、兵術、手に熟し心に得て、一毫も私無ければ、則ち恐らくは、戦場に於て大軍を領し、又、國を治ること、豈に難からんや。豊臣太閤公の嬖臣・石田治部少輔謀叛の時、或は攝州大坂に於て秀頼公兵乱の時、武蔵の勇功佳名、縦ひ海の口、渓の舌有るとも、寧んぞ説き盡くさんや。簡略して之を記さず。旃に加ふるに、禮樂射御書数文に通ぜざる無し。况や小藝巧業、殆ど為す無くして為さざる者無きか。蓋し大丈夫の一躰なり。
『小倉碑文』では「石田三成が謀反した時(関ヶ原の戦い)、豊臣秀頼が大坂で兵乱を起こした時(大坂の陣)」について記すものの、武蔵が具体的に何をしていたかは「説き尽くせない」として記さず、ただ彼の武芸の強さ、文化人としても優れていたところを述べるばかりです。関ヶ原の時は17歳、大坂の陣の時は31‐32歳ですから、参戦していた可能性はなくもありませんが、特筆するほどのことはなかったのでしょうか。
水野勝成
備後福山藩水野家の史料「大坂御陳御人数附覚」によると、慶長20年(1615年)5月の大坂夏の陣の時に水野勝成に従って参戦した武士の名簿に「宮本武蔵」の名があります。彼は勝成の本隊ではなく、勝成の息子である「作州様」=美作守勝重の傍に9人の武士とともに付き従ったといいます。他にそれらしい史料もない以上、これが妥当かと思われます。
水野勝成の父・忠重は家康の母・於大の方の弟で、勝成は家康の母方の従弟にあたります。忠重は家康の2歳年長であり、当初は織田信長に仕えた兄の信元に仕えましたが、桶狭間の戦いの翌年に岡崎城の松平元康(徳川家康)に仕え、信長や秀吉にも仕えた武将です。勝成は一時父と絶縁して各地を放浪していましたが、36歳の時、関ヶ原の戦いの前年に家康のもとに駆け付け、父が翌年に暗殺されると三河国刈谷3万石を受け継ぎました。関ヶ原の戦いには参戦を許されませんでしたが、大坂冬の陣・夏の陣には息子の勝俊ともども馳せ参じて手柄をあげ、戦後に大和国郡山6万石、のち備後国福山10万石に加増転封されています。従って大坂の陣の時は刈谷城主です。
水野勝重は慶長3年(1598年)生まれで、慶長14年(1609年)11歳で美作守に叙任されており、大坂の陣の時は16-17歳の若武者です。正保3年(1646年)に勝俊と改名しました。水野勝成・勝重父子の軍は、徳川方の中でも激戦地にあたっており、真田信繁らとも戦っていますから、宮本武蔵も勝重の護衛として奮戦したことでしょう。
三木之助
この戦の後、水野勝成は上述のように大和郡山藩主となりますが、武蔵は彼に付き従わず、故郷の播磨に戻りました。ただこの時、勝成の武者奉行であった中川志摩之助の息子・三木之助と、その弟の九郎太郎をともに養子としています。彼の墓誌や、元禄9年(1696年)に提出された『宮本小兵衛先祖附』によると、中川氏の先祖は伊勢国中川原(現三重県四日市市中川原)の領主でしたが、志摩之助が子供の時に牢人となりました。のち仙石権兵衛秀久が讃岐国にいた時(天正13年/1585年)、彼に仕えて鉄砲頭まで出世し知行1000石を食みましたが、翌年秀久が改易されると再び牢人となります。
この仙石秀久の家中にいたのが、当時父の忠重から勘当されていた水野勝成です。彼は武勇に秀でていましたが甚だ傾奇者で、秀久改易の前年9月に出奔し、各地を放浪して佐々成政や黒田官兵衛、小西行長に仕えたのち家康に仕え、前述のように父の跡を継いで3万石の城主となりました。この時、かつて同僚だった中川志摩之助を呼び寄せて知行600石を与え、武者奉行に取り立てたのです。志摩之助の嫡男・刑部左衛門と次男の主馬は父と同じく水野家に仕えましたが、三男の三木之助と四男の九郎太郎は宮本武蔵の養子となり、実子がいない武蔵の跡を継ぐこととなります。三木之助はこの時に数え13歳頃で、九郎太郎はさらに年下です。
後世の『武州伝来記』では三木之助を造酒之助とし、14-15歳の時に摂州尼ヶ崎街道で武蔵に拾われた馬子としますが、実際は出自のはっきりした武家の子です。
元和3年(1617年)播磨に戻った武蔵は、この三木之助を姫路新田藩主・本多忠刻の小姓として出仕させました。忠刻は家康の重臣・本多平八郎忠勝の孫にあたり、父の忠政は家康の孫娘(松平信康の娘)を娶って忠刻ら3男2女を儲け、大坂の陣で功績を挙げたことにより播州姫路15万石を授かりました。この時、嫡男の忠刻は別途10万石を授かって姫路新田藩主となり、次男政朝は姫路の西の龍野5万石、娘婿の小笠原忠政(のち忠真)は姫路の東の明石10万石に封じられており、一族で合計40万石を領しています。
特に忠刻は秀頼に嫁いでいた秀忠の娘・千姫と再婚しており(10万石は彼女の化粧料で、忠刻は父や妻とともに姫路に住みました)、忠政の嫡男として姫路藩を相続する立場にあり、彼の側近となれば将来は安泰です。果たして三木之助は忠刻より700石の知行を賜り、家紋として九曜巴紋を授かりました。武蔵が美作由来の新免から、播州由来の宮本と氏を改めた(あるいは戻した)のはこの頃からではないかとも言われます。
なお宮本武蔵が姫路城の天守閣に出現する妖怪・刑部姫(に化けた狐)を退治する話がありますが、明治18年に刊行された小説に記載されたもので、江戸時代の奇談集に見える話を姫路にいた武蔵と結びつけた創作です。
明石築城
かくて大きなパトロンを得た宮本武蔵は、兵法家として播州の諸大名や武家に武芸を伝授する一方、文化人としても活動しています。明石藩主の小笠原忠政は、大坂や淡路を睨む領主として城と城下町と港の建設に尽力しましたが、本多忠政は彼のために縄張り(設計)を指導し、宮本武蔵も明石の町割(都市計画)に協力したと伝えられます(『赤石市中記』『播磨鑑』『播州明石記録』『小笠原忠真一代覚書』など)。彼は剣術のみならず広く兵学(軍事学)を収めていますから、防衛のために助言を行ったのでしょう。また明石城や城下町、港の建設などには江戸幕府も大きく関わり、徳川秀忠は旗本を普請奉行に任じて派遣し、銀1000貫を築城費として支給しています。
明石城が完成するまでの間、小笠原忠政は西の船上城を居城としていましたが、武蔵はその近くにあった本松寺の作庭を行っています(元禄4年/1691年明石城下に移転)。また明石城の南西の善楽寺円珠院、南東の雲晴寺の作庭も行ったと伝えられます。いずれも枯山水で、武蔵の教養とセンスを感じさせます。寺は非常時には城塞ともなりますから、軍事的にも重要です。
龍野圓明
揖保川の西の龍野では、浄土真宗の圓光寺(円光寺)に宮本武蔵の伝説があります。ここは『播磨鑑』に武蔵出生地とある揖保郡太子町宮本の北6kmほどのところにあり、若い頃から武蔵がこの地で修行し、自らの流派を圓光寺にちなんで「圓明流(円明流)」と名付けたといいます。異説では、円明流の開祖は源義経より鞍馬流兵法を伝授された俊乗房重源(1121-1206年)で、彼はまた陰流の始祖でもあるというのですが眉唾物です。
圓光寺には宮本武蔵が住職の多田祐甫に印可状を授けたとされ、その一族が代々兵法を伝えたといいますが、圓明流の名はこの多田氏が伝えた流派の名に過ぎず、当時は宮本流、武蔵流などと呼ばれていたようです。武蔵自身は『五輪書』に圓明流の名を記さず「二天一流」と号しています。
またこの頃、尾張に宮本武蔵が立ち寄って兵法を指導したとの伝説もあります。これは寛永元年(1624年)のこととされますが、実際は武蔵の弟子・竹村与右衛門頼角や青木鉄人が尾張に来て伝えたものと思われ、彼らも圓明流を称しました。さらに元文・寛保年間(1736-44年)鳥取に現れた「武蔵圓明流」などもありますが、仮冒かも知れません。
宝永8年(1711年)に130歳で没したという渡辺幸庵が死の2年前に語ったところによれば、自分は柳生但馬守宗矩から印可状を授かったが、但馬に比べれば「竹村武蔵」という者が遥かに強かったといいます。これを宮本武蔵のことだとする説もありますが、『渡辺幸庵対話』に記される幸庵の話は荒唐無稽な与太話ばかりですから、何も信頼性がありません。
尾張圓明流が伝えた話によると、元和年間に播州龍野城主の本多政朝の家中にいた三宅軍兵衛が武蔵と仕合を行いました。彼は東軍流という兵法をおさめ、しばしば戦場を往来して心得ある者で、木刀を構えて武蔵と立ち合います。武蔵は二刀流の構えをとり、打ち下ろす軍兵衛の刀を捌きながら後退し、ついに戸口に追い詰められます。軍兵衛はしめたと突きかかりますが、武蔵は「危ない」と掛け声し、左の小太刀で軍兵衛の頬を突いて出血させました。突きの勢いを利用したのです。武蔵はそれ以上追撃せず、恐れ入った軍兵衛は敬服して弟子になったといいます。29歳以前のような殺し合いはやめにしたのでしょう。なお三宅軍兵衛は実在の人物で、子孫は代々本多家に仕えており、その屋敷跡が姫路城下にあるといいます。
順風満帆な武蔵でしたが、本多忠刻は父に先立って寛永3年(1626年)5月に結核のため31歳で没し、23歳の三木之助は墓前で切腹して殉死してしまいます。忠刻の嫡男・幸千代は5年前に3歳で没し、長女勝姫はいますが男子がいなかったため、本多忠政は次男の政朝を世継ぎとします(千姫は江戸城に入り出家)。また宮本家は三木之助の弟の九郎太郎が跡を継ぐこととなり、本多忠政に仕えて二代目三木之助を名乗りました。彼は寛永19年(1642年)に病没し、嫡男の弁之助が跡を継ぎますが14年後に没し、弟の小兵衛は牢人したのち、勝姫の嫁ぎ先である備前岡山藩主・池田光政に仕えました。
宮本家は二代目三木之助により存続したものの、彼は政朝の小姓とはならず、忠政没後に姫路藩主の側近となることはできなくなりました。落胆した武蔵は寛永3年(1626年)播州の地侍である田原家から新たな養子を迎え、明石藩主の小笠原忠政に出仕させます。これが宮本伊織です。
◆宮本◆
◆伊織◆
【続く】
◆
いいなと思ったら応援しよう!
つのにサポートすると、あなたには非常な幸福が舞い込みます。数種類のリアクションコメントも表示されます。