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【つの版】日本刀備忘録75:巌流伝説

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 宮本武蔵の「巌流島の決闘」については、武蔵の没後に養子の伊織が記した『小倉碑文』に初めて現れ、武蔵本人が晩年に記した『五輪書』には吉岡一門との戦いと同じく全く記されていません。相手も『小倉碑文』では「岩流」、『沼田家記』は「小次郎」、『江海風帆草』では「上田宗入」とし、仕合の様子についても様々に異なっています。

◆戦国◆

◆無双◆


折櫂作刀

『五輪書』は寛永20年(1643年)、『小倉碑文』は承応3年(1654年)に記され、『沼田家記』は寛文12年(1672年)ないし元禄2年(1689年)に編纂され、『江海風帆草』は序文が宝永元年(1704年)に記されていますが、編纂は17世紀後半と推測されます。これに続いて、正徳4年(1714年)に完成し2年後に版行された『本朝武芸小伝』にも、宮本武蔵の巌流島での決闘の話が記されています。著者は日夏弥助繁高といい、天道流兵法の達人で、剣術のみならずあらゆる兵法とその流祖について記録した最初期の文献です。同書には『小倉碑文』全文が収録されており、これを補完する形で武蔵に関わる様々な伝承が列記されています。武蔵の諱を「政名」とするのもこの書が最初(伝承を引用・採録)であり、後世の武蔵伝説のもととなりました。

中村守和曰、巌流、宮本武藏と仕相の事、昔日老翁の物語を聞しは、既に其の期日に及て、貴賤見物のため舟島に渡海する事夥し。巌流も船場に至りて乗船す。巌流、渡守に告て曰、「今日の渡海甚し。いかなる事か在る」。渡守曰、「君不知や。今日は巌流と云兵法遣、宮本武藏と舟島にて仕相あり。此故に見物せんとて、未明より渡海ひきもきらず」と云。巌流が曰、「吾其の巌流也」。渡守驚さゝやひて曰、「君巌流たらば此船を他方につくべし。早く他州に去り給ふべし。君の術神のごとしといふ共、宮本が黨甚だ多し。決して命を保ことあたはじ」。巌流曰、「汝が云ごとく、今日の仕相、吾生んことを欲せず。然といへ共、堅く仕相の事を約し、縦死すとも約をたがふる事は勇士のせざる處也。吾必船島に死すべし。汝わが魂を祭て水をそゝぐべし。賤夫といへども其志を感ず」とて、懐中より鼻紙袋を取出して渡守に與ふ。渡守涙を流して其豪勇を感ず。

既にして舟船島につく。巌流舟より飛下り武藏を待。武藏も又爰に來りて、終に刺撃に及ぶ。巌流精力を勵し、電光のごとく稻妻のごとく術をふるふといへども、不幸にして命を舟島にとゞむと也。

『本朝武芸小伝』

 中村守和は通称を十郎右衛門といい、丹波亀山藩の世嗣であった松平忠栄(1666年廃嫡)の家臣といいます。取材当時に高齢であったと思われる彼が「老翁の物語」を聞いて伝えた話ですから、後世の粉飾がないとは思えません。ともあれここでは巌流は『小倉碑文』の通り人名で、『江海風帆草』とは逆に武蔵より先に舟島に着いて待っていたとされます。また『沼田家記』と同じく武蔵ははなはだ多くの党(弟子たち)を率いていたといい、渡し守に彼が語った芝居じみたセリフといい、判官びいきの伝説かと思われます。

或人の説に、武蔵巌流と仕相を約して舟島に赴く時、武蔵は棹のをれを船人に乞ひて、脇指を抜きて持つべき所をほそめ、船よりあがりて是を以て勝負をなす。巌流は物干ざほと名付けし三尺余の大刀を以て勝負をしたりと。

『本朝武芸小伝』

 ここに初めて「武蔵が棹の折れたのを脇差で削り木刀を作った」「巌流の刀は『物干竿』と言った」という伝説が出て来ます。櫂や艪でなくさおとしたのは、巌流の「物干竿」と対比させたつもりでしょうか。しかしこれ以前にこのような記述はありません。

『本朝武芸小伝』と同じ正徳6年(1716年)に刊行された熊沢淡庵著『武将感状記(砕玉記)』では、この木刀を造る話がやや詳しくなっています。

岸流ト云劔術者、下関ニ待テ、武藏ニシアヒヲセント云遣ス。武藏心得ヌトテ、悼[棹]郎ニヲ請テ、二ツニワリ、手本ヲ削テ長キヲ二尺五寸、短ヲ一尺八寸ニシテ、舟ヨリ上リ、岸流ト相闘フ。岸流ガ刀ハ三尺餘リナリ。

『武将感状記(砕玉記)』

 ここでは巌流ならぬ岸流とし、三尺余の刀に物干竿の名はありませんが、武蔵は棹ならぬ櫂を折り削って長短二刀の木刀とし、二刀流で戦ったというのです。これ以前にこうした記述はありませんから推測での独創かと思われますが、武蔵は二刀流を指南していたのですから、二刀流で戦うことは理にかなっています。木刀は長い方は二尺五寸(75.8cm)、短い方は一尺八寸(54.5cm)といい、ちょうど打刀と脇差ほどの長さです。合わせて四尺三寸(1.3m)ほどとなり、小舟の櫂としては充分でしょう。

武藏二刀ヲ組テカヽレバ、岸流拝打ニ斬処ヲ、ウケハヅシテ其ノ頭ヲ打ニ、岸流身ヲフリテ左ノ肩ニ中ル。其ノ勢ニフミ込テ、横ニ払フ。武藏足ヲ縮テ飛アガレバ、皮袴ノ裾三寸バカリ切テ落タリ。武藏全力ヲ出シテ打之ニ、頭微塵ニ砕テ、即坐ニ死ス。岸流ガ墓ヲ築テ今ニ其跡アリ。

『武将感状記(砕玉記)』

 武蔵はこの二刀流で岸流に打ちかかり、岸流は拝み打ち(柄を両手で握り大上段から斬り降ろす)で迎え撃ちますが、武蔵はこれを回避して岸流の頭を打ちます。しかし岸流は直撃を回避して左肩で受け、武蔵が飛び込んできた勢いを利用して踏み込み、下半身を横薙ぎに払います。武蔵は足を縮めて跳躍し、皮袴の裾が三寸ばかり斬り落とされますが負傷はせず、全力で岸流の頭を打ち砕いて殺しました。二刀流にしたことで一撃の威力はさがりますが手数が増え、敏捷かつ攻防自在となって敵を倒したのです。

 また仕合をした理由として、武蔵が細川忠利に仕えて京から小倉に赴く途中、岸流(岩流)から挑戦を受けたとしています。とすると忠利が小倉藩主となった1620年以後のことでしょうか。

峯均筆記

 これに続いて巌流島の決闘を記したのが、享保12年(1727年)に編纂された『丹治峯均筆記』です。前に述べたように、福岡藩黒田家臣で筑前二天流の兵法家・立花峯均(丹治峯均)が記したものです。彼は『江海風帆草』を記した立花実山ので、兄が福岡藩の御家騒動に巻き込まれて死んだ後に連座して島流しされ、赦免後は隠棲して兵法を伝授しつつ、これを書き記したと伝えられます。同書は三部構成で、武蔵の伝記部分は「武州伝来記」ないし「兵法大祖武州玄信公伝来」といい、追加として二天流二祖・三祖・四祖の列伝があり、最後に第五代である著者の自伝が付随しています。

 これによると武蔵は幼名を弁之助といい、播州の産で赤松の氏族でした。父は宮本無二といい、黒田如水の弟の家来で、十手の妙術を得て二刀流に応用し、多くの門弟がおりました。弁之助は無二の唯一の男子として兵法を授かりましたが、父の兵法を侮蔑しており、9歳の時に家を追い出されてしまいます。彼は播州の母方の叔父の家に身を寄せて成長し、13歳の時に有馬喜兵衛を倒し、16歳の時に但馬国で秋山という強力な兵法者を倒しました。17歳の時に関ヶ原の戦いが起きると、弁之助は父から勘当を許されて帰郷し、黒田如水に従って豊前・豊後に攻め入り活躍したといいます。そして19歳の時(関ヶ原の2年後)、弁之助は巌流島で決闘を行いました。

辨之助十九歳、巖流トノ試闘ノ事。巖流ハ流義ノ稱号也。津田小次郎ト云、長府ノ者也トカヤ。其比辨之助ハ[摂]津ノ國邊ニアリ。隨仕ノ輩モアリシトカヤ。小次郎、無二ニ試闘ヲ望ム。無二、達而斷ニ及ブ。是、巖流ニ仕込劔ノ木刀アリ、コレニ怖レテ無二辭退ニ及ブ由、專ラ沙汰アリ。辨之助傳聞、「不及是非事也。罷下、可決勝負」トテ、長門ヘ下ル。

『丹治峯均筆記』、以下同じ

 巌流はここでは流儀の称号で、姓名を津田小次郎といい、長府(長門国府、現山口県下関市長府)の者であったといいます。小次郎とするのは『沼田家記』と同じですが、津田という姓氏はこれが初出です。この頃、弁之助(武蔵)は摂津国のあたりにおり、随仕の輩(従い仕える者たち、弟子や従者)もいたといいます。小次郎はまず武蔵の父の無二に仕合を挑みますが、無二は拒みました。巌流には「仕込み剣の木刀」があり、無二が辞退したのはこれを恐れたのだ、という噂(沙汰)が立ちます。弁之助はこれを伝え聞いて「仕方ない。おれが行って勝負を決しよう」とて長門へ下りました。

小次郎ハ國人、辨之助ハ旅人故、何トゾ小次郎手前ヨリ試闘ヲ望ム様ニ致度、小次郎ガ門弟ノ前ヲモ不憚、「小次郎ト試闘セバ、寔ニ蛙ノ頭ヲヒシグ様ニ、只一ヒシギニ可致」ト申サル。小次郎、是ヲ傳聞イテ、「若輩ナル辨之助ガ過言千萬、其分ニテハ措難シ」トテ、試闘ヲ望ム。辨之助一應ハ斷ヲ申ス。小次郎強テ望ム故、「サラバ、可任望」トテ、下ノ關ニテ勝負ヲ決セントス。然レ共、所ノ者ユルサズ。依之、「カノ嶋ヘ可渡」ト約諾シ、長門ト豊前ノ堺、舟嶋ヘ押渡ル。

 小次郎は国人(地元の人間)で、弁之助は旅人(他国者)ゆえ、弁之助は小次郎の方から仕合を望んだ形にしたいと望み、小次郎の門弟の前で「おれが仕合したら蛙の頭を圧し潰すように一撃で倒すぞ」と宣言します。これを伝え聞いた小次郎は「若輩の過言千万、捨て置けぬ」と仕合を望みます。弁之助は一応断りを入れ、小次郎が強いて望むゆえ「ではお望みに任せよう」とて下関で勝負を決しようとしました。ところが土地の者が許可しなかったので、長門と豊前の堺の舟島へ渡ることとなります。

辨之助ハ小次郎ヨリ先ニ渡海セリ。比ハ十月ノ事ニテ、下ニハ小袖ヲ着シ、上ニ袷ヲキテ、カルサンヲ着シ、舟ノ櫂ヲ長四尺ニ切リ、刃ノ方ニ二寸釘ヲアキマナク打込、握ノ所ニノコメヲ入レテ持[是、青木條右衛門製ト云傳フ]。小太刀ニハ、皮被リタル手ゴロノ木ヲ、握ノ所ハ皮ヲ押削リテ持リ。舟嶋ノ濱辺ノ岩ニ腰掛、小太刀ヲ膝ノ上ニ横タヘ、舟ノ櫂ハ右ノ方ニ、横ニ捨テヽ持、サシウツムキテ小次郎ヲ待居ラル。

 弁之助は小次郎より先に海を渡りましたが、時は旧暦10月(新暦11月)ゆえ肌寒く、小袖の上にあわせ(長着)を着、下はカルサン(山袴)を穿きました。また舟の櫂を長さ四尺に切り、刃の方には二寸(6㎝)の釘を隙間なく打ち込み、握りのところには鋸目を入れて滑りにくくしました。これは無二の弟子の一人・青木條右衛門が作ったと言い伝えられます。さらに樹皮がついたままの手頃な長さの木を小太刀とし、握りのところだけ樹皮を削って持ちました。武蔵は浜辺の岩に腰掛け、小太刀を膝に置き、舟の櫂を削った武器を右側に横たえて持ち、うつむいて小次郎を待ち構えます。

徃來ノ舟、碇ヲヽロシ、貴トナク賤トナク、見物群集ス。豊州門司ノ城主何某[細川越中守殿家臣失姓名]、辨之助入魂ノ者ユヘ、家頼[来]大勢召連、大身ノ鎗ヲ持セ、挟箱ニ腰ヲカケ、濱辺ニ居テ見物ス。

 往来の舟は碇を降ろし、貴賤なく見物人が群れ集います。豊前国門司城主の何某(「細川越中守の家臣、姓名を失す」とありますが沼田延元のことでしょう)は弁之助の入魂(昵懇、親しい交わりがある)の者ゆえ、家来を大勢召し連れ、大身の槍を持たせ、挟箱に腰掛けて浜辺で見物しました。

覚悟悲壮

小次郎ハ小舟ニ乘、家頼一人、水主一人ニテ漕渡ル。是モカルサンヲ着シ、仕込劔ノ木刀ヲ杖ニツキテ立テリ。舟嶋ヲ見掛、シリヘヲ顧テ家頼ニ何事カ申聞セ、彼ノ仕込劔ヲ取直シ、四ツ五ツ打振テ海底ニ抛チ、刀ヲ鞘共ニ拔出シ、スル/\ト抜放チ、鞘ヲ切折テ海ヘ抛捨、刀ヲ引キソバメテ、舟ノツクヲ待ツ。是ハ、縱ヒ辨之助ニ打勝タリトモ、大身ノ鎗ヲモタセタル士、其分ニテハ遁ス間敷ト心ニ掛リケルニヤ。

 小次郎は小舟に乗って、家来と水主かこ(舟を漕ぐ者)をそれぞれ一人連れて島に渡ります。こちらもカルサンを穿き(上に何を着ていたかは書かれていません)、件の仕込み剣の木刀を杖突いて舟の上に立っています。舟島を見かけると、彼は振り向いて家来に何事かを告げた後、仕込み剣を取り直して4、5回打ち振ると海に投げ捨てます。また刀を鞘とともに抜くと鞘から抜き放ち、鞘を切り折って海に投げ捨てました。そして刀を手元に引き寄せ(引きそばめ)、舟が着くのを待ちます。これはたとえ弁之助に打ち勝っても、大身の槍を持たせた侍がいる以上、(門司城主が)自分を逃すことはあるまいと覚悟したからかと思われます。小次郎は長府出身ですから、これは長門(毛利家)と小倉(細川家)の代表選手の決闘になるのです。

既ニ礒近クナルト、舷ヲ蹈テ飛ビ揚ル。飛ビ損ジテ両膝ヲツク。見物ノ群集一同ニ笑フ。小次郎、刀ヲ引キソバメ、城主何某ガ前ニ行キ、「イカナル人ナレバ此所ニハ居ラルヽゾ」ト咎ム。何某ガ云、「我等ハ辨之助ト親キ者也。今日其方トノ勝負ヲ見物ノ為渡海ス。曽テ其方ニ搆ナキ者ナリ。血ニ酔タルカ、狼狽者」トテ、散々ニ惡口ス。夫マデモ辨之助ハ、岩ニ腰カケ、サシウツムキテ居ラレシガ、問答ノ内ニ立アガリ、櫂ヲ以テ白沙二ツ三ツ左右ヘ打拂ヒ、「如何ニ小次郎。辨之助ハ是ニアルゾ」ト、言葉ヲカケラル。

 磯に舟が近づくと、小次郎は船べりを踏んで飛び上がりましたが、着地に失敗して地面に両膝をついてしまいます。見物の群集は笑いましたが、小次郎は気にせず刀を脇に引き寄せ、門司城主の何某の前に行って「いかなる人なればここにおられるか」と咎めます。城主は「我らは弁之助と親しき者である。今日はそなたとの勝負を見物するために渡海した。そなたには関係ない者だ。血に酔ったか狼狽者!」とて散々に罵ります。弁之助はこの問答の間に立ち上がり、白砂を櫂で2度3度左右に払うと、「いかに小次郎、弁之助はここにあるぞ」と言葉をかけます。

小次郎、トツテ返シ、二尺七寸ノ青江ノ刀ヲ左右ニカケ、水車ニ打振リ、面モフラズ切掛ル。巖流ガ秘傳ノ太刀ニ、水車ニ振事ヲ專トス。仕込劔モ水車ニ振テ、敵アヒ當ル度ニ至テ劔ヲフリ出、手裡劔ノ如ク飛バシ、附入リテ木刀ニテ打ツクル事ト云リ。辨之助モ舟ノ櫂ヲ右脇ノ位ニ搆、相掛リニカヽリ、双方當ル度ニテ、辨之助、櫂ヲ下ヨリ振上テ打込ミ、小次郎モ刀ヲ水車ヨリ直ニ切込、互ニ當ル。

 小次郎は取って返し、二尺七寸(81㎝)の青江の刀を左右に向け、「水車の構え」で打ち振り、顔を振り動かさずに斬りかかります。巌流の秘伝の太刀は水車に振ることをもっぱらとしており、例の仕込み剣も木刀を水車に振って敵に当たり、木刀に仕込んだ剣を手裏剣のように飛ばして隙を作り、木刀で打つという技でした(仕込み剣は捨てたので手裏剣はありませんが)。弁之助は櫂を右脇に構えて互いに打ちかかり、下から振り上げて打ち込みます。小次郎も刀を水車の構えから直に斬りこみ、互いに命中しました。

然レ共、小次郎ガ刀、手ノ裡マハリテ、平ヲ以テ辨之助ガ左ノ平首ヲウツ。辨之助ガ木刀ハ、小次郎ガ頭ニアタリ、タジ/\ト二三間シサリテ、尻居ニドウト臥ス。辨之助、二ノ目ヲ打ント立ヨル所ヲ、小次郎フツト起アガリ、両膝ヲツキナガラ、横ニ拂フ。辨之助ガヽルサンノ前ヲハラリト切放テ、カルサン前ニ垂ル。辨之助、二ノ目ヲ又シタヽカニ打ツ。大力ノ然モ舟ノ櫂ノシタヽカナルヲ以テ、同ジツボヲ二ツ迄打タル故、頭碎ケテヒレ臥セリ。

 しかし、小次郎の刀は手の中で回転し、刃でなく平(側面)で弁之助の左の平首(首筋)を打ってしまいます。弁之助の木刀は小次郎の頭に当たり、小次郎はたじたじと二、三間(4-5m)後退し、尻からどうと倒れます。弁之助は二打目を食らわそうと近づきますが、小次郎はふっと起き上がり、両膝をつきながら横に薙ぎ払います。これは弁之助のカルサンの前をはらりと切り裂き、前に垂れ落としたに過ぎず、弁之助は二打目をしたたかに食らわせます。彼は大力で、しかも舟の櫂は頑丈であり、一打目を食らわせたのと同じ場所を打ったため、小次郎の頭は砕けて倒れました。

辨之助ハカルサンノボタンヲ外シ、カルサンヲカナグリ捨テ、尻ヲツミマヒテ高クカヽゲ、小次郎ガ刀ヲモ取リ、舟ノ柱ニ打マタガリテ漕戻ル。ハジメカルサンヲ切ラセタル事ハ、諸人見及故、高クカヽゲ、平首ニアタリタルハ、ハゲシキ場ユヘ見届ケタル者ナシ。太刀ガ平打ナガラ、シタヽカニ打タルニヨリ、血モ少ハ流レシヲ、下着ノ襟ヲ出シ、疵ヲ隠サレタリトカヤ。

 弁之助はカルサンのボタンを外してかなぐり捨て、上着の尻をつまんで裾をまくり、カルサンを高く掲げて群集に示します。ついで小次郎の刀を取ると、舟の帆柱にうちまたがり、漕ぎ戻らせて島を去りました。カルサンが切られたのは群集が見ていたゆえ、これを高く掲げて怪我がないことを示しましたが、小次郎の刀の平が首に当たったのは激しい場面ゆえ見届けた者はいませんでした。とはいえしたたかに打たれたので血も少し流れましたが、弁之助は下着の襟を出して傷跡を隠したということです。

さて、見物ノ貴賤、小次郎ガ死骸ニ近ヅキ見ルニ、ハヤ息モ絶々ナリ。見物ノ内ヨリ、「辨之助ハ早立退クガ、小次郎モハヤ是迄カ」ト、詞ヲカケシニ、両眼ヲクハツト見ヒラキ、フツト立揚リ、「水一ツクレヨ、ヤル事デハナキ」ト、一聲サケンデ前ヘカツパト轉レテ、息絶タリ。古今ノ英雄ト謂ツベシ。可惜可憐。是、下ノ關邊ニテ語傳ル所也。夫ヨリシテ、舟嶋ヲ巖流嶋ト呼ブ。小次郎ガ帯スル所ノ刀、今尚、宮本伊織ガ家ニ有リトカヤ。

 さて、見物人たちが小次郎に近づいて見ると、息も絶え絶えながら生きていました。見物人が「弁之助ははや立ち退くが、小次郎もはやこれまでか」と言葉をかけると、小次郎は両眼をくわっと見開き、ふっと立ち上がり、「水ひとつくれよ、(追い打ちは)やる事ではなき」と一声叫んで、前へかっぱと倒れ、息絶えました。古今の英雄というべき豪傑でしたが、惜しいかな憐れむべきかな、と下関のあたりではかく語り伝えたということです。またこれ以後、舟島を「巌流島」と呼ぶようになりました。武蔵が戦利品として持ち帰った小次郎の刀は、今なお宮本伊織の家にあるということです。

武州、一生數十度ノ試闘、其外、豊後陣、難波ノ合戰、原城ノ城責、彼是手疵ヲ被リ玉ハズ。冨來ニテノ鎗疵、又ハ巖流ヨリ外ニハ疵付ケシモノナシトイヘリ。

『丹治峯均筆記』は武蔵の生涯を書き連ねた後、最後にこのように記しています。とすると小次郎こそは宮本武蔵に仕合で手傷を負わせた唯一の人物であったわけです。これはまあ誇張かも知れませんが、さてしかし、この頃に及んでも「巌流」「小次郎」の呼び名はあっても「佐々木」の姓氏は出てきません。彼が「佐々木小次郎」となるのはさらに後世になります。

◆海◆

◆神◆

【続く】

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