【つの版】日本刀備忘録74:巌流決闘
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
剣豪・宮本武蔵は21歳の時に京都を訪れ、かつて室町将軍の兵法指南役であった吉岡道場の兄弟と勝負を行ったといいます。しかし『五輪書』には記述がなく、武蔵の養子・伊織が後年に建てた『小倉碑文』に初出の話です。また有名な巌流島の戦いも、同じく『小倉碑文』に初めて現れ、『五輪書』には全く記されていません。詳しく見ていきましょう。
◆巌◆
◆流◆
巌流決闘
其後、國々所々に至り、諸流の兵法者に行合、六十餘度迄勝負をすといへども、一度も其利をうしなはず。其程、年十三より二十八九迄の事也。
『五輪書』自序によると、武蔵は京都で天下の兵法者たちと勝負をして全て勝利した後、全国各地を経巡って様々な流派の兵法者と出会い、13歳から29歳までの間に60回以上勝負をして一度も負けたことがなかったといいます。武蔵は天正12年(1584年)生まれですから、29歳というと慶長17年(1612年)です。武蔵はその間に勝負した兵法者の名を有馬喜兵衛と秋山某以外に記しませんが、『小倉碑文』では「岩流」という達人と戦ったとあります。
爰に兵術の達人有り、名は岩流。彼と雌雄を決すを求む。岩流云く、眞劔を以て雌雄を決すを請ふと。武蔵對へて云く、汝は白刃を揮ひて其の妙を尽くせ、吾は木戟を提げて此の秘を顕はさんと。堅く漆約を結ぶ。長門と豊前の際、海中に嶋有り。舟嶋と謂ふ。兩雄同時に相會す。岩流、三尺の白刄を手にして來たり、命を顧みず術を尽くす。武藏、木刄の一撃を以て之を殺す。電光、猶遅し。故に俗、舟嶋を改めて岩流嶋と謂ふ。
かの有名な「巌流島の戦い」の初出です。巌流島は現在の山口県下関市彦島地区船島にあたり、関門海峡の下関側に浮かんでいます。しかし、この決闘がいつあったのかは記されていません。碑文が時系列順に書かれているのであれば、21歳で京都へ赴いて以後、28-29歳まで諸国を放浪していた時期にあたるはずです。また「佐々木小次郎」という名はここには見えず、相手の名は「岩流」とのみあります。彼は真剣(白刃)での勝負を望みましたが武蔵は木刀(木戟・木刃)で受けて立ち、一撃で相手を殺したとあります。
岩流が振るったという「三尺の白刃」は、刀身の長さが3尺(90cm)とすれば、現代の分類では大太刀に属します。とはいえ五尺や八尺などではなくて、打刀(刀身2尺3寸前後)よりやや長い程度です。2-3mもある物干し竿のような長大な大太刀ではなかったのでしょう。武蔵は吉岡兄弟との仕合でも真剣ではなく木刀を用いており、わざわざ真剣勝負を挑んだ岩流の方が異様であったかも知れません。
凡そ、十三より壯年迄、兵術の勝負六十余場、一として勝たざる無し。且つ定て云く、敵の眉八字の間を打たずば勝を取らずと。毎〔つね〕に其の的を違はず。
『小倉碑文』には続いてこのようにありますから、武蔵は吉岡兄弟や岩流の眉間を木刀で撃って倒したようです。吉岡清十郎は撃たれて昏倒し、弟子たちに介抱されて息を吹き返しましたが、吉岡伝七郎と岩流は「殺した」とあり、木刀といえども急所を撃たれれば死ぬ時は死にます。岩流は自ら真剣勝負を挑んだのですし、殺し殺されることは覚悟の上でしょう。
沼田家記
『小倉碑文』の次に古い記録は『沼田家記』です。これは細川忠興が豊前国中津・小倉藩主であった時(1600-20年)、門司城代をつとめていた沼田延元(長岡勘解由左衛門、寛永元年/1624年没)の子孫が寛文12年(1672年)ないし元禄2年(1689年)に編纂したものとされ、小倉碑文より18年後か35年後に成立したわけですが、『小倉碑文』の記述とは大きく異なります。それによると、仕合の様子は次のようでした。
延元様門司に御座成され候時、或年宮本武蔵玄信豊前へ罷越、二刀兵法之師を仕候。其比小次郎と申者、岩流の兵法を仕、是も師を仕候。双方の弟子ども兵法の勝劣を申立、武蔵・小次郎兵法之仕相仕候に相究、豊前と長門之間ひく島《後に巌流島と云ふ》に出合、双方共に弟子一人も不参筈に相定、試合を仕候処、小次郎被打殺候。
延元が門司城代をつとめていた頃、宮本武蔵玄信が豊前に来て、二刀流の兵法を教授していました。また小次郎という者は岩流の兵法を教えていましたが、双方の弟子たちが兵法の優劣を申し立てて論争し、両者が仕合を行うことになりました。場所は豊前と長門の間のひく島(彦島)で、後に巌流島と呼ばれる島です。事前に双方ともに弟子を一人も連れてこないことを取り決めて仕合したところ、小次郎が武蔵に打ち殺されました。舞台は船島ではなく、その西の彦島とされていますが、おおむね『小倉碑文』と同じです。しかし、ここからが異なっています。
小次郎は如兼弟子一人も不参候。武蔵弟子共参り隠れ居申候。其後に小次郎蘇生致候得共、彼弟子共参合、後にて打殺申候。此段小倉へ相聞へ、小次郎弟子ども致一味、是非とも武蔵を打果と大勢彼島へ参申候。
小次郎は約束通り弟子を一人も連れてきませんでしたが、武蔵は約束に違反し、密かに弟子たちを連れてきて隠れさせていました。小次郎はやがて息を吹き返し蘇生しましたが、武蔵の弟子たちに取り囲まれ、トドメを刺されてしまいます。このことが小倉に聞こえると、小次郎の弟子たちは徒党を組んで「武蔵を討ち果たすべし」と大勢でその島(彦島)へ向かいました。
依之武蔵難遁門司に遁来、延元様を偏に奉願候に付、御請合被成、則城中へ被召置候に付、武蔵無恙運を開申候。其後武蔵を豊後へ被送遣候。石井三之丞と申馬乗に、鉄砲之共ども御附被成、道を致警護無別条豊後へ送届。武蔵、無二斎と申者に相渡申候由に御座候。
このため武蔵たちは難を逃れて対岸の門司に逃げ来たり、延元に庇護を願ったので、延元はこれを聞き入れてしばらく城中に庇護した後、豊後国へ護送させました。護衛には石井三之丞という騎馬武者をつけ、鉄砲隊を率いさせ、武蔵は無事に豊後に送り届けられました。武蔵は無二斎という者に引き渡されたというのですが、これは前述の豊後国日出藩に仕えていたという兵法家・無二のことでしょうか。ともあれ、武蔵は小次郎との勝負自体には勝ったものの、卑劣な行いのために小次郎の弟子たちの恨みを買ったのです。
ことの真偽はさておき、ここでは岩流を人名ではなく兵法の流派の名としており、武蔵と仕合をしたのは「小次郎」であると初めて記しています。しかし彼の姓氏は記されず、「佐々木小次郎」ではありません。強いて言えば「岩流の小次郎」とでも呼ぶべきでしょう。また沼田延元が門司城代であった時期は慶長5年(1600年)から、一国一城令により門司城が廃城となる元和3年(1617年)までですから、巌流島の決闘はこの間に行われたはずですが、『沼田家記』には具体的な年月日が記されていません。
上田宗入
『小倉碑文』『沼田家記』に次いで、巌流島の決闘について記す古い記録に『江海風帆草』があります。これは筑前福岡藩(黒田家)の家老にして茶人であった立花実山(重根)が宝永元年(1704年)に序文を書いた海事文書ですが、3人の編者のうち吉田忠右衛門重昌は元禄2年(1689年)、勝野清中は同4年(1692年)に没していますから、17世紀後半の記録です。
爰に又宮本武藏と云者、父名筑前國宮本無二之助と云ものゝ子にて、筑前の産なり。武藏年長け、兵法爲執行諸國を徘徊シ、豊前小倉に下り、細川越中守忠興の城下に居す。此時中國にてハ、上田宗入、巌流の兵法を指南して、長門国に居住シ、武藏が兵法をさミす。武蔵ハ、父無二と宗入、兵法の遺恨も有ければ、ことにやすからず思ひ、仕合を互に望ミ、両方此嶋に出合べきよし云合す。
宮本武蔵は父の宮本無二之助ともども「筑前の産」となっており、播州の産とする『五輪書』『小倉碑文』とは相違します。また武蔵と仕合した相手は、長門国で巌流兵法を指南していた「上田宗入」という人物で、武蔵の父無二とは兵法の遺恨があったといいます。小次郎でも佐々木氏でもなく、巌流は兵法の流派名とされています。またこの書には、彼が自らの流派を「巌流」と名乗った由来も記されています。
巖流[ガンリウ]嶋[大里の前、北の方に有。寛永の比までハ船嶋と云へるよし]此嶋、兵法つかひの名に依て号スと云ハ非なり。流儀に依てなり。巌流とハ兵法の流儀なり。此流を仕出せしハ、俗名上田宗入[此名不分明]と云へる者のよし。此者、岩見の礒に一ヶ年結跏趺坐して、波の打を観じ、兵法の工夫して、巖流と云一流を仕立たるよし。
ここでは『小倉碑文』の記述を否定し、巌流島と呼ぶのは兵法家の名によるのではなく、兵法の流儀(流派)に由来すると断言しています。巌流とは上田宗入が「岩見の礒(磯)」に一年間結跏趺坐して波が打ち寄せるさまを観察し、兵法の工夫をして立てた流派であるというのです。彼は中国(中国地方、山陰・山陽)で活動し長門国に居住していたというのですから、岩見とは長門の北東の石見国のことでしょうか。あるいはこれは「岩流」という名が先にあり、後から流派の名だとして由来を付け足したものでしょうか。
武藏其日の装束ハ、繻子のぢはん[襦袢]を、こはぜがけ[短い紐の両端を縫い付け、中間に爪型の留め具=小鉤/こはぜをつけたもの]にして着、五尺の棒に筋鉄を打て持之、宗入よりさきに嶋にわたりて、岩にこしかけて宗入をまつ。宗入ハ、八徳〔胴着〕の下に筒丸の具足を着、三尺一寸の青江の刀をさし、木刀を手に持、小舟に乗、をしわたる。武藏が先にわたりたるを見て、何とかおもひけん、かの青江の刀をぬき、刀のさやを二に切て海にすて、木刀をも海になげ入、舟よりあがり、直に立合て戦ふ。
決闘の当日、武蔵は宗入より先に島に渡り、五尺(1.5m)の棒を筋鉄で補強した武器(鉄樶棒)を手にして待ちます。彼は防具を纏わず襦袢を着ていただけでしたが、宗入は胴着の下に具足(鎧)を纏い、三尺一寸(1m弱)の備中青江派の刀を差し、木刀も手にして小舟でやってきます。そして刀を抜くと自らの鞘を二つに切って海に捨て、木刀も海に投げ入れ、舟からあがって武蔵と対峙します。「武蔵が遅れて来た」とする後世の伝説とは真逆に、ここでは宗入の方が遅れて来ているのです。武蔵は櫂を木刀にしたりせず、相手が鞘を捨てたのを「敗れたり」と嘲笑ったりもしていません。
宗入、むさしがすそをはらふ。武藏のびあがりて、棒にて宗入が頭を一打に打倒す。此時、宗入が刀のきつさき、武藏が立付の前腰をはらひて、はかまのまへ、武蔵が膝に下がる。武藏立所をうごかず、宗入又立あがらんとするを、又同ジく頭を打て、即時に打殺す。
(異本)宗入、武藏が裾をなぐり払ひければ、武藏飛びあがりて、彼棒にて宗入が頭を打つて打倒す。
仕合が始まると、まず宗入が刀で武蔵の裾を薙ぎ払います。武蔵は跳躍して回避し、棒で宗入の頭を打って倒しますが、宗入の刀の切っ先は武蔵の前腰を払い、負傷はしませんでしたが袴が切れて膝に下がります(ふんどしがあるので大丈夫です)。倒れた宗入は立ち上がろうとしますが、武蔵はその頭を再び打ち、ついに殺したといいます。『沼田家記』にも宗入ならぬ小次郎が蘇生したとありますが、ここでは弟子たちに囲んで殴られ死んだのではなく、立ち上がろうとしたところを武蔵に再び頭を打たれて死んだとしています。この方がもっともらしい気はしますね。
武蔵ハ、小舟に乗て、小倉の地江帰る。武藏舟を出さんとする時、見物の中より、「宗入いかに、弁之助[此時迄武藏が名を弁之助と云なり]只今立のくぞ」と云ひければ、死せる宗入、又立あがり、海上をミて、「弁之助いづくへ行ぞ」と、一聲よバゝりて忽死す。
勝利した武蔵は小舟に乗って小倉へ帰ろうとしますが、見物人が「宗入いかに、弁之助(武蔵)がただいま立ち退くぞ」と声をかけると、死んだはずの宗入はまたも蘇生して立ち上がります。しかし武蔵はすでに海上にあり、瀕死の宗入は「弁之助何処へ行くぞ」と一声呼ばわって死んだといいます。真剣で首を斬られたわけでもないため、こうしたことはあったかも知れませんが、こう何度も蘇るとは恐ろしいことです。弟子たちの有無はさておき、決闘に際しては当然ながら立会人がおり、見物人もいたことでしょう。
宗入も此仕合にハ負たれども、元来剛強の者にて、兵法も上手にてありけるとかや。宗入が弟子ども中國に多く、武藏をうたんとねらへども、心にまかせず。武藏ハ其後上方におもむき、兵庫に弐年あまり居住す。夫より明石小笠原右近将監(忠真、1617-32年まで播州明石藩主)の家に有着て住す。
細川越中守(忠興の子忠利、小笠原忠真の妹の夫、1620年より小倉藩主)、兵法懇望のこと深切忘がたく、二たび西國に下る。此時、越中守肥後國を領し玉ふ(1632年)。肥後に至り在住、兵法の指南申けり。(武蔵)同國岩戸山と云山中にて死ス。
武藏一代兵法鍛錬不等閑、名人のほまれ有けり。巌流嶋の仕合ハ、いまだ十八歳の時にて、兵法も未熟、ひとへに血氣の所作、心に不叶事どもなりと、武藏後年に申けるとかや。
巌流島の戦いの後、武蔵は宗入の弟子たちにつけ狙われることになりますが、誰も仇討ちはできませんでした。やがて武蔵は上方(畿内)に赴き、兵庫に2年間居住したのち、播州明石藩主・小笠原忠真の家に滞在しました。彼の義弟である豊前小倉藩主の細川忠利は兵法を好み、しばしば武蔵を招いて教えを請いましたが、忠利が肥後へ国替えすると武蔵も招かれ、最後は肥後国で没しました。その武蔵は後年に「巌流島の仕合はまだ18歳の時で、兵法も未熟であった。ひとえに血気の所作で心にかなわぬことである」と語ったというのです。とすると武蔵が天正12年(1584年)生まれとして、巌流島の戦いは慶長6年(1601年)、関ヶ原の戦いの翌年です。
『小倉碑文』と辻褄を合わせるならば、その3年後に京都へ上り、吉岡一門と戦ったことになりますが、そうすると『小倉碑文』の記述が時系列順ではなくなります。吉岡一門との因縁を語る時に無二の話が後から出ては来ますが、武蔵本人の事績は基本的には時系列順に記されているはずです。
細川忠興は関ヶ原の戦いの論功行賞で豊前一国と豊後の一部を授かり、丹後国宮津から国替えとなりました。しかし当初は前藩主の黒田家(同年筑前に国替え)の居城であった中津城に入っており、小倉城に移るのは慶長14年(1609年)です。小倉城自体は慶長7年(1602年)から改築工事が始まっており、慶長6年に細川忠興が小倉城にいるはずはありません。
この頃の長門国は毛利氏の領国です。関ヶ原の戦いで敗れた毛利氏は中国地方の覇者から防長両国に縮小され、てんやわんやの状態でした。船島は豊前との国境とはいえ長門のうちですし、騒ぎがこじれて小倉藩との間に諍いが生じても改易の口実になりかねず、よくありません。
そもそも『江海風帆草』は播州生まれのはずの武蔵を父無二ともども筑前の産とし、『五輪書』はもとより『小倉碑文』よりも後に編纂されているのですから、この年齢の記述も本当かどうか怪しいものです。あるいは18歳ではなく28歳の誤記なのかも知れませんが、定かではありません。巌流島の戦いについてはかくも謎が多いのです。もう少し見ていきましょう。
◆巌◆
◆流◆
【続く】
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