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「お母さんが待っているから、家に帰りたい」――重度認知症のおばあちゃんに、私は何もできなかった

エクアドルで高齢者ケアに関わるようになって、
今でも時々思い出すおばあちゃんがいます。

思い出すと、胸が痛くなります。

70代前半。
重度の認知症がある女性でした。

でも、私が初めて会ったときの印象は、
「かわいいおばあちゃんだな」
でした。

笑顔がとてもかわいい。
そして、人懐こい。

私が近づいていくと、にこっと笑ってくれる。
こちらまで笑顔になってしまうような人でした。

私は、彼女のことがすぐに好きになりました。

料理長からは、最初にこう聞いていました。
「彼女は20分くらいすると、全部忘れてしまうんです」

最初は、
「そんなに短い時間で?」
と思いました。

でも、実際に一緒に過ごしていると、その意味が少しずつ分かってきました。


みんなと一緒にできる。でも……

彼女は、みんなと一緒にアクティビティに参加していました。

塗り絵もする。
折り紙もする。
パズルもする。
活動を嫌がることもありませんでした。

私は、
「ちゃんとみんなと一緒に楽しめているんだな」
と思っていました。

でも、しばらくして気づきました。

彼女は、活動の意味を理解してやっているというより、周りの人を見て、同じことを真似しているようだったのです。

みんなが色を塗れば、彼女も色を塗る。

みんなが折れば、彼女も折る。

それでも私は、それでいいと思っていました。

同じ場所にいて、みんなと同じ時間を過ごしている。

それだけでも十分意味がある。
そう思っていました。

そして、彼女にはもう一つ、特徴的な行動がありました。

ポケットの中に入っているもの

彼女は、自分のものと他人のものとの区別がつきませんでした。

置いてあったコップやスプーンを、他の高齢者のカバンから取り出して、自分のカバンに入れてしまう。

塗り絵。
折り紙。
パズル。
色鉛筆。
気がつくと、ポケットの中に入っています。

最初は、
「また入れちゃった」
と思いました。

困ったな、とは思いました。

でも、不思議と腹は立ちませんでした。
だって、彼女には悪気がないことが分かっていたからです。

「盗んでいる」という感覚ではない。

きっと彼女の中では、
「これは私のもの」
になっている。

私は、そんなふうに考えていました。

だから、彼女が気づかないように、ちょっとした工夫をしていました。

抱き着くように近づいて、
「おばあちゃん、元気?」
と声をかけながら、そっとポケットから色鉛筆や折り紙を取り出す。

まるで手品のように。

そのときの彼女は、何も気づかず笑っている。

私はそんな彼女を見て、
「かわいいな」
と思っていました。

今思えば、あの頃はまだ、彼女との関わりを楽しむ余裕がありました。

でも、半年ほど経った頃から、少しずつ状況が変わっていきました。

「彼女が盗んだ!」

彼女の「取り込み」が、だんだん激しくなってきたのです。

他の高齢者から、
「私のものがない」
「彼女が盗んだに違いない」

と言われることが増えてきました。

確認すると、彼女が持っている。

だから、訴えた人の気持ちも分かります。

でも、私は苦しくなりました。

彼女は盗んだわけではない。

病気のために、自分のものと他人のものとの区別がつかなくなっているだけなのに。

それなのに、
「泥棒」
と呼ばれる。
「頭がおかしい」
と言われる。

その言葉を聞くたびに、私は胸が痛くなりました。

彼女は何も分からないから仕方がない。
そう思っている自分もいました。

でも同時に、
「なんとかしてあげたい」
という気持ちも強くなっていきました。

「彼女は、困っている人なんです」

そこで私は、認知症についてのチャルラ(Charla)を行いました。

エクアドルでは、こうした説明や勉強会のことを「Charla(チャルラ)」と呼びます。

私は高齢者のみなさんに、認知症について話しました。

認知症は脳の病気です。
本人がわざとやっているわけではありません。
困らせようとしているわけでもありません。

そして私は、みんなにこう伝えました。

「彼女自身が、とても困っている人なんです」
だから、
「みんなで助けてあげましょう」
と。

私は一生懸命話しました。
これで、少しは彼女のことを分かってもらえるかもしれない。

もう「泥棒」と言わないでくれるかもしれない。

彼女がここで安心して過ごせるようになるかもしれない。

私は、そんなふうに期待していました。

でも、今振り返ると、
その頃から彼女は、少しずつこの場所に居づらさを感じていたのかもしれません。

もちろん、本当のことは分かりません。

彼女に聞くことはできないからです。

ただ、その後、彼女の「帰りたい」という訴えが、どんどん強くなっていきました。

「お母さんが待っているから」

「家に帰りたい」

「お母さんが家で昼ご飯を作って待っているから」

何度も何度も、そう繰り返しました。

私は、そのたびに胸が苦しくなりました。

お母さんは、もう亡くなっている。
それを私は知っていました。

「お母さんは、もういないんだよ」
そう伝えることは、私はできませんでした。

伝えたところで、彼女はまた忘れてしまう。
そして、もう一度同じ悲しみを味わうことになる。

だから私は、ただ彼女の言葉を聞いていました。

しばらくすると、また同じように言います。
「お母さんが待っているから、帰りたい」

私は、その言葉を聞くたびに、
「帰りたい」というのは、いったいどこへ帰りたいということなんだろう。
と考えるようになりました。

お母さんのいる家。
きっと彼女にとっては、そこが一番安心できる場所だったのでしょう。

でも、その場所はもう現実には存在しない。

それなのに、彼女の中では、お母さんは今も昼ご飯を作って待っている。

その現実と、彼女の中にある現実の間で、私はどうしたらいいのか分かりませんでした。

彼女が消えた

ある日、彼女がトイレに行きました。

ところが、戻ってきません。
「セニョーラ 〇〇〇」
もう一度呼びました。

返事がありません。

トイレにもいない。

部屋にもいない。

「どこに行ったの?」
その瞬間、胸がざわっとしました。

「〇〇〇、どこ?」
施設の中を探しました。

いない。

料理長も探しました。

料理担当の職員も探しました。

そして、門の外へ出ました。

施設の周りは畑ばかりです。
小さな家が少しあるだけ。

今なら門にはガードマンがいます。
でも、当時はいませんでした。

私は必死でした。
「どこに行ったんだろう」
「もし見つからなかったら?」
頭の中に、いろいろなことが浮かびました。

日本でも、認知症の高齢者が行方不明になり、何年も捜索しているというニュースを見たことがあります。

もし、このまま見つからなかったら。

もし事故に遭っていたら。

もし遠くまで行ってしまっていたら。

考えるだけで怖くなりました。

そして、かなり遠くの畑の道を歩いている彼女を見つけました。

「いた!」

その姿を見つけた瞬間、私は本当にほっとしました。

でも、喜んでいる場合ではありませんでした。

「もし、あと少し見つけるのが遅かったら……」
そう考えると、今度は怖くなりました。

見つかった。
本当に良かった。

でも同時に、
「この人を一人にしてはいけない」
という恐怖も強くなりました。

彼女は、その後も2度、門の外へ出ました。

忘れられない、あの朝

そして、だんだん症状が強くなっていきました。

「帰りたい」
という言葉も、穏やかな訴えではなくなりました。

怒って、
「帰る!」
と言うようになりました。

そして、忘れられない朝がやってきました。

送迎の車が到着しました。

彼女が車から降りた瞬間、
「家に帰る!」
と怒り出しました。

私は、一人でした。

ボランティアがいない日は、私一人で高齢者のケアをしていました。

一人で対応しなければならない。
でも、彼女から目を離すこともできない。

目を離したら、門のほうへ行ってしまう。

どうしたらいいの。
私は、本当に焦りました。

怖かった。
でも、どうすることもできない。

私は、大声でスタッフの名前を呼びました。
「料理長!」
「○○さん!」
「来てください!」
何度も叫びました。

スタッフが来てくれるまでの時間が、とても長く感じられました。
「早く来て」
心の中で、何度もそう思いました。

やっとスタッフが来てくれたとき、
本当にほっとしました。

病院へ。そして、薬

その後、料理長が彼女と一緒に住んでいる娘さんに電話をしました。

娘さんは昼間、仕事をしているそうです。

娘さんが迎えに来てくれました。

そして翌朝、彼女を病院へ連れて行ったそうです。

数日後、彼女がセンターに来たとき、薬を持ってきました。
「帰りたいと言ったときに飲ませてください」
そう言われました。

私は薬を調べて、驚きました。
その薬は、私が日本で勤めていた精神科病棟で使われていた薬と同じでした。

興奮を抑えるために使われる頓服薬。
私は、その薬を知っていました。

でも、彼女は飲もうとしませんでした。

苦い薬でした。
料理長がジュースに入れても、
「嫌!」
と拒否します。

分かってしまうのです。
飲んでくれない。

私は、その姿を見ながら、なんとも言えない気持ちになりました。

日本では知っている薬。
でも、ここでは思うように使えない。

知識があるのに、何もできない。

そんな気持ちが、胸の中に残りました。

そして――
彼女は、センターに来なくなりました。

私は、何の役にも立たなかったのではないか

彼女が来なくなってから、私は何度も考えました。

私は、ここで何をしていたんだろう。

私は看護師です。
日本では精神科病棟で働いていました。

認知症の方とも関わってきました。

認知症について、それなりに勉強してきたつもりでした。

だからこそ、悔しかった。
「もっとできたはずなのに」
そう思いました。

認知症のことを知っている。

本人に悪気がないことも知っている。

本人が困っていることも知っている。

周りの人に理解してもらうことも大切だと知っている。

それなのに。

私は、彼女の「帰りたい」を止めることもできなかった。
彼女が安心して過ごせる場所を作ることもできなかった。
薬を飲ませることもできなかった。

そして、彼女は来なくなった。
私は、何の役にも立たなかったんじゃないか。
そんな思いが、ずっと残りました。

でも、今になって思うこと

あの頃の私は、
「認知症を理解すること」
が、認知症ケアだと思っていたのかもしれません。

認知症は脳の病気。
本人に悪気はない。
行動には理由がある。

そんな知識を持っていれば、うまく対応できると思っていました。

でも、実際はそんなに簡単ではありませんでした。

目の前にいる一人の人。
その人の不安。
その人の寂しさ。
その人の「帰りたい」という気持ち。

それをどう受け止めるのか。
周りの人たちに、どう理解してもらうのか。
安全をどう守るのか。
家族とどうつながるのか。
スタッフが少ない中で、どう支えるのか。

認知症ケアには、たくさんの問題が重なっています。

そして、正解が一つあるわけではありません。

今でも私は、あのおばあちゃんに何ができたのか、分かりません。

もしかしたら、もっと早く環境を変える必要があったのかもしれない。

もっと彼女が安心できる場所を作る必要があったのかもしれない。

もっと「帰りたい」という言葉の意味を考える必要があったのかもしれない。

でも、これは全部、今の私だから考えられることです。

あのときの私は、あのときの自分なりに必死でした。

あのおばあちゃんが、今の私に残してくれたもの

私は今でも、最初に会ったときの彼女の笑顔を覚えています。

人懐こくて。
かわいくて。

みんなの真似をしながら、楽しそうに塗り絵をしていた彼女。

ポケットに色鉛筆を入れていた彼女。

「家に帰りたい」と繰り返していた彼女。

そして、怒って、
「家に帰る!」
と言っていた彼女。

私は、彼女を助けられなかったと思っています。

今振り返れば、私は何もできなかったわけではありません。

彼女を「泥棒」と呼ばないでほしいと伝えた。
いなくなったときは、必死で探した。
一人では危ないと分かったときには、スタッフを呼び続けた。

それでも私は、
「もっとできたはず」
と思ってしまうのです。

だから、今でも胸が痛みます。

でも、あの経験があったからこそ、私は認知症ケアについて、もっと深く考えるようになりました。

認知症の人を、
「分からない人」
「困った人」
「問題行動をする人」
として見るのではなく、

「この人は、今、何を感じているんだろう」
と考えたい。

「なぜ、こんなことをするの?」
ではなく、

「何か困っていることがあるのではないか」
と考えたい。

そして、その人を一人で支えるのではなく、
家族も。
職員も。
周りの高齢者も。
みんなで支えることが必要なのだと思います。

私は、今でもあのおばあちゃんに謝りたい気持ちがあります。
「ごめんね」
そして、
「ありがとう」
とも言いたい。

あなたとの時間があったから、私は今も認知症ケアについて考え続けています。

あなたにできなかったことを、
今、目の前にいる人たちには少しでもできるように。

あのときの私は、無力でした。

でも、あの無力感を忘れないことも、
私にできることの一つなのかもしれません。

そして今、私は一つのことを強く思っています。

認知症になっても、その人の心までなくなるわけではない。

忘れても、
不安になる。

嬉しくなる。

嫌だと感じる。

安心する。

寂しくなる。

そして、
「帰りたい」
と思う。

言葉や記憶が失われても、
その人の心は残っている。

忘れても、心は残る。

私は、あのおばあちゃんから、それを教えてもらったのだと思います。


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