見出し画像

【マンダラ夢分析】変更された目的地。父母娘と叔父、親族構造の最小構成からの床が抜ける立体駐車場の夢

はじめに
心の動き方を「マンダラ」状にモデル化する

夢のビジョンにおいて、見られ、記憶され、覚醒後に言葉で報告される不思議な世界。それは心の「深層」の脈動から立ち昇る振動が、表層意識の一番底・感覚印象の記憶の束を震わせたとき、そこから浮かび上がるパターンである。

神話も、人間の心の「深層」の同じところ脈動から立ち昇る振動が表層意識の一番底に、その底面の平面に浮かび上がらせるパターンであり、そのパターンを意識が自覚できる相にまで浮かんできた姿こそ、「マンダラ」である。

マンダラは、円と正方形を組み合わせた姿をしている。正方形ゆえにおのずから四項・四極が際立ち、そしてその四項の中間に配される中間項四つが浮かび上がり、合わせた八項関係を描く。

視覚的イメージとしてのマンダラ
語りに現れる「述語」としてのマンダラ

マンダラは四項関係や八項関係のイメージ、いわゆる絵図としての曼荼羅のように直接ビジュアル化される(視覚的なイメージになる)場合もあれば、夢の中で自/他の間が近づいたり離れたり、距離感の伸縮として経験される場合もある。夢で「私」と私ではない他の登場人物たちとは、ある場所において(円形の空間の中や、四角形の部屋の中、四角いテーブルの周囲)、分離と結合、愛/憎の両極の間を揺れ動く

例えば、夢において、四人の(もちろんこの四人がもっと多くに分かれてもいいし、そのうちの幾人かが省略されてもいい)登場人物が喧嘩したり仲良くなったり、分離したり結合したりを繰り返すようなことである。

神話論理と夢分析

マンダラは「神話」の語りとして、神話的な神々や超自然的な存在者たちが結合したり分離したり、ぐるぐる回ったり、逃げたり追いかけたり、半分になったりする話として言語的な姿を示現することもある(しないこともある)

神話の場合は、語りの終わりで、下図におけるΔ1〜4を分けつつも過度に分離しすぎないようにつないでおく、正方形と内接円(外接円)を組み合わせたような曼荼羅状のパターンを描き出すことを目指している

神話の語りはじめには、まだΔはない。

何もないところから(ある/ないのペアすら”ない”ところから)、まずΔたちが収まる「余地」を切り開くこと、Δたちを配することができる「」を生成することからはじめないといけない。
そこに野生の思考の神話論理が動く。

経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするもの両義的媒介項(図1ではΔに対するβ)という。

神話の語りは、まず図で「β」と表記した両義的媒介項二項が、第一象限と第三象限の方へながーく伸びたり、β二項が第二象限と第四象限の方へながーく伸びたり、 中央の一点に集まったり、という具合に振幅を描く動きを語る。

これを言語的な語りに託さずにイメージだけで感覚しようとすると、ちょうど一点から螺旋が回転し始め、その回転の渦が拡大して、安定的に円を描くようになる、といった具合になる(ならなくてもいい)。

この円の中に(外に)正方形が、Δ四項を四つの角とする四角形が浮かんでくる。

一方、あくまでも言語で語り、「登場人物」たちの動きに託して語る神話では、お餅、陶土、パイ生地を捏ねる感じで、四つの両義的媒介項(β)たちのうち二つが、第一の軸上で過度に結合したかと思えば、同時にその軸と直交する第二の軸上で過度に分離するという具合に動く。この”分離を引き起こす軸”と”結合を引き起こす軸”は、高速で入れ替わっていく。


両義的媒介項(β)は神話では、「火を使うことを知らず鶏のように土を啄んでいる人間」であるとか、「服を着て弓矢をもって二本足で歩くジャガー」とか、「ヤマアラシに変身して人間の女性を誘惑する月」とか、「下半身を上半身と分離して上半身だけで川に飛び込み流れる血の匂いで魚を誘き寄せて捕らえる人間」、といった姿をしている

そのようなものたちは、経験的感覚的には(Δ項としては)「存在しない」が、神話は、この経験的に何かが存在する/存在しないを分別できるようになる手前の「/」の動きを捉えて、これを安定化させることを目論んでいる。

そうであるからして、人間/動物、獲物/狩猟者、といった経験的には真逆に対立するはずのΔ二項を短絡することで、どちらがどちらかわからないような状態をあえて語り出すというやり方で両義的媒介項を制作(ブリコラージュ)するのである。オオゲツヒメの神話の吐瀉物を食物として供するといった凄まじい話もこれである。こういう経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするもの両義的媒介項(図ではΔに対するβ)という。

このβたちを四方に引っ張り出し、 β四項が付かず離れず等距離に分離された(正方形を描く)ところで、この引っ張り出す動きと中央へ戻ろうとする力とをバランスさせる

ここで拡大と収縮の速度は限りなく減速する。

そうしてこのβ項同士の「あいだ」に、四つの領域あるいは対象、「それではないものと区別された、それではないものーではないもの」(Δ)たちが持続的に輪郭を保つように明滅する余地が開く。

私(この文章を書いている筆者)は、以前から、クロード・レヴィ=ストロース氏が『神話論理』で分析している神話の語りを、八項関係のマンダラ状の図式に照らし合わせて読み直してみようという試みを続けている。ぜひご参考にどうぞ。

このような分離しているところを結合へと向かわせたり、結合しているところを分離へと向かわせるような動きを、「夢」のビジョンにもみることができる。ことによると神話は、いま現在ここで生きる私たちからは時間的に空間的に遠くへだったものと感じられるかもしれない。しかし神話とおなじ動きが、神話を発生させるのと同じしくみが、今ここでも、私たちの心の深みで動いており、それが毎晩のように、私たちの昼間の意識が分別に固着し分けて選んだ方にこだわっているところを少しづつほぐし、分けるでもなく分けないでもない、選ぶようで選ばない、心の深層のバランスを取り戻そうとしているのである。

* *

主語たちの述語的様相にフォーカスする

「何であるか」はとりあえず脇に置いて
「どう動くか」をみる

この神話や夢に表現された心の深層の仕組みが動いた様子を観測するために、おそらくもっとも捉えやすい手がかりは、神話の語りに登場する「述語」、特に分離しているところを結合するように距離を縮めたり、結合しているところを分離するように伸ばしたりする述語であり、実際に結合したいところと分離したままになったり、分離したいところと結合してしまうような夢のビジョンの述語的様相である。

マンダラ状の図でいえば、Δでもβでも「項」は、人間からみるとなにか固まったもの(主語的なもの)に見えるという意味で仮に「項」と呼んでみているが、これがじつは、どちらかと言えば動き、脈動、振動、振幅を振る…、行ったり来たり、という感じの述語的な様相なのである。

夢の登場人物たちは主語の位置に据えられて報告される。

つまり夢を見た者・夢見手が分析者に対して報告する場合に、「帽子を深く被った女性が・・」などという具合に語らざるをえない=言語化せざるを得ないのであるが、これが実は述語的様相の残像が共鳴して主語的様相を呈しているのだ、と読んでみたい。

「何が」ではなく「どう動いているか」に注目をしてみよう。

そしてさらに、この「動き」にもいろいろあるわけだが、神話や夢が、つまり人間の心の深層が特に重視する「動き」はどうやら二つ、「分離する動き」と「結合する動き」、そしてその多様な複合らしいのである

『C.G.ユングのセミナー パウリの夢』の前書きに、監修者の河合俊雄先生が次のように書かれている。

ユングは繰り返しマンダラの中心性に焦点を当てるけれども、その中心を巡っての円環運動が生じてくることも繰り返し指摘している。運動としては、一度上に蒸留されたものが再び下に落ちるというものも興味深い。「無意識は運動でもある」としているように、意識も無意識も実体化されず、運動となっていく。それと同時に対立物の関係や合一は必ずしも意識と無意識の関係ではなくて、いわば抽象的なものになっていく。これは後に最晩年の「結合の神秘」において「結合と分離の結合」として結実していくものである。

河合俊雄「監修者によるまえがき」,『C.G.ユングのセミナー パウリの夢』p.8

分離したり結合したり伸縮する述語

この「どう動いているか」の「動き」とは、夢の中は、自/他の距離感が伸び縮みするような経験として、もっと細かく言えば、概ね下記のような2パターンに集約されるようにおもわれる。

<<分離状態にある相手(物事)と結合したいと望み、
結合しようと動くが、
うまく結合できない>>

あるいは

<<結合状態にある相手(物事)と分離したいと望み、
分離しようと動くが、
うまく分離できない>>

実際、私たちは、夢ではなく現実の日常生活においても、分離したいことと結合されたり、逆に結合したいところと分離されたりするときに、不安や怒りを感じ、この不安や怒りを鎮静化するために、結合や分離の動きを触発する相手方との関係の取り方を試行錯誤する(分離しようとしたり、結合し直そうとしたりする)。

夢は、いや、夢として記憶の残像を残す深層意識の伸縮する述語的な動きは、この分離したいことと結合されたり、逆に結合したいところと分離されたりする状態を付かず離れずに均衡させるよう、意識的にではなく無意識的に、意識の立場から見れば<自動的>に動いているようである。

マンダラの円環の上で向かい合い対立する諸項も(この場合は「意識」と「無意識」)、いずれも「運動」である。マンダラやマンダラの上で対立する諸項は「実体化されず」、つまり固まって輪郭が定まり性質が定まった個物として転がっているものではなく、分離したり結合したりする運動、動き、動き方のパターン、それを表現する「述語」や主語たちの述語的な様相によって記述される。


◇ ◇ ◇

以上を踏まえ、今回は、共同研究者の方からご提供いただいた夢を分析し、マンダラ状のパターンを描くように述語が伸縮する様を浮かび上がらせてみよう。


旅行の夢である。

夢見者は女性である。ひとりで海外旅行をしている。

なにかの手ちがいか事故だかで、飛行機の行先が変更となり、恐らく東南アジアのどこかだと思われる、知らない土地に降ろされる。

空港のロビーのような場所にいるが、
言葉はわからず、携帯電話の電波もつながらない
外は叩きつけるような土砂降りで、薄暗く、今が朝なのか夜なのかわからない。スコールのようだ。
私は、恐る恐るそこにいたアフリカ系の若い女性に英語で話しかける。

「ここはどこですか?」と聞くのはあまりにも間抜けなので、「地図上ではどこにあたりますか?」と言うふうに多少表現を変えるが、聞きたいことは同じだ。



聞くと「ここはジャマイカだ」という。
私は「ああ、北米と南米の間の〜」と適当な返しをする。
東南アジアではなかったらしい
東南アジアとジャマイカでは地球の裏側だ。

彼女は、「今外に出ると混んでるかしら」といったことを言う。
裏通りから出ればいいよ、と私は答える。
なぜか、池袋駅のイメージをしている。

彼女と話しかけたことをきっかけに、外国人グループとの距離が縮まる。
比較的気軽に
、英語で会話できるようになる



外国人の若者のグループは、夢見者と同じく手ちがいで降ろされた同じ境遇であるが、ヒッピーのコミューンのような雰囲気で、落ち着いて今できる生活を穏当に進めようとしている。

彼らに、今ジャマイカは雨季であるのかとか、明日は外出可能であるかどうかなどを尋ねる。

情報を得たいからというよりも、こうして話していると気が紛れて落ち着くからなのだろう。

* *



*   *

場面が変わって、夢見者は倉庫のような、シェルターのような部屋にいる。
蛍光灯の光が緑がかっていて、薬っぽい臭いがする。
図書館の地下書庫のようでもある。

小ぶりの段ボールに雑誌や本が詰め込まれている。

『アックス』系のアングラ漫画雑誌の上に、宇野亜喜良の画集が重なっている。ここは私の父方の家族が出入りしている書斎で、これらの書籍は私の叔父(寡黙で、人付き合いが得意でなく、独身)の私物らしい

私は、宇野亜喜良の画集を眺める。
少女たちのエスキースがたくさん描かれていてとてもかわいい。
私が喜んでいると、横から私の母が怪訝な声色で嫌味っぽいことを言う
あまりいい気はしない。

漫画雑誌のにはこんもりと、絡まった髪の毛のような毛玉が積み上がっている。髪の毛のような毛玉はベタついており、ほこりが付着してゴワつき、羊の毛のような硬さが出ている。私はそれをつまんで除けようとするが、指先にいやに絡みついて取れない

雑誌の間にはA4コピー用紙に赤いサインペンでびっしり書き付けた達筆な手紙が何枚も挟まっている。
叔父の手書きの投書のようで、偏執的で異様な感じを察する。

* * *



場面が変わり、夢見者は父と母と3人で車に乗っている。
立体駐車場のようなところを走行していると、我々の車に後続する白い車が、突如暴走しはじめる。
急に右へ左へスリップを初め、手のつけられない状態となる。

しまいには立体駐車場の床が崩壊し、白い車は落ちていく。

そして下の階に駐車されている車に激突する。

ガラスが割れる衝撃音が鳴り響く。
その衝撃でさらに下の階の床も崩壊し、またその下の階に停められている車にも衝突する。多層構造の立体駐車場の各階の床が次々と崩れていき、たくさんの車がバラバラとぶつかりながら下へ下へと崩れ落ちていく
階を挟んで垂直型の玉突き事故のような事態だな、と思う。

一方で、夢見者とその家族三名には何の被害も及んでいない。
自分の車の中から、この崩壊の様子を眺めている。

この夢には、とても見事な述語の伸縮がみえる

この夢は三つの異なる場面が連なっている。
それぞれ別々の視覚的イメージを意識の表層へと浮かび上がらせているが、その直下で動いている伸縮のパターンは同じような形を描いている。

見知らぬ土地への目的地変更

まず冒頭、飛行機による「旅行」。

旅行というのは、こちらからあちらへ、もともと結合しているところから分離し、もともと分離しているところへ結合していく動きである。

結合を分離し、分離を結合する。

出発地Δ1 ーβ ーーーーーーー Δ2目的地



出発地Δ1    ーー →β ーー Δ2目的地

上の図式で、βと表記したものが夢見者である。
夢見者βは、もともとΔ1と結合していたが、そこから分離して、Δ2すなわち本当の目的地へと結合しにいく。このΔ2とβはもともとは分離していた。

ところが、夢見者は、当初目論んでいたΔ2目的地に到着することはない。
飛行機が急遽目的地を変更し、出発地Δ1でもなく目的地Δ2でもない第三の未知の場所に、途中で放り出されてしまう

そこは「知らない土地」であり「言葉がわからない」「携帯電話の電波も通じない」。出発地Δ1とも、当初の目的地Δ2とも、分離された状態になっている。

もし、言葉が通じるならば、ここがどこであるかすぐに判明し、つまりここが新たな目的地Δ2'に変容するだろう。またもし電話が通じるならば、出発地Δ1に連絡をして、今後の対応を相談することもできる。この場合、この途中地点は出発地の延長Δ1’になる。

しかし、電話も通じない。
この謎の場所を、出発地の延長にすることもできなければ、新たな目的地にすることもできない。

なんといっても、空港の周囲は「スコールのよう」な大雨で、暗く、「朝なのか夜なのか」もわからない

Δ光 /?/ 闇Δ

Δ朝 /?/ 夜Δ

この極めて基本的な経験的で感覚的な二項対立・分別さえもが、どちらでもあってどちらでもない、どちらか不可得になっている。

経験的な対立二項の「どちらでもなく」

ここで夢見者は、Δ出発地/Δ目的地、Δ朝/夜Δ、といった日常的に当たり前のありとあらゆる分別の二極に対して、そのどちらでもあってどちらでもない状況に励起されている(両極のどちらでもない第三の位置に定まっているわけでもない)

Δ ←β→ Δ
||
Δ ←β→ Δ
||
Δ ←β→ Δ

外国語が通じるでもなく通じないでもなく

ここで夢見者は、同じように飛行機を下された外国人のグループと、英語で会話できることに気づく。

この土地では言葉が通じないが、しかし、同じ宙ぶらりんのβ旅行者同士であれば、不慣れな言語(Δ通じるでもなくΔ通じないでもない、β通じるような通じないような言語)を用いてコミュニケーションをとることができる。

またこの不慣れな言語によるコミュニケーションも精妙で、夢見者は、直接的な表現を「間抜け」だと思い、あえて遠回りするような表現で会話を試みる。「ここはどこですか?」だと直接的すぎて「間抜け」な感じがするので「地図上ではどこにあたりますか?」という言い方にする。

「XはAですか?」式の直接的な表現ではなく、あえて遠回りして、第三の媒介項、この場合は「地図」という概念を挟んでみる。

そしてその会話から、夢見者は自分たちが「ジャマイカ」にいることを知る。夢見者は当初、自分がいる場所を「東南アジアのどこか」と予測していたが、ジャマイカと東南アジアはちょうど地球の裏側だ。

対立する二極の一方にいると思っていたら、本当は真逆の極に居た。

Δジャマイカ  /  東南アジアΔ
||        ||
???? ←夢見者β← ????

地球という球体自体を「マンダラ」だとすれば、一つの極から、真逆の極へ、意味的に時空間を一挙に捻じ曲げて、瞬間移動したようなものである。

Δジャマイカ  /  東南アジアΔ
||        ||
夢見者  / ????

こうしてとにかく、夢見者は、ジャマイカと東南アジアという経験的に対立するΔ二極の一方と、安定的に結合した状態に入ることができる
ジャマイカは、夢見者にとって、仮の目的地Δ2になる。

Δ目的地と結合した夢見者は、多少なりとも振動数を落としてΔ夢見者になることもできる。夢見者は、同じく途中で飛行機を下された旅人のグループと会話を気軽にできるようにもなり、分離と結合の間でどことも結合できずどこも分離できないような状態を脱することができる。とにかくしばらくは、いまいるここを仮の到着地として束の間安住しておこう、と。

* *

さて、こうなると、分離と結合の伸縮が一旦止まる

夢を生み出す心の深みが、引き続き分離と結合の伸縮を継続しようとする場合、別のイメージを手繰り寄せることになる

* *

ここで第二の場面、親族構造の四者関係に転換する。

夢見者の叔父の本や雑誌が収められた倉庫

倉庫のような、シェルターのような、図書館の地下室のような場所に夢見者は、母親と一緒にいる。そこには小ぶりの段ボールに詰め込まれた雑誌や本が置かれている。この雑誌や本は夢見者の父方の叔父の所有物である。

ここにその姿を現さずとも、潜在的に四人の人物が登場している。

「女性である夢見者」「その母」「父」「父の弟」の四者である。

母 =/= 父 =/= 父の弟(夢見者にとっての叔父) 
   ↓ 
     夢見者

この四者は親族関係にある。親族関係を結ぶということは、クロード・レヴィ=ストロースの分析にあるように、まさに対立関係にある二極の間の距離を分離から結合へ結合から分離へと伸縮させつつ、そうした伸縮する二項関係をいくつも編み合わせていくという、マンダラを編む営みである。

いや、親族関係こそ、古来人類が「分離しながらも結合している、結合しながらも分離している」ということを実感を持って経験することができる好例だったのであろうだれとだれを分離して、だれとだれを結合するのか(インセストタブーなど)という精密な分離と結合の規則を立てることができるのは、音声言語のような意味分節システムを安定的に作りつづけることができるのと同じ能力による。

  • 父と母は、もともと分離していたものが結合に転じた二者関係である。

  • 父と父の弟(夢見者にとっての叔父)は、極めて近い異なるが同じ、二即一にして一即二の関係で分離しつつ結合し結合しつつ分離した二者である。

  • 夢見者と父、夢見者と母も極めて近い異なるが同じ、一から二へと分離しながらも、一に結合した二者である。

  • 夢見者と父方の叔父は、異なるものであるが、しかし父を介して結合しているという意味でははっきりと分離しているというわけでもない

  • そして夢見者の母と夢見者の叔父は、夫(夢見者の父)を介して繋がっていはいるが世間的にも実際ほぼ他人であり、分離の度合いは強いだろう。

  • 叔父が家族以外とのコミュニケーショを好まない人で、独身である、というところも、この叔父と父方の実家家族との結合の強さ、近さを表現している。

  • そして、この叔父の本に描かれている「少女」たちの姿が、夢見者本人、つまり叔父さんからみると姪の趣味とぴったり合っている、というのも、この叔父と姪がより近い関係、強く結合しているという様相を呈している。

父 =分離から結合へ= 母
||  

結合から分離へ

||
弟(叔父) =分離しているが結合へ= 夢見者

  • ところがこの叔父と姪(夢見者)の「近さ」は、夢見者の母親からすると、すこし怪訝なものである。

夢見者と、その父と母と、父の弟。
この四者の間には、それぞれより分離が勝つか、より結合が勝つか、またその強さの程度のちがいがあるが、いずれも結合しながら分離し、分離しながら結合し、という、完全に分離しているともいえず完全に結合しているとも言えない分離か結合かどちらか不可得な関係がある

つまり、この四者が関与することで、「分離か結合かどちらか不可得な関係」が四つ(六つ)編まれることになる。

親族マンダラ

「分離か結合かどちらか不可得な関係」は、分けつつ結び、結びつつ分ける、その具体的な動きをイメージさせる述語的様相として夢にあらわれるはずである。

β
β × β
β

夢見者は、叔父のコレクションの書物を喜んで紐解いている。

それに対して、夢見者の母は「怪訝」な声色で「嫌味っぽいこと」をいう。一般的に、配偶者の兄弟というのは元は他人であり、そしておそらくは今でも他人であるのだが、そうはいっても親戚として付き合わざるを得ない、という距離感である。

夢見者は、叔父の言語的意識の代理のような本たちと、違和感なく共鳴、接続するという述語的様相にある。それに対して夢見者の母は、夫の弟(独身)が実家に蓄えた古びた書物と、それを喜ぶ娘のことを怪訝に思い、嫌味を言う。ここにはっきりと分離を際立たせようとする(しかしそうはいっても結合している)述語的様相がうかびあがる。

さて、ここで「ベタついてホコリが付着して、毛玉のように固まった髪の毛のようなもの」が登場する。これは誰の髪の毛だろうか。叔父さんの髪の毛だろうか。いや、そもそも髪の毛かどうかわからない。羊の毛、動物の毛かもしれない。「それがなにであるか」、Δ=Δ分別で限定できない、不可得な項である。こういうβ項は、経験的感覚的に対立するΔ項たちのあいだを、激しく動き回ることができると相場が決まっている。

ペンギン童話風に意密にやさしくアレンジ

この「ベタついてホコリが付着して、毛玉のように固まった髪の毛のようなもの」は、「ベタつく」「付着する」という表現にあるように、結合状態を作り出す述語的様相を体現している。

じっさい、この「ベタついてホコリが付着して、毛玉のように固まった髪の毛のようなもの」は、もともと叔父の本と結合していたところから、夢見者の指、夢見者の身体と過度に結合する。夢見者は「つまんで除けようとするが、指先にいやに絡みついて取れない」という粘度の高い結合型の述語的様相を呈する。

β
β × β
β

このぎゅっと両義的媒介項たちが収縮しつつ、それでいて別々に震えている様相を見事に表現している。このベタつく毛玉は、夢見者、叔父、父、母、の四者のいずれでもあるようなないような四即一を体現する存在者である。

・・・

さらにおもしろいのは、このベタつく毛玉もまた単立項として独存するわけではなく、ペアになる相手先を持っている。それがどうやら叔父の手書きの文字がびっしりと刻まれた何枚もの用紙たちである。この用紙たちは、夢見者がおもしろそうに手に取っていた書物たちのページの間に、たくさん挟まれている。

この挟まれる、という述語的様相、隙間を切り開いて入り込む、という述語的様相は分離と結合を伸縮させる「/」そのものの動き、結合していたところを分け、分かれていたところを結合する動きそのもの、といえよう。

  1. Δ夢見者

  2. Δ叔父

  3. Δ父

  4. Δ母

このΔ四者の関係が、

  1. βベタつく毛玉

  2. β叔父が蓄えた少女趣味の古雑誌

  3. β雑誌に挟み込まれる叔父の手書き文字がびっしりと刻まれた用紙

  4. β今この場には不在の叔父の存在感(いないけれどいる)

という四つのβ、両義的媒介項によって、分離しながらも強く結合するβ収縮の状態に励起されている。


対立関係の分離と結合の伸縮の様相が変化していく

最初のジャマイカで飛行機を下される場面では、さいごには、同じ旅行者仲間たちと会話しながら翌朝に雨が止むのを待つ、という形で、経験的感覚的な意味ある世界の分節が安定した様相が出てくる(何が何であるか、はっきりと言うことができる世界に落ち着いている)。

Δ=/=Δ
||      ||
/   /
||      ||
Δ=/=Δ 

第二番目の叔父の古雑誌が置かれた倉庫では、この「=/=」、分離しつつ結合し、結合しつつ分離する動きそのものにフォーカスしたような様相になる。

=/=
||      ||
/   /
||      ||
=/=

この「=/=」を、具体的な経験的に分けたり結んだりする動きとその動きの主語になるものに託すこともできる。「βベタつく毛玉」や「β雑誌に挟み込まれる叔父の手書き文字がびっしりと刻まれた用紙」、「βいないけれどいる叔父の存在感」「β叔父が蓄えた少女趣味の古雑誌」は、いずれもこの分けたり結んだりする動きとその主語たちである。

β
β × β
β
 

つまり、この夢では、第一の場面でΔ四項関係がふっと広がり、第二の場面でβ四項がぎゅっと凝縮する。

脈動である。

* * *

立体駐車場の崩壊を眺める

さて、第三の場面である。
ダイナミックに崩壊する立体駐車場と、そのダイナミックに激しい動きの様相を、安全に眺めている夢見者たちである。

まず、夢見者は、父と、母と、車に乗っている。
父と母と夢見者。先ほどの第二の場面にいた(父は潜在であるが)ひとたちのうち三名が、一台の車の中にまとまっている。

先ほどの倉庫の場面では、夢見者と母親はいるが、父親と叔父は潜在的にいるけれどもいまここにはいない、という様相であった。

かわって、いまこの立体駐車場では、父親は姿を現しており、叔父は引き続き「いるけれどもいない」潜在状態にある。

いずれにしても、感覚的には三名であるが、そこに潜在的に四人目の叔父も存在している。

つまり、

β
β × β
(β)
 

これが、一台の車の中に、ぎゅっとまとまって付かず離れずに並んでいるのである。

さて、この状態で、夢見者たちが乗り込んだ乗用車の周囲はたいへんなことになる。立体駐車場のフロアが次々と崩壊し、「階を挟んで垂直型の玉突き事故のような事態」になる。

自動車が衝突して玉突きを起こすという事態は(残念ながら)日常的にもよくあることで、経験的感覚的に決して珍しいことではない。

しかし、立体駐車場のフロアが抜けて、上から下へ車が落ちていってぶつかる、というのはなかなか経験できることではない。上/下、前/後、水平/垂直、といった感覚的な分別が、ここではぐにゃりと曲がっている。

立体駐車場というのは、かっちりと固まった四角形のパターンを積み重ねたものであり、ちょうど

Δ Δ
Δ Δ

を構成単位としていくつもならべたようなものである。
これはまさに、表層の分別心の分節体系そのものの象徴といった感じがする。

ところが、いまやそれが、崩壊する。単に崩れ去って積もって止まっているのではない。いままさに、ぐにゃぐにゃと曲りながら崩れつつある、崩れようとしている、動きの只中にある。

現世的な経験的な感覚的な分別が、分かれつつも激しく動き続ける。
まさにβ四項の伸縮自在な分離と結合の動きから、しだいにΔたちが安定的に収まるポジションが切り出されつつあるような様相である。

←β→
↑  ↑
β   β
↓  ↓
←β→

夢見者たち四即一のβは、この様相を、経験的に日常の世界で見ることができるかっちりと固まったグリッド構造の代表のような立体駐車場がぐにゃぐにゃと動いていく様を、「何の被害も」うけずに、観察していることができる。

というわけで、この夢では、

Δ=/=Δ
||      ||
/   /
||      ||
Δ=/=Δ 



β
β × β
β
 



←β→
↑    ↑
β     β
↓    ↓
←β→

という分離と結合の伸縮する様相の変容が展開されている。

ここまでくればあとは、下記の( )に記した位置に、ありとあらゆるΔたちの組み合わせを自在に配置できるようになる

( )←β→( )
↑    ↑
β     β
↓    ↓
( )←β→( )

ここに自在に「Δ1はΔ2である」、「AはXである」ということをさまざまに発生させ、言い換えをつづけることができる、柔軟な分別心が生きるる余地が開かれるのである

  • 言語によるコミュニケーション

  • 親族関係

  • 爆発的なエネルギーを閉じ込めた自動車を立体駐車場に並べていく

どれも私たちの日常にありふれた、はっきりと安定した分節体系であるが、それらのモードをほんの少し変えれば、たちまにちしてそこには分別不可得なβ脈動の世界、心の深層の脈動の動的象徴として誂え向きの述語的様相が出てくる。見知らぬ外国で言語によるコミュニケーションを試みたり、親族関係における親密さと疎遠さの距離感を伸縮させてみたり、あるいは行儀良く走行しているべきである自動車が制御不能に暴走し立体駐車場を破壊するほど激しく動き回る。

私たちの心は、その深層は、自我に対する「自己」は、どうやらこのように日常の表層的感覚的経験的な対立関係を伸び縮みさせることで、その深層の消息を意識の表層に伝えようとしているかのようである。

人間の心とは不思議でおもしろいものである。


関連記事


<<広告宣伝>>

夢分析パーソナルセッションのご案内

この文章を書いている私は本務では、企業組織のみなさんが自分たちの組織のコミュニケーションの課題を言語化し、よりよいコミュニケーションの形を自分たちで思考できるようになるためのコーチングなどを行っています。
夢分析も似たようなもので、私たちひとりひとりの「自分自身の無意識とのコミュニケーション」のスタイルを自分で探究・開発することができる方法になります

ということで、自分の夢を分析してみたい、分析の方法を学びたい、それによって自分自身の「自己」とのコミュニケーションの方法を探りたい、という方を対象として、本業と同様の形式で個人向けコーチングのコース(オンライン式)を開講します。

・1時間の個人セッション×3回コース(税込30,000円)
・1時間の個人セッション×5回コース(税込50,000円)
 
・経営者、組織リーダー向け伴走コース(4ヶ月110万円(税込)からお見積り)

→ZoomあるいはMeetを使ったオンラインで開催。
→開催日時スケジュールは個別にご相談。
→3回または5回を超えたセッション継続も歓迎(セッション一回あたりの代金は税込10,000円)

「自分の夢をway-finding博士に分析してもらいたい!」
「自分で自分の夢も分析できるように訓練を受けたい!」
無意識からのメッセージ(夢)と向き合い、ストレスフルな意思決定の連鎖を軽やかに乗り切りたい」という方がいらっしゃいましたら、お気軽に門を叩いてみてください。

筆者らが開発している「動的マンダラ伸縮モデル(β-Δモデル)」を夢分析用にアレンジした分析シートを活用し、意識が自覚的に知らずとも無意識は知っていて、夢を通じてその消息を意識へと知らせつつある課題を明らかにします。もちろん、ご自身でご自身の夢を分析できるようになる方法も、惜しみなく伝授します。

お申し込み、お問い合わせは下記メールアドレスにお願いします。

info.wayfin.office@gmail.com

夢分析セッション 連絡先メールアドレス

・上記メールアドレスをコピーしてお使いください。
・下記の内容をメールに記載してください。
 お名前(お問い合わせ時にはハンドルネームでも結構です)
 夢分析セッション希望!と書いていただければOKです。
 ご希望のセッション開始時期(近日中とか、半年後から、とか)
・詳細についてはこちらから折り返してご連絡させていただきます。
・メールがうまく届かない場合があります。数日経ってこちらから返信がない場合、再度ご連絡をお願いします。



いいなと思ったら応援しよう!

way_finding 最後まで読んでいただき、ありがとうございます。 いただいたサポートは、次なる読書のため、文献の購入にあてさせていただきます。