「越境せざるを得ない」の世界を新たに分断しない究極の越境を求めて(越境 Advent Calendar 2025|25日目)
おつかれさまです。W2ナニカソンです!
この記事は【越境 Advent Calendar 2025】の25日目です
強い共鳴と、強い違和感
この記事を書くか書かないか、迷いました。これまで越境という言葉、取り組みに接してきて、強い共鳴と、強い違和感が同時にあります。この正体はいったい何なのだろう。
「HOME」という言葉
最初のきっかけとして気づきやすいのは「HOME」という言葉への違和感です。これについては、すでに何回か言及したところです。
たしかにこの違和感は、大事です。今回語ろうとしていることも、この違和感にもつながる内容ではあります。だけど言い足りないというか、根本的に「それだけではない」「それだけでは終わらない」のです。
たどり着いた仮説
越境という、外側の行動は、私が実感としてとらえている越境と、今越境という分野で語られている世界はほぼ同じであり、だからこそ本を読みなおすまなびは、再整理する手助けと、私の外側にある多くの他者との知見を、建設的につなぎ合わせてくれるものです。
ですけれども、そのつなぎ合わせをしていくうちに、
大多数(マジョリティ)の文脈において語られる越境は、明らかに私とは違う視点でその事象を綴り、語り続けているのではないか?
という仮説にたどり着きました。
念のためお断りしておきますと、私は、大学図書館に収蔵されているレベルの越境分野の研究の論文であるとか、それこそ海外の知見であるとか、そういったところまで幅広く知り尽くしている人間ではありません。だから仮説という言葉を使うのも本当はおこがましいし、一般的な世の言葉で言えば、若干の揶揄も込めて「お気持ち」と語られてしまうものに位置づけは近い仮説かもしれません。
ただ、他方で、この仮説が少なくとも、研究者でも何でもないごく一般の市井の人間、しかも多少は本好きで関心がないわけでもないくらいの人間の、書籍で普通に出会える越境の知見、という部分に限って切り取れば、まったくの妄想の仮説とも言い難いかもしれない、とも感じています。
ましてや、もしこの感覚が、一種の、広義の(?)マイノリティ性のようなものから起こるものであれば、正当性のある裏付けを探すことよりも、声に出してみることには一定の意味があるようにも思います。
しおりをしばし挟んだ『越境人材』
いきなり、仮説という名の「お気持ち」的なことを述べてしまったので、なぜそう考えるに至ったかを、もう少し、拾いなおしてみたいと思います。
10月18日に人事の羅針盤2025というイベントにスポンサー出展の機会をいただきました。それより前にも、イベントなどで越境分野のものには参加させていただいておりましたが、よりじっくり越境の分野に触れるきっかけになりました。
あまり間を置かずに、このとき会場で紹介されていた『越境人材』も購入しました。
ただ、じつはこの本はまだ読み途中です。読んでいて、手が止まりました。
手を止めさせたフレーズ
異なる環境に身を置くことは、自分がマイノリティになるということでもあります。
ターゲットに伝えるための文章としては、適切な選択なのだろうと思います。でも同時に、私にはとても残酷な文章にも聞こえました。
今いる場所でマジョリティである、という感覚は、マジョリティしか持たないものです。
わかることもあります
「異なる環境に身を置く=マイノリティになる」という言葉は、私にとってはほとんどしっくりこないのです。
たとえばわかりやすい例えとして、別の地域に住んでみるとか、海外で生活してみるとかしたら、おそらく私は無意識に受けていた「東京」「日本」のHOMEとしての側面に今以上に気づくのかもしれません。それはそうでしょう。
もっと突飛に常識を度外視して思考実験すれば、自分が明日突然それこそ虎になったら、人間社会自体のHOMEだった側面に気づく、のようなことすらあり得るかもしれませんね。
でもね、それでも。この文章の構造には引っ掛かります。
この本のターゲットは私じゃない
異なる環境に身を置くことは、自分がマイノリティになるということでもあります。
この一文に遭遇した瞬間に、まるでナイフか銃口を喉元に突き付けられたみたいに、一瞬でわかってしまいました。
この本は私にとってヒントになる良書であり、十分価値はあるけれど、私はこの本のターゲットではないのだ、私の姿はこの本の背後からは、おそらく見えていないのだ、と。
まさにその、見えていないということによって、無意識にナイフが突きつけられているのだと。
今いる場をHOMEだと例え無意識で実感してきた人
マジョリティであることを「当たり前」として生きてきた人
自分が「多数派のOS」で世界を解釈していることに気づいていない人
にとって、「マイノリティになる」という言葉は、ただの自由な選択肢の一つでしかない。選んでもいいし、選ばないこともできる。
一方で、もともと、既存の場所において、根本的にマジョリティの実感を持っていない人がいます。
越境しなくても、常に感覚として、マイノリティである
どこにいても、異物感がある
越境は「新しい挑戦」ではなく、「いつもの状態の延長」である
少なくとも、私にとっては、そういう現実が確かにあります。
これはいい悪いの問題ではないと捉えています。もっと言えば、そもそもマジョリティというのは一種の幻想で、人間は最初から全員がマイノリティとして生まれてきているのだろう、のような感覚で、どこにいても生きています。
そういう人にとって、越境は必然であり、なんなら最初から越境スタートなのです。
そこに、
別にしなくてもいいんだけど
自分が選んで
マイノリティに「体験入学」します
という文脈で語られると、自分にとっての、もっとも身近な、ただそこにいて見つめるしかない越境の現実が、もっとも遠い言葉で語られていることの遠さに、くらくらしてしまいます。
それでよい、無視もできない
もちろん、それはそれでよいのです。この本が私のために書かれている必要はまったくありません。
ただ、他方で私は昔から「越境」という言葉を自分たちの行動と突き合わせて、ある側面において自分事のとても強い関心事として受け止めてきました。越境という言葉に、知らない言葉と反応する人よりも、私はこの分野に親しみや近さをむしろ感じていたはずだと思います。
だから、純粋にこのギャップは無視できないのです。怒りとか寂しさとかそういうことですらなく、この背後にあるものをしっかり言語化して、見てみたいと思いました。
続きは読みますが、手を止めています
この続きを読まないわけではありません。きっとこの読書体験から、これからも多くのものに出会うでしょう。この立ち止まった感覚自体も、ひとつの邂逅なのだと思います。
なによりも、ここで立ち止まらずに進めてしまう人も多いのだろうな、と感じました。でも私は、この違和感を無視して先に進むことができませんでした。
読み終えてから書くべきなのか。でも、読み終えたときには、この感覚はもう戻ってこない気がしました。
だから、途中でしおりを挟んで、今書くことにしました。
これは、出会えてよかった本です
誤解のないように、あらためて大事なことを伝えておきます。
この本が背景にどんな理由があっても、ターゲットをこの言葉が届く方たちに定め、そこに向けて伝えたい言葉をつづること自体は、それはそれで正当で、純粋で、ステキなことなのです。
私がたまたま遭遇して、結果的に生まれた構造の残酷性に言及することは、もしかしたら著者の方や、この本をとてもステキな体験として受け止めている方にとって、逆に攻撃的に映るリスクはあるかもしれません。
あるいは、知性的に私の言いたいことと、わけて最初から読み取ってくれる方もたくさんいるかもしれませんが、それでもちくりと棘が刺さってしまう可能性はあります。
私はこの本に出合ってよかったと思っています。この構造に気づくきっかけを与えてくれたからです。
そもそも読書とは、あるいは他者の表明したなにかに触れることは、自分がよい気持ちになるためのものではありません。
いや違うな、それも断じすぎで、もちろんその目的のために、幸せになるための読書をする時間も大事です。
だけどそれだけではない、と私は考えています。
この言及が、この本の著者の方や、愛読者にとって一瞬ザラッとしたものを届けるとしても、全員ではないとしてもその何割かは、大事なざらつきの一つとして、それぞれに受け止めていただけるのではないか、とも考えています。
だって、越境というのは、とらえ方や意味付けの一部は異なるとしても、まさにそのざらつきに出会うための旅の筈だから。
「せざるを得ない」越境とは何なのか
ひょっとしたら、多くの方にとっての越境は、
新しい環境に行くこと
異文化に触れること
自分のOSが揺さぶられること
という、一種のオプションイベントなのかもしれません。
でも私にとって越境は、
どこにいても発生する
認知の構造そのものに、最初から組み込まれている
常に翻訳を求められる
という存在の状態に近いように感じています。
だから、越境論の「イベントとしての越境」は、私からみた越境の魅力を語る言葉にはなっていないのです。
そこで、私にとっての越境の価値、なにがどうしようもなく魅力的なのかを、あえて吐き出してみたいと思います。
ざらつきを覚悟の上でお進みください
私にとってはこれは純粋な価値への、越境のここが好き、というまさに「お気持ち」であり、突き詰めてみればどなたへの攻撃でもなくポジティブな悟りのようなものです。
でも、私はマイノリティ的な立場を前提に敷いてしまったときに、純粋な価値の切り取りや、その視点では前向きな発言すら、一種の棘になってしまう構造的な問題があることを知っています。
だから、私はこの説明によってどなたを傷つけたい意思もないことは伝えられますが、結果として読み手がなにかしらのざらつきを、この先も感じないことは保証できません。
ですので、この先に逆に耳障りな言葉が出てきても、これは個人というよりも構造について語っている一種の健全な衝突なのだと受け止める覚悟がある方だけ、読んでいただけたら嬉しいと思います。
それでも、リスクを取って語る理由
どうしてそこまでして、一石を投じるのかよくわからない、という方もいらっしゃることでしょう。
「覚悟がないなら読まなくていいよ」などと割り切っているなら、なぜ、わざわざ?」
と思うかもしれません。
私がこれを語りたいのは、それでも私が、本当は一人というわけではないということを知っているからだと思います。
一人ではないというのは、たとえば直接この考えに共感し、直接力強く私の手を取って「そうですよね! わかります!」と答えてくれる人がバイネームで目の前にいる、といった意味ではありません。
確率論、過去の歴史、残されてきた先人の言葉、自然や宇宙のありようを見れば、私一人のわけがないことはわかっています。
世界は広く、時代は続きます。平安の和歌の一つが、現代の孤独な誰かの心を救うように、この言葉が必要な人は、今この瞬間、私が一生出会うことのない誰かだったり、あるいは何百年後、何千年後の誰かだったり、宇宙の果ての誰かだったりするかもしれません。
私にとって越境の価値
まさに、私にとって越境の価値は、
今いる場所で感じているマイノリティ性が、世界のすべてではないと、何度でも気づき直せるところ
にあります。
ある場において、ある集団において、その場でマイノリティとなってしまった存在が感じる違和感の多くは、実のところ、立場の差によって生じる構造的なものです。
ほとんどのマジョリティは、それぞれの哲学において、一生懸命、善良に生きているだけです。その結果としてマイノリティが生きづらくなる側面が生まれることは確かにありますが、それもまた、多くの場合は個人の悪意ではなく、構造の問題として起きています。
同時に、悪意なく形成された「内輪の空気」や「村社会的な力学」によって、結果的に傷つけられてしまう現実もまた、否定できません。その痛みを、なかったことにすることはできない。
声を上げていく必要はあります。生存のために、切実に必要なことです。では、個人を責めることなく、かつ自分を守る形で声を上げる方法を見つけるにはどうすればよいのか。
私にとって、その一つの答えが、その場の外側から世界を見つめ直すことでした。
つまり、私にとっての越境の価値は、
世界の階層を上げることで得られる一種の健やかさ、しなやかさ
なのだと思います。
「今・ここ」での常識も、評価も、ただのローカルルールにすぎないと知ること。
その瞬間に、自分のマイノリティ性は「欠陥」ではなくなり、相手の「悪意のない攻撃性」は絶対性を失い、小さな世界で構造的に起きている、ただそれだけのこと、になります。
そこでは、自分を狭い了見で否定する声に過剰に反応しなくてもいいし、自分を守るために相手を傷つける必要すらありません。
「せざるを得ない」越境
私は、越境という考え方自体には、最初から強く共鳴しています。
異文化の衝突
翻訳の必要性
多様なOSの共存
「それを、日常においてはまだ意識していない方」が、色々な壁を越えて出会うきっかけをつくるアプローチとしての越境のありようも、私が見ている景色とは一見ものすごく遠いけれど、同じ地平にはつながっています。
でも同時に、
マジョリティ前提
越境が「挑戦」
マイノリティ経験が「まなび」に回収される
その視点「のみ」で語られる状況には、同じだけ強い違和感があります。
なぜなら、私は越境を選んでいるのではなく、せざるを得ないからです。
伝えるために失われるもの
正直に言えば、越境してHOMEに戻る価値を当然のこととして語られ続けると、「ずいぶんのんきな世界の話だな」と感じてしまう瞬間もあります。
でも、それも違うのです。そのようにわかりやすく語ることを選んでいるだけで、さらに詳細に知ってゆけば、彼らには彼らの一人ひとり枠組みがあり、それは一律ではなく、ひょっとしたらまだ自覚もされず、言語化されていない違和感や痛みがあるかもしれないのです。
これは、何かを伝える上でわかりやすさ、滑らかさと引き換えに失われる部分ではあるので、それこそ本として編集された文章は、どうしたってそうなる宿命を持っています。それでも、まず届けなくてはというあえての選択かもしれません。
だけど。その伝わりやすいものが広まってゆく結果として。
逆に、一時的に「せざるを得ない」越境をする存在、が見えづらくなってしまいます。最近だとこういう事象を「透明化」などと表現することも多いようですが、この言葉もやや難しそうな言葉で取り扱い注意ではあります。
ただ、やはりそれに近いことが起きるのでは、という違和感があるのです。
新たな分断を生まない越境を求めて
私が渇望しているのは、「越境せざるを得ない人」と「越境を選ぶ人」のあいだに、新たな分断を生まない越境が語られる地平です。その重なり合うところが、「世界の広さ」という視点なのではないかと感じています。
世界は広い
あなたの世界も、私の世界も、その一部にすぎない
越境が、越境と呼ばれなくなる場所。私は、そこを見たいと思っています。
少しだけ、余談のような、そうではないような
ここまで書いてきたことを、私は理論や概念よりも先に、ひとつの物語として知っていた気がします。
ひかわきょうこ氏の『彼方から』という作品です。
カテゴリーとして異世界転移の物語、と言ってしまえばそれまでなのですが、主人公は、異世界に行ったから特別になるわけでも、こちら側の常識で世界を変えるわけでもない。
ただ、世界が広い、私は私である、という事実の中に置かれる。
その世界では、誰かが絶対的になることはなく、誰かが一方的に翻訳や負担を背負い続けることもない。
強い/弱い
こちら/あちら
普通/異端
そうした区別が、上位の階層から、あるいはとらえ方によってはむしろ根元から、自然に溶けていく。
あれは、壮大な越境の冒険の末に、越境が越境でなくなった世界の物語だったのかもしれないと、今になって思います。
究極の越境とは、
越境せざるを得ない人
越境を選ぶ人
どちらも同じ地平に置いてしまうこと。
『彼方から』には、その完成形に近い風景が描かれていました。
(W2ナニカソン・ワクワク魔人S)

