小説『浸蝕』|第2章:悪臭
あらすじ
鳴り響くスマホ、日常に溢れるノイズ、
心を削る怒号。
閉ざされた職場環境の中で、
世間に蔓延る搾取の数々。
徐々に自分を見失っていく恐怖を、
身体を侵食する「緑青錆」として
ビジュアル化した、
息もつかせぬサスペンス・ホラー。
人はいったい何を見ているのか。
社会からの「孤立」の先にある、
痛烈な気づきを描く全6章。
登場人物
葵(あおい):
デイサービスで働く介護職員。
職場での理不尽な怒号に耐え続ける中、
身体に「奇妙な異変」が起き始める。
阿久津(あくつ):
葵の上司。
執拗な圧迫と怒号で周囲を搾取する男。
彼の長く不潔な爪の隙間には、
澱んだ真緑色の汚れが見える。
カナタ(かなた):
葵の同僚。
阿久津の横暴に怯えながらも
淡々と業務をこなすが、
日に日に狂っていく葵の様子を気にかけている。
⚠️ ご覧いただくにあたっての注意
※本作はすべて無料でご覧いただけますが、
一部に身体の変容やグロテスクな描写、
強い精神的ストレスに関する表現が
含まれています。苦手な方はご注意ください。
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第2章:悪臭
テレビを見ている。
大好きだったアニメだ。
主人公の霊能力者が、
鮮やかに悪霊を退治していく。
その光景に、
テレビの前で釘付けになっていた。
これを見ている間だけは、
どこか自分も強くなれた気がしたからだ。
――カチリ。
突然、背後から伸びてきた黒い大きな影が、
無慈悲にチャンネルを切り替えた。
画面には、
興味もない退屈なニュース映像が流れる。
胸の中に、行き場のない苛立ちが湧き上がる。
それを隠せないでいると、
背後から不意に何かが飛んできて、
首筋に鋭く当たった。
熱い――。
ジュッと皮膚が焼けるような激痛。
火のついたタバコだ。
熱さに身をよじる間もなく、
その巨大な影は、
こちらの髪の毛を容赦なく掴み、
床の上を引きずり回し始めた。
抵抗するが力では勝てない。
その瞬間、
テレビの画面が突然激しく乱れ、
ザーーーッという鼓膜を裂くような
砂嵐の轟音が鳴り響いた。
白黒のノイズが吹き荒れる画面の奥から、
うじゃうじゃと、
生き物のような緑青の錆が
津波のように湧き出してくる。
うごめく影は、
その画面から噴き出る緑青の錆に、
こちらの顔を無理やり押し当てようとする。
窒息しそうな錆の臭いと、
必死の足掻き……。
次の瞬間、
影は再びこちらの髪の毛を乱暴に掴むと、
床の上を引きずり回し始めた。
床に擦れる自分の足元と、
抜け落ちていく髪の毛。
ぶちぶち、ぶちぶちと、
頭皮が引きちぎられるような不快な音と共に、
脳天を突き抜けるような激痛が走った――。
――ピピピピ、ピピピピ。
脳を直接引っ掻くような、不快な音。
パチリと目を開ける。
視界に入ってきたのは、
見慣れた職場のどんよりとした汚い天井だった。
午前中の入浴介助で疲れ切ってしまったのか、
いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
「うっ……」
酷い頭痛だ。
こめかみの奥が、
ズキズキと脈打つように痛む。
夢の中で引きずり回された頭皮の痛みが、
そのまま現実の頭痛へと
流れ込んできたかのようだった。
「薬、あったかな……」
私物のカバンへ手を伸ばそうとした、
その時だった。
「おいー! 休憩終わるぞー」
ズキズキと痛む頭の芯へ、
阿久津の怒号が廊下から容赦なく割り込んできた。
「うるさいなー……」
つい、声が漏れる。
阿久津の気配に急かされながら、
頭痛薬を取り出そうと
カバンの中に手を差し伸べた、その瞬間。
息が止まった。
カバンの暗がりに差し込んだ、自分の指先。
親指と人差し指の爪の隙間に、
あの淀んだ緑青色の汚れが、
べっとりと挟まっていた。
「気持ち悪い……」
さっきの入浴介助が終わったあと、
石鹸をつけて念入りに洗い流したはずだった。
なのに、先ほどより汚れているように感じる。
「おい! いつまで休んでんだっつーの!
トロいんだよ、お前は!」
しびれを切らした阿久津の声が、
再び廊下から響く。
「はーい……」
うるさい。
とりあえず、
部屋を後にして阿久津のいるフロアに向かう。
その後、
頭痛に耐えながら、
午後のレクリエーションを終えて、
利用者を再び一軒一軒家に送り届けた。
施設に車がつく頃には、
さらにどんよりとした雲と空気が立ち込めている。
フロアに集合すると、
誰も聞いていないであろう
一日の申し送りを済ませ、
帰り支度を済ませる。
「今日、一日調子悪そうだったけど。大丈夫?」
心配したカナタが後ろから呼びかけてきた。
「うん……。ちょっと疲れてるだけ」
「そっか……。そういえば……」
カナタが何か話そうとしたのを途中で遮り、
阿久津が割り込んできた。
「お疲れー。今日もクソ忙しかったな。
事務所にはよー、
今日休んだやつのせいで大変だったって、
俺からガツンと言っといたからな!」
「あ、はい……ありがとうございます」
カナタと目が合う。
「今から、パチンコ行くんだけど、
お前らも来いよ。また乗り打ちしようぜ」
阿久津は、歯をむき出しにして
ニコニコと薄気味悪い目で誘ってきた。
「あ……。すいません。
今日、母親の病院いかなきゃならないんです」
カナタが、申し訳なさそうに謝りだした。
「いいからこいよ。
今日は勝てる予感がするんだからさ。
勝ったら奢ってやるから来いって」
阿久津はカナタをしつこく誘い出す。
「いえ……。ほんと……。
母親の看病しなきゃならないんで……
また今度。ほんとすいません」
「なんだよ。つれねーな。葵。お前は来るよな?」
「あ……今日、頭痛くて……」
「聞こえねーなー。来るよな?」
「あ……はい……」
半ば脅しのような誘いに断れず、
阿久津についていくことになった。
カナタは、
ごめんとばかりにこちらに目配せしてきた。
こういう時、いつもそうだ。
カナタはずるい。
それから、こちらの体調もお構いなしに、
半ば強引に阿久津の車に乗せられた。
車の中はごちゃごちゃと物が散乱していた。
ジャンクフードの袋や食べかす。
飲みかけのペットボトル。
そして、タバコの吸い殻が
パンパンに詰まった灰皿。
床には灰が溜まり、
足を踏み入れただけで埃が舞う。
強烈な臭いに、むせ返りそうになった。
最悪だ……。
よくこんな状態で乗っていられるな、と思う。
酷い頭痛と、
阿久津の生活感が漂う車内の悪臭に
吐き気をもよおしながら、
近くのパチンコ屋へと連れていかれた。
店に入るやいなや、
阿久津は子供のように目を輝かせて、
お気に入りの台へと進んでいく。
パチンコ店のけたたましい音。
頭が割れそうだ。
ふらふらと通路を通ると、
イライラして台を叩く老人。
その隣で気まずそうに大当りしている中年男性。
スマホの画面をじっと見つめ、
無表情で玉を飛ばし続ける若者。
そして、マニュアル通りの笑顔を浮かべる店員。
「早く、帰りたい……」
しかし、何か打っていないと、
また阿久津にどやされるのは目に見えている。
仕方なく、
目に留まった黄色の筐体の前に腰かけて、
最低限の音量で遊戯を始めた。
一時間ほどして、
望んでもいないのに座った台が
順調に当たりを始めてしまった。
まばゆい極彩色が、幾度となく発光を繰り返す。
眩しい。頭が痛い。
すると、阿久津が不機嫌そうに、
隣の台にドカンと腰かけてきた。
聞いてもいないのに耳元に口を寄せ、
大声でしゃべりだす。
「全然あたんねーよ。この店マジでクソだわ」
その傲慢な態度と、
タバコと酒で焼けた声が、脳をつんざく。
「お前、順調そうじゃん。
俺もお前の隣で当ててやるよ」
そう耳元で大声を出し言い放つと、阿久津は、
こちらがせっかく積み上げた当たり玉を、
当たり前のように自分の台へと流し込んでいった。
「二人とも当たったら、今日焼肉なー」
歯を剥き出しにしながら、悪びれもせず、
どんどんと人の当たり玉を流していく。
「早く、帰りたい……」
ふと、レバーを握る阿久津の手に目が向いた。
やはり、気のせいではなかった。
阿久津の爪の隙間に、
あの緑青色の錆のような汚れが、
びっしりと付着している。
「気持ち悪い……
もしかして、こいつから移されたのか?
なんかの病気……?」
急に、気味の悪い不安が胸の中で反芻する。
「早く……ここから出たい……」
それから二時間ほど阿久津に捕まり、
結局、せっかく積み上げておいた当たり玉を、
阿久津はすべて使い切った。
「なんで俺だけ出ねーんだよ。
てか、結局負けちまったじゃねーかよ。
葵、おめーもっと頑張れよ」
当たり玉を使い切っただけでなく、
自分が負けた腹いせをこちらにし始めていた。
「あー。つまんねー。
マジこんな店で二度と打つかよ。
さっさと潰れろ!」
店の外へ出るなり、大声で叫ぶ阿久津。
外はもう真っ暗だった。
「今日、二人とも負けたから焼肉なしなー。
とりあえずよ、酒はあるから今から家来いよ」
いつものように、
半ば強引に自分の家へ誘ってくる。
しかし、頭痛に加えて吐き気もあり、
もう限界だった。
「いや……すいません。頭痛くて……」
「いいじゃんいいじゃん。また家に寄ってけよ。
もうおせーし、明日も職場に送ってやるから
家で飲もうぜ」
「いや……まだバスがギリギリあるんで……。
本当に頭痛が酷くて……すいません」
「あー。クソつまんねーなお前。
もういいよ。帰れ帰れ」
「お疲れさまでした」
やっと、阿久津から解放された。
酷い一日だ。
いや、今に始まったことじゃないか。
もう何度も、こんなことがあった。
そう自分に言い聞かせながら、
バス停に向かって歩き出した――。
▶ 次の話へ
あとがき
ご覧いただき本当にありがとうございました。
鳴り響くスマホの音、心を削る怒号――。
作中で描いた閉ざされた職場の空気感は、
僕自身の体験や、
現代社会の片隅でいまも起きている
「日常の搾取」をベースにしています。
誰にも頼れず「孤立」していく恐怖を、
緑青錆という形で表現した本作ですが、
読み終えた皆様のなかに、
何か「痛烈な気づき」のようなものが残れば
これ以上の喜びはありません。
【読者の皆様へお願い】
「おもしろかった」「ゾクッとした」など、
一言でも感想をコメントで教えていただけると
本当に嬉しいです。
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田端うつ郎
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本作の全六章をまとめたリンク集です。
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一気読みしたい方はこちらから!
小説「浸蝕」今後の展開
第1章:爪
第2章:悪臭(本記事)
第3章:隙間(2026.8.1更新予定)
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最後まで、ご清覧いただき、
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