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小説『ドリップアウト ―砕かれた人生に宿る一滴―』

粉々に砕かれた人生でも、その一滴は踊る。


【あらすじ】

完璧主義、イジメ、偽り。そして、二度のうつ病。
僕の人生は音を立てて粉々に砕け散った。
呼吸の仕方も忘れるほど、分厚く、
乾いた壁に閉じ込められた日々。
その暗闇の先で見つけた「踊る一滴」とは。

まるで、珈琲ができるまでのような人生の物語。
(全10章+エピローグ:約32,000文字の中編私小説)

中編作品ですので、
お好きなコーヒーを片手に、
ゆっくりと時間をかけてお読みいただければ幸いです。


【登場人物】

  • 主人公:一ノ瀬純 

  • 友人:広瀬徹

  • カフェ ヴィヴィアンのマスター:堀隆文


【読者の皆様へ】

本作品は「note創作大賞2026(4/8〜7/8)」への応募作です。
本来、後半部分は有料で公開しておりましたが、
選考期間終了まで無料で公開することにいたします。

一人でも多くの方に、この物語が届くことを願っています。


※この作品は、筆者の実体験をベースにした、
セミフィクションの私小説です。

一部、プライバシーや物語の構成上、
名称の変更や脚色を加えていますが、
綴られている感情の多くは
僕の身に起きた真実に基づいています。




第一章:カッティング


-34歳-

二〇二二年
一ノ瀬純。独身。大手メーカーの支店長。
そして、明日は誕生日。
「自分へのご褒美」という名目で、
今夜は自分を甘やかすことにした。
ずっと気になっていた、
都内でも指折りの高級レストランに来ている。

前菜を口いっぱいに頬張り、
エビとマッシュルームのアヒージョを食す。
熱せられたオイルの中で、
ガーリックがほんのり香る。

マッシュルームを口に含んだ。

…味が、しない。

まるで束になった輪ゴムを噛んでいるみたいだ。

「ふふっ…」

思わず笑いが漏れた。

高いからって、美味しいとは限らないんだな…。

「店で一番高い赤ワインをお願いします」

店員を呼び、淡々と告げる。
店員が手慣れた様子で銘柄や
ヴィンテージの説明を添えてくれるが、
その名前すら、今の僕の耳をすり抜けていった。

ただ、グラスに注がれる液体を一点に見つめ、
店員が去ると同時に、それも数秒で飲み干した。

血のような色が、空のグラスに虚しく残った。

メインは奮発して牛フィレのステーキだ。
待つ間、目の前に並べられたカトラリーを
じっと見つめていた。
その冷たい塊が、スパンコールのように
グラグラと輝き、視界の端で火花を散らす。



一点を見つめていると、
周囲の客の顔が溶けて消えていくようだった。


ふと、我に返ると、
いつの間にかステーキが目の前に運ばれていた。
味も分からぬまま頬張り、
ものの数秒で胃に流し込む。

隣の席からカチャカチャと
ナイフと皿がこすれる嫌な音が響いてきた。

耳障りだな。力みすぎなんだよ。
それくらいスマートにできるようになってから、
こういう店に来ればいいのに…。

苛立ちで指先が震えた。自分の心の狭さを、
口にかすかに残る牛の匂いとワインの苦味で
無理やり塗りつぶす。

次に届いたのは、デザートのティラミスと、
大好きなコーヒー。それらを交互に口へ運ぶ。
飲み終えたコーヒーの濁りがカップの底で
足掻いている。


僕はそれを眺め、ただじっと、
逃げ場を失っていくさまを見つめる。


……


余韻に浸っていたのか…、
気づけばしばらくの間、爪をいじっていた。

さっさと会計を済ませて
逃げるように店を後にする。

…………

帰りの電車は、なぜか混んでいた。
今日は、一分一秒も無駄にしたくない。
カバンを両手で抱えながら
押し込まれるようにして、
窮屈な箱の中に何とか収まり、扉が閉まる。
入口の窓に映る縮こまった自分の姿を
見ているうちに…



自分と目が合い、思わず目を背けて我に返った。
気づけば、降りる駅だ。

………

家に帰ると僕を待っていたのは、
寂しく散らかった狭い間取りと静寂…

リビングの50インチテレビに、
お気に入りのミュージカル映画を映し出す。
画面の中では、
極彩色の衣装に覆われた踊り子たちが、
軽やかなステップで人生の美しさや希望を
歌い上げている。
僕はそれを眺めながら、
冷蔵庫にあった最後のビールを煽った。

久々に観るミュージカルだからか、
酔っているからか、
今の僕にはギラギラとボヤけて
上手く映像を直視できない。

歌声が大きく響く。ダンスがグルグルと弾ける。

画面の中が賑やかになればなるほど、


僕の座るソファの周りだけが、

ゆっくりと床に沈んでゆく…


……


気づくと、手に握ったチャンネルを見つめたまま、
映画はいつの間にか終わっていた。

「久々の映画は、集中できないな…」


………


最後に、いつもはシャワーで済ませるけれど、
今夜は特別に湯船を張った。
贅沢な一日の締めくくり。
たっぷりのお湯に肩まで浸かり、目を閉じる。

「最高の人生か…」

先ほどの映画のセリフを
自分に言い聞かせるように、独り言が漏れた。
大手メーカーに勤め、
年収はそこそこ、ある程度の生活。
その肩書きは、今の僕には重すぎて、
仕事を思い出すたびに呼吸が止まる。
心臓に重りでもついているかのように、
視線がゆっくりと底へ引きずられていく。
湯船に浸かれば、
この胸のつかえと筋肉の緊張も
少しは和らぐだろうと思った。





本当に、思い残すことは何ひとつない…


…いや、もう、何も残っていないんだ。

僕は、新品のカミソリを手に取った。

視界が、急激に絞り込まれていく。
点けっぱなしのテレビの音も、
口に残るビールの匂いも、
すべてが遠い世界の出来事のように溶けていく。
僕の目には今、ステンレス製の刃に反射する。
鈍い銀色の光が無機質に映る。
視線が自分の手元へと寄る。
さっきレストランでも無意識にいじっていた
親指の爪。
その付け根にある、白く小さな半月型の模様。
視界が極限までに絞られる。
世界から色が消え、
ただ「無」に近い白と銀だけが、
僕の視界を支配した。


………


「――そろそろ、やるか」



僕の人生は、ずいぶん前から脆く崩れ去り、
粉々になっていた。

その冷たい刃先が、僕の薄い皮膚に触れた瞬間。

漆黒の一滴が床に落ちていく…。


第二章:テロワール


-0歳-

目に刺さるような、暴力的な夏の光。

一九八八年八月。 真っ白な産院の天井。

モノクロに映るこの世界が、

僕が最初に見た景色だった。

僕は、その光の中で産声を上げた。

自分自身の叫び声が、
遠い耳鳴りのように聞こえていただろう。

後になって母から何度も聞かされた。


「純が生まれた日、
耳が痛くなるくらい泣いていて、
看護師さんの声が聞き取れなかったんだよ」


父が僕の指に触れ、
「真っ直ぐに、純粋に」と願って
「純」と名付けたことも、後に母から聞かされた。

祝福。期待。無垢な願い。

人生の最初のページには、
そんな眩しすぎる言葉たちが並んでいた。

あの日、僕を包んでいたはずの夏の熱気は、
今、どこへ消えてしまったんだろう。


-1歳-

「居間に集まった親戚たちの真ん中でね、
純はよちよちと歩いてたよ。
転びそうになると、
みんなが『おっと!』と手を出して。
純が笑うと、部屋がパッと明るくなるのよ」

母か祖母が話してくれた、僕の記憶の原風景。

赤ん坊の僕には、
その居間はあまりにも広すぎただろう。

囲んでいる大人たちは見上げるほどに大きく、
その隙間から差し込む光はどこまでも明るい。

世界は祝福に満ちていたに違いない。

僕は、本能的に気づいていたのだと思う。

僕が笑えば、みんなも笑う。

だから僕は、期待に応えるように、
無邪気な子供として真っ直ぐに歩いてみせる。

でも、ふと視界の端。遠く離れた部屋の隅。
父は一人でビールを飲んでいたらしい。

きっと目が合っただろう。
感情の読み取れない、無機質な視線。

僕は一瞬、動きを止める。

その時、父は、ほんの数ミリだけ口角を上げる。

それを見て、僕は夢中になって
また次の一歩を踏み出す。

それが、僕の「演じる人生」の始まり。

最初の一歩だったのだろう。

誰かの期待を読み取り、
誰かの喜びのために自分を差し出す。
そんな歪な正解を積み重ねた先が、
手首の皮膚に冷たい刃を立てた自分に
繋がっていくのだと、
あの眩しい光の中にいた誰が予想できただろうか…


-2歳-

「純は、本当に手のかからない子だったわね」

母が満足そうに、何度も繰り返したその言葉。
それは僕にとっての勲章であり、
同時に、自分を押し殺すために自分自身にかけた

「最初の呪い」でもあったのだろう。

今、思い返すと、その言葉を向けられるたび、
僕はどんな顔をして、どんな気持ちで飲み込めば
正解だったのだろう。

どれだけ歳月をかけても、
この答えは今も分からないままだ。

僕はどうやら、
いわゆる「イヤイヤ期」がなかったらしい。

欲しいおもちゃが買ってもらえなくても、
公園から帰りたくなくても、
僕は地べたに寝転んで泣き叫ぶことはしなかった。

泣きそうになると、
決まって父の無表情な顔が浮かぶ。

あるいは、困ったように眉を下げる母の顔。

それを見るくらいなら、
我慢する方がずっと楽だったのかもしれない。

本能的なものだったのだろう…。



「純は、本当にいい子ね」



そう言って頭を撫でられるたび、
僕は自分の心の中に、
小さな消えない「空洞」ができていった。


-3歳-

保育園の先生は、いつも母に言っていたそうだ。

「純くんは本当に手がかからない、いい子ですね。
お友達とも元気よく遊んでいますよ」

母は嬉しそうに僕の頭を撫でていた。

その手の温もりが、
この時の僕が理解していた「正解」だと思う。

園庭を全力で走るのが好きだった。

三歳の僕が見る園庭は、
どこまでも広く、どこへでも行けるような
自由な光に満ちていたはずだ。

勢い余って派手に転び、
膝から血が流れたことがあった。

それでも僕は泣かなかった。

「痛かったねー」 心配そうに顔を覗き込む先生に、
僕は涙を堪えてニッコリ笑い

「平気だよ」

と強がったのをかすかに覚えている。

絆創膏を貼ってもらいながら、
褒めてくれる先生の顔を見るのが、
膝の痛みよりもずっと心地よかったと思う。

痛みという自分の感覚を、
誰かの笑顔という「外の感覚」で塗りつぶす。

それが僕にとっての歪な達成感だったのだろう。


-4歳-

友達が泣いていれば頭を撫でに行き、
先生が困っていれば真っ先に駆け寄る。

「純くんは本当に頼りになるわね」

その言葉をもらうたび、
抑えきれない喜びを両手で隠していた記憶がある。

自分が良いことをしていることが、誇らしかった。

周囲の期待を先回りして、
誰かが望む「理想の自分」を差し出す。

「次はどうすれば褒めてくれるかな?」と、

クイズの正解を次々に当てていくような快感が、
幼い僕の心を占めていく。

かけっこでも、僕は常に一番だった。

笛の音と共に地面を蹴り、風を切る。

視界の端で流れていく景色はどこまでも明るく、
ゴールテープの先で待つみんなの声援だけを
目指して走った。

一番になり、褒めてもらうたびに嬉しかった。

だから、走るのが好きだった。

自分が「完璧」でいる限り、
世界中の誰もが僕を大好きでいてくれる。

そんな、温かな光の中に守られているような
全能感を感じていたのだろう。


-5歳-

お遊戯会では主役になり、
リレーではアンカーを走った。

母も先生すらも、僕を見て誇らしげに笑っている。

その期待を背負うことは、
僕にとって最高に心地よかっただろう。

けれど、その完璧な世界に亀裂が入った記憶を
鮮明に覚えている。

リレー本番で、僕はバトンを落とした。


カランッ…

と乾いた音がして、
僕の手から一瞬で期待が消えた。

頭の中が真っ白になった。
心臓が耳元で激しくバクバクと鳴り、
周囲の景色が急速に狭くなる。
僕の世界から色が消え、
地面に転がるあの「バトン」だけが、
冷たくこちらを覗いているように見えた。

叫び出したかった。

僕のせいで負けそうになったから…、
泣き出しそうだった。

でも僕は、
こちらを試すように覗くそのバトンを拾い上げ、
無我夢中で走り続けた。

そして、拳一個分の差で何とか1位になった。

ゴールした後、悔しくて泣いている友達を横目に、
僕はひどく安堵していた。

――負けたら、完璧じゃなくなる。

――完璧じゃなくなったら、褒めてもらえない。

そんな恐怖を抱えながらも、僕は笑顔でいた。

その「演技」が、五歳の僕にはもう、
呼吸と同じくらい当たり前になっていた。

広かったはずの園庭が、
その日、ほんの少しだけ狭く見えた気がした。


-6歳-

小学校の入学式。

ピカピカのランドセルを背負った僕がいた。

家族からの満足そうな視線をいまも忘れない。

世界はどこまでも明るく、
毎日が輝いて見えていた。その年の冬までは…。



冬になると、

家族からの熱い視線は、
生まれたばかりの妹に向けられた。

父も、祖父母たちも、
みんなが新しい命の誕生を心から喜んでいた。

それを見た僕は、訳も分からぬまま


「これは喜ぶべきことなんだ」

と反射的に反応して、精一杯の笑顔を浮かべた。

けれど、現実は残酷だった。

家の空気は一変した。

母の手は常に妹に取られ、
父の視線も僕を通り越してベビーベッドに向く。

僕がただそこにいるだけでは、
誰も僕を見てくれなくなった。

視界の隅に、遊び古されて汚れたおもちゃが、
ぼんやりと映りこちらを向いている。

テストで百点を取った時。
先生が僕の解答用紙をクラスのみんなに見せて、

「今回は、一ノ瀬くんだけが百点でした!」

と言った。誇らしい気持ちの裏側で、
僕は少しだけ、喉が渇くような感覚を覚えた。


――次も、百点を取れば褒めてもらえる。


気持ちがいい。

でも、それに応え続けなければ、
僕に居場所はなくなるんじゃないか…。

いつの間にか、僕は隣の席の友達の答えを、
悪びれもせず覗くようになっていた。

罪悪感なんてなかった。

百点を取ること以上に、
大切なことはないと思い込んでいたから。

繰り返されるテストの度に、
僕の視線は手元で不快に笑う綺麗な用紙と、
豪快に笑う隣のペン先しか見えなくなっていった。

六歳の僕は、
もう自分を繕うことを無意識にこなしていた。

僕の価値は「ずっと百点がとれること」
でなければならない。

そう信じて疑わなかった。

そんな僕に、孝則という親友ができた。
孝則の家は狭くて、
お世辞にも綺麗とは言えないほど
物が乱雑に散らかっていたけれど、
そこにはいつもゲームがあった。

「純、これやろうぜ!」

散らかった部屋で、孝則とコントローラーを握り、
画面の中で競い合ったり、敵を倒していく。

僕の家では味わえない、埃っぽくて自由な空気。

ゲームの画面に熱中している間だけは、
誰かの顔色をうかがうことも、
次のテストの心配をすることも忘れていられた。

あの薄暗い部屋の、
発光するモニターだけを見つめる時間は、
視界を極限まで狭め、小さな世界に没入できる
唯一の休息だったのかもしれない。


-7歳-

僕は「演じ分ける」ことを覚えていた。

学校では、誰かが見ているところで
真面目に掃除をする「立派な生徒」を演じ、
家では教科書を広げて
熱心に勉強する素振りを見せ、
父と母の「立派な子」を演じる。

けれど、隣にいる妹が、
何もしていないのに熱い視線を独占している。

その光景を見るたび、
胸の奥に黒いモヤモヤが溜まっていった。

それから、僕は外へもあまり出なくなり、
ろくに勉強もしなくなった。
しかし、テストの点はいつも満点だった。
父と母は言った。



「純は、できる子だから…」



その言葉を浴びるたびに、僕は心から喜んだ。

けれど、その言葉は喜び以上に「呪い」となって
僕を縛りつけていく。

僕はすっかり努力を捨て、何もせず成果を出すこと
――効率よく「正解」をかすめ取ること――
を求め続けるようになった。

放課後、孝則の家へ行けば、

破れた障子の隙間から差し込む光の中で、
毒々しい色をした炭酸飲料を飲みながら、
ゲームのボタンを乱暴に叩く。

乱雑に絡まるコード、埃を被り、
積まれ崩れたカセット。
狭い部屋で、魅力的に発光する画面だけが
僕の視界を覆い尽くしてゆく。


――どちらが本当の僕なんだろう。


そんな疑問が何度か浮かんだが、
答えなんてどうでもよかった。
誰かが喜ぶ「僕」であり続けていれば、
この「幸福な世界」で満足に過ごせるのだから。

もうこの時から、
自分を守るために自分を殺す術を、
僕は完璧に仕上げつつあった。

あの出来事が、起きるまでは…。


第三章:モノカルチャー


-8歳-

僕が必死に積み上げてきた「できる子」という
完璧に思えたメッキは、
音を立てて剥がれ落ち始めた。

理由は簡単だ。

この頃になると、僕はろくに勉強もせず、
ろくに運動もしていなかったからだ。

あんなに好きだったかけっこも、
いつの間にか一番が取れなくなっていた。
二番になるくらいなら、走らない方がいい。
完璧でいられないのなら、
最初からやらない方がマシだ。
そう思って、僕は走るのをやめた。



学校からの帰り道、
通っていた保育園の横を通った。



かつてはあんなに広く、
どこまでも自由に見えていた園庭が、
今は驚くほど狭く、苦しく感じる。
世界が萎んでいく感覚が襲った。
そして、僕の窮屈な百点満点の生活は、
ある時あっけなく終わりを迎える。

………
……



教室に響く先生の怒声が、
最悪な日々の幕を開ける号砲となった。

常習化していたテストでの冒涜が、
先生に見つかったのだ。

けれど、僕をそれ以上に打ちのめしたのは、
連絡を受けて学校に来た母の、
ひどく落ち込んだ顔だった。
叱られるよりも、
その「失望」という名の静かな拒絶が、
僕の心に深く突き刺さった。


……
………
…………
ーーーー
感じたことのない恐怖へと変わる。
僕を包んでいた温い「祝福」の空気は、
一瞬にして凍りついた。
歪んだ「満点の生活」は、
跡形もなく無様に崩れていった。
居場所を失った僕は、
自分を誤魔化すために自慢話を並べ、
偽りを重ねるようになった。

「こんなすごいことがあった」

「家にいけばあんなものがある」
「僕はすごいんだ」と虚勢を張れば張るほど、
周りの友達は一人、また一人と離れていく。


………
……



気づけば、
僕の隣に立ってくれていたのは、
孝則だけだった。

………
……

僕は、破れた障子の向こう側にある、
あの薄暗い部屋に、
ますます深く依存していくようになった。
ゲームのドットが
窮屈そうに箱の中に押し込められている。
それを当たり前のように
僕は凝視してそこから動けない。
高いノイズが狭い部屋に響き渡り、
耳の奥を掻きむしる。
本当の世界から目を逸らし、
狭い箱の中で、点の一部となってゆく。
そこだけが、
僕が生きられる唯一の場所だと
信じて疑わなかった。


-9歳-

僕の世界は、ますます狭く、
暗い場所になっていった。
クラスの連中の視線が冷たい。
誰かが笑っていると、
自分の嘘がバレて
馬鹿にされているんじゃないかと、
耳の奥がカッと熱くなる。

学校での僕は、もはや「完璧な優等生」ではなく、
「何を考えているか分からない、嘘つきな一ノ瀬」だった。
家に帰れば、
妹の無邪気な笑い声が高いノイズのように
鼓膜を搔きむしる。
何も嘘をつかず、
ありのままの姿で愛されている妹を見ていると、
胸の奥がチリチリと焼けるように痛んだ。
………
……

「食欲ないの?」
母にそう言われて気づく。
自分はずっと箸の先を見つめて、
夕食の付け合わせを転がしていた。

母の心配そうな声さえ、
今の僕には「期待に応えられない役立たず」への
催促にしか聞こえない。
僕はただ黙って、自分の部屋にこもり、
足元のカーペットの毛羽立ちをじっと見つめる。


………
……



あとは、逃げるように孝則の家へ向かう日々。
孝則の家でコントローラーを握っている間だけは、
僕は「何者」でもなくて済んだ。
相変わらず破れた障子の隙間から入る光が、
埃を白く浮かび上がらせている。
そのモノクロームな静寂と比例して、
発光する箱の中だけは色鮮やかな魔法が放たれ、
敵をなぎ倒す。
その一瞬の万能感だけが、
僕がまだ生きていることを証明してくれる
唯一の世界だった。


-10歳-

この年、僕は自らの手で唯一の世界を焼き払った。






僕は一人になった。


たった一人の親友、孝則と喧嘩をしたのだ。

理由はあまりに些細で、そして惨めなものだった。あれほど没頭していた箱の中で、
僕は孝則に全く勝てなくなった。
勉強もダメ、運動もダメ。
嘘を塗り重ねてボロボロになった僕の中に、
唯一残されていた「ゲームだけは得意」という
最後の一片までもが、
目の前で粉々に砕け散った。

耐えられなかった。



その箱の中でさえ「敗者」になることは、
僕という人間の消滅を意味していた。



僕は孝則に、剥き出しの怒りをぶつけた。
「もういいよ、お前となんか遊ばない!」
今なら分かる。

本当に謝らなきゃいけないのは、僕の方だった。
けれど、
十歳の僕は、大好きだった親友よりも、
ちっぽけなプライドを選んだ。
謝る方法も、自分を許す方法も知らなかった僕は、
そのまま孝則と疎遠になった。
障子が破れた、あの埃っぽくて温かい部屋は、
もう僕の居場所ではなくなった。
逃げ場所を失った僕は、本当の意味で
独りきりの暗闇に放り出されたんだ。

………
……


放課後の教室で、
僕はただ自分の机の傷をじっと見つめていた。


………
……



視界に入るのは、誰かが彫った落書きと、
自分の指先だけ。
世界はこんなに広いのに、僕の居場所は、
この数十センチの机の上しか残されていなかった。


-11歳‐

小学校の卒業を間近に控え、僕は、
世界から色が消えたような日々を送っていた。
孝則がいない放課後は、
耐えがたいほど静かだった。

一人でいることは、
自分が誰からも必要とされていないことを
突きつけられる「拷問」と同じだった。
けれど、誰かに近づこうとすれば、
またあの惨めなプライドが邪魔をする。
――もう、誰も信じられない。
――でも、一人になるのは、死ぬほど怖い。
人を信じて、また裏切られるくらいなら、
最初から心に鍵をかけておいたほうがいい。
僕は、誰の心にも踏み込まず、
自分の心にも踏み込ませない「透明な壁」を、
自分の周りに張り巡らせた。


………
……



卒業式の予行演習。冷え切った体育館の床。
僕はただ、
自分の上履きの先をじっと見つめていた。
視界は足元のわずかな円の中に収まり、
周囲のざわめきは遠く、
まるで濁った水の中に潜っているかのように
籠もって聞こえる。
………
……

「中学校に行けば、きっと全部やり直せる」
呪文のように、それだけを繰り返していた。

汚れた過去も、
ついた嘘も、
親友を傷つけたあの日も、
全部この小学校に置いていこう。

僕はただ、春が来るのを震えながら待っていた。
新しい場所に行けば、
また「完璧な僕」に戻れるはずだと信じて。


-12歳-

二〇〇〇年、
千年紀の到来に世間は浮き足立っていた。

正直、僕はそんなことどうでもよかった。
自分のことで精一杯だったのだ。
中学にあがった僕の生活は、
意外にも順調に滑り出した。

小学校時代の「惨めな一ノ瀬」を
知る奴は少なかった。
昨年味わった「一人ぼっち」という名の拷問が、
皮肉にも僕の演技力を磨き上げていた。

場の空気を読み、
誰が何を求めているのかを瞬時に判断し、
最適な言葉を投げかける。

知ったかぶりの虚言はまだ残っていたけれど、
それすらも「場を盛り上げるスパイス」として、
以前よりずっと狡猾にコントロールしてみせた。
新しい友達もでき、
一緒に笑い合うこともできた。
けれど、
心の中にはいつも、
抜けない棘のような違和感があった。
――孝則。
同じ校舎の中にいるのに、
一度も言葉を交わすことはない。

廊下ですれ違うたびに、
心臓が握り潰されるような感覚に襲われる。

あの日、プライドを優先して「唯一の世界」を
焼き払ってしまったという後悔。

そして、
あれほど依存した関係が
いとも簡単に壊れるのだという絶望。

僕は、誰かと笑いながらも、
心のシャッターは重く閉ざしたままだった。

あれから僕は、

………
……



気が付くと

自分の足元ばかりを見つめるようになっていた。
たまに顔を上げても、
笑うクラスメイトの顔は
どこかフィルター越しのように遠く、
現実味がない。
まるで、
音の消えたモノクロ映画を観ているような、
色彩を欠いた光景。
もう二度と、あんな思いをするくらいなら、
誰も信じない方がマシだ。
いや、違う……
ただ、もう信じるのが、死ぬほど怖いのだ。
こんなことを考えながら、平和を装っていた。

しかし、その偽りで作られた平和ですら、
あえなく打ち砕かれてゆく…。


-13歳-

友達が増え、このまま「安全な世界」を
泳ぎ切れると思っていた僕に、暗雲が立ち込めた。

視力が落ち、メガネをかけ始めた。

ただそれだけのことだった。

けれど、クラスの不良たちが放った
「メガネっ子」という嘲笑まじりの言葉は、
驚くほど速く教室中に伝染し、
僕は格好のイジメの対象になった。

昨日まで笑い合っていた「友達」は、
一瞬で、僕を囲む冷ややかな「観客」に変わった。
順調だった毎日が、砂の城のように脆く崩れ去る。
陰湿さを増していくイジメに耐えられず、
僕は逃げるように学校を休むようになった。








数週間後。








親と教師に説得されて、意を決して登校した。



……
………


僕を待っていたのは、静まり返った教室だった。


………
……


イジメは、終わっていた。



………



親や教師が動いてくれたのか?



……


誰かが僕を助けてくれたのか?







――違う。イジメの標的が、変わっただけだった。






それから、ほどなくして…










孝則は学校に来なくなった。










それから二度と、彼と会うことは叶わなかった。






「ごめんね」











その一言が、どうしても言えなかった。

深く、深く後悔しても、もう遅い。

僕のちっぽけなプライドが、
彼の居場所さえも奪ってしまったのかもしれない。

僕の脳裏に、カランッと乾いた音が揺れる。

いつか幼い頃、
バトンを落としたあの瞬間が浮かぶ。

僕の手元から、
ゆっくりと期待がこぼれ落ちてゆく…。

人が怖い。何よりも自分自身が、もっと怖い。

視界の端で周囲の顔がぼやけてゆき、
僕は、誰にも開けないよう、
心の鍵を何重にも、何重にもかけ直していった。
視界はさらに狭まり、僕は部屋の隅で、
自分の膝だけを見つめるようになった。




………
……




気づくと、どうにもできない怒りと吐き気の中で、
自分の髪をむしり取っていた。

指先に残る髪の根元の感触だけが、
僕の罪悪感をなだめてくれる唯一の痛みだった。


-14歳-


家族との会話は、もうほとんどなくなっていた。
僕に愛情が向かない分、
家族の関心はすべて妹へと注がれていた。

リビングから漏れ聞こえる温かな笑い声。

僕の部屋のドアを通り抜ける頃には、
僕を追い詰める不快なノイズに変わっていた。

学校では、孝則がいなくなった後も、
イジメの標的は次々と入れ替わっていった。

「次はまた僕かもしれない」

その恐怖に押しつぶされそうになるたび、
僕は無意識に右手を頭にやり、髪をむしり取った。



プチッ…


小さな断絶音と共に、指先に残る熱い痛みが、
かえって生を実感させた。
けれど、鏡を見るたびに絶望が襲う。
このまま髪を抜けば、また格好の標的にされる。

その恐怖が、また僕の指を動かす。

出口のない地獄。

僕の視界は、
床に散らばった自分の髪の毛を数えるだけの、
狭く惨めなものになっていた。



そんな時だった。

一人のクラスの女子と、
言葉を交わすようになったのは。

彼女と話している時だけは、
自分が「薄汚い負け犬」であることも、
抑えられない衝動も、少しだけ忘れられた。

暗闇に慣れきった僕のモノクロームな心に、
彼女の笑顔はあまりにも眩しく映った。

僕はあっという間に、彼女を好きになった。

僕たちは、クラスには内緒で付き合い始めた。

「僕にも、選んでくれる人がいたんだ」

付き合っているという事実が、
僕に小さな自信をくれた。




でも、その一方で、僕は心のどこかで怯えていた。




もし彼女が、孝則のように、
また僕の前から消えてしまったら…。


僕は、惨めなほど必死に彼女にしがみついた。

それは恋というにはあまりにも遠く、
底なし泥沼の中で見つけた「出口」のような感覚。

出口に向かおうとするほどに、
ゆっくりと、ドロドロと、
愛情は歪な形に変わっていく…。

​僕はあまりの必死さに、
その変化にさえ気づくことができない。
ただ、救いを求め続けることしか
できなくなっていった。


-15歳-

彼女との関係は続いていた。
不思議なことに、彼女と一緒にいる間は、
あんなに僕を苦しめた
「髪をむしり取る衝動」は消えていた。

けれど、その代わりに、
僕は別の「歪な衝動」に冒されていた。

――束縛。

連絡が数分遅れるだけで、心臓が激しく波打つ。
世界に一人きりで放り出されたような感覚。

漠然とした恐怖に襲われる。

息ができず苦しい…。

会えない時間は、
彼女が他の誰かと笑っているんじゃないかという
妄想が頭の中を支配する。

「どこにいるの?」

「誰といるの?」

口から出るのは、彼女を気遣う言葉ではなく、
僕の不安をなだめるための尋問だった。
彼女の自由を奪うことでしか、
僕は自分を保てなくなっていたんだ。
それは彼女への愛ではなくなっていた。

ただ、
彼女は僕の正気を繋ぎ止める「道具」となり、
僕はまた一人で生きることが
死ぬほど怖かっただけなんだ。




そして、卒業の間際。

「もう、耐えられない」

彼女から告げられた別れは、あまりにも唐突で、
けれど当然の結末だった。

どうしたらよかったのか、分からなかった。

あんなに尽くしたのに。
僕には彼女しかいなかったのに。
悲しみよりも先に、行き場のない、
どうしようもない怒りだけが僕を支配する。

僕の視界から再び色彩が消え、
世界はまた、灰色のノイズで埋め尽くされた。

僕は、さらに多くの鍵を、
心の扉に何重にも重ねて閉ざした。

「誰も信じない。誰も必要ない」

そう自分に言い聞かせ続ける。






………
……







ふと我に返ると、
床に落ちた誰かの消しクズを見つめていた。

ボロボロの靴先でそれを転がす。
ただじっと見つめ、何の迷いもなく潰し続けた。

中学生活に幕を引いた。


第四章:ストリッピング


-16歳-

僕は、自宅から電車で一時間以上かかる
工業高校に進学した。

理由はただ一つ。

僕という人間を、
誰も知らない場所へ行きたかったからだ。

小学校から重ねた嘘、親友を見捨てた罪、
彼女を道具にした執着。

遠い街に行けば、そのすべてを、
忌まわしい校舎に置いていける気がしたのだ。

けれど、入学してすぐに、
僕は自分の選択を後悔することになる。

実習服に身を包んだクラスメイトたちの目は、
僕とは対照的に輝いていた。

「将来は設計士になりたい」

「エンジンの開発をしたい」

彼らは、
自分が何者になりたいのかをすでに知っていた。

休み時間になれば、
好きな機械や将来の夢の話で教室はあふれかえる。


僕には、何もない。

結局僕にあるのは、「嘘と罪と執着」だけで、
夢も希望も持たずにここへ来た。

途端に、自分の足元が不安定になるのを感じた。

人がおどける。声が遠のき、黒板が歪む。

教室が揺れる…。

……

「今、この瞬間をどう生き延びるか」

それだけで精一杯の僕にとって、
彼らの語る「未来」は、とてつもない焦燥感と、
逃げ場のない孤独を連れてきた。

自分との間に
厚い膜が張ったような感覚に襲われる。

周囲の熱も、音も、すべてが遮断された。

向こう側の出来事…。




………
……




気が付くと…

僕はただ、
実習ノートの端を指でなぞり続けていた。

視界には、新品のノートの真っ白な紙と、
鉛筆で黒く汚れた自分の指先だけ。

ここもまた、僕の居場所ではなかったんだ。

新しい制服という「殻」で身を包んでも、
中身はボロボロと剥がれ落ちていく。


-17歳-

僕は、偽りの自分を完璧に演出し続けることに、
すべてのエネルギーを注いでいた。

興味のないエンジンや車の知識を必死に詰め込み、
何とかクラスの輪の端っこに滑り込む。

そんな中で、どうしても目が離せない存在がいた。

広瀬徹

彼はいつもクラスの端で一人、本を読み、
音楽を聴いていた。

寂しくないのだろうか…。


なぜ、周囲の顔色を窺わずにいられるのか。

一切の同調を拒み、静寂の中に佇む彼の姿は、
僕には手が届かない「孤高」に見えた。

僕はといえば、祖母の敷地にあった
ずっと使われていない小屋を借りた。
そこをクラスの奴らの「たまり場」にすることで、
かろうじて自分の価値を保っていた。

夜な夜な集まる友人たち。笑い声。響く音楽。

けれど、煙草の煙が充満するその小屋で、
僕はいつも冷めた心で彼らを眺めていた。

視界に入るのは、灰皿に押し付けられた吸い殻と、
誰かがこぼしたビールのシミだけ。

「彼らは、僕を目当てに来ているんじゃない。
この場所が目当てなんだ」

差し出したバイト代と、提供した場所。
それらを取り払った後に残る「一ノ瀬純」には、
何の魅力もないことを僕が一番よく知っていた。

どれほど賑やかな場所にいても、
僕の鼓膜には自分自身の不安な鼓動だけが
ずっと響いている。

相変わらず、心の扉は重く閉ざされたままだ。

もう、鍵の開け方どころか、

どこに取っ手があるのかさえ、

分からなくなっていた。


-18歳-

この年、僕は二人の祖父を相次いで亡くした。

あまりに重なる死。

喪服を着て、
焼香の煙が白く揺れるのを見つめながら、
僕は自分の将来という空っぽな器を
どう埋めればいいのか、途方に暮れていた。

ある日、
教室の隅で静かに本を読む広瀬徹を見ていた。

僕は手汗をかきながら、勇気を振り絞って、
徹に声をかけた。

「あのさ、参考にしたいんだけど…
 進路、どうするの?」

徹は、静かに本を閉じ、
そっと僕を見てこう言った。

「俺は、介護士になろうと思ってるよ」

理由を聞くと、彼は高一の時、
一番可愛がってくれた祖父が亡くなったこと。

その時、自分は何もできなかったこと。

だから、誰かの力になりたいのだと話した。

その言葉には、
僕がこれまでに抱えた嘘や執着とは正反対の、
剥き出しの「本物」が宿っていた。

彼がなぜ、
周囲の喧騒に惑わされず「孤高」でいられたのか。

その理由に、ようやく触れた気がした。

「…じゃあ、俺も徹くんと同じ学校に行こうかな」

思わず口を突いて出た言葉だったが、
徹はふっと笑っていた。


久しぶりの感覚だった。


介護がやりたいわけじゃない。

ただ、嘘で塗り固められた自分の人生だが。

徹の傍にいれば、少しはマシになるんじゃないか。

そんな身勝手な期待と、
一人になることへの恐怖を抱えながら、
僕は自分の進路を、
彼という光の方向へ向けたのだ。

厚い膜が張ったような感覚が薄れる。

ほんの少しだけ、
ここから抜ける隙間が空いたような気がした。

ホッとしたんだと思う。

僕は数年ぶりに心から笑っていた。


-19歳-

高校を卒業すると同時に、
僕の「たまり場」には誰も来なくなった。

分かっていたことだ。

場所がなくなった瞬間に散っていく、
砂のような関係。

けれど、もう僕は絶望していなかった。

僕は親に土下座をして、
徹と同じ介護の専門学校へ行くことを
認めてもらった。

必死に貯めたバイト代で運転免許を取り、
新しい世界へ飛び込んだ。
………
……

そこから始まったのは、
徹と過ごす、純度の高い毎日だった。

いつしか僕たちは、
「親友」と呼べる関係になっていた。

僕が今、こうして存在していられるのは、
徹の影響があったからだと言っても過言ではない。

徹は、僕の閉ざされた世界に、
新しい色を次々と持ち込んできた。

心を揺らす音楽、
知らない誰かの人生を追体験する映画。


そして――コーヒー。


喫茶店を巡り、豆の香りに包まれながら、
僕たちは言葉を交わした。

徹は普段は大人しく、
自分から口を開くことなんて滅多にないくせに、
好きなことの話になると、驚くほどよく喋る。


「いいか? 純。
コーヒーには『総評』っていうのがあってね。
苦味と酸味…あとはボディ。
分かりやすく言うとコクみたいな感じかな。
それとフレーバー。これがまた深くてさ、
ベリー系とかナッツ系とか、
豆によって全然違う香りがするんだよ。
あとは、アフターテイスト。
飲み込んだ後に、鼻に抜ける余韻が…」


目の奥までキラキラと輝かせ、
無邪気に、そして早口に語る徹。

その姿を見て、僕は親友として心から嬉しかった。


――けれど同時に、ほんの少しの悔しさがあった。


自分だけが知らない世界を彼が持っていること。

まるで教えを請うような自分の立ち位置。

僕は、徹に追いつきたかった。

隣に並んで、もっと対等に、もっと深く、
この琥珀色の世界を語り合いたかった。

だから僕は、
自分だけの「内緒の行きつけ」を見つけた。

地元の駅から少し離れた路地の奥。

ランチとコーヒーが自慢の、その店は
『かむかむ』

という少し変わった名前だった。
そこで僕は、一人のマスターと出会った。
「親友に隠れて、コーヒーを極めたいんです」
僕の子供じみた対抗心を、マスターは
「いいですね」

と静かに笑って受け入れてくれた。

カウンター越し、一対一の秘密の特訓。
マスターは、注ぎ方を教えながら言った。

「一ノ瀬くん、
 コーヒーサーバーに一滴一滴落ちる雫を見るのが、
 僕は好きなんですよ。踊っているように見えるでしょ」

粉々に砕かれた豆から、凝縮された雫が生まれる。
トンッ、トンッ…
と静かに水面を揺らしながら、
油分を含んだ雫たちが、輪の上を踊る。
「…本当だ。踊ってる」

僕は、思わず言葉をこぼす。
優しく頷いたマスターは、
何かを思い出したように言葉を繋いだ。

「そうだ。一ノ瀬くん。
 コーヒー豆の知識をつけたいなら、
 僕よりも詳しい人を知っているよ。
 いつかここに行ってみるといい」


マスターはそう言うと、棚からおもむろに、
一枚の店の名刺を僕に手渡した。
僕はというと、
水面にこぼれる琥珀色から目が離せないまま、
手元に差し出された名刺を指先で受け取り、
そのまま財布の隙間へと滑り込ませた。
トンッ、トンッ…
その滴る雫の鼓動に耳を傾け、
一滴一滴が踊るたびに、未来への不安も、
過去の汚点も、徐々に洗い流されていく気がした。
徹が導いてくれた「コーヒー」という趣味は、
僕にとって、自分を保つための大切な
「安らぎの儀式」になっていった。


-20歳-

この年、『かむかむ』は突然、その幕を下ろした。

噂によれば、マスターが体調を崩し、
そのまま還らぬ人になったのだという。

あまりにも唐突な幕切れに、
僕はかける言葉を失った。

徹に
『かむかむ』に通っていたことを打ち明けると、
「だから、いつの間にかコーヒーに詳しくなってたのか…。
 残念だったな」
と、彼なりに不器用な言葉で僕を励ましてくれた。


「じゃあさ、
 今日は知らない店を新規開拓しないか?
 適当に歩いて、最初に目に入った喫茶店に入る。
 どう?」


それが徹なりの優しさだということは
分かっていた。
学校帰り、
僕たちは通ったことのない道をあてもなく歩いた。

………
……



やがて目に飛び込んできたのは、ひどく古びた、
お世辞にも綺麗とは言えない一軒の喫茶店。
看板には、重々しい文字で
『皇琲郷』

と書かれている。
「…見るからに、ヤバそうだな」
僕たちは顔を見合わせ、思わず吹き出した。


「よし、ここにしよう!」
徹が暖簾をくぐろうとしたその時、
僕は足を止めた。
「ごめん、金あったかな…」
確認するために財布を開いた、その時だった。
財布の奥に眠っていた「あの日の一滴」が、
ツーっと一直線に、雫のように滑り落ちた。
白い紙片がアスファルトの上で、音もなく踊る。
「なんだ?」
拾い上げると、
それは『かむかむ』のマスターがくれた、
あの一枚の名刺だった。
ずっと、財布の奥で眠っていた約束。
そこには、今まさに僕たちの目の前に
ある店の名が刻まれていた。

『皇琲郷』

「徹ぅぅぅーーー! ここだ! ここだよ!!」
「えっ、何!? …
え、うわ、怖っ! 怖すぎるだろ!!」
僕らは叫んだ。

「は、はっ…っ!?#%&$@!!? ★*※!」
夕暮れの路地裏、あまりの衝撃に僕たちは
二人で言葉にならない声を上げた。
運命という一滴が、
今、僕たちの足元で跳ねた気がした。

混乱して震える手で
『皇琲郷』の古びた扉を押し開ける。
カラン、
と乾いた音が響く店内にいたのは、
背の高い一人の男だった。
彼はタバコをふかしながら、
カウンターの奥で仁王立ちしていた。

「…いらっしゃい」

その圧倒的な貫禄に、
僕たちは思わず身を縮めて席に座る。

差し出されたメニューを開くと、
そこには三十種類を超えるコーヒーの銘柄が、
びっしりと書き連ねられていた。

徹は、いつものように
目の奥をキラキラと輝かせながら、
聞いたこともない珍しい銘柄を注文する。
「ザイール…」
(…どこだよ。)

喉元まで出かかったツッコミをグッと堪え、
僕は唇を噛みしめて窓の外を見た。
僕はといえば、この空気に圧倒されて、
無難なブレンドを頼むのが精一杯だった。



………
……




しばらくして、
店主が若干足を引きずりながら、
片手で器用にコーヒーを運んできた。
僕は勇気を振り絞り、声をかけた。

「あの…
 『かむかむ』という喫茶店のマスターに、
 ここを教えてもらって…」

先ほど、店の前で起きた奇跡のような出来事を
一気に話した。
すると、あんなに不愛想だった店主の顔が、
ふっと和らいだ。

「そうか。あいつの紹介か」

彼は、静かに、そして温かく笑ってくれた。

店内に漂う深い焙煎の香りが、
少しだけ軽くなった気がした。

第二の行きつけができた瞬間だった。
今度は、自分一人だけの秘密じゃない。
親友の徹と一緒に通う、僕たちの「場所」だ。
「しょっぺぇー。
 醤油みたいな味だわ…ザイール(笑)」
(…失礼だろ。)

口先まで出かかったツッコミをグッと堪え、
僕は歯を食いしばりながら
窓から見える遠くの空を眺めた。


-21歳-

この年の出来事を、僕は一生忘れないだろう。

その日も僕は、
徹と二人でCDショップを巡っていた。

彼が目当ての品を探している間、
僕はふらりと隣の古本屋へ足を踏み入れた。
棚の片隅で、ふっと視線が止まる。
鎌倉で『ヴィヴィアン』という
カフェを経営している人物が書いた
一冊の本だった。


『鎌倉・路地裏のカフェ。珈琲と雑貨、音楽の旅』


ページをめくると、
そこには僕が求めていた
「何か」が詰まっている予感があった。
すると、後ろから急に徹が近寄る


「ごめん。待たせた」
僕は、少しビクつきながらも、
「うん。これ買ってくるわ」

と、吸い寄せられるように会計へ向かった。
列に並んでいると、とっさに気づいた…
財布は空っぽだった。
「ごめん徹。お金貸して(笑)」
僕は徹にねだった。

お金を使いすぎたことを
笑い合える相手が隣にいる。
手に入れた本を抱え、徹と車に乗り込む。

オレンジがかる空を、
走り出した車窓から見上げながら、
僕は満たされていた。



どこまでも続くバイパスの先。
その向こう側へ進む未来に
期待している自分がいた。
その時の僕はまだ知らない。
この一冊の本が、
未来の自分を繋ぎ止める命綱になることを。 

………




この年、僕らは介護の現場へと就職した。
職場は別々だったが、
慣れない仕事に擦り減っていたある日、
徹がぽつりと言った。
「鎌倉の『ヴィヴィアン』、行ってみない?」
僕の心に灯をともした、あの本の中の場所だ。
僕は即座に
「行こう」
と答えた。

だが、その代償は想像以上に重かった。
僕らが住んでいたのは東北の田舎だ。
鎌倉までは高速を使っても片道六時間以上。
仕事を終えた夜九時に集合し、
そのまま僕は必死でハンドルを握った。


助手席で徹は、
運転しないことを申し訳なさそうにしていた。
何度も地図を広げては、だんだんと小さくなる。
仕事の疲れには勝てなかったらしく、
気づけば深い眠りに落ちていた。
「…こいつ、サービスエリアに置いていこうかな」

冗談半分でそう思いながら、
僕は一人、コーヒーを飲み干した。
最終的に七杯も。




……
………




トントンッ…トントンッ…
空から屋根を小突く音がした。

ザー…。

本降りだ。

車のライトが照らす視界は、
いつか見ていたあの景色。
暗闇で発光するモニターから、
今にも溢れ出しそうなドットのようだ…。
カフェインで
無理やり覚醒させた脳は異常なほど冴え、
指先は震えていた。
雨に濡れた漆黒のアスファルトを
睨みつけるように走らせた。

あの時とは違う確信があった。
隣で眠る親友の姿と、
未来に期待する自分がそこには確かにいた。


……
………
…………
……………

空が紫色に染まっていく。
優しく僕らを迎える鎌倉の街並み。
フロントガラスの向こう側、
オレンジ色が重なり、
徐々に青く広がり始めていた。
隣で静かに眠る親友の顔を見て、
僕はふと思った。
あんなに人を信じるのが怖かった僕が、
誰かの喜びのために自分を削っている。
その事実に、
なぜか充足感のようなものを感じていた。
僕は、
鎌倉の街に包まれながら、
深い眠りにつく。





………。





「……きろ。…起きろって」


徹に起こされる。
徹は少し声を荒げて口を開く。
「そろそろ、起きろって!
 ここ、どこだよ! 何、呑気に寝てんだよ!」

僕は、徹の会話を遮るようにして言い放つ。

「もう鎌倉だよ!
 鎌倉のパーキングだよ、ここ!」

徹は一瞬呆気にとられた後、
安心した表情で言った。


「なーんだ! ここ鎌倉かよ! 安心したー」
そうおどけてみせる。
「こいつ、このまま鎌倉に置いていこうかな」

そう八割ほど思って、僕はまた目を瞑った。

しかし、
徹の満面の笑みを見せられた瞬間、
僕の疲れはどこかへ飛んでいってしまった。

この時の彼は、
僕が差し出す献身を、
世界で一番素直に受け取ってくれる男
だっただろう。

……
………
憧れの『ヴィヴィアン』で過ごした時間は、
まさに至福だった。

注文はもう決めていた。
サクサクの分厚いワッフルと、
店の人気メニュー「パフェヴィヴィアン」。


オーナーの堀さんの穏やかな笑顔に癒され、
思わず声をかけた。

本で知ったこと、東北から来た事を話すと、
「東北から車で!? ありがとうございますね」
という言葉。

その瞬間に、
僕は自分の人生の指針を見つけた気がした。
徹が声を震わせて口に出す。


「すいません。
 一緒に写真を撮ってくれませんか?」
あの、無口な徹が自分から……。
僕はおかしくなり、思わず吹き出した。



オーナーと三人で撮った写真。

記念に買った、
コーヒー豆が描かれた小さなグラスのセット。

最高の思い出と宝物を手にした。


……
………

帰り道、
疲れ切った体でまた僕がハンドルを握る。
徹は肩でリズムを取りながら、
「バンド~」
と小声で呟く。
カーステレオから流れる穏やかで優しい曲。
「Take a load off Fanny 〜♪」
(荷物を下ろしていいんだよ♪)
と歌うその曲を聴き、僕は

(運転を代わってくれ)
と心の中でツッコミを入れながら、
二人で何度も熱唱する。
その重ささえも愛おしかった。

車窓から遠くまで広がる景色は、
オレンジから藍色に、だんだんと染まっていく。
僕は徹という灯りに、確かに救われていた。


-22歳-

鎌倉で過ごしたあの時間の余韻は、
僕の日常を鮮やかに塗り替えていた。

趣味のコーヒーには、
底なしにのめり込んだ。
豆を挽く音、立ち上がる香り。
それは僕にとって、
世界に侵食された自分を取り戻すための
大切な儀式だった。
映画も、毎日のように観た。
特にミュージカル映画の、
理不尽な現実を歌と踊りで突破する熱量に、
僕は強く惹かれていた。
「僕の人生も、これから上に向かっていく」
そんな根拠のない、
けれど確かな予感に胸を躍らせていた。
この年、僕はついに一人暮らしを始めた。
ずっと黙って僕を見ていた父が、珍しく



「お祝いに冷蔵庫を買ってやる」



と言い出した。
僕は相変わらず、
父が何を考えているのか分からなかった。
父の好意を素直に受け取ることに
どこか罪悪感があり、遠慮して、
店の中でも安価なモデルを選んだ。

「…これにするよ」

父は何も言わず、ただ頷いた。
会計に向かった父の後ろ姿を見守る。


「……払いで」
ボソッとした聞き取れないほどの声で、
父はクレジットカードを店員に差し出した。


いつの間にか小さくなった背中。

不器用な父なりの最大限の「祝福」なのだと、
僕は自分に言い聞かせた

………
……

一人で過ごす生活。
狭い間取りだが、物がないからか広々と感じる。
静かな空間。
自分で淹れたコーヒーを飲みながら、僕は
「人生がようやく順調に回り始めた」

と確信していた。

窓を開けると、風が部屋を通り抜け、
遠くの街すら瞬いて見えた。

視界の先には、
どこまでも自由な世界が広がっている。




………
……





この平穏が、
音を立てて崩れる日が来るなんて、
微塵も疑わずに。


第五章:ウォッシュト


-23歳-

二〇一一年。
穏やかだった僕の日常に、
冷たい風が吹き始めた。

親友である徹の、都内転勤が決まったのだ。

別れはあまりにも急だった。

「絶対、会いに行くよ」

そう約束して彼を送り出したけれど、
現実は無情だった。

新天地での仕事は、
僕から徹を想う余裕さえも奪っていった。

スマートフォンの画面を見る回数は減り、
彼への連絡は、次第に途絶えていった。




………
……





そんな中、あの日が来た。

東北を襲った、未曾有の大震災。







………
………………
……………………
……………………………………

僕が勤めていたデイサービスの施設は、
海に流された。

……………………………………
……………………
………………
………





昨日まで笑い合っていた利用者たちの顔が、
濁流に消えた景色が、
瞼の裏に焼き付いて離れない。



………
……



かろうじて生き延びた僕は、
一ヶ月ほど別棟の施設で絶望にまみれて過ごした。





………
……







やがて命じられたのは、
ユニット型の特別養護老人ホームへの転属だった。

そこは、個室で生活する入居者と
二十四時間向き合う現場。

これまでの経験は通用しない。

膨大な業務と新しい人間関係。

環境が激変していく中で、
唯一の理解者だった親友は、もう隣にいない…。





………
……






暗闇の中を一人で歩いているような不安が、
僕を支配し始めていた。

「また、あの時と同じだ」

小学校の終わり、中学校も…。

新しい場所へ行くたびに僕を襲った
「居場所を失う恐怖」が、
成長したはずだった僕の首筋を冷たく撫でていた。





………
……






ふと気づくと、歩きながら
足元のタイルの模様ばかりを追っている。
あの狭く、閉ざされた視界が、
ゆっくりと僕に戻りつつあった。


-24歳-

僕は仕事という底なし沼に沈み込んでいた。

それでもまだ、
休日に淹れるコーヒーの香りと、
スクリーンの中の異世界だけが、
僕を現世に繋ぎ止めていた。

けれど、その細い糸を断ち切る出来事が起きる。

信頼する上司が去り、
新しくやってきた上司は、
常に刺々しい殺気を纏っていた。

「報告が遅い。何年やってるの?」

「なんでこんなこともできないの?
 もういいです、どいて」


吐き捨てられる言葉の一つひとつが、
僕の存在価値を否定していく。



………
……



僕はただ、焦点の合わない目で床を見つめ、
自分を殺して耐えるしかなかった。




………
……






救いを求めるように、
僕は久しぶりにあの路地裏へ向かった。

不愛想な主人が笑ってくれた、

あの『皇琲郷』へ。



……………
…………
………
……



だが、そこに広がっていたのは、
琥珀色の空間ではなかった。

跡形もなく粉々になった瓦礫の山。

その隙間から、
かつて芳醇な香りを生み出していた焙煎機が、
今はただの冷たい鉄の塊として、
無機質に顔を覗かせていた。




………
……






震災は、
僕の帰る場所も、導いてくれる人も、
すべてを押し流し、砕いてまわった。



………
……



次第に、身体が悲鳴を上げ始めた。

朝、目が覚めると激しい吐き気が襲う。
部屋はゴミで溢れ、足の踏み場もない。
視界に入るのは、脱ぎ捨てられた服と、
コンビニ弁当の殻。

かつて鮮やかだった世界は灰色に濁り、
音は遠く聞こえにくい。
耳の奥で、キーンとした不快なノイズだけが
鳴り響いていた。

「助けて…」

その一言が言えなくて、
僕はまた、心の鍵を何重にもかけ直した。
鍵を開ける方法を、
自分でも忘れてしまうくらいに。


-25歳-



………
……



限界は、音もなく、
けれど決定的な形をして訪れた。

その日、上司と一緒の勤務だった。

朝から、耐えられないほどの不穏で圧迫した空気。

僕は、食事介助中に一言断りを入れて
トイレに駆け込んだ。
個室の中で、深く長い溜息を吐く。
折れそうな心を必死で繋ぎ止め、
数分後、現場に戻った。





だが、そこにあったのは、
僕の知っている日常ではなかった。

血相を変えて叫ぶ上司。
その視線の先で、入居者の一人が倒れていた。





その日、その人は帰らぬ人となった。







「あなたがトイレからなかなか戻らなかったから。
 …あなたじゃなかったら、
 助かっていたかもしれない」








氷のような声が、僕のすべてを粉砕した。









僕が殺したのか…。





僕が持ち場を離れたからだ。
自責と後悔が混じる汚泥にまみれ、
僕は
二度と職場へ足を向けることができなくなった。














…数日後に僕は、精神科の待合室にいた。

初めて訪れた場所だ。
医師は僕の目すら見ず、
淡々とキーボードを叩きながら、
あまりにも簡単に「うつ病」という判決を下した。

それからは、ただ眠るだけの毎日。
泥のような眠りの中で、
あの日の上司の声が何度もリフレインする。

有給休暇が尽き、欠勤が続き、
僕は逃げるように会社を辞めた。
二十五歳。
僕の世界は、真っ暗な闇に閉ざされた。
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僕は、■■■■■■
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生きているのか死んでいるのか
分からない境界線にいた。

精神科の医師は相変わらず僕と目を合わせず、
無機質な薬だけが増えていく。
飲む気力すら起きず、
薬のシートは部屋の隅に、
剥がれ落ちた抜け殻のように溜まっていった。







そんなある日、家族がアパートへやってきた。

異臭の漂う部屋を見渡した父が、
絞り出すように言った。

「……気の持ちようだ。しっかりしろ」







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………
……




家族が帰った後、
僕は汚れた床に這いつくばり、
声を上げて泣いた。

父にとって、僕の病は「怠け」でしかない。

僕を知っているはずの人たちから、
僕は見捨てられたのだと感じた。
大好きだった映画は、
もう何ヶ月も観ていない。
豆を挽く余裕なんて、僕には残っていない。

退職金もボーナスも底をつき、
生活は極限まで追い詰められていた。
救済の制度もあったのだろうが、
あの時の僕には、
自分から行動する力も惨めさをさらけ出す気力も、
一滴も残っていなかった。

テレビを売り、父が買ってくれた
あの冷蔵庫さえも金に換えて、命を繋いだ。

「気の持ちよう」という呪いを反芻しながら、
僕は震える足でハローワークへ通った。







視界に入るのは、黒く汚れた自分の靴先と、
吐き捨てられたガムが
アスファルトに無様にこびり付いている光景
だった。












病院へ行く金さえない。
ただ「働かなければ死ぬ」という
動物的な恐怖だけが、僕を動かしていた。

僕は、ただ
「ここではないどこか」へ逃げるための、
片道切符を掴むように、
あるアルバイトの入社を決めたのだ。


第六章:パーチメント


-26歳-

僕はまた、
新しい場所で「完璧な自分」を演じ始めていた。



もう何度目だろう。



人との距離を測り、空気を読み、
求められる役割を過不足なくこなす。

生きるために必死だった。

うつ病に浸っている暇なんて、今の僕にはない。




「ほら見ろ、やっぱり気の持ちようだったんだ」




父のあの言葉を肯定することで、
自分を無理やり納得させた。

僕は治った。

もう大丈夫だ。

そう自分に言い聞かせ、闇雲に働いた。

就職したアルバイト先は、
これまでの福祉の世界とは全く違っていた。

感情を切り離して「成果」に追われる場所。

ひたすら真面目に、
誰からも好かれるように振る舞った。

かつて介護の現場で見せた献身は、
ここでは「処理能力」として評価された。

やがて僕は、その勤勉さを認められ、
正式に正社員として迎え入れられた。

例えそれが、急成長する企業にとって、
一つの駒としての採用でも…。

その時の僕にとっては、
差し伸べられた唯一の救いの手だった。

「この会社に恩返しがしたい。」

今度こそ、逃げずに…
この会社に一生を捧げよう。

そう誓ったとき、僕の心には、
かつて徹と鎌倉を目指した時のような
純粋な希望はなかった。

代わりに宿っていたのは、
自分を縛り付けるような、
重苦しい「覚悟」だけ。

心の奥底には、
まだ癒えない血の滲む傷口があるのに…
気づかないふりをした。

僕は再び、激流のような社会の中へと、
深く、深く潜っていった。

守るべきは「心」ではなく、
この「場所」であり「評価」だ。

僕は、いつの間にか、
自分ではどうすることもできない、
硬い殻に覆われていた。


-27歳-

僕は、がむしゃらに仕事をこなした。

自分がかつて、
うつ病で暗闇の底にいたことなんて、
日々の忙しさで忘れてしまうほどだった。

働けること。

誰かの役に立ち、必要とされること。

その確かな手応えが、
僕の乾いた心を満たしていく。

「やり直せている」

という充実感に背中を押され、
僕はただひたすらに、
仕事にのめり込んでいった。

職場の人間関係も、仕事のスキルも、
すべてがパズルのピースが嵌まるように
スムーズに回り始めていた。

数字という客観的な評価が積み上がるたび、
僕は自分を覆う「殻」が
より分厚くなるのを感じた。

その壁の向こう側へ引きこもることで、
僕はようやく、
上司の言葉に怯えずに済んでいた。

そう確信する一方で、
僕は僕自身の感情を何度も何度も殴り、
感性を殺していく感覚があった。

単なる「適応」に過ぎないのだ。

休日にコーヒーを淹れる余裕も、
映画に心を震わせる感性も、
知らず知らずのうちに、
どこかへ捨ててきてしまった。

僕はただ、止まれば壊れてしまう、
使い古された機械のようだった。


-28歳-

僕は、
何かに取り憑かれたように仕事に没頭していた。

「社会復帰させてくれた恩」

という名の十字架を背負い、
期待に応えることだけが、
僕の存在意義になっていた。

休日は、
ただクタクタになった身体を横にして終える。

指先だけでSNSのタイムラインを追い、
見ず知らずの誰かの輝きを眺めては、
重い溜息を吐き出す。

青白い画面の光が、
部屋を残酷に照らすだけの毎日。

何かあるわけでもないのに、
空っぽの天井をたまに見つめてみる。

手を伸ばすことも億劫だ。


………
……



たまに職場の飲み会があれば、
僕は率先して会場選びや幹事を引き受けた。

空気を読み、
誰かの嫌がる仕事を肩代わりすること。

断れずに笑顔で

「いいですよ」と言うこと。

その「完璧な演技」のたびに、
僕は遠い街にいる徹を思い出していた。

あの日、六時間かけて車を走らせ、
震える手でハンドルを握り続けたあの熱量は、
今の僕にはもう残っていない。

連絡を絶ってから、
どれくらいの月日が流れただろう。

「周りに合わせる」ことに必死な僕の隣で、
ただ静かに「孤高」でいてくれた彼の強さが、
今の僕には眩しすぎて、怖かった。




………
……





朝が来るたびに、
肺の底から重い溜息が漏れ続ける。 

どうしても起き上がることができず、
出発の数分前まで布団にくるまり、
焦るように家を飛び出す。

駅へ向かう足元だけを見て、
死んだ魚のような目で、
また激流へと飛び込んでいく。

息をつく暇もないほどに自分を追い込む毎日。
いつしか、
そんな異常な日々が「大人の当たり前」なのだと、
自分を洗脳するように言い聞かせていた。
僕はまた、心の扉を閉ざした。
今度の鍵は、以前よりもずっと硬く、冷たく、
重い鉛の色をしていた。


-29歳-

二〇一七年。
勤めていた会社の商品に重大な欠陥が発覚し、
大規模なリコールが起きた。

会社に不信を抱いた同僚たちが
次々と去っていく。

僕は、会社を裏切れなかった。

将来がまた不安に揺れている。

けれど、僕の心を満たしていたのは、
不謹慎なほどの「解放感」だった。

強制的に足を止められた会社の休業。

だから、「堂々と」休んでいい。

そう思えただけで、
張り詰めていた糸がふっと切れた。



………
……



僕は、何日も、何日も眠り続けた。

カーテンを閉め切り、
時間の感覚を失うほどに眠る。

朝が来る恐怖に怯えなくていい。

焦るように家を飛び出さなくていい。

仕事という「恩義」から解放され、
僕は一時的だが人間に戻れた。

この「止水」のような時間が、
僕の心に溜まった泥を少しずつ沈殿させていった。

けれど、静まり返った部屋の中で一人、
また空っぽの天井を見上げていると、
かつて徹と分け合ったコーヒーの香りや、
あの熱狂的な鎌倉への旅の記憶が、
波紋のように蘇ってくる。








「僕は、これからどう生きればいいんだろう」








世界が眠っている間に、
僕の心は、
かつて捨ててきたはずの「本当の自分」を、
暗闇の中で手探りに探し始めていた。



だが、その「本当の自分」との対話は、
長くは続かなかった。


自力で殻を破ることは、結局叶わなかった…。



しかし、確実に休息はできていた。



そして、会社と共に再び動き出した時、
皮肉にも休息で得たエネルギーは
別の形へと変化していった。

それは、僕の『殻』をさらに分厚く、
呼吸さえできないほどに
乾いた壁へと変えてしまうのだ。


第七章:ソーティング


-30歳-

会社が再び動き出すと同時に、
僕は激流のような日常に引き戻された。

空いた穴を埋めるように、
僕には「昇進」という名の
新たな出来事が与えられた。

気づけば、僕は支店長になっていた。
人の顔色を窺い、場の空気を読み、
誰かの嫌がる仕事を
笑顔で引き受けてきた「演技」が、
組織の中では正当に評価されたのだ。

崩壊寸前の店舗を立て直し、
繁忙店の混乱を鎮める。
転属を命じられるたびに、僕は自分を鼓舞した。
「会社には恩がある。
 この会社が、どん底の僕を拾ってくれたんだ」

自分の時間なんて、とうに捨てていた。
部下の悩みを聞くために、
連夜の飲み会に付き合い、
深夜に帰宅してからは、
終わらなかった事務作業をこなす。
寝る間を惜しんでパソコンに向かい、
画面の中のドットと一体となり
埋もれていく感覚。
気がつけば窓の外が白んでいるようだが、
長い間、どんよりとした曇天が続いている。
朝の光さえも、僕の心までは届かない。
「会社のために。誰かのために」

その言葉は、もはや美しい理念ではなく、
自分を偽り続けるための口癖となっていた。
「純は、できる子だから…」
遠い記憶で、
誰かが悪気もなく放った呪いの言葉。
意識の薄れる僕をまた、
この残酷な世界に引き戻す。
期待に応えなければならない。
失望させてはいけない。
その強迫観念が、
震える手足に力をねじ込んでくる。

鏡を見る余裕もないほどに、
何も気にしなくなった。
もし覗き込んでいたなら、
そこには必死で「完璧な上司」を演じる、
生気のない男が映るだけだろう。
僕は、後ろから崩れ落ちる崖の淵を走っていた。
その先に何があるのかも分からず、
ただ「止まったらすべてが終わる」という
漠然とした恐怖だけを燃料にして。


-31歳-

二〇一九年の終わり頃から、
「原因不明の肺炎」が
ニュースで駆け巡り始めた。
そして、
あっという間に世界はパンデミックに震撼した。

カレンダーの数字だけが更新され、
僕の日常は同じことの繰り返しだった。

在宅の勤務へと変更された。
ただ、今までよりも頑丈な鎖に
繋がれただけだった。

朝、吐き気を殺してパソコンの前に座る。
日中は、オンライン会議で
上司の不満を聞き続けて、会社に尽くす。
夜はオンライン飲み会で
部下の不満を聞き続けて、会社に尽くす。
耳元で鳴り続けるデジタルな声は、
もはや言葉としての意味をなさず、
僕の脳を直接掻きむしるノイズへと変わっていた。
そして、深夜にまたパソコンの前に座り、
無意味とも思える文字の羅列を見つめ続けている。
自分の時間を後回しにして、
誰かのために、
時間の制約がないまま「正解」を演じ続ける日々。

そしてある夜、
パソコンの明かりだけが灯る静かなリビング。
僕はふと、手が止まった。




「…僕は、何をしているんだろう」




キーボードの「Y」キーを、ぼんやりと見つめる。

なぜ、僕はここにいるんだろう。

なぜ、走りたくもないのに、
必死で走り続けているんだろう。

答えの出ない疑問が、
グルグルと頭の中を息切れもせず周回する。




何が楽しくて、毎日生きているんだ?

僕は一体、何がしたかったんだっけ?

がむしゃらに駆け抜けてきたはずの
数年間を振り返っても、
そこには自分の意志で選んだ
「喜び」の記憶が一つも浮かんでこなかった。

僕の手に残っているのは、
削り取られた健康と、
誰かに感謝されるための空虚な「成果」だけ。
会社に恩を返すために自分を殺し続けた結果、
中身が何もない、
ただの「殻」だけになってしまった自分に
気づいたのだ。

かつてあんなに僕をワクワクさせた、
コーヒーを淹れる気力も、
映画の世界に没入する集中力も、
今の僕には欠片も残っていなかった。
テレビの電源を入れても、
画面の中の色彩はどこか遠く、
モノクロのノイズのようにしか感じられない。

浪費した時間は、二度と戻らない。
僕は、積み上げてきたはずのキャリアの中で、
自分が完全に「迷子」になったことを悟った。




僕は、道を間違えたのか…?




ぼんやりと浮かんだ最悪の疑問は、
散らかった静寂の中に消えていった。


第八章:ロースト


-32歳-

僕は、終わりのない修羅場の中にいた。
会社に尽くし、立て直しに奔走し、
ようやく店舗に光が見え始めると、
非情な辞令が下る。
「次はあそこの立て直しを頼む」

その繰り返し。
まるで、火が盛んに燃える場所へ
次々と放り込まれる消火剤になったような
気分だった。

すさんだ職場の空気、
絶えない不満、
重なる責任。
それらに揉まれ続けるうちに、
僕の身体はついに「眠り方」を忘れてしまった。
夜、布団に入っても思考が止まらない。
午前三時にようやく意識が途切れていたのが、
次第に四時になり、
気づけば明け方五時にようやく目を瞑り、
二時間後の七時にはアラームが鳴る。
永遠とも思える時間…なぶり起こされるのだ。

「…あと、何年これを続けるんだろう」

ぼんやりとした頭で支度をしながら、
鏡の中の自分に問いかける。
そこには輝きなど微塵もなく、
ただ乾燥しきって、
干からびた「殻」だけが残っていた。
眠れない夜を越えるたびに、
僕の心の一部が死んでいくのが分かっていた。

僕は、
自分が担いでいる神輿(みこし)の正体が、
中身の空っぽな、
ただの張りぼてであることに気づいていた。

会社の体制は、
もはや修復不能なほどに歪んでいる。
画面越しに「従業員は家族だ」と微笑む社長。
現場も見ずに「お客様第一」を掲げる役員たち。
その言葉の裏側に透けて見えるのは、
乾いた利益優先の論理だけだった。

「この会社は、もう長くはない」

確信があった。

代わり映えのない適当な商品で顧客を騙し、
従業員をすり潰し、
僕は支店長としてその片棒を担いでいる。
自分を殺して笑顔を貼り付け、
嘘の上塗りを続ける毎日。

もう、恩は返したはずだ。
頼むから、もう僕を許してくれ。

心の中で何度も叫ぶが、
辞める勇気はどこにもなかった。
会社という肩書きを失ったとき、
何も持たない僕には何が残る?
またあの、
ゴミ溜めのような部屋で無様に散るだけ。
メッキが剥がれるのが、死ぬほど怖かったのだ。
電車から濁流のように降車する人々の光景が
おぞましく思える。

揺らぐ灰色の物体が、
限界まで詰め込まれた箱の中に自ら向かう。

入口の窓に映る自分の影をぼんやりと見つめる。

その背後で、つんざくような声で笑い声が響く。

「一体何が
 そんなに楽しくて笑っているんだろう?」




反芻思考が止まらない。




僕は、深く燻られた煙の中にいた。
どこへ向かえばいいのかも分からない。
ただ、はっきりと分かること。
僕は自分自身を一番、軽蔑している。
ただそれだけ。
自分の人生をどこか他人ごとに感じながら。

これ以上、落ちることはないと、
このとき勘違いをしていた…。


-33歳-

ある時、
カフェ・ヴィヴィアンで記念に買ったグラスを
不注意で落とし、割ってしまった。
かつて、あの旅で、
徹と喜びを分かち合った思い出の品。


それを自分の手で粉々に砕いてしまった瞬間…
僕の中で何かがぷつりと切れ、
すべてがどうでもよくなった。
それから数ヶ月後、仕事での限界に加え、
僕の人生の根幹を揺るがす出来事が起きた。
かつて不器用ながらに冷蔵庫を買ってくれた、
尊敬すべき父。
その父から頻繁に連絡が届くようになった。
「金を貸してほしい」という連絡が…。



「父や家族の助けになれる。
 ようやく、役に立てる」

そんな歪んだコンプレックスと、
家族への純粋な愛情が混ざり合い、
僕は数年かけて貯めた全財産を、
何の躊躇もなく差し出した。

けれど、真実は残酷だった。
父は経営の行き詰まった会社で孤立し、
母や妹は現状から目を逸らし、
根拠のないポジティブな言葉で
「なんとかなる」と繰り返すばかり。
僕が血を吐く思いで稼ぎ、
積み上げてきた全財産を渡した。





…そのわずか三ヶ月後、
父から届いたのは、

「金を貸してくれ」という言葉だった。



金を捧げたからといって、
家族は何も変わらない。
いや、家族は変わろうともしていなかったのだ。
僕は、人生で初めて家族を怒鳴り散らした。
理性が吹き飛び、
愛情がドロドロとした憎しみに変わる。
ヘドロで遊ぶような音がした。
「今までなんとかなってきた」のではない。
誰かが無理をして、誰かが犠牲になって、
綱渡りをしてきただけなのに。

結局、僕は家族と絶縁し、
逃げるように距離を置いた。
「回避行動」だとは分かっている。
けれど、これ以上関われば、
僕自身が完全に壊れてしまう。
家族に裏切られ、全財産を失い、
それでも会社では「頼りになる支店長」を
演じ続けなければならない。

粗悪な商品で顧客を騙し、従業員を騙し、
そして家族としての居場所さえも失った。



「僕は何のために、誰のために生きているんだ?」

反芻思考は悪化していた。



深夜の静寂の中、
眠れない脳裏をどす黒い問いが巡る。

「生きるっていったい何が楽しいんだ?」



僕は、深く淀んだ煙の中にいた。
どこへ向かえばいいのか…
もう全く分からない。
ただ、僕が自分自身を誰よりも、
何よりも軽蔑していることは変わらない。
その事実だけが、
咳込むほどに深い煙の中で明確に見えていた。


第九章:グラインド


-34歳-

僕は今、
どこにいるのか…?


湯船に浸かっているはずなのに、


温かさを感じない。
僕の目には今、ステンレス製の刃に反射する。
鈍い銀色の光が映る。
視線が、自分の手元へと寄る。
さっきレストランでも無意識にいじっていた
親指の爪。
その付け根にある、白く小さな半月型の模様。
視界が極限までに絞り込まれていく。
世界から色が消え、
ただ「無」に近い白と銀だけが、
僕の視界を支配した。



………



「――そろそろ、やるか」





僕の人生は、ずいぶん前から脆く崩れ去り、
粉々になっていた。
その冷たい刃先が、僕の薄い皮膚に触れた瞬間。
漆黒の一滴が床に落ちていく…。




…。。

…。



けれど、僕は死にきれなかった。

湯船の水面に、
シャワーの雫が数えきれないほど沈んでゆく。
死ぬことさえも「完璧」にこなせなかった。
その無力感が、
さらに僕を深い闇へと沈めていった。

        ◯。
      。
          ◯
         。
          。
          
         。 
        。
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-35歳-

翌日。僕は、精神科の診察室にいた。

頭の中を止まることなく走り続ける反芻思考。

ふとした瞬間に
足元へ口を開けて待つ希死念慮。
そして、
あの日実行に移しかけた自死への衝動。
新しく受診した医師は、
僕の目を見て静かに告げた。

「うつ病の可能性が高いです。
 診断書を書けますが、どうしますか?」



僕は、小さな声で、
けれど確かな意志を持って言った。
「…お願いします」

その日から、僕は休職した。


会社に連絡を入れなければならない。
けれど、
受話器を持つ手の震えがどうしても止まらない。
何時間もかけて言葉を準備し、
何度も深呼吸を繰り返し、
ようやく電話で報告を終えた。

電話を切った瞬間、僕はその場に崩れ落ちた。
キャリアも、信用も、居場所も…
これまで僕が
自分を殺してまで守り抜こうとしてきた、
すべてを失った。

涙が、止まらなくなった。
泣いても、

泣いても、

失ったものは戻ってこない。

家族もいない。

金もない。

肩書きもない。




真っ暗な部屋で、僕はただ独りだった。
すすり泣く声が空しく響く…。
その頃にはもう、
薬の力を借りなければ、
一秒たりとも
眠りにつくことはできなくなっていた。















僕は、「粉々」になった。


第十章:ドリップ


-35歳-

休職して四ヶ月が過ぎた。
傷病手当金で繋ぐ、ギリギリの生活。
かつてのように冷蔵庫を売る必要はないけれど、
心はそれ以上に削り取られていた。

何年も、コーヒーを淹れていない。
あの時買ったお気に入りのグラスも、
不注意でひとつ割ってしまった。
グラスの残りは、あと一つ。

まるで、僕の残された「命」のようだ。





毎日、希死念慮にさらされていた。


周囲の期待に応えられなかった自分を責め続け、

「自分の人生なのに、僕は主人公になれない」と
暗闇の中で膝を抱えていた。









そんなある日、
埃を被った部屋の片付けをしていた。

僕の手が止まった。

棚の奥から、一冊の本が現れた。

十数年前、
あの古本屋で僕の人生を変えた一冊、
『カフェ・ヴィヴィアンの本』。

パラパラとページをめくると、
サーバーに落ちる一滴のように、
何かがツーっと一直線に落ちた。
床を踊るように滑ったそれは、
棚の隙間へと逃げ込んだ。





僕は、
呪いに縛られた重たい体を動かして、
重い棚をずらした。
むせ返るような、凄まじい埃が舞う。

けれど、




一筋の光が差し込んだその場所に、
それはあった。



一枚の写真。



鎌倉で、
徹とオーナーの三人で一緒に撮った、
あの時の写真。
そこには、
今の僕には想像もできないほど、
純粋な笑顔を浮かべた僕がいた。


その瞬間、
あの日の光景が、
鮮やかな色彩を伴ってフラッシュバックした。



堪えていたものが決壊し、
腰が抜けて立てなくなるまで、
僕はその場で声を上げて泣き続けた。












気づいたら、
徹に電話をかけていた。

震える指で握りしめたスマホの向こう、
すぐに彼が電話に出た。
急なことで言葉に詰まる僕に、
徹は言った。


「久しぶり…。元気? 嘘かと思うけど、
 今ちょうど電話しようとしてたんだ。
 元気かなって思って…」


涙が止まらなかった。
嗚咽を漏らしながら、僕は彼に告げた。
「また、徹と一緒にヴィヴィアンに行きたい…」

徹は、
あの頃と変わらない静かな口調で、
ただ一言「うん」と返してくれた。

空っぽだった僕の心に、
小さな、
けれど消えない灯火が宿った。
この病に打ち勝って、
もう一度、
徹と一緒にあの聖地へ帰ろう。


僕は、
数年ぶりに「本当の自分の意思」で、
立ち上がった。




半年後-35歳-

僕は今、
徹と鎌倉「カフェ・ヴィヴィアン」の前に立っている。

ようやくここまで来れた。

いや、あの出会いから十数年の月日をかけて、
僕はここへ戻ってきたのだ。

内装は少し変わったけれど、
そこには当時と変わらない癒しの空気が流れていた。

メニュー表を取る手が震える…。
徹が気を利かせてくれたのか口を開く。

「ザイールがオススメだよ。しょっぱくて…」

僕は、あのとき言えなかった言葉をやっと吐き出す。
「それどこだよ(笑)!」
店内の空気に反して、つい二人とも笑ってしまった。
徹は続けて話す。

「あのときさー。実は見栄張った(笑)。
 ザイール注文したらカッコイイかなーって。
 そしたら、醤油の味だった(笑)」

僕は我慢できず、吹き出してしまった。
いつの間にか、肩の力は緩んでいた。

徹は、僕の分もコーヒーを注文してくれた。

数分ほどすると、コーヒーがテーブルに届く。

コーヒーの香りに酔いしれながら、
メニュー表にまた目を通す。

あの時食べたヴィヴィアンパフェの写真…
まだやってくれていた…。

涙をこらえながら徹に話し、二人で注文した。
以前の記憶よりも、
分厚く見えて、サクサクとした食感。

昔より、ずっと美味しく感じた。

徹のおかげで
カフェ・ヴィヴィアンの時間を堪能できたのだ。

会計の時、新作のグラスを見つけた。

「これもください。」

カウンターを覗くが、堀さんの姿がない。

残念そうにしているのを察したのか、
店員さんが
「よければ堀さん呼びましょうか?」と
声をかけてくれた。

「はい!」と即答した。

憧れの堀さんを前に、
僕は溢れ出す汗を拭きながら、
必死で会話にしがみつく。

昔の堂々とした面影なんてどこにもなかった。

それでも、堀さんは優しく微笑んで言ってくれた。
「できる限り続けるから、また来てくださいね!」

その言葉が、胸に突き刺さった。

『かむかむ』 『皇琲郷』…なくなってしまった。

僕の特別な場所が思い出となり駆け巡る…。

カフェ・ヴィヴィアンだって、
決して苦労がなかったわけはない。

必死に前を向いて三十年歩き続けてきたのだ。

この場所が在り続けてくれたことに、
心から感謝した。

気がつけば、僕は堀さんに駆け寄っていた。

「ヴィヴィアンは僕の聖地です!
 続けてくれてありがとうございます!」

堀さんの笑顔と、
隣にいる徹の存在。

そして、
カフェ・ヴィヴィアンを支え続けてくれた人たち。

それらに背中を押されて、
僕は今もこうして生きている。




帰りの車の中。
窓の外には、かつてよりずっと広く、
彩りを取り戻した鎌倉の街並みが流れていく。

助手席でハンドルを握る徹の横顔を、
僕はぼんやりと眺めていた。


「よかったな、純。堀さんに会えて」


「………うん。本当に」

膝の上には、
大切に抱えた三十周年の新しいグラスと本。

カーステレオから流れるのは、

あの時の…。

あのバンドの…。

あの曲だ…。

「Take a load off Fanny」
(荷物を下ろしていいんだよ)

と歌うその曲を聴きながら、
僕は徹の運転に心を預けていた。

徹という灯に、
僕は再び救われていたのだ。

車窓から遠くまで広がる景色は、
オレンジから藍色に、だんだんと染まっていく。

昔見たときよりも、
そのオレンジは鮮やかで、どこまでも広大だった。

その日、家へ着く道すがら、
運転する徹に、僕は「ありがとう」と伝えた。

彼は少し照れくさそうに笑い、「またな」と言って別れた。

***

その後、僕は仕事を変えた。

前のような役職も、
誇れる肩書きも、
高い給料も今はもうない。

けれど、僕の心は驚くほど充実している。

朝、自分で豆を挽き、丁寧にコーヒーを淹れる。

その香りをゆっくりと吸い込むとき、
僕は自分が「自分の人生の主人公」であることを実感する。

徹とは月に一度、
他愛もない連絡を取り合うようになった。

正直、うつ病の揺り戻しで起き上がれない日もある。

けれど、
そんな時は「今は休む時だ」と、気取らず、
完璧を目指さず、ただ横になる。

人それぞれの幸せの形はあるけれど、
うつ病のおかげで、
僕は多くを望まない生活を手に入れた。

はたから見たら、
つまらない人生かもしれない。

でも、今の僕は、
この素朴な生活と小さな幸せを満喫する時間が、
たまらなく好きなのだ。

うつ病は、僕から多くのものを奪った。

けれど同時に、

「自分を殺してまで守るべきものなんて、何ひとつない」

という真実を教えてくれた。

多くを望まない。
気取らない。
完璧を目指さない。

ただ、目の前にある小さな幸せを、
取りこぼさないように生きていく。

これが、僕が見つけた「本当の自分」の形だ。

自分の生き方を見つけた。

もう、殻にこもる必要はない。

そんなことを考えながら、キッチンへ向かう。

十年前、
期待に胸を膨らませて買った記念のグラスの隣に、
新しいグラスを並べた。

差し込む朝日が、
その二つのグラスを優しく照らしていた。


エピローグ

最後に、これを読んでくれているあなたへ。

地位も、
名誉も、
全財産も、
誰かからの評価も。

そんなものは、
あなたの価値とは何の関係もありません。

あなたがあなたとして、
今日、息をして生きている。

それだけで、
もう十分すぎるほどに価値があるのです。

もし、あなたがかつての僕のように、
自分を殺してまで何かの仮面を守り続けているのなら。

どうか、その重い仮面を置いて、
新しい自分になろうとしてみてください。

メッキが剥がれ落ちたあとに残る、
不器用で、
無様な、
けれど愛おしい「本当の自分」を、
もう一度生きてみませんか。

あなたは一人じゃない。

僕も、この場所で、
新しくなった自分を大切にしながら生きています。

共に、乗り越えよう。

辛いときは、
いつでも僕のところへ来てください。

僕が、
あなたの心を癒やす一杯のコーヒーのような、
寄り添える場所になります。

(本作に登場するカフェは、
 私を救ってくれた鎌倉の実在のカフェをモデルにしています)


あとがき

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

この物語は、僕が僕自身を取り戻すための、
そしてどこかで同じように息苦しさを感じている
誰かのための「人生」の記録です。

少しずつ、ゆっくりと綴っていこうと思います。


マガジン

本作は「note創作大賞2026」応募のために
一挙公開しておりますが、
1話ずつゆっくりと読み進めたい方向けの
「分割版マガジン」もご用意しています。


※この作品は実体験をベースにした私小説です。
画像制作や構成の一部にAIを活用しています。


【この物語を完結させ、次へ繋ぐ理由】
ここまで読み進めてくださり、本当にありがとうございます。

この小説
『ドリップアウト ―砕かれた人生に宿る一滴―』は、
私、田端うつ郎の私小説として、
11週にわたり連載してきた物語を一つの形に編み直した
「完全版」です。

本来、後半部分は有料で公開しておりましたが、
今回この形ですべてを公開したのには、大切な理由があります。


「創作大賞2026」への挑戦
4月8日より開催される「note創作大賞」に応募するためです。
この賞の規定では「全文公開」が審査の条件となります。

これまで単話で追いかけ、
支えてくださった皆様、本当にありがとうございます。

皆様の応援があったからこそ、
私はこの物語を一つの形として「完結」させ、
そして「勝負」の舞台に立つ勇気をもらいました。
単話で購入してくださった皆様には、心から感謝申し上げます。

この挑戦期間中、一人でも多くの方にこの物語を届けるため、
この「完全版」に限り、
選考終了まで無料で公開することにいたしました。


今後の歩み
この完全版を携えて大賞に挑むとともに、
今後はTALESでの展開やKindleでの書籍化も検討しています。

皆様のおかげで、僕はこれからも書き続けられます。

もし、この小説のどこか一行でもあなたの心に触れたなら、
最後に「スキ」やコメントで背中を押していただけると幸いです。

それが、私の次なる作品の原動力になります。


最後まで、ご清覧いただき、
誠にありがとうございました。



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田端うつ郎 サポートありがとうございます。いただいた応援は、今後のPodcast配信や、うつ病で得た経験を社会貢献できる活動へと繋げる大切な糧とさせていただきます。一歩ずつ進んでいきます。 温かいご支援に心から感謝します。

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