小説『浸蝕』|第1章:爪
あらすじ
鳴り響くスマホ、日常に溢れるノイズ、
心を削る怒号。
閉ざされた職場環境の中で、
世間に蔓延る搾取の数々。
徐々に自分を見失っていく恐怖を、
身体を侵食する「緑青錆」として
ビジュアル化した、
息もつかせぬサスペンス・ホラー。
人はいったい何を見ているのか。
社会からの「孤立」の先にある、
痛烈な気づきを描く全6章。
登場人物
葵(あおい):
デイサービスで働く介護職員。
職場での理不尽な怒号に耐え続ける中、
身体に「奇妙な異変」が起き始める。
阿久津(あくつ):
葵の上司。
執拗な圧迫と怒号で周囲を搾取する男。
彼の長く不潔な爪の隙間には、
澱んだ真緑色の汚れが見える。
カナタ(かなた):
葵の同僚。
阿久津の横暴に怯えながらも
淡々と業務をこなすが、
日に日に狂っていく葵の様子を気にかけている。
⚠️ ご覧いただくにあたっての注意
※本作はすべて無料でご覧いただけますが、
一部に身体の変容やグロテスクな描写、
強い精神的ストレスに関する表現が
含まれています。苦手な方はご注意ください。
第1章:爪
誰もいない。
見覚えのない、
ひっそりと静まり返った知らない街の歩道。
ベタベタとした嫌な湿気が、
肌にしつこく纏わりつく。
周囲を見渡すが、視界は碧霧で覆われ、
ひどく見通しが悪い。
見上げれば、どんよりとした歪な空から、
絶え間なく雨が降り注いでいた。
なのに、おかしかった。
激しく肌を叩いているはずの雨。
その冷たさを、ちっとも感じない。
それどころか、地面を穿つ水音も、
視界を濡らす雨音も、一切聞こえなかった。
世界から音が消え失せている。
代わりに聞こえてくるのは、
絶え間なく鼓膜を震わせる耳鳴りだけ。
脳の奥でキィンと鳴り響き、
乱暴な痛みが押し寄せてくる。
ただ、雨粒が触れた場所だけが、
じわじわと変貌していく。
アスファルトに、コンクリートの壁に、
そして、自分の指先に。
反射のせいか、
無色透明なはずの雨粒が
ほんのりと青白く見える。
その異様な雨粒がポツリと当たるたび、
そこから思わず息を呑むほどに、
鮮やかな新緑色が、じわり、じわりと、
まるで生き物のように滲んでいく。
綺麗なのに、猛烈に気味が悪い。
全身に鳥肌が立つのを感じた。
身体のすべてが、
この得体の知れない何かを、
本能的に拒絶している。
逃げなければ。
そう思った瞬間、
新緑色の雨が左目にポツリと落ちた。
視界の半分が、
まるで細胞が繁殖していくかのように、
どろりと緑に染まり始める――。
――ピピピピ、ピピピピ。
脳を直接引っ掻くような、不快な音。
無機質なアラームが耳の奥を掻き回し、
柔らかな鼓膜をチクチクと刺す。
「……もう朝か」
何時だ。液晶の数字に視線を向ける。
7時17分。
最悪だ。
今からでは出勤ギリギリの時間だった。
いつもの位置に転がっているメガネを、
片手で探す。
無造作に伸ばした指先にフレームが引っかかり、
ぼんやりとした視界の前へと持ってきた。
その瞬間、
レンズの隙間に映る鼻当ての汚れが
目に飛び込んでくる。
こびり付いた、淀んだ緑青色の錆。
それを見るたびに、
胸の奥に何かが詰まる感覚になる。
そして、
胃の底から不愉快な気分がせり上がってくる。
はぁー、と重たい溜息を吐き出しながら、
顔を洗い、髪を梳かし、
眼鏡とマスクを着けて支度を済ませる。
枕元からスマホの充電コードを乱暴に引き抜き、
画面を確認した。
充電はわずか30%しかない。
「ちっ……」
思わず舌打ちが漏れる。
朝は、本当にどこまでも
自分を不愉快にさせてくる。
じっとりとした
梅雨の空気がまとわりつく家を出て、
むせ返るようなバスの空気とノイズに耐え、
這うようにして
「デイサービスセンターひだまり」の
フロアへと滑り込んだ。
始業3分前。
カビと、おむつの微かな匂い。
そして、これから利用者の家を一軒一軒まわる、
あの送迎の時間が始まる。
じっとりとした湿気を孕んだ熱気が、
施設内に充満していた。
「おはよう。
……今日もギリギリ。顔色が悪いよ、大丈夫?」
同僚のカナタが、
利用者用の車椅子を拭きながら
静かに声をかけてくる。
この現場で、唯一、
静寂を共有できる相手だ。
「うん、嫌な夢を見ただけ」
「夢?……ふうん。それより聞いた?
今日ヘルプに来るはずだった事務員が、
急に来れなくなったって……。
入浴介助の職員が一人足りないのに、
阿久津さんが『二人で回せ』ってイライラしてた」
「いや、阿久津さん年中イライラしてるじゃん。
今に始まったことじゃないでしょ……」
「たしかに……」
カナタが、
バカにしたようにから笑いした。
二人の静かな会話を引き裂くように、
事務室の方から重たい足音が近づいてきた。
電子タバコの独特な穀物臭と、
紙タバコのむせ返るヤニ臭が混ざった
悪臭がフロアに広がる。
上司の阿久津だ。
「おい。何喋ってんだよ。急げよ」
阿久津は事務室の人間に欠員が出たことを
ぐちぐちとねちっこく訴えてきたのだ。
どうにもならない苛立ちを纏いながら、
フロアを上から完全に覆い尽くすように威圧する。
「それと、お前。今日の入浴担当だったな?
カナタと二人だから。いつも要領が悪いんだよ、
お前らは。今日、残業なんてしたら殺すからな」
阿久津の口から、
ネチネチとしたモラハラ発言と、
ダブルスモーカー特有の臭いに
コーヒーが混ざり合った悪臭が吐き出される。
大柄な体躯から放たれる威圧感に、
ただ頭を下げて嵐が過ぎ去るのを待つしかない。
「……はい。すいません」
視線を落とし、床を見る。
すると、阿久津の爪の間に、
ほんの少しだけ「緑色の汚れ」が見えた――。
気持ち悪い。
午前の送迎を終え、
利用者がフロアを埋め尽くす。
ざわざわとした異様な人混み特有のノイズ。
介護職員の掛け声、
利用者の叫び、
何から何まで耳障りだ。
「お風呂、行きますよー!」
カナタの声に急かされるように、
浴室へと向かう。
そこは、湯気と、湿気、
あるいはカビの臭いが立ち込める、
最も過酷な場所だった。
脱衣所から浴室へ。
お湯が常に流れ続けるタイルの上。
湿度が100%近い空間で、
利用者の衣類を脱がせ、浴室へ誘導し、
体を洗い、浴槽へ。
身動きが取れない重度の利用者は、
自動浴槽の濡れて滑る椅子に
カナタと二人係でなんとか座らせ、
浴槽の蓋を閉める。
暑い……。
皮膚が、湿った熱気に包まれる。
マスクの中は汗でぐしょぐしょだ。
阿久津に削られた一人の穴埋めは、
想像以上に過酷だった。
利用者の安全を確保しながら、
目まぐるしいペースでケアを
こなさなければならない。
一瞬の油断も許されない。
「おい。まだかよー。ペースおせーぞ」
阿久津が、
エアコンの効いたフロアから、
こっちを監視している。
「すいません……」
すると、その時だった。
「ああっ!」
お湯で濡れた床に足を滑らせた
利用者の腕を支えようとした瞬間、
力が抜けて利用者が固いタイルに
頭をぶつけそうになった。
慌てて、
さらに強い力で利用者の腕を掴み上げる。
「何やってんだよ! 要領が悪いなー!
事故とかマジ勘弁だからな!」
阿久津の怒号が響いた。
自分はエアコンの効いた場所にいるくせに。
「すみません、すぐに……」
頭を下げる。
その瞬間、自分の指先に違和感を覚えた。
湿った利用者の肉体を掴んだ、その指先。
お湯と汗で、皮膚がふやけている。
そのふやけた皮膚の、爪の隙間。
そこに、朝見たメガネの鼻当てと同じ、
あの淀んだ緑青色の錆のようなものが、
じわりと挟まっている。
猛烈に嫌な気分が襲う。
「おい、聞いてんのか! ウスノロ」
阿久津の声が、遠く聞こえる。
視線は、自分の指先に釘付けだった。
爪の間に入った緑色のカスは、
ふやけた皮膚にべっとりとこびりついていた。
「すいません……」
阿久津の罵倒をうわの空で聴きながら、
気づけば、爪の間に入り込んだその汚れを、
別の指でカリカリと必死にむしり取っていた。
▶ 次の話へ
あとがき
ご覧いただき本当にありがとうございました。
鳴り響くスマホの音、心を削る怒号――。
作中で描いた閉ざされた職場の空気感は、
僕自身の体験や、
現代社会の片隅でいまも起きている
「日常の搾取」をベースにしています。
誰にも頼れず「孤立」していく恐怖を、
緑青錆という形で表現した本作ですが、
読み終えた皆様のなかに、
何か「痛烈な気づき」のようなものが残れば
これ以上の喜びはありません。
【読者の皆様へお願い】
「おもしろかった」「ゾクッとした」など、
一言でも感想をコメントで教えていただけると
本当に嬉しいです。
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田端うつ郎
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小説「浸蝕」今後の展開
第1章:爪(本記事)
第2章:悪臭(2026.7.25更新予定)
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最後まで、ご清覧いただき、
誠にありがとうございました。
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