【つながる旅行記#443】『こんぴらさん』の階段の横道で、海難救助の偉人を知る【琴陵宥常】
前回は金泉寺へのウォーキングを楽しみ、その後板野駅から善通寺までの移動を終えた。


一夜明け、自分はホテルを出発。
思えば2日連続でかなり歩いているわけだが、寝ればそこそこ回復してくれるのは、まだ自分に多少若さが残っているからなのかも……?
この回復力、できるだけ長く続いてくれよ……!

そんなこんなでたどり着いたのはうどん屋である。
なにせここは香川県。
朝からうどん屋がやっているんですよ……!!(助かる)

いや〜! 柔らかい鳴ちゅるうどんもよかったけど、香川のコシがあるうどんもやっぱり美味いね!
あと肉ぶっかけうどん考えた人って天才だと思うわ!!

そしてなにやら、この店には飲食した人には無料うどんをくれるシステムがあるようだ。
このお店は茹で上がって30分経過したうどんは客に出していないそうで、もしそういううどんが発生してしまった場合には、こうして無料うどんとして提供しているとのこと。
まあ今回はただの旅人なので、うどんを受け取るわけにはいかないのだが、このシステムに救われる人は普通にいそうである。
もし自分が近くに住んでいたら、昼ごはんや晩ごはん用に余裕で確保していたことだろう。
(ある意味で、これもお接待文化の発露なのかも……?)

さて、朝ごはんもしっかり食べたところで、善通寺駅へ到着だ。
「いや善通寺市の観光しないんかい!」という幻聴が聞こえるが、今回は他に行きたいところがある。
善通寺にはもう一泊するので、ひとまずお預けということで。
では、移動開始!!





というわけで、やってきたのは琴平町である。
善通寺からあっという間に来れるこの場所には、『金刀比羅宮(ことひらぐう)』という海の神を祀る神社の総本宮があるのだ。
江戸時代には基本的に信仰目的の旅行くらいしか許されなかったそうだが、金毘羅参りはその中でもかなりの人気を誇ったそうな……!





さてさて、この道を真っ直ぐ行くと金刀比羅宮に行けるようだ。
なお金刀比羅宮のことを、親しみを込めて『こんぴらさん』と呼ぶらしい。
読みやすくて良いね!!



さすが香川県だけあって、うどん要素がここにもいっぱいである。
やはりこういう県を代表する要素があるって良いな。
(うちの県なんて……)

と、そんな事を考えていたら、『海の科学館』を発見。
まさかの科学館要素まであったとは……!
こりゃ時間が余ったら寄っていかないとだな。



さて、それではこんぴらさん目指して階段を登っていこうか!!
やはり旅とは坂を登るものなのだ。
そして、3日連続で足を酷使する展開に衝撃を隠せないわけだが、これができるのが若さというものなのだと思う。
いつか失ってしまう若さ、今しっかり使っておくよ……!




ハア……!ハアッ……!!
ふ、普通にきついんですけど!?

上を見上げると勘弁してくれと思うわけだが、自分よりもお年を召した方がスイスイ登っていたりするので、負けてはいられない。
ハヒ……!ハヒッ……!!
(なお本殿までは785段、奥社までは1368段である)

あ〜もう疲れた……。
一旦横道に逸れて足を休めよう。
なになに……? 琴陵宥常(ことおかひろつね)さんの銅像があるって?


どうやら琴陵宥常氏は、明治初期の時代に今の金刀比羅宮に至る道を切り開いた人らしい。
そして看板を読むと、『日本水難救済会を創設』とある。
日本水難救済会は、沿岸海域の遭難者や船の救助に駆けつける民間ボランティア団体だ。
海難事故が起きた時、海上保安庁や自治体による公的な救助体制だけでは限界がある。
そんなときに、全国1300以上の支所に所属する5万人のボランティア救助員が、昼夜を問わず駆けつけて対応にあたるのだという。
しかしなぜ、海難救助の団体を宮司が……?
調べてみると、きっかけはあのノルマントン号事件だった。
明治19年(1886年)10月、イギリスの貨物船「ノルマントン号」が紀州大島沖で座礁沈没した。
この時、イギリス人乗組員は全員脱出して助かったが、乗り合わせていた日本人25名は、なぜか全員が水死してしまったという。
「これは明らかな人種差別によるものだ!」と世論は沸き立ったが、当時不平等条約下にあった日本では、船長の罪は軽微なもので済まされて終わってしまう。
まさに日本人の不平等条約に対する意識を変えるきっかけとなった事件だ。
琴陵宥常氏は、このノルマントン号事件の顛末を知って、水難救済制度の必要性を痛感した。
そして海の神を祀る金刀比羅宮宮司として海上安全の祈願はしてきたが、それだけでは駄目なのだと気付く。
「神護は人力の限りを尽くして初めて得られるものであり、ただ神力のみに頼るのは神に敬意を失するものである」
琴陵宥常氏は、人の力でこの状況を打開する方法を探り始めたのである。
翌1887年、黒田清隆による欧州視察旅行記録である「環游日記(かんゆうにっき)」を読んだ際に『ロシア水難救済会』の詳細な説明があるのを見つけた琴陵宥常氏は、さっそく行動を開始する。
1888年には上京し、水難救済会の設立に向けて広く賛同者を募った。
そして1889年には、当時の総理大臣である黒田清隆に会って水難救済会設立の賛同を得つつ、当時の海軍関係者とも協議を重ねて、同年の11月には「大日本帝国水難救済会」の開会式が金刀比羅宮で行われることとなった。
そしてその後も水難救済会の基礎を固める活動を続けたのち、
1892年、琴陵宥常宮司は琴平にて逝去したという。
うーむ……!!
これまた凄い偉人を発見してしまった。
というかよくよく見ると、スピード感が凄いな!
なにせノルマントン号事件(1886年)によって「海難救助をなんとかしなくては」と思い立ってから、たった3年後の1889年には、総理大臣に会って会を設立しているのだ。
やはりターニングポイントは、事件の翌年に黒田清隆の「環遊日記」を読んで『ロシア水難救済会』を知ったことにあると思うが、まず宮司がそんな本を読んでいたことに驚きである。
……いや、当時の宮司は問題を本気で解決したい一心で、アンテナが凄まじく研ぎ澄まされていたのかもしれないな。
ちなみに「環遊日記」はネットで読めます!(読みやすいとは言ってない)↓
しかし総理大臣に会うまでのスピード感は相当なものだと思うが、これは金刀比羅宮の宮司としての立場が影響してそうな気もする。
なにせ海の安全を司ってきた金刀比羅宮の宮司が、私財を投げうって海難救助の会を設立しようとしているのだ。
更にはノルマントン号事件の記憶も当時まだ色濃く残っていただろうし、こうなったら賛同不可避である。
(そういう意味でも、スピード感は極めて重要だったのだろう)
そう考えると『然るべき地位にいる人が、人々のために善の方向に動いてくれた』というのは、本当にありがたいことだなと思えてならない。
そういえば、ノブレス・オブリージュってこんな感じの概念だったような……?
よーし、自分も偉くなったらそうしよう!!(見込み薄)

いやはや、階段を登る苦痛を味わうだけかと思いきや、横道にこんな学び要素も用意されていたとは思わなかった。
こういう出会いがあるから、旅行は良いんだよな……!

ではまた階段に復帰して、こんぴらさんを目指すとしようか。
目的地はまだ遥か上だが、登りきった先にはきっと素晴らしい景色が待っていると信じて。
(耐えてくれよ、両足……!)
次回へ続く!!
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