【つながる旅行記#415】瀬戸大橋を構想した利他の偉人、『大久保諶之丞』について知る【瀬戸大橋記念館】
前回はゴールドタワーを見つつ、瀬戸大橋記念公園に辿り着いた。

それでは公園内にある『瀬戸大橋記念館』に入っていくとしよう。
瀬戸大橋の知識、補充するぞ!!



なんだかモンドリアン風な入口を通った先が展示室のようだ。
香川ってすっかり芸術のイメージが定着したよなと思いつつ、さっそくGO!

……ところで、そもそも瀬戸大橋のアイデアを考えついた人は誰だったのだろうか。
そしてそれは一体いつの時代のことだったのか?

そんな自分の疑問にしっかり答えをくれる展示物があった。
どうやら瀬戸大橋の構想は、今から遡ること約140年前の1889年(明治22年)に、大久保諶之丞(おおくぼ じんのじょう)が語っていたそうだ。
大久保諶之丞は42年という短い生涯の中で、四国全てを繋ぐ『四国新道』や、『香川用水』などの事業に関わった偉人であり『四国の設計者』と呼ばれている。
そんな彼が讃岐鉄道開通の際の祝辞で語ったのが、
「塩飽(しわく)諸島を橋台となし、山陽鉄道に架橋連結せしめなば、常に風波の憂ひなく、午後に浦戸の釣を垂れ、夕に敦賀の納涼を得ん」
(「瀬戸内海に浮かぶ島々(塩飽諸島)を橋の土台にして、対岸の鉄道と橋でつなぎましょう。
そうすれば、荒波を心配して船を出す必要もなくなり、昼間に浦戸(高知)で釣りをして、夕方には敦賀(福井)で涼むといったことも、当たり前にできるようになるのです」)
……という、瀬戸大橋構想なのだ。
そしてこの発言から100年後の1988年に、瀬戸大橋は本当に完成するのである。
(しかし、浦戸を午後出発で夕方には敦賀ってのはキツいんじゃないか……?)

いや頑張ればいけそうだぞ……!?
大久保諶之丞の未来を見通す能力、さすがである。
なお大地主の三男だった大久保諶之丞だが、一揆によって家を焼かれた経験をしている。(西讃竹槍騒動)
ただでさえ地元愛が薄い自分としては、「そんな経験をした地域に尽くせるかなぁ……?」と思ってしまうわけだが、大久保諶之丞は「こんなことを起こすほどに苦しい農民の窮状があるのだ…!」という考え方をする人だった。
そして彼は豊かになるためには交易が重要だと考え、当時の山あり谷ありの峠道だった箸蔵街道を平坦な道に改良し、川に橋をかけて、洪水時でも物資の流通が滞らないようにする。
これによって地域の交易量は飛躍的に向上し、彼は道の重要性を深く理解することになったのだ。
そんなこんなで、一介の村役人でありながら、工事に私財まで投じて(というか凄まじい借金までして)、圧倒的な利他の精神で様々な事業に全力で取り組んでいった大久保諶之丞。
一方で彼の家族の生活は相当大変だったようなのだが、彼には家族の貧しさよりももっと大きな物が見えていたのだろう。
(こういう世の中のために奮闘する人を支えていける仕組みや豊かさがある現代は、恵まれているんだなと……)


そんなわけで、構想自体は完成の100年前からあった瀬戸大橋。
しかし考えついてはいても、それを実行できる技術や社会の状況が伴っているのかは別問題なのだ。
ではそんな瀬戸大橋が存在しなかった頃に、四国と本州を繋いでくれていた『宇高連絡船』についてもしっかり学んでいくとしよう。
次回へ続く……!!
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