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【つながる旅行記#416】岡山と香川をつないだ宇高連絡船と、紫雲丸事故【瀬戸大橋記念館】

前回は『瀬戸大橋記念館』にて、大久保諶之丞の知識を得た。

140年前から構想自体はあったという瀬戸大橋。

しかしあれほどの橋を作るには、昔の日本ではあらゆるものが足りていなかった。

そんなときに岡山と香川を繋いでくれていたのが、宇高連絡船である。

宇高連絡船あれこれ

宇高連絡船は、1910年に旧国鉄の鉄道連絡船として就航し、高松と玉野・宇野を繋いでいた。

そして鉄道連絡船といえば、自分は過去に青森で青函連絡船の八甲田丸を見たことがあるが、あれと同じように宇高連絡船も、船の中に列車が搭載可能だったのだ。

八甲田丸の内部の様子


昔の高松駅周辺の航空画像を見ると、かつては線路が港の際まできていたことがよく分かる。

ここで列車を積み込んで、宇野港へ向かっていたのだ。

1979〜1983年の高松駅周辺
2021年

ちなみに、この場所に港ができたのは、上の画像の右下部分にある高松城のおかげらしい。

日本三大水城で有名な高松城だが、海に面した城の北部分には昔から港があったのだという。

その遺構を有効活用できるということが、1900年代の誘致合戦の際には有利に働いたというわけだ。


そんな宇高連絡船だが、ただでさえ航行するのに注意が必要な瀬戸内海なうえに、宇野の近くにある直島水道(狭い)を大型の船で通るのはかなりの緊張感があったらしい。(当時の船長談)

宇野

そしてこんな場所なので、やはり過去には事故も起きている。

中でも紫雲丸8年間に5度の事故を起こしており、5度目の事故は国鉄戦後五大事故にも数えられている凄惨なものだった。

なお5度目となる紫雲丸の事故の前年(1954年)には、台風で船が沈没して1000名以上が犠牲になった洞爺丸事故が発生しており、この立て続けの海難事故によって瀬戸大橋建設への機運が高まったという。

悲劇からの出発

そしてこれを機に宇高航路が完全分離され、宇高東航路宇高西航路になったり、船の構造の見直しや、海上保安庁の停船勧告基準が厳しくなった。

おかげでその後は大規模な人身事故はなくなったのだが、濃霧などで出される停船勧告によって、輸送上の問題が生じ始める。

濃霧で止まるフェリー

そもそもの航行難易度も高いが、濃霧などの気象条件に大きく左右されるのが船なのだ。

「ああ、もし岡山と香川の間に橋がかかっていれば……」

これはそう考えるのが当然というものである。


そんなわけで、かつて大久保諶之丞が思い描いた夢の構想は、大きな悲劇をきっかけに動き出した。

そしてここから、23年に及ぶ建設への歩みが始まるのである。


次回へ続く!!


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