涼夜の怪談【カフェ浪漫主義49】
今週の鎌倉ではぼんぼり祭や実朝祭などの様々な催しがあり、写真の西川流の奉納舞は日本舞踊が夜の野外ステージ(舞殿)で見られる稀少な機会だ。
8月は八幡宮ほかで立秋から盆踊り秋祭りまで行事が続くが、俳句歳時記には今日では見られなくなった美しい風習が季語として沢山残っている。
特に盆や正月の風物は昔の方が遥かに豊富だったが、今は各々の家庭でも風鈴、吊忍、盆灯籠などの情緒ある風物がなかなか見られなくなった。
美しい精神生活に通じていた涼趣の品々も、エアコンの無かった時代の方がずっと行き渡っていたようだ。
果たして現代の都会生活には子供達の記憶に長く残るような夏の風物詩がどれほどあるだろうか。家庭や友達でやる納涼の怪談や肝試しもあまり聞かなくなったが、近年でも『ゲゲゲの鬼太郎』の新劇場版は好評だった。

我家では鬼太郎よりもっと古い江戸の絵草子や小泉八雲の『怪談』に親しんで来た。
小泉八雲の英語版縮緬本の初版は途轍もない値段になってしまい全く手が届かないが、近年池田雅之氏による八雲著作集が文庫版で揃った。中でも『東大講義録』は啓示に富んだ名著だと思う。
八雲の著作では勿論妖怪ものが衆目を浴びたが、随筆や講義では彼が小さな神々や自然の精霊達が人々の暮らしの中に生きていた日本の風土を楽園のように思っていたのが伝わってくる。妖精譚の国アイルランド出身のロマン主義者の面目躍如と言ったところだ。
注意したいのは怪談やホラーは宵の内に読むべきで、くれぐれも就寝前にはやめた方が良い。最もお薦めの時間は夕涼みの刻で、しばらく前なら妖怪図鑑を開きながら我が荒庭に蛍が飛ぶ風情も見られた。
近年では立秋過ぎからが真の酷暑期で、8月の炎昼時はさすがに私もエアコンの効いた部屋に籠り、カウチポテト流でゆっくり読書やビデオ鑑賞の時を過ごす。

近所のコンビニの新作山葵味ポテトに、飲物はカウチポテトのために用意したミッドセンチュリー(1950年頃)のコカコーラ社のガラスマグで、これでゼロコーラを爽快にがぶ飲みするのが如何にも夏休みの気分になれる。
ジャンクフード用の菓子器も、涼しげな水色に上がった鼠志野の四方菓子鉢を最近見つけ、早速この梅雨明けから使っている。コンビニスナックも季節に合った良い菓子鉢に盛れば、王侯貴族の軽食にも思えてくるから不思議だ。
今のコンビニ食品のヒット作は選び抜かれたプロ中のプロ達により日々工夫を重ね、口煩い膨大な消費者達の吟味に耐えて残った、世界に冠たる美食なのだ。
さて、上記の八雲著作集のうち『東大講義録』は[以前の別稿]で触れたので、今日は残る2冊を読もう。
『妖怪・妖精譚』は、有名な『怪談』『骨董』に加え、アメリカ時代の再話選も収録した全54篇のアンソロジーだ。どの物語も平明で読みやすく、数ページで終わる短編ばかりなので一日に一話ずつ読み進めるのがちょうど良い。
「八雲の再話には清涼感とカタルシスがある」と池田氏が解説している通り、読んでいるだけで実に清々しく、憑き物が落ちていくように夏の煩わしさを一時忘れさせてくれる。そういう娯楽は案外稀少で、他に思い当たるものは市川崑監督の石坂版金田一シリーズと京極夏彦の百鬼夜行シリーズくらいだ。
『さまよえる魂のうた』は、八雲の自伝と文学論をまとめたもので、後半は『東大講義録』にも再録されている。そこで八雲はシェイクスピア、ブレイク、ワーズワース、コールリッジを英文学史上最も重要な四人として取り上げ、彼らの特長を論じている。
日本では語学としての英語ばかり重要視されるようになって久しいが、今もなおシェイクスピアの悲劇が多少話題になるくらいで、他の詩にはほとんど触れられることがない。ワーズワースでさえも詩的に高度な訳が為されているとは言い難い。
こうした詩的世界の頽廃を憂い、また、八雲の「一日五行だけでも創作してほしい」という最後の言葉に背中を押され、以前[別稿]にてワーズワースの「麦刈る乙女」の文語定型訳を試みた。この度はその訳詩をさらに推敲し、古風な楽曲をつけてミュージック・ビデオに仕上げた。
原詩のままの長さだとどうしても一曲の間に収まらないので、楽曲に合うように訳を調整した。
「麦刈る乙女」より
(訳詩/編曲:探神院泣鷗)
天降りし山の穂刈りに歌ふ
乙女の聲に耳を澄ませば
やがて木霊の寄せ来たる
陸の彼方の眞砂の國の
心宥める小夜啼鳥も
斯くは清しく囀らず
歌に綾なす別れの定め
哀しき節を結ぶ詞は
御霊鎮めの囁きか
海の彼方の蓬莱島の
幸の萌しの時鳥にも
胸は斯ばかり高鳴らず
歌の由縁は人知れず
乙女の聲よ永劫に
やがて行方の丘に立つ時
我が心根に聲音は宿り
永遠の木霊に浸るのみ
©️探神院泣鷗
八雲が『さまよえる魂のうた』でワーズワース第一の詩として紹介していたのも、やはりこの「麦刈る乙女」だった。収穫に勤しむ乙女の歌に神話的な心象風景が交錯していく自然観は、宮沢賢治や保田與重郎の詩的世界ともよく似たロマン主義者の境地だ。
忘れられつつある詩を訳し、曲をつけて親しみやすくすることは、韻文を再話するということにもなる。八雲の後を継ぐつもりで、今後も訳詩や音楽化に取り組んでいきたい。
