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インタービーイングの医療

訳者コメント:
 西洋医学に基づく現代医療は、身体を物質と見なして機械のように操り、細菌を敵と見なして戦いますが、本当の原因に対処できず、かえって身体の状態を悪化させることがあります。漢方医学などの伝統医療や代替医療は、人の全体をシステムと見なして不調和を解消しようとしますが、しばしば西洋文明の影響によって歪められ、身体を操る別の方法に堕ちてしまいます。施術者だけでなく患者の側がそのような期待を持っていれば、施術者と患者の関係がそのように歪められます。代替医療が「信じる人にしか効かない」という誤解は、このような背景から生じます。本当は、身体には自己治癒力があって、施術者や薬草は自己治癒力が発動するための手助けをするのです。
 ホリスティック(全体論的)、ホールネス(全体性)のような言葉は、伝統医学の考え方では当たり前だったはずの概念ですが、代替医療の技法と共に英語圏から移入され、分かりやすい日本語のないままカタカナで通用しています。この「代替(オルタナティブ)」という言葉が示すように、従来の還元主義的な主流科学技術に対抗するものとして言語化された概念なので、英語にも言い表す言葉が無かったのかもしれません。
(お読み下さい:訳者からのお知らせ


7.8 インタービーイングの医療

私は間違っていた。病原菌は関係ない。「素地」が全てだ。  (ルイ・パスツール)

序章「テクノロジーの勝利」で述べたのは、1940年代から1950年代にかけての現代医学が、多くの感染症の克服については勝利をおさめたにもかかわらず、その後は、がん、関節炎、心臓病、それ以降に発生した多くの新たな病に対し、勝利は続かなかったことです。分子生物学の知識は飛躍的に増加し、ナノ医療や遺伝子治療が注目を集めているにもかかわらず、今日の新種の疾患に対して、ほとんど進展はありません。確かなのは、奇跡的な治療法もなければ、一昔前の抗生物質やワクチンのような「特効薬」も無いことです。

その代わりに強化され続けるコントロールの体制は、病原菌を殺し、環境を滅菌し、臓器を切除し、ホルモンを補充し、身体の化学的性質を意のままに操ることを基にしています。あらゆる技術的対策と同じように、このコントロールの体制はいっそう高い代償を伴うようになり、それを維持するには努力を積み重ねる以外にありませんが、それでもますます脆弱になっていきます。

第5章の「細菌との戦争」で、細菌を殺す代わりに何ができるのかと私は問いました。コントロールに代わるものは何でしょう? 自然の成り行きに任せることでしょうか? そのとおりですが、「自然の成り行きに任せる」というのは、体がばらばらに分解していくのを黙って見ているのとは全く違う意味になります。分断のイデオロギーに染まっている私たちは、自然を混沌に向かう力であり根本的に友好的でないものと見ています。適者生存の考え方では、私たちが最も安全で健康で快適なのは、ライバル(つまり他の生き物全て)を打ち負かし、人生をコントロールのもとに置いたときです。

生物学の新たなパラダイムが全てを変えます。自然界における共生の優位性、あらゆる生命を統合する遺伝子の流動性、そして偶然ではなく自然の中に書き込まれた目的と美という考え方は、すべて健康と癒しに対する全く異なる概念につながります。もはや健康維持は自然の摂理に逆らうことではありません。本当は自然の摂理に逆らうなら不健康になるのです。

全体性ホールネスは健康の代名詞であり、癒しは全てと一体になることです。本書を通じて私が主張してきたのは、文明の弊害は結局のところ、自己に対する誤った認識から生じていることです。心理学的にも生物学的にも、私たちは自分自身を本当の自分よりもはるかに小さなものと見ています。言い換えれば、私たちは自分自身を完全な全体性ホールネスよりも劣った存在と定義しているのです。あるいは、自分たちを不健康な存在と定義しているとも言えます。病は私たちの自己定義に組み込まれているのです。

〈新たな生物学〉の理解では、いかなる存在も他の生命から切り離され区別されることはなく、単なる相互依存を超えて、生命の個別で自己完結的な単位を認めない「相互共存性インタービーイングネス」を、あらゆる存在が共有しています。細胞は生きている、臓器は生きている、生物は生きている、土壌は生きている、生態系は生きている、地球は生きている…、もしかしたら宇宙さえも生きていて、それぞれが他のものに依存しているだけでなく、他のものとの関係性の中にだけ存在するのかもしれません。医療で細菌と戦い、テクノロジーで自然全般と戦うことで、私たちは自分自身の一部と戦っているのです。

この私たち自身に対する戦争は、私たち自身の体内に劇的な形で展開します。近代以降の新しい流行病は、ほぼ全て免疫系の機能不全が関係しています。健全な免疫系の機能は、最も基本的なレベルで自己と非自己を区別する身体の能力にかかっています。それができなければ、自己の不可欠な一部を他者として拒絶することになり、これが自己免疫と呼ばれる状態です。自閉症、糖尿病、線維筋痛症、多発性硬化症、アルツハイマー病、狼瘡ろうそう、喘息、関節炎、さらには動脈硬化症などの疾患は、全面的または部分的に自己免疫疾患であり、一年に10%から20%で増加しています。免疫系が誤作動を起こすもう一つの形は、拒絶すべきものを見落として良性として扱い、がんやカンジダ菌の異常増殖を許してしまうことです。アレルギーの場合、免疫系は実際には無害なものに対して極端な反応を起こします。エイズの場合は免疫系そのものが攻撃対象になります[43]。

これらの病は過去20年間で大流行に達し、私たちが持っているコントロールの技術を一切寄せ付けないことが判明したのも偶然ではありません。〈テクノロジーの計画〉というイデオロギーが言うのは、おそらく分子レベルで十分な理解さえあれば、最終的にはこれらの病気も「コントロールのもとに置く」ことが可能だということです。この企てが明らかに失敗したことは、三十年に及ぶ「がんとの戦い」に代表されますが、コントロールという概念の基礎全体に疑問を突き付けます。それが指し示すのは劇的に異なる医療のパラダイムであり、古代に起源を持つと同時に、科学を変容させつつある現代の生態学的・目的論的パラダイムにも根ざしています。

現代に流行する免疫疾患の具体的な病因はそれぞれ異なります。環境中の毒素に起因するものもあれば、ストレス、腸内細菌の減少、加工食品、医薬品に起因するものもあります。これら全ての直接的因子には共通の根源があります。自然からの分断が、自然を操作、改良、支配の対象として扱うよう私たちを駆り立てるのです。コントロールの強化という従来の解決策は今日の病気の原因を悪化させるだけですが、本当の治療には何らかの方法で分断の根本原因に対処する必要があります。

定義によれば、私たちをより完全な自分の在り方へと導くものこそが、より完全な全体性ホールネスへ、したがって健康へと導くのです。特に現代の自己免疫疾患を癒すことができるのは、コントロールの企てを偽装した自己との戦いを鎮める医療だけです。その直接的な例が、ドナ・ゲイツが開拓した自閉症治療へのボディ・エコロジーというアプローチ(取り組み方)です。彼女の方法は、善玉菌のサプリメント、発酵食品、制限食を組み合わせて、腸内生態系を再構築し、全身で異常増殖した真菌を除去します。その結果は驚くべきものです。自閉症は不治の病であるという従来の見解に反して、ドナと彼女の教えを受けた人々は、この身体を衰弱させる自己免疫疾患から何千人もの子供たちが立ち直るのを助けてきました。5歳前から治療を開始すれば完治可能ですが、年長児や若年成人でも大きな改善が見られます。

ドナ・ゲイツのアプローチは全体論的ホリスティックなものです。還元主義的な治療法なら、ミエリンを攻撃している免疫系の要素を無効化します(さらに、副作用の免疫低下を別の薬で治療します)。同じように、樹木の枯死に対する還元主義的なアプローチは、菌類のような直接の原因から樹木を化学的あるいは遺伝学的に保護することであり、農作物の被害に対する還元主義的なアプローチは、その原因となる昆虫を殺すことです。エコロジカル(生態学的)なアプローチは、自然の故障や機能不全を直そうとするのではなく、問題は隠された全体性ホールネスが崩れたことによる症状だと捉えます。還元主義が原因と見るものを、全体論ホーリズムは症状と見ます。農場では、害虫の増殖は土壌の生態系破壊の症状であって、それが作物種を弱体化させると共に植物の多様性を低下させ、それに伴って害虫を抑制する昆虫や鳥類の種が失われることで生じるのです。殺虫剤という還元主義的な解決策は、害虫の増殖という症状をもたらした不調和のパターンをさらに強める技術的対策にすぎません。全体論的ホリスティックな解決策とは、農場を工場と捉える直線的モデルから、生態系モデルへと移行し、生垣や混作、地力回復を組み込むことでしょう。農作物、家畜、昆虫、野生植物、土壌微生物、鳥類、農家の家族、そして最終的にはそれらが共に養う共同体の間に広がる相互関係は、ひとつの生態系を構成し、その全体を部分に落とし込むことはできません。エコロジカルな解決策は還元主義とは正反対です。単純化された直線的なシステムの中で変数を分離しようとするのではなく、複雑さとフィードバックを歓迎し、直線性とそれが生むコントロールを避けるのです。エコロジカルな農場は、エコロジカルな身体と同じく、コントロールされていません。

コントロールが実際、健康に悪影響を及ぼすのは、それが非直線的な全体を部分の集まりに落とし込むことで生まれるからです。結局これこそが、身体の生理、植物の遺伝子、土壌化学のコントロールがますます精密になっても、逆に私たちがますます病んでいく理由なのです。私たちは現実を矮小化し、自然をすり減らします。この流れは、はるか昔に象徴文化の発展とともに始まり、それが現実の直接的な知覚を抽象的な現実の地図で媒介するようになりました。それ以来、全体性ホールネスからの堕落は加速し、全世界のあらゆるレベル、つまり地球と社会と身体に、病が蔓延しています。健康への回帰は、再合一の時代そのものであって、コントロールを手放して、自分自身よりも偉大な全体性ホールネスを信頼することです。私たちはコントロールのパラダイムであるテクノロジーに慣れきっているので、その代替案を思い描くのが困難です。テクノロジーの概念そのものがコントロールを体現しているように見えます。だからこそ、多くの急進派の結論は、健全な社会とはテクノロジーを放棄して原始的な生活様式に戻る以外にないというものです。しかしテクノロジーの在り方として全体論的ホリスティックでエコロジカルなものもあり、自然を矮小化するのではなく、私たちをより完全に自然へ導くことを目指します。それはこれまで見てきたように、自然は止まったものではなく、より複雑なものへと進化していくからです。おそらく人類という種の出現は、複雑性が次の段階へ飛躍することの一部なのです。だからこそ私は、過去への回帰ではなく、非還元主義的で非直線的なテクノロジーの文化的記憶を、未来のモデルとして活用することを提唱しているのです。

人間の健康という分野では、幸いにもこのような全体論的ホリスティックなテクノロジーのモデルが少なくとも二つ、アーユルヴェーダと中国伝統医学があり、現在も非常によく保たれています。これらの大系はどちらも、対症的な緩和療法(頭痛にはこの薬草を、便秘にはあの薬草を)ではなく、症状として現れた全身的な不調和のパターンに注目します。「『どんなXがYを引き起こしているのか』ではなく、『XとYの間にはどのような関係があるのか』を問います。[44]」因果は直線的なものではなく、患者の身体、性格、家庭生活、仕事、環境など、どの側面からも切り離すことのできない全体的なパターンに織り込まれているのです。テッド・カプチュクはこう書いています。

西洋医学にとって、病気を理解するということは、患者という存在から切り離された別個の存在を明らかにすることだが、中国医学にとっての理解とは、患者の全ての徴候や症状の関係を把握することである。…このように中国の方法は全体論的ホリスティックであり、全体との関係を無視しては、いかなる部分も理解できないという考えに基づいている。従って症状というものは、原因をさかのぼるのではなく、全体性の一部として見られる。[45]

これは生物学の新たなパラダイムと、何とよく似ていることでしょう。そこでは、遺伝子や生物を個別ばらばらの存在としてではなく、互いの関係や環境との関係から理解します。自己触媒集合やマンデルブロ集合の創発現象を思い出してください。それらが持つ全体の特性は、どれか一つの部分にその源を特定できません。中国伝統医学では、「脾臓に影響する寒湿かんしつ」のようなパターンは、細菌やウイルスのような分離可能な原因ではなく、その人全体の性質です。それは部分どうしの関係に内在するものですが、どれか一つの部分に特定することはできません。したがって治療の重点はパターン全体を変えることに置かれます。

全体のパターンには全ての部分が関わっているため、適切な治療ならどの部分に施しても全体に変化をもたらすことができます。これがカイロプラクティックの根本原理です。しばしば「背骨のズレは万病のもと」と揶揄やゆされますが、カイロプラクティックが実際に言っているのは、背骨のズレはあらゆる病のパターンの一部だということです。中国医学の「徴候と症状」のように、背骨のズレは病の原因であると同時に症状なのですが、病を反映するのは背骨だけではありません。あるカイロプラクターが語ったのは、不調和のパターンは背骨だけでなく、体内の全ての細胞、組織、臓器に投影されるので、もし方法さえ分かれば、細胞ひとつ、つまりどの細胞でも操作することで治療できるだろうということす。それでもカイロプラクティックが背骨に焦点を当てるのは、一つの細胞よりも操作しやすいからです。他の分野では、身体の他の部分やシステムに焦点を当て、同じ結果を達成します。足裏リフレクソロジーは足裏に現れる身体の「地図」を利用し、耳つぼ療法は耳に、虹彩学は虹彩への投影に基づいて病気を診断します。中国伝統医学の診断は、様々な病気のパターンと、それに対応する脈や舌の特徴との間にある経験的な相関関係を根拠にします。このどれも「原因」ではなく、すべてが全体を貫くパターンの一部なのです。そのどれかを変えればパターンの完全性は崩れ、新たなパターンの現れる可能性が生まれます。

身体の各部分が全体の(歪んではいるが完全な)地図を含んでいるというのは、ホログラフィック原理という宇宙観と共鳴し、その正確な比喩メタファーは自己相似性というフラクタルの性質に見出すことができます。マンデルブロ集合はそのようなフラクタルの一つで、小さな点の一つを拡大すると、元と同じような複雑な集合全体の歪んだ複製が見つかることがよくあります。各部分が全体の情報を全て含んでいるという考え方は、還元主義に深い疑問を突き付け、治療について全く異なる概念を示唆します。ホリスティックな治療法は、今はまだ部分に対して行われていますが、それでも還元主義的なものではなく、部分はただ全体への入り口なのです。

ある療法の有効性は、不調和のパターンをどれだけ明確に解消できるか、そしてその特定のパターンに適した治療を持っているかどうかによって決まります。薬草医学、特に中国伝統医学とアーユルヴェーダでは、全身的なアプローチによって、熱さと冷たさ、暖かさと乾燥、動きと滞りなど、病気の根底にある風土に関わる一般化可能な不調和を特定し、これらの基本的な要因を新たなパターンが現れるよう修正します。もう一つの方法、特異的アプローチは、一つの薬草を正確なパターンに適合させ、「特異的レメディ」、「シンプル(単体の薬草)」、アーユルヴェーダで言うプラバヴァ(特別な効能)として適用します。古典的ホメオパシーもこのアプローチを用い、病気のパターンに合った単一のレメディーを使います。

これら全ての大系を生み出した世界観、世界との関わり方は、西洋の「アロパシー逆症療法」医学の根底にあるものとは全く異なるものです。西洋医学はコントロールを基にしています。不快な(あるいは生命を脅かす)自然な身体反応は抑制し、自分ではできないこと(腎臓透析など)を身体に代わって行い、自然の機能に欠陥があれば改善し(甲状腺を切除して代わりに合成サイロキシンを投与し)、身体を改造(血管を拡張して高血圧を治療し、スタチンでコレステロール値を下げ、臓器を摘出)します。 「通常の生物医学的アプローチは、身体に本来あるべき働きをさせる薬を導入することで、不足している身体の能力を補うことです。全体論的ホリスティックなアプローチは違います。身体を無理やり思い通りに動かそうとするのではなく、身体が自分のことは自分でできる健康な状態へと戻そうとするのです。[46]」全体論的ホリスティックなアプローチでは、自然は本当は「自分のことは自分でできる」のであり、自然には全体性ホールネスに向かう流れが備わっていると仮定します。第6章で述べた複雑系がもつ自己創発的で自己調整的な特性は、この見方に新たな科学的信憑性を与えます。一方、「身体を無理やり思い通りに動かそうとする」考え方は、〈テクノロジーの計画〉の典型を人体に適用したものです。これは医療に対する独裁的なアプローチであり、代替医療が従来の生物医学的な立場で自分たちを正当化しようとするときにも必ず陥る、共通の欠点です。マシュー・ウッドの言葉を借りれば、それは「主流派の猿真似」なのです。彼はこう書いています。

薬草は症状を抑制するよう人為的に使うことができる。たとえば、(セイヨウメギ、ヒイラギナンテンモドキ、ヒドラスチスに含まれる)ベルベリンで細菌を殺すなら、それは人為的な押し付けである。細菌は二次的な掃除屋であり、ふつうは組織の状態に異常が生じた結果として発生する。熱さや寒さ、湿りや乾き、収縮や弛緩という過剰な状態が取り除かれれば、バクテリアが巣くう環境も取り除かれる。もうひとつの方法は、エキナセアを使用して白血球の産生を高め(これが身体そのものの方法なのだが)細菌を殺すという方法である。施術者は身体が本当に白血球の増産を必要としていると分かっているのだろうか? それとも、これは単に都合のいい考えで、自然の全体的な文脈から引き裂かれた小さな事実であって、その施術者は生物が実際にどのように機能しているのか、何が本当に必要なのかを知らないまま、自分が部外者で不器用な侵略者という立場に従って、その決め付けを適用しているのだろうか? このような強制的に誘発された活動は、急性症状を一時的に、あるいはおそらく永久的に取り除くかもしれないが、身体と共に働き、身体の求めに従って刺激したり鎮静化させたりしない限り、決して健康的でない人工的な状態を押し付けることになる。細菌を殺すことは、しばしば不自然で有害である。[47]

〈再合一の時代〉の医療は、医薬品を植物薬へと表面的に置き換えただけのものではなく、自然や健康に対する深く異なった理解を体現するのです。第6章で私が書いたのは、科学と技術に対する新たなアプローチのことで、それが目指すものは、自然に取って代わり服従させることではなく、むしろ自然の中で私たちの役割と職務を発見し、それを果たすことです。〈再合一の時代〉の医療は、独裁的なモデルを新たなパラダイムに置き換えます。医療とは、助けであり、教師であり、友人なのです。全身的な形態で用いるなら、薬草は身体のエネルギー的・生化学的な生態系を正すために必要な助けを提供できます。特異的な形態で用いるなら、ホメオパシーのように驚くほど微量であっても、身体が元気を取りもどす方法を教えることができます。たった一つの分子でも、身体には「ああ、こうすればいいんだ」と分かるかもしれず、フィードバック機構によって、分子自身を複製したり必要な類似物を生成したりするプロセスを、誘発し呼び覚ますかもしれません。

生命は無菌の隔離状態では健康に育ちません。どんな生命体も他の生命体から独立しているわけではありません。私たちが健康な状態を維持するために、バクテリアや植物を含む他の生命から継続的に情報を注入してもらうことが必要なのは、私たちの全体性ホールネスが他の生命も全て含んでいるからです。生きた植物の無限の可能性を、ほんの一握りの「有効成分」に落とし込むとき、私たちは生命から、ひいては自分自身から切り離され、他者への反発を悪化させ、それが自己免疫疾患、アレルギー、がんとして私たちの身体に現れます。同じように、私たちが微生物の世界から自分自身を隔離するためにワクチン接種や除菌をするなら、他の生命との活発な均衡状態を維持するために必要な、遺伝的・生化学的情報を与えてくれる遺伝子で満ちた世界から、自分自身を切り離すことになります。

医学を教師として、あるいは新しいパターンの触媒として捉える考え方は、急成長する「エネルギー医学」の分野にも当てはまります。「水の時代」の節で私が述べたのは、生物学における情報伝達の媒体として現在受け入れられているものは、存在するもののごく一部に過ぎないことです。カイロプラクティックや薬草が、パターン全体への別の入り口を認識し活用しているように、様々なエネルギー療法は従来の科学では見えにくかった別の入り口に作用します。そして薬草学と同じように、還元主義的な考え方がエネルギー医学にも感染することがあります。例えば、超能力手術で「壊れたチャクラを修復する」というようなものです。ここで私は、バーバラ・アン・ブレナンのような才能ある人が壊れたチャクラを修復すべきではないと言っているのではありません。ただ、新たに発見された非物質的な別の器官系にコントロールを押し付けるのとは、根本的に違う何かが起こっているというだけの話です。

代替医療ヒーリングにおける「エネルギー」の理解によく見られる誤りは、エネルギーは人を構成するもうひとつの要素に過ぎず、主流科学が認めていないだけだというものです。しかし魂や目的や意識のように、一部のヒーラーが同調チューニングできる「エネルギーフィールド」は、生物全体がもつ創発的な特性なのです。彼らが見るオーラは、突き詰めれば客観的に存在する実体ではなく、パターンを主観的に描写したものなのです。それはヒーラーが情報を解釈し理解する方法であり、ヒーラーの目に映ったパターンの有り様なのです。また、「人間のエネルギーフィールド」のある側面が様々な電磁気的性質と相関し、基本的なエネルギー解剖学についてヒーラーたちの間で実質的な一致が見られることが多いという点で、ある程度まで相互主観的なものかもしれません。言い換えれば、ヒーラーの単なる想像の産物ではないのです。エネルギー医療ヒーリングが避けがたく持っている主観性のため、今日の医療を支配する標準化、機械化と、それに関連する教育・訓練のパラダイムにとって近寄りがたいものとなります。従来の医学が病気を無個性な類型へと分類するのに対し、ホリスティック医学はそれぞれの患者の状態の独自性と、患者と治療者の関係の独自性を認めます。そのため、毎回の出会いには不確実な要素、新しさの要素が避けられません。患者の個性を、定型的な治療の対象となる無個性な状態の集合へと落とし込むとき、いつも何かが欠落し、癒やしは常に不完全なものとなります。言い換えれば、ホリスティック医学は、客観的な原理を整然と当てはめるという、通常の分析学的あるいはベーコン的な意味での「科学」にはなり得ないのです。確かに、広範囲の人々に共通点があり、パターンは繰り返されますが、二つとして同じものはありません。それゆえ、〈再合一の医学〉は、「分断の起源」の章で語られた個別性の喪失を逆転させることになります。名前や数字が、各々がもつ絶対的な唯一性を曖昧にしているのです。

ニュートン的な世界マシーンという考え方では、世界の構成要素を二つ取れば、実用上は全く同一だと見なせます。産業の機械において、これは標準的で交換可能な部品という原則です。科学においては、変数をコントロールし、標準的な方法が有効となる「コントロールされた条件」を作り出せるという考えです。この考え方では、あらゆるバラつきは同一の部品の異なる組み合わせから生じる幻想に過ぎないのであり、どの電子も他の電子と何ら変わるところはないのです。それは世界のあらゆる側面をデータセットに落とし込むイデオロギーです。だとすれば、人間は医療の目的では単なる生理学データの集まりです。〈科学の計画〉では、このデータセットが完全なものとなり、関連するあらゆる身体状態を網羅するようになれば、全ての病気の理由が分かるので、私たちの医療も完全なものになると言います。その日が来るまで、医師は経験と直感に頼らざるを得ませんが、いずれは医療用コンピューターが医師に取って代わるでしょう。〈科学の計画〉の崩壊は、名前と数と象徴文化に始まる世界の抽象化という、より深い計画の崩壊でもあるのです。

私の想像では、従来の医療行為の中には存続するものもあって、特に緊急救命技術に関連したものは、西洋医学が得意とするところです。病気(あるいは怪我)が、身体の自己治癒力を超えるところまで進行することもあります。しかし、このようなテクノロジーが全体論的ホリスティックなパラダイムに組み込まれれば、その実践方法は劇的に異なるものになるでしょう。外科医のメスは、ヒーラーの手と同じように、宇宙と個人の間でパターンを伝達する通り道チャンネルとして理解されるかもしれません。あらゆる伝統の悟りに達したヒーラーは、しばしば自分自身を媒介者、あるいは自分自身を超越した力の代理人として捉えます。それは訓練や練習や技術が無関係だという意味ではなく、それらが癒しの力に同調するための手段だということです。その力とは、知性を持ち常に高いレベルの充足を求める宇宙が、その内に秘めている目的なのです。それは有機的な複雑性から生じる創発的な秩序であり、他者と、環境と、地球と、宇宙との関係の中でのみ充足されるものなのです。



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注:
[43] HIVウイルスによる攻撃ではなく、自己攻撃という意味だ。HIVは症状であってエイズの原因ではないという、動かしがたい証拠が増えつつある。その徹底的な実証については、『科学探究誌(Journal of Scientific Exploration)』2005年秋号〜2006年夏号のヘンリー・バウアー[Henry Bauer]による連載を参照されたい。
[44] テッド・J・カプチュク[Kaptchuk, Ted J.], 『The Web that Has no Weaver(織り手のいない織物)』, Contemporary Books, 2000年. p. 4
[45] カプチュク, p. 6-7
[46] マシュー・ウッド[Wood, Matthew], 『The Practice of Traditional Western Herbalism(伝統的西洋ハーバリズムの実践)』. North Atlantic Books, 2004年. p. 115
[47] ウッド, p. 116

原文リンク:https://ascentofhumanity.com/text/chapter-7-08/

2008 Charles Eisenstein


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