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水の時代

訳者コメント:
 機械の時代がもたらした惨状を修復するためには、火のテクノロジーを捨て去って石器時代のローテクに戻るのではない、水を基にしたテクノロジーの時代を展望します。切り離す火に対して、結び付け受け入れる水。万物に唯一無二の魂を認めるアニミズムのメンタリティーを、近代テクノロジーの文脈の中に取り戻すのです。
 私のイメージする水のテクノロジーに近いものは、繊維、織物、衣服、ロープ結びのように、形のはっきりしないものを扱う技術でしょう。ガーデニングや調理にもそのような性質が見られます。機械テクノロジーは直線と円から作られる固い形を前提にしていて、切ったり削ったりしてその形を作ります。思う形を自然に押し付け、それが永遠に変わらないことを期待するのです。柔らかいテクノロジーはその逆を行き、遥かに深い知恵が必要です。農業や食品加工は機械テクノロジーによって柔らかいテクノロジーが変質させられた姿なのかもしれません。
 この節でチャールズは踏み絵を仕込んでいます。「ホメオパシー」と「水からの伝言」は科学界から激しい非難を受け、似非えせ科学の代表格のように言われています。主観が結果を左右する実験があるとしても、客観主義の科学はそれを扱うことができません。ここまでチャールズが述べてきた客観性の崩壊を真実だと受け止めるなら、「水からの伝言」が持っているメタファーには依然として価値があると理解できます。私の感覚では、「水からの伝言」を科学を装って提示するのは誤りだと思います。それでは正統派科学者の思う壺です。それを踏みにじることができた者だけが、正統科学の聖職者となることができるという点で、これは間違いなく踏み絵です。魂の領域にある現象を扱うことのできるように科学を拡張することが(科学という制度のあり方も含めて、いまの科学とは似ても似つかぬものになるかもしれませんが)、次の時代に向けて本当に必要なことなのでしょう。
(お読み下さい:訳者からのお知らせ


7.4 水の時代

将来すべてのコストが完全に内部化され、いかなる物もその起源や結果を無視して作られることがなくなるなら、テクノロジーそのものがほとんど不可能になると思えるでしょう。多くの思想家は、産業は12世紀の水準であっても長期的に持続不可能であり、おそらく農業文明も持続不可能であると認め[26]、現在の状況を招いた一連の失態を帳消しにするため、石器時代へ向かう長い下り坂以外の選択肢を提示できません。

確かに、石器時代の生活は私にはとても素晴らしいものに思えますが、私が確信しているのは、本書全体を通して暗示してきたように、この狂気に満ちた無意味な時代の誤りは、それでも人類の発展の新たな段階への舞台を整えつつあり、未来を過去に逆戻りさせようとするのではなく、過去を未来に生きかえらせるということです。〈機械時代〉のテクノロジーは基本的に持続不可能であることは確かですが、可能な全てのテクノロジーがこの特性を持つとは考えないようにしましょう。この節で概説する新たなテクノロジーの様式は、もうすでに出現しつつあり、自然の延長であって背くものではありません。

第2章で私はこう書きました。

直線性は現在のシステムが持続不可能であることの根源にあるもので、投入物が無限にあり、廃棄物の捨て場が無限にあることを前提とします。火がそのようなシステムの比喩としてふさわしいのは、それが物質をある形から別の形に一方的に変換し、その過程で熱と光というエネルギーを解放するからです。私たちの経済が、蓄積されたあらゆる形の文化的・自然的な富を焼き尽くし、貨幣という形でエネルギーを解放するのと同じように、私たちの産業も、蓄積された化石燃料を燃やし、私たちのテクノロジーを動かすエネルギーを解放します。どちらもしばらくの間は熱を発生させますが、同時に冷たく、死に絶え、有毒な灰や汚染物質を大量に発生させます。無駄に命を落とした人間の灰の山がそうでしょうし、露天掘り鉱山の採掘場も、有毒産業廃棄物の処理場もそうでしょう。

火は自然なものであり、実際、好気性生物であれば生物学的な酸化によって蓄積されたエネルギーが解放されます。自然が持続するのは、太陽光を動力源とする別の段階があって、灰を蓄積エネルギーという形に再び組み入れるからです。持続可能な経済もこれと同じでなくてはならず、文字通りの意味でも比喩的な意味でも、火だけを基にして成り立つものではありません。したがって、修復経済は火のテクノロジーに基づかない技術の基盤を持つことになります。

マヤの視点に立てば、火はガイアから借りている、あるいは盗んでいると見ることもできるでしょう。たきぎを燃やすと、普通なら何世代もの昆虫や菌類を維持できるはずの緩慢な酸化過程を、火の急速な酸化に置き換えるので、生命の可能性を狭めてしまいます。マルティン・プレヒテルの論理によれば、火をおこすときには、たとえ小さな焚き火であっても、何らかの儀礼的な支払いが伴わねばならず、それは燃やす薪の量に比例するはずです。本当に持続可能な社会なら、火のテクノロジーの使用には非常に慎重になるでしょう。

前節で述べたテクノロジーは、現在あるものとさほど変わらず、まだ自然に人間の支配を押し付けようとしています。例えば自転車道を作るには、一本の土の帯を自然の状態から遠ざけておく必要がります。マヤが気付いていたように、自然を管理下に置いて人間の目的に沿わせるテクノロジーには代償が伴い、多くの原始文化はそれを認識し代償を払ってきましたが、私たちは支払いを避けようとしてきました。たとえ火を実際に使わず、バイオマスに蓄積された酸化エネルギーを横取りしないとしても、火が持っている消費的直線性と自然プロセスの横取りという性質を具体化するテクノロジーは、依然として火のモデルで動いているのです。現在のテクノロジーのほとんど全てが何らかの形で火に由来する、あるいは自転車道のように自然を従わせようとするものであるため、エコロジーを重視する未来学者の多くはごく自然に、持続可能な未来とはローテクな未来を意味すると考えています。

この結論は、火を基にしないテクノロジーのあり方を思い描けるなら崩れてしまいます。私が思い描くのはハイテクが発達した未来ですが、そのテクノロジーは現在の私たちの考え方とは大きく異なり、現在の考え方ではほとんど「テクノロジー」とさえ認識できないものです。〈火の時代〉の終わりが約束するのは、火が煽ってきた分断と支配が逆転することです。私たちは分断のイデオロギーにどっぷりと浸かっているため、自然をモノ扱いし、支配し、コントロールすることを伴わないテクノロジーのあり方を考えるのが難しいのです。しかし、たとえ私たちが気付いていなくても、そのようなテクノロジーは存在しています。それらの基になっているのは火ではなく、土、水、光、音、そして人の体です。古代に根ざしていながらも、そこから伝わってくるのは「新たな時代」の約束です。それを無意識の叡智が「水瓶座の時代」と名付けたことを誰が知っているでしょうか? でも私はそれを〈水の時代〉と呼ぶことにします。

水は(敢えて明白なことを言うなら)火とはまったく異なる比喩的な意味合いを持っています。水は直線性を否定して無限に循環し、成長と腐敗の両方を促す自然の巡りの主体でもあります。同様にそれは分離に抵抗する「万能の溶媒」と呼ばれ、純粋さから遠ざかり、環境に浸透していきます。水はコントロールの天敵でもあります。わずかな亀裂を見つけて侵入し、何もそれを食い止めることはできません。大海の波のように、どんな防波堤も破壊します。火は触れたものを焼き尽くして浄化するのに対し、水は混乱を招きます。したがって、家や書物、食べ物、衣服、金属など、あらゆるものを保存する鍵は、乾燥させておくことです。

水は、その循環と流れ、荒々しさ、そして地球上にあまねく存在していることから、自然の本質と呼ぶことができるでしょう。あらゆるものを乾燥させ、腐敗・変化・再生という循環の外に置くことは、私たちが自然から切り離されていることを具体的に表現するものです。人間と自然の間にあるこの断絶に、〈再合一の時代〉が終止符を打つのです。

先に私はこう問いかけました。「人間そのものが自然なのだから、人間が作るもの、行うこともすべて自然なのではないでしょうか?」自然であるということは、誰が設計したものか、どんな素材から作られているかという問題ではありません。人間の手から生み出されるものは、自然の循環的な法則を無視した直線性を装う限りにおいてのみ、不自然です。上述した産業のエコロジーは、廃棄物がないという点で自然なものです。ですから私が言いたいのは、「テクノロジーが自然と調和するようになる」というよりも大きなことです。テクノロジー自体が自然なものになるのです。人間特有の才能を捨てて、石器時代やそれ以前に戻る必要はありません。そうではなく、近代テクノロジーの文脈の中で石器時代の心理構造メンタリティーを取り戻すのです。未来のテクノロジー経済の根底をなすのは、相互依存、循環性、豊かさ、ギフト精神といった原則です。この四つの原則を表す喩えとして、「水のよう」という以上にぴったりしたものがあるでしょうか? 全てが依存する水。巡りの中に動く水。あまねく豊富な水。生命の贈り物ギフトをもたらす水。

私たちが水に依存していること、つまり私たちのほとんどが水でできているという事実は、私たちが自然から切り離されている、あるいは自然の支配者であるという文明最大のおごりを否定します。私たちが水を支配できていない以上、私たちは自然の支配者でもないのです。

しかし私たちは何世紀にもわたって、その反対を自分に言い聞かせようとしてきました。科学の世界で、達人を装う私たちの驕りが最も根本的に現れているのは、水は同一の分子が構造もなく集まった無個性な媒体であって、二つの水滴は全く同じであるという仮定です。標準的な物質には普遍的な公式を適用することができます。宇宙の各部分が唯一無二であるというのは、標準的な手法の一般的な適用に基づく科学にとって非常に厄介なことです。同じことがテクノロジーにも当てはまります。無個性な要素で構成された宇宙だけが、コントロールに従うのです。建築技師なら同じ組成の二本の鉄骨が同じ特性を持つと仮定するように、化学者も純粋なH2Oの二つの標本について同じことを考えます。

H2O、黒鉛、エタノールなど純粋な化学物質のどの二つの標本を採っても同一であるというのは、非常に大きな影響を持つドグマです。それが意味するのは、私たちが感じている対象が複雑で唯一無二だというのは幻想で、みな同じ標準的な構成要素の並べ替えに過ぎないということです。このような見方と必然的に結び付くのが世界をモノ扱いすることであり、世界を物の集合体、不特定多数の群衆マスにしてしまいます。

これと正反対の考え方は、宇宙のあらゆる部分が唯一無二だと見なすものです。どの二つの水滴も、二つの岩石も、二つの電子も同じではなく、それぞれが唯一無二の個性を持っているのです。これは本質的にアニミズムの考え方であり、生物でも無生物でも一つ一つに精霊を結び付けていました。石器時代の人々にとって、どんな源から湧き出た水にも唯一無二の個性や魂があるという考えは、当然のことのように思えたでしょう。現代の化学はそれを否定し、見かけ上の違いは不純物によるものに過ぎず、根本的な水は同じだと言います。アニミズムは異を唱えます。魂を持つとは唯一無二ということであり、本来的に唯一無二であって他の何にも落とし込むことはできないのです。魂を持つとは特別であるということです。

〈水の時代〉の幕開けとともに、私たちはアニミズムの根源に立ち返り、一滴一滴の水、ひいては宇宙のあらゆる物質が持つ唯一無二で魂に満ちた性質を認識するのです。化学の分野でさえ、水が確かにいくつかのレベルで構造を持つことがますます明らかになるにつれ、このパラダイムシフトをまぬがれなくなります。化学者や材料科学者は今、水素結合とファンデルワールス力によって維持される構造が、水の特異な性質の多くを担っていることを認識しつつあります。しかし、この構造が生物学的システムに情報を伝えることができると考える人はほとんどいません。水には確かに構造があると科学者たちは認めるかもしれませんが、ノイズの中に意味のある信号などは無いと言います。

それでは、主流科学を離れ、尊敬される科学から遠いところへ旅に出ましょう。私たちが最初に立ち寄るのは、ホメオパシー同種療法という経験科学です。ホメオパシーは、説得力のある還元論的理論の裏付けがないにもかかわらず、二世紀以上にわたって驚くほど高度に発展を遂げてきました。言い換えれば、それがどのように機能するのか本当のところは誰も知らないということです。しかしはっきりしているのは、天然物質が具体化する情報を体に伝えるため、何らかの方法で水を利用しているということです。高い効力をもつ二つの異なるホメオパシーのサンプルは、どちらも化学的には純粋なH2Oかもしれませんが、その効果はとても同じとは言い難いものとなります。この主張は批評家から激しい嘲笑を買っています。

ホメオパシーは水を基にしているためか、火を基にするアロパシー逆症療法の特徴である自然の征服とは全く異なる治癒の哲学を育みます。アロパシーの医療は、微生物を殺し、ホルモン量を決め、臓器や腫瘍を切除するというコントロールに基づいています。アロパシー医療が自然を支配するのに対し、ホメオパシー医療は自然を身体の教師としてとらえます。ホメオパシー医が探すのは、身体に健康な生命のパターンを教えてくれる天然物質です。自然を打ち負かし乗り越えようとするのではなく、ホメオパシー医は自然の中に目を向けて、火ではなく水の心で治癒に取り組みます。

フラワーエッセンス療法は、経験的な方法というよりも主に直感的な方法によって開発されたものであるため、科学というよりもむしろ芸術アートと呼びたいと私は思います。ホメオパシーと同じように、水は花などの自然物に由来する情報を運ぶ役割を果たし、主に感情や魂の癒しに用いられます。ここでもまた、水の一滴一滴が唯一無二のものであり、ここでもまた、ホメオパシーよりもさらに明確に、一滴一滴が唯一無二の魂を持つと理解されています。

日本の実業家である江本まさるは、このような考えを論理の極限にまで高めました。江本は水を電磁波、感情、音楽など様々な影響にさらし、その氷の結晶を撮影しました。その結晶は著しい違いを示し、同じ水源から採った蒸留水のサンプルを入れた瓶に異なるメッセージをテープで貼り付けただけでも違いは現れました。例えば、「悪魔」「ばか!」などの言葉を見せられたサンプルは凍らせると醜く形のない氷になり、「愛」「感謝」「宇宙」などの言葉を見せられたサンプルは美しい結晶を作りました[27]。私は広い範囲を検索してみましたが、江本の発見に対する真剣な反論は見つかりませんでした。ふつう批評家たちは、彼が二重盲検対照を実施していないことや、彼の博士号がオンラインで取得したものであることを指摘しますが、どうやら彼の研究の本質は批評家たちにとって議論するまでもないようです。確かに、彼の研究は厳密なものではありませんが、そうあるべきではありません。それは美しいものですし、「ピンときた」人にとっては研究の方向性を示すものとなります。

江本の研究の本質は、水が普遍的な媒体であり、物理的な物質だけでなく、思考、感情、エネルギー、情報の普遍的な溶媒であるという比喩的な連想を裏付けるものです。水は置かれた環境の痕跡を担うのであって、湖、川、コップや水滴はそれぞれ地球上に固有の場所を占めるので、それぞれが唯一無二な組み合わせの影響を受けます。同時に、この「環境」は地球全体やその外にまで広がるので、水の一滴一滴に全体の情報が刻印されています。江本の研究が示唆するのは、私たちのあらゆる思考や意図が、地球上のあらゆる水滴に影響を与えるのですが、その意図を向けられたものが、自分の体内の水とともに、最も強い影響を受けるということです。

原始的な狩猟採集民なら、全ての水には固有の個性があるというのは何ら信じ難いことでもないでしょう。また川の水、湖の水、雨水、湧き水、そして地下から汲み上げた水では、身体や感情に与える影響が異なり、おそらく儀式の使い途も異なると知っているでしょう。このような異なる種類の水に同じ言葉を使わない言語さえ有り得るのではないかと想像してしまいます。同じように、愛される水と軽蔑される水とでは性質が違うと考えるのは、狩猟採集民なら容易なことでしょう。私たちが全ての水を、均一で生命のない「物質」だと信じ、不純物を取り除けば同じにできると信じているのは、客観性と機械論というイデオロギーの反映です。かつて私たちはもっと良く知っていたのに、世界を物と見なし、現実の無限を(「水」のような)無個性な名前という有限に落とし込んで以来、それを見失ってしまったのです。未来の水のテクノロジーはこの知識を回復し、私たちは水を神聖と呼ぶに値しないものとして扱うことなど、もうなくなるでしょう。

江本の研究が示唆するのは、私たちは自分の考え、言葉、行動の影響から逃れることはできないということです。それらは宇宙に解き放たれ、そこに痕跡を残し、私たちが生きている現実を実際に再構築するのです。〈水の時代〉に、私たちはこの原則を理解するでしょう。水のように、全てのものは最終的に一巡りして源に戻ることを、私たちは理解するでしょう。

〈水の時代〉は経済においても水の循環に倣ったものとなります。火は消費の典型であり、何千年にもわたって社会資本と自然資本を焼き払ってきました。いま私たちが目の当たりにしているのは、「水の時代」の循環型経済のきざしです。資源のリサイクル、廃棄物ゼロの製造工程、完全原価計算、無利子通貨制度など、私が説明した「修復経済」の特徴は全て、「水の経済」という呼び名を同じように正当化するものです。デマレージ通貨のように、贈与ギフトのエネルギーのように、水は閉じ込められることに抵抗し、高いところから低いところへ移動し、最終的にはその源へと戻ります。

おそらく〈水の時代〉の最も深い変容は私たちの精神性スピリチュアリティにあって、それは宇宙とどのように関わっていくかということです。先にアニミズムについて述べたとき、私は水滴やその他の物体がそれぞれ「唯一無二の魂を持っている」と言いましたが、それは正確ではありません。スピリットを「持つ」ものとし、したがって物質の外にあるとする概念は、分断と火の喩えに他なりません。アニミズムが実際に意味するのは、一つ一つの物が唯一無二の魂であり、物質そのものがスピリチュアルなのであって神聖で特別なのだということです。魂を物質から抽象化することは、構造を担った水から構造だけを抜き取るのと同じように、不可能なのです。つまり〈水の時代〉とは、地球とそこにある全てのものを、神聖なものとして扱う時代なのです。

同時に水が教えてくれるのは、どのような物質であっても、その固有の魂は現実の他の部分から別個に切り離されたものではないことです。私たち自身を含む全てのものがそうであるように、水はそれを取り巻くあらゆる物の魂の性質を帯び、その偏在性と受容性のおかげで、水は万物が万物と交わるための媒体ともなるのです。私たち一人ひとりは唯一無二の存在でありながら、大海の中の二滴の水ほどにも切り離された存在ではないのです。〈水の時代〉の幕開けとともに、〈分断の時代〉は終わりを告げるのです。


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注:
[26] 古代世界の偉大な農業文明の多くは、最終的には自らの生態系を破壊した。ギリシャ諸島の森林破壊やメソポタミアと北アフリカの砂漠化は、低レベルの技術でさえ破壊的な能力を持つことを示している。その一方で、中国には五千年にもわたって栽培が続けられてきた地域があると読んだことがある。
[27] 私が初めて江本の著作を知ったのは日本語原著の中国語訳だった。その一部はオンラインで閲覧できる。http://www.wellnessgoods.com/messages.asp(アーカイブ


原文リンク:https://ascentofhumanity.com/text/chapter-7-04/

2008 Charles Eisenstein


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