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修復的な経済

訳者コメント:
 経済とテクノロジーがエコロジーを軸に再構築されたなら、どんなものになるでしょう。現在のテクノロジーを改良して「持続可能」にする取り組みはいろいろな所で行われていますが、技術的対策(テクノロジカル・フィックス)の常で、製造時の環境負荷が増大したり、新たな問題を引き起こしたりします。持続しようとしているのが旧来の生活スタイルや産業構造だということに気付かされることが多いのです。私が技術者として関わったハイブリッド車が、結局は大型SUVを正当化する結果に終わったというのも、その一例だと思います。
 経済とテクノロジーの変革は、魂のレベルで分断という自己意識の変革が起きないことには本物では有りえません。そのためには現在の制度が一度は破綻する必要があって、私たちが現在目にしているアメリカ帝国の衰退は、この崩壊へ向かう動きなのだと大局的に理解できれば、慌てることなく冷静に、その時がくるのに備えることができるでしょう。
(お読み下さい:訳者からのお知らせ


7.3 修復的な経済

貨幣制度だけが単独で変わることはありません。結果としてであれ前提条件としてであれ、他の全てが共に変わらねばなりません。前節で述べた私の論法は、「貨幣制度さえ変えれば他の全てが変わり、問題は解決する」というものではありません。違います。それはむしろ、広大な相転移の一部であり、形態ゲシュタルトであり、ホログラムのような再パターン化であって、どのような側面を出発点としても良いですし、書籍のような直線的な物語では、そうする他ないのです。これとともに、本章で述べたような、お金、財産、教育、医療、芸術などにおける変革は全て、自己と世界に対する全般的な再認識から生じるものであり、その一部なのです。私はお金の話から始めましたが、だからといってそれが最も重要ということにはなりません。

第4章で説明したように、現在の経済システムがもつ破壊的な性質の多くはコストの外部化によるものであり、それは利子と同じように、自然に対して直線性を押し付けようとするものです。外部化が想定する「外部」とは、直線的消費の起点であり終点でもあります。利子が無限の成長を要求するのに対し、経済の外部化は、その成長を可能にする資源と吸収力の蓄えが無限にあることを前提としています。利子と外部化は、実は同じコインの裏表であり、コストを内部化することで人類という生物種の自滅を食い止めたいと願う人々は、この繋がりにほとんど気付いていません。とはいえ、グリーン税、消費者リース、汚染許可などの提案は、もはや自らを自然から切り離された存在とは見なさない産業経済がどのようなものになるかについて、重要な示唆を与えてくれます。これをポール・ホーケンの言葉を借りて「修復経済」と私が呼ぶのは、修復経済がコミュニティや自分自身、そして自然から私たち自身を遠ざけていく動きを止めるだけでなく、逆転させるからです。その一つの方法は、自然の流れを否定するのではなく、それを模倣し、強化し、拡張するようなテクノロジーを動機づけることです。

ホーケン、ハーマン・デイリーウィリアム・リースレスター・ブラウントム・ハートマンケネス・ボールディングといった著作家たちは、エネルギーやその他の資源を再生されるよりも速い速度で消費するような経済は持続可能ではないという、一見当たり前のことを指摘しています。彼らは、化石燃料の消費を、生態系が廃棄物を吸収する収容力など他の有限の資源を消費するのと同じように、資本の枯渇とみなします。持続可能性とは(手垢の付いた言葉で、実際に意味するのは生存ですが)、資本準備金の取り崩しではなく、現在の収入で生きていく場合にのみ可能なものです。この収入には「太陽エネルギーの収入」だけでなく、地球が汚染物質を新たな生命の構成要素に変換する能力も含まれます。また、新たな芸術形態や新たなアイデアなどの「文化的収入」も含まれるかもしれず、これらは今日、文化遺産という「資本準備金」もろとも即座に経済へと取り込まれ商品化されます。

私たちの経済パラダイムは、その直線性、限りない成長の要求、自然を「資源」へと落とし込むことによって、私たちを自然から切り離します。また、社会と文化の資本を消費することで、私たちを互いから引き離します。この分断を逆転させる経済には重要な特徴があって、それは廃棄物など無くなるということです。廃棄物やゴミなどという考え方全体が、物を捨てる「外」があるということを意味しています。そのような考えは分断という物の見方の中にしか存在できません。

廃棄物を出さないためには、生物圏から取り出したものは全て無毒で蓄積性のない形で生物圏に戻さなければなりません[20]。これを実現する提案のひとつが、ブラウンガルトとエングルフィールドの「インテリジェント・プロダクト・システム」で、「廃棄物はかてである」というエコロジーの原則を実践するために、(1)耐久消費財のリース経済、(2)消耗品の完全無毒な生分解性、(3)その他の廃棄物の永久保管料を提唱します。それでも望むならダイオキシンを発生させることは可能ですが、未来永劫えいごうあなたのものになります[21]。第1の原則は、冷蔵庫や洗濯機などの大型家電を購入するのではなくリースするというものです。事実上、ユーザーは機械そのものではなくサービス(食品保存や衣類の洗濯)を買うのです。これにより、計画的陳腐化に向かう構造的な動機が取り除かれる一方で、修理やリサイクルが容易な製品を作るという新たな動機が生まれます。同じ理屈が耐久消費財にも当てはまり、特にデマレージ制度の文脈で威力を発揮するのは、資本の蓄積に重きを置かなくなるからです。第2の原則はかなり自明なものですが、生分解性があるとされる物質の多くが埋立地で空気を遮断されると分解しないことに注意が必要です。第3の原則は第1の原則を機能させるために不可欠なもので、製品を無毒でリサイクル可能なものにする大きな経済的動機を生み出すからです。(永久保管料の効果はデマレージに基づく通貨ではさらに強力で、将来のコストが割り引かれることはありません。)また、有毒廃棄物の保管料はそれを無毒化する方法を開発する動機を生みます。菌類学者のポール・スタメッツは多くの有毒廃棄物を無害化できる菌類を使った驚くべきバイオレメディエーション生物学的環境修復技術を開発しましたが[22]、有毒廃棄物の社会的・生態学的コストはほぼ全て外部化されているため、現在のところ彼の手法には経済的動機がほとんどありません。修復経済の社会なら、スタメッツは世界一の大金持ちになるかもしれません。

産業経済の循環性を促進するため、著作家のポール・ホーケンは経済学者A.C.ピグーの提唱に倣った「グリーン税」を提唱しています。これは化石燃料税のように、天然資源の採掘と使用によって生じる損害を反映した多額の課徴金を天然資源のコストに課すものです。例えば石油への課税には、油田掘削に伴う生息地破壊のコスト、原油流出の分担コスト、石油燃焼による大気汚染のコストなどが含まれるでしょう。

実際の上でも原理の上でも、このやり方は困難を伴います。実際的な困難は、地球規模の気候変動による経済的損害のような、長期的で非常に分散的なコストを計算することの難しさで、石油を燃やすことがその一因であっても、それだけが原因ではないような場合です。原理的な困難は、種の絶滅、美しい景観の破壊、人間の死亡率などに金銭的な価値を付けることです。ゲゼルの「価値という怪物のような教義」が再び頭をもたげます。グリーン税制の根底にある前提は、またしても全てを貨幣単位で表すということを含んでいます。それでも、グリーン税制はコストを他者に押し付けるという利益戦略を取れないようにすることを目的としています。他者に対して行うことは、実は自分自身に対しても行っているのだということを、経済の中に具体化しているのです。私たちは世界から切り離された存在ではありません。現在の経済制度が逆の考えを助長するのは、社会や環境に投棄された損害がふつう自分の貸借対照表でのコストにはならないからです。ピグー税はもっと大きく拡がる自己意識を促します。

すぐに現れる実際の効果は、「天然資源」の価格が真のコストを反映していないというだけの理由で今は経済的でない代替案が、こんどは促進されるようになることです。突然のように、自転車、コンポストトイレ、有機農業、太陽光発電、ゼロエミッション工場、屋上緑化、「ハイパーカー」[訳註1]、鉄道輸送、菌類によるバイオレメディエーション、次世代帆船、無毒の工業プロセスなどなど、素晴らしいグリーン技術が、莫大な経済的優遇措置の恩恵を受けることになります。今日、私たちは規制や管理を通じて製造業者に汚染を減らすよう強制しようとします。グリーン税制はエコロジーの感覚とビジネスの感覚を一致させるので、規制の必要はなくなります。

現在の産業の製造過程が引き起こす損害を人間が内部化するなら、その製造過程は劇的に変化しなければなりません。採掘や採石は、鉱石の精錬と同じように、法外なコストがかかるようになり、坑道やボタ山を放置することは容認されなくなります。私たちに残された原材料の主な供給源は、20世紀の廃物かもしれません。テレビやコンピューターのモニターに含まれる1ポンド以上の鉛、廃品置き場で錆びついている大量の鋼鉄、取り壊されたビルの軽量コンクリートなどです。私たちが製造する耐久消費財は修理や維持がしやすいように設計され、何百年も長持ちするかもしれません。ビジネスの目的が自然の回復と一致するようになるので、起業家の膨大なエネルギーがそうした試みに注がれるようになるでしょう。(対照的に、環境保護を規制によって実施しようとすれば、環境保護はビジネスの成功と対立するものになります。)

プラスチックや金属製品は非常に貴重なものとなり、ただ捨てるなどということは考えられなくなるでしょう。容器だけでなく、その内容物の流通システム全体が、再利用可能性という観点から設計されるようになりますが、それを政府が要求するからではなく、それこそが健全なビジネス慣行となるからです。容器の洗浄や詰め替えといったサービスは、もともと地域に根ざしたものなので、遠くの大規模製造業者に資本輸出することが減り、地域社会が強化され、地域相互信用通貨の実現性がより高くなります。

ガソリン、セメント、アスファルトの人為的な低価格がなくなれば、郊外の風景は一変するでしょう。地域社会を強化する高密度居住は現代の都市設計の原則ですが、もはや不動産開発業者の経済的利益との苦戦を強いられることはなくなるでしょう[訳註2]。燃料、農薬、灌漑用地下水への補助金がなくなれば、地域の農産物は経済的な競争力を増し、家庭菜園は現在の美的・精神的な利点に加えて経済的な動機ができるでしょう。

食料生産はより地域に根ざしたものになり、より多くの人々が食料生産者となるでしょう。

地域内の移動では、(今も技術改良の続いている)自転車が、将来の主要な交通テクノロジーとして真価を発揮するでしょう。結局のところ、社会にも環境にも持続可能な自然への介入として、自転車道の建設と整備以上のことをすべきではないと私は思います。道路建設ではブルドーザーで木をなぎ倒し大地を切り裂くような殺戮が行われるのを見ればわかるでしょう。将来の私たちは、控えめな自転車道以上のものには耐えられなくなるでしょう。確かに、現在みられるようなロードキル[路上で車にはねられて死んだ動物]の惨状は、まともな社会なら良心の呵責かしゃくに苛まれるようなものでしょう。普通の自転車の最高速度、例えば(ボンエルフ交差点の自然な速度でもある)時速20マイル(32キロ)が、注意の行き届く移動速度の限界なのは、単なる偶然でしょうか? 自転車のスピードなら、私は道端にどんな植物が生えているか気付くことができますし、ウサギをかないよう素早く反応できますし、すれ違う人たちとお近づきになれるほど、ゆっくりと移動しているのです。視線を交わし、承認のしるしとして「こんにちは」とあいさつをする時間があります。これ以上速く走ると、道筋にいた人々や場所をある程度忘れてしまうことになり、閉ざされた車両で移動する場合はなおさらです。自動車は、排出ガスがどれほど少なくても、スピードが速いというだけで私たちを自然から遠ざけ、ロードキルや生息地の分断は避けられない副産物となります。車は(そしてもっと劇的なのは飛行機ですが)、A地点からB地点へ、その間にある場所を本当には体験せず行くことを可能にし、旅をすることなく移動できるようにするのです。私たちが人間文化の土台の中にある「狭間はざま」に気付かず、それを破壊することに無感覚なのも無理はありません。体験することなく、何気なく横切り、通り過ぎ、上空を飛び越え、そんなものはまるで存在しないかのようです。ただ外にあるものエクスターナリティなのです。

残念なことに、ホーケンをはじめとする人々が思い描くエコロジー経済は、私たちの貨幣制度と根本的に相容れないものです。前者は外部性の排除を目指しますが、後者はそれを求め生み出します。前者はあらゆる素材の循環を求めますが、後者には限りない直線的成長という命令が組み込まれています。利子という文脈の中で、グリーン経済は些細ささいな規模でしか存在できません。利子は限りない「成長」を要求するものであり、世界の全てを一方的に、したがって持続不可能な形で貨幣に転換することを求めます。明るい面としては、産業システムの持続不可能性と金融システムの持続不可能性が一点に集まりつつあることで、これは両者を変革するチャンスとなります。

今日の直線的な(あるいは指数関数的な)経済の代わりに生まれる、循環型の産業エコロジーは、概念の上でも事実の上でも、自然を延長し新たな次元を加えるものとなるでしょう。それは決して不自然なものではありません。植物や種全体がそうであるように、それぞれの企業や産業は、資源を最大限効率的に採取することではなく、相互依存的な関係の網の中で不可欠な役割を果たすことを目指します。資源循環のどんな段階も、実現可能なビジネスの機会となります。ポール・ホーケンは過去数世紀の経済を雑草の野原に例えています。そこでは雑草が何も生えていない土地に入り込み、日光などの資源をめぐり真っ向から競争して最大の成長を遂げようとします。

産業革命の黎明期、無限とも見える天然資源の広大な新世界が手に入るようになった。あらゆる資源の供給を増大し続けることを求める経済を構築することで…人類は新たに形成された生態系の働きを模倣することに成功した。先駆植物と同様に、我々は攻撃的・競争的だった。我々は無制限な成長を重視し、効率や保全、多様性については気にかけなかった。[23]

もちろん、これは一時的なものでしか有りえません。やがて、生物種間の相互依存関係がますます複雑になっていき、当初の日和見ひよりみ的な入植者は、より多様で成熟した生態系に道を譲ります。「未熟な生態系では、ほとんどのエネルギーが新たな成長に使われるため、裸の土はすぐに覆われる。極相生態系では、エネルギーの大部分は既存の動植物群落の存続に費やされる。[24]」私たちは今まさにそのような転換期にあります。すでに、絶え間ない成長を要求する貨幣制度のもとで、私たちが自然から概念的に距離を置いているにもかかわらず、直線的な枠組みの中で新たな産業エコロジーが芽生えつつあります。循環性という変数をシステムに組み込むなら、これらはエコロジー経済へと姿を変えます。それはアザミとゴボウが裸の土を覆い尽くそうと競争する野原とは対照的な、何十万もの種が相互に依存し合う多様なジャングルの生態系に相当するものになるのです。

このような生態系で、一つ一つの隙間ニッチは自己限定的です。成功とは、「私」のためにできるだけ多くのものを手に入れることではなく、全体の維持のために自分の役割を果たすことにあり、そこに参加する一人ひとりの特有な才能を呼び起こす使命なのです。そこでは、何を所有できるかではなく何を与えることができるかによって各人を定義するのであり、それが奉仕と利己主義、強欲と分け与えの間の古くからある矛盾に終止符を打つのです。確かに、ジャングルに競争があるように常に競争はありますが、それは共有財産を囲い込み庶民から金を巻き上げようとする破壊的な競争ではなく、むしろ与えられた隙間ニッチで卓越した能力を発揮し、公共の善により大きく貢献するための建設的な競争なのです。すでに私たちはこのような理想を持ってはいますが、経済的な利己心に逆らって戦わなければなりません。経済の根底にある自己の概念が変われば、経済的な利己心も公共の善に向かって再編成されるでしょう。

修復経済は、新しい法案を可決したり、改革を実施したり、従来の経済学の誤りを見抜いたりすることではありません。それは、私たちと世界との根本的な関係の全てにわたる、魂の変容の一面に他なりません。マルティン・プレヒテルがマヤ文化について書いていますが、あらゆる物質的な物体を創り出すとき、そして実際には人間が生きていくときには、そこで生じる負債を自然へ返すことが求められていました[25]。自然の破壊が大きければ大きいほど、あの世への借りを返すための儀式に大きな努力が必要となります。したがって鉄のナイフは、それを鍛えるために鉱石を掘り薪を燃やしたりするコストを考慮するなら、長く手の込んだ儀式が必要となり、よほどの理由がなければ誰もナイフを作らないほどです。この世界観では、エアコンのようなものが必要とする儀式的な償いは法外に「高価」なものとなります。このような消費テクノロジーの限界が、マヤ文化には組み込まれていました。そしてもし、私たちのように儀式で対価を払うことなくナイフを大量生産したらどうなるでしょうか? ナイフが自分のやり方で要求する代償は、直接的な肉体的暴力によるか、あるいは人間の生命、希望、活力、創造性、喜び、美を削ぎ落とすという形になります。これがまだ現実化していないと、はたして言えるでしょうか?

言い換えれば、私たちが「他者」(地球や他の生命)への影響を顧みず、直線的に生産し消費するとき、私たちは必然的に負債を抱えることになり、必ずそれを返済しなければならないのです。次から次へと技術的対策を加えても、負債清算の日を先延ばしにするだけで、ほろ酔い気分を長引かせるためにあと何杯か酒を飲めば、結局はひどい二日酔いになるのと同じです。人類上昇の極めて重要な神話である〈テクノロジーの計画〉は、それを永遠に先延ばしにできるというものです。しかしこの神話の破綻はますます明白になっています。

私が勧めているのはマヤの儀式を真似ることではなく、この考えを今の世界で意味のある文脈に置き換えることです。儀式で払う代償は、私たちが作るもの全てに注意と配慮と思慮を捧げることと置き換えられます。負債を残さないために考慮する必要があるのは、原材料の産地、それを生産・出荷することによる生態系への影響、人々の生活への影響、対象物の使用がもたらす影響、そして最終的にどのようにして地球に戻るかということにまで及びます。経済学に置き換えるなら、全てのコストを完全に内部化する必要があります。もし、このような配慮を怠りコストを外部にとどめておくならば、負債が未来に書き込まれ、その結果は必ず私たちを苦しめることになるでしょう。なぜなら、外部化しようにも「外」がないからです。

では、この数千年の間に私たちの社会が積み上げた莫大な負債を想像できますか? 私たちは程度の差こそあれ無傷で逃れ、将来の世代に負債を引き渡したように見えるかもしれませんが(それはそれで十分悪いことですけれど)、真実はもっと悪いものです。私たち自身もその代償を払っているのです。その代償は私たち自身の肉体から、そしてさらに悪いことに、私たちの魂から生じています。無知で傲慢で妄想に満ちた私たちが地球と文化を荒廃させたことへの正当な報いとは、人類を飲み込む苦しみの海であり、戦争や残虐行為、レイプや大量虐殺、虐待される子供たち、第三世界のスラム街、希望のない生活、病気や飢饉、そして豊かな国々では、鬱や絶望、不安や倦怠、疎外や孤独、人間のもつ可能性の悲劇的な矮小化によって、ネズミの競争の勝者でさえ、最も惨めなネズミの仲間入りをするのです。

(自然の根底にある)魂の世界がその代償を人間の暴力や苦しみという形で払うというプレヒテルの見解との、興味深い類似点をG.I.グルジェフの宇宙論に見出すことができ、グルジェフはそれを「月のかて」と呼んでいます。グルジェフの人間形成への処方箋は、「自己を思い出す」という完全な意識の中で行動することであり、プレヒテルの人生への儀式的アプローチの処方箋とも一致しています。真の儀式とは、決まったやり方で実行される一連の手順ではなく、デカルトの「我あり」、アダム・スミスの経済人、生物学の表現型として、西洋文化で極限に達する限定された自己を超えて、マインドフルネスを誘導し意識を拡張する手段なのです。先住民の文化はそこまで極端な分断には至りませんでしたが、その傾向を認識し、それに対抗するための積極的な手段を講じていました。第2章に登場するユロック族の「大地と調和して生きる術を知っていた」ウォゲイの話を思い出してください。彼らは旅立つ前に、「人間が常に世界の法則に従うわけではないことを知っていたので、大地のバランスを取り戻す儀式の方法を教えた」のです。儀礼や儀式を行うことで、私たちは自分の行動の代償を心理的に内面化することができ、実質的に今すぐ支払うことができるようになります。そうすれば、負債を先送りした結果、私たちの魂と子供たちの人生から代わりに奪われるようなことにはなりません。グルジェフとの類似はここにも見られ、マインドフルネスを回復するためのグルジェフの主な処方箋は「意図的な苦悩」でしたが、そこに彼が意図したのは、その結果を避けることも逃れることもしないという揺るぎない意思でした。心理的なレベルで、これは経済学におけるコストの内部化と密接に類似しています。両者とも認識しているのは、〈テクノロジーの計画〉は最終的に失敗すること、技術的対策が永遠に機能するのはありえないこと、生命は無限のコントロールをすり抜けること、そして私たちの分断から発する破壊性によって生じた負債は必然的に支払わなければならないことです。あらゆる技術的対策は、これまでの環境破壊の結果から逃れるためにさらなる環境破壊を引き起こし、それが助長する巨大なネズミ講、負債ピラミッドは、永遠の成長を前提とする現在の経済と同じように、持続不可能なバブルなのです。負債を重ねれば重ねるほど、やがて起きる破綻は重大なものになり、最終的な崩壊はより全面的なものになります。

私が説明した修復経済は、この負債を認識することから生まれます。それを突き動かすのは、私たちを取り巻く世界への愛、つまり生命への愛、そして私たち自身の人生への愛と、償いをしたいという心からの願いです。私はこれまで、移行が起こる仕組みについてほとんど述べてきませんでしたが、必要な変化は非常に深いものなので、現体制の完全な崩壊、つまり集団としてどん底まで落ちること以外に道はないと信じています。私たちの分断という幻想がまったく通用しなくなるとき、貨幣と経済の新たな構造が結晶化し、私たちの全体性ホールネスが再び現れ出るのを強く後押しし、具体化するでしょう。

どん底に向かって、私たちはどこまで落ちなければならないのでしょうか? それは私たち次第です。


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注:
[20] 「無毒」というのは絶対的な分類ではない。物質の生産は、生物圏が十分に利用できるほど少量でなければならず、少量なら有益な物質の多くも、大量に生産されれば破壊的となる。それは物質の化学的性質ではなく、循環的な流れに貢献しているかどうかの違いである。つまり、どのような行動もその場所と時間から切り離して理解することはできない。同じ物質が、ある場所では毒であっても、別の場所ではかてとなるかもしれない。
[21] 「インテリジェント・プロダクト・システム」、グリーン税、汚染許可についての議論は、ポール・ホーケンの『商業のエコロジー』、ホーケンとロビンスの『自然資本』から基本的な事実を引用している。
[22] 「驚くべき」というのは誇張ではない。『Mushroom Power(きのこの力)』(ポール・スタメッツ[Paul Stamets], Yes!, 2003年春号)を読めば、あなたの心はきっと躍るだろう。
[23] ポール・ホーケン[Hawken, Paul], 『The Ecology of Commerce(商業のエコロジー)』, Harper, 1993年. p. 21
[24] ホーケン, p. 20
[25] デリック・ジェンセン[Derrick Jensen]との対談, The Sun, 2001年4月

訳註:
[訳註1] 「ハイパーカー」は、エイモリー・ロビンス(ロッキーマウンテン研究所のエネルギー分析者)が1994年から開発したコンセプトカー。先進的なカーボン複合材を使用した空力ボディ、低損失設計、水素燃料電池ハイブリッド駆動、超軽量構造を採用し、当時の自動車と比べて燃費効率が3倍から5倍向上し、性能、安全性、快適性、価格の面で同等以上になると主張していた。ロビンスによれば、ハイパーカーのコンセプトは、全カーボン車体の電気自動車BMW・i3と、燃料1リットルで100km走行可能なディーゼル・ハイブリッド車のフォルクスワーゲン・XL1によって、2014年に商業化されたとしている。
[訳註2] アメリカでは、第二次大戦後にモータリゼーション(生活様式の自動車化)によってモビリティ(移動能力)が増大したので、日本とは対照的に集合住宅ではなく低密度の郊外戸建て住宅地の開発(スプロール化)が進み、広大な駐車場を持つ巨大ショッピングモールで買い物をし、高速道路で都市オフィス街へ通勤するのが普通になった。その反面で都市住宅街はゲットー化して治安が悪化し、商店が撤退して利便性も低下する悪循環が起きた。


原文リンク:https://ascentofhumanity.com/text/chapter-7-03/

2008 Charles Eisenstein


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