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協力という通貨(前)

訳者コメント:
 第4章「お金と所有」で議論した問題を〈再合一の時代〉ではどのように解消できるでしょう? そのヒントはシルビオ・ゲゼル(1862〜1930年)が提唱した減価する貨幣にありました。日本では、このことは1999年に放送されたドキュメンタリー「エンデの遺言」で詳しく紹介され、書籍にもなっています。
 1929年に始まった大恐慌で主流経済が機能不全になったとき、ゲゼルの理論に触発された地域通貨が雨後の竹の子のように同時多発的に自然発生し、強力な効果を現して地域経済を立て直したのですが、アメリカではニューディール政策で国家が介入したことで消滅し、ヨーロッパでも中央銀行によって禁止されてしまいます。
 このような実例が存在したことが、崩壊の後に訪れる世界への希望を与えてくれます。
(お読み下さい:訳者からのお知らせ


7.2 協力という通貨

繁栄とは関係することであり、獲得することではない。  (トム・ブラウン・ジュニア)

私たちの文明がもつ「修復不可能な構造的欠陥」は、どこにでもある微妙な恐怖と終末神話を何千年にもわたって触発し続け、科学から宗教、ビジネスに至るまで、あらゆる人間の制度に現れています。どれ一つ他から独立しているわけではなく、どれ一つ単独で変わることはできませんが、一つでも変われば全てが変わります。第6章では私たちが徐々に理解しようとしている科学の大変革について考察しました。本章では他の社会制度をいくつか見ていきますが、まずは構造的欠陥が最も明らかで、その影響が最も露骨なところから始めます。それはお金の制度です。

第4章で説明したのは、現在の利子付き貨幣という制度が、無限の成長の必要性を生み出すありさま、直線的思考を体現するありさま、自然の周期的なパターンを否定するありさま、そしてあらゆる富を容赦なく貨幣に転換するよう駆り立てるありさまです。また利子は、競争が激化し、制度的な欠乏が生じ、富が集中する経済の源泉でもあります。しかし歴史上の偶然の産物という以上に、利子が結び付いている私たちの自己認識は、個別の競争する主体というもので、それが世界を「我が物」という枠の中にどんどん集めようとするのです。私たちの根本的な存在論の変化のある部分は新しい科学に現れ、したがって最終的には自己と世界についての異なる概念に一致する新しい貨幣制度をも生み出すことになります。

ある社会の貨幣制度は、その社会と世界との関係や、社会の構成員同士の関係が持っている他の側面から分かつことができません。私たちが今日知っている貨幣は、世界をモノ扱いすること、競争というパラダイム、社会の非人格化・個室化を反映し、また推進します。したがって、このような状況が本当に変わるなら、必然的に貨幣制度の変化も伴うと考えるべきです。

じつは、競争ではなく分かち合いを、消費ではなく保全を、匿名性ではなく共同性を促す貨幣制度は既にいくつか存在するのです。このような制度の実験的な取り組みは少なくとも100年前から存在していますが、それらは私たちの文化のもっと大きなパターンにとって都合が悪いので、隅に追いやられるか、そうでなければ激しく抑圧されてきました。その一方で、ポール・ホーケンの『商業のエコロジー』[訳註1]のような新しい産業形態や、多くの環境保全型のテクノロジーのような創造的な提案の多くは、現在の貨幣制度では経済的に成り立ちません。これに代わる貨幣制度として私がこれから説明するものは、ホーケンやE・F・シューマッハーハーマン・デイリーのような先見者ビジョナリーたちが想い描いた経済を自然に引き起こすでしょう。それらはまた、あらゆる経済部門の国有化とグローバリゼーションの進行を逆転させ、 地域社会に活気を取り戻し、経済成長を人間の幸福や地球の健康と対立させている「外部性エクスターナリティー」の排除につながるでしょう。

利子が決定的に重要な役割を担っていることを考えれば、代替通貨制度として最初に考えるべきなのは、利子を構造的に排除することです。カトリック教会の歴史が示すように、利子を禁ずる法律や戒めは、利子を構造的に必要とする性質が通貨の本質に残っている場合には効果がありません。必要なのは構造的な解決策で、その一例はシルビオ・ゲゼルが『自然的経済秩序』の中で提案した仕組みです。ゲゼルの名付けた「自由貨幣」には、デマレージ(demurrage、減価費用)と呼ばれるマイナス金利がつきます。定期的に通貨額面のごく一部に相当する印紙を貼る必要がありますが、これは事実上の「使用料」あるいは「維持費」であり、別の見方をすれば、この通貨は古くなるにつれて「腐朽」し、価値が下がるということです[4]。

もしこれが成功するはずのない急進的な提案のように聞こえるなら、ジョン・メイナード・ケインズほどの権威がゲゼルの考えを理論的に健全だと賞賛していたことを知れば、驚くかもしれません。しかも、この仕組みは実際に試みられ大きな成功を収めているのです。

デマレージは古代エジプト時代に商品担保通貨の保管料という形で適用されていましたが[5]、最も良く知られた例は、1932年にオーストリアのヴェルグルで、有名なウンターグッゲンベルガー町長によって制定されたものです。この地域発行の通貨が有効であり続けるためには、額面の1%の印紙を毎月貼る必要がありました。利子と成長を生むはずだった富の蓄積は重荷となりましたが、これは遊牧民にとって物の所有が重荷であるのと同じようなことです。そのため人々は収入をすぐに使ったので、町には活発な経済活動が生まれました。全国的には深刻な不況に陥っていたにもかかわらず、ここでの失業率は急減し、公共工事は完成し、この繁栄は1933年に中央銀行がヴェルグルの通貨を危険と見なして非合法化するまで続きました。

デマレージは経済・社会・心理的に大きな影響を及ぼします。概念的に言えば、デマレージの働きは、更新と腐敗という自然な循環過程に従う物質的な商品を、時間の経過とともに指数関数的に増加する貨幣との結びつきから解き放つことで起こります。第4章で立証したように、この力学こそが、社会や文化や自然や魂のあらゆる富を完全に使い果たし、私たちを破滅へと向かわせているものなのです。デマレージ通貨は、お金を自然商品と同じ法則に従わせているだけであり、その価値を維持するためには手入れが必要なのです。ゲゼルはこう書いています。

金は我々の商品の性格に合わない。金と麦わら、金と石油、金と鳥糞、金とレンガ、金と鉄、金と皮! その溝を埋めることができるのは、荒唐無稽な空想、怪物のような幻覚、「価値」という教義だけである。麦わら、石油、鳥糞など商品全般を安全に交換できるのは、誰もが貨幣と商品のどちらを所有しているかに無関心なときだけであり、それが唯一可能であるとすれば、貨幣が我々の製品に内在する欠点を全て有する場合だけである。それは明らかなことだ。我々の商品は腐り、朽ち、壊れ、錆びるので、貨幣が同じく不快で損失を伴う性質を持つ場合にのみ、迅速で、安全で、手軽な交換が可能になるのだ。そのような貨幣を商品よりも好む者など誰もいないからだ。
新聞のように古くなり、ジャガイモのように腐り、鉄のように錆び、エーテルのように蒸発する貨幣だけが、ジャガイモ、新聞、鉄、エーテルを交換する道具としての試練に耐えることができる。このような貨幣は買い手にとっても売り手にとっても商品より好まれるものではないからだ。そのとき我々が商品と貨幣を交換するのは交換手段として貨幣が必要だからであり、貨幣を所有することで利益を得るのを期待しているからではない。

言い換えれば、交換媒体としての貨幣は、価値の貯蔵手段としての貨幣から切り離されているのです。もはや貨幣は、錆びて、カビが生え、腐朽へと向かう自然界の普遍的傾向の例外ではなく、それはつまり、資源として再生される方へと向かっていくのです。もはや貨幣は自然から切り離された人間の領域を永続させるものではなくなります。

ゲゼルのいう「… 怪物のような幻覚、〈価値〉という教義…」という言葉が、デマレージがもつさらに微妙で強力な効果を示しています。彼は何のことを言っているのでしょう? 価値とは、この世界のあらゆる物に数字を割り当てる教義なのです。それは、不変で独立し抽象化された数字と、常に変化し他の全てとの関係の中で存在するものとを結びつけます。デマレージはこの考え方を逆転させ、人間の領域と自然の領域の間にある重要な境界を取り払います。お金が商品よりも好まれることがなくなれば、私たちは何かの「価値」がいくらという観点から考える習慣を失うでしょう。

利息が将来のキャッシュフローの割引を促進するのに対し、デマレージは長期的な思考を促します。現代の会計では、持続可能な方法で年間100万ドルを永続的に生み出す熱帯雨林は、今すぐ皆伐かいばつして5千万ドルの利益を得る方が多くの価値を生むということになります。(実際、割引率わずか5%で計算した持続可能な森林の正味現在価値は2千万ドルにしかなりません。)このような将来の割引の結果、生まれるのが企業の悪名高い近視眼的な行動で、四半期ごとの短期的な業績のために(企業そのものの健全性を損なってまで)長期的な繁栄を犠牲にします。利子に基づく経済ならこのような行動は完全に合理的ですが、デマレージの制度では純粋な私利私欲によって森林保護の決定を下すことになるでしょう。強欲ごうよくが動機となって現在の利益のために未来を奪い取るようなことは、もうなくなるでしょう。第4章で説明したように、将来のキャッシュフローを指数関数的に割り引くことは必然的に地球全体の「現金化」をもたらすので、このデマレージの働きは非常に魅力的です。

利子が富の集中を招く傾向があるのに対し、デマレージは富の分配を促進します。家族のレベルを超えて労働が専門化された経済では、人間が生存するためには交換が必要となります。利子もデマレージもお金の使用に対する料金ですが、重要な違いは、前者の制度では料金がすでにお金を持っている人のふところに入るのに対し、後者の制度ではお金を持っている人から徴収されることです。富には高い維持費がかかるので、狩猟採集民の蓄財に対する態度を支配していた力学が再現されるのです。

利子に基づく制度において、安全安心はお金を蓄積することによってもたらされるのに対し、デマレージの制度では、お金の生産的な通り道を持つことによってもたらされます。それはつまり、富の集積する点ではなく、富の流れの結節点になることです。言い換えるなら、「持つこと」ではなく関係に重点を置くのです。たとえて言うなら、そしておそらく喩えという以上に、デマレージの制度が調和するのは別の自己感覚であり、その下支えとなるのは、世界のより多くを我と我が物という枠の中に入れるよう線引きすることではなく、他者との関係を発展させ深めることなのです。言い換えるなら、それが促すのは、相互扶助や、分かち合い、富の活発な循環です。太平洋岸北西部やメラネシアでは、指導者とは「自分の集団と他の同じような社会集団との間を往復する品物の積み替え所の役割を果たす」ものだとされますが[6]、デマレージ制度の富がそれを規範とするようなものへと進化するのは十分有り得ることです。このような「偉大な人」の社会は完全な平等主義ではなく、非常に初歩的な分業以上の経済では必要となる、ある程度の権力集中を伴っていて、そこで重要なのは、指導者の地位が金銭や財産の蓄積とは関係なく、むしろ寛大さを示すことへの大きな責任と結びついていたということです。最大の名声や権力や地位が、寛大であることに最も意欲的で能力の高い人々に与えられるような社会を、想像できるでしょうか?

人類学者リチャード・リーとカラハリ砂漠のクン人、ゾマとの間で交わされた、クン人の富の概念について考えてみましょう。

私はゾマに尋ねた。「カイハ(富める者)になるには何が必要なのか? 自分の小屋にカイ(数珠やその他の貴重品)の袋がたくさんあればいいのか?」
ゾマは答えた。「カイを持ったからといって、カイハになれるわけではない。誰かが沢山の品物をあちこちに動かしたなら、彼を私たちはカイハと呼ぶだろう。」
ゾマが言いたかったのは、富を構成するのは品物の数ではなく、友人の数だということのようだ。富める人は、所持品の目録ではなく取引の頻度によって評価されたのだ。[7]

現在の利子に基づく貨幣制度では、安全安心をもたらすのは所有、つまり蓄財であって、その完成形が「経済的自立」です。しかし、狩猟採集民本来の豊かさは、自立ではなく相互依存と結びついた安心感から生まれました。ピラハ族の言葉を思い出してください。「私は弟の腹に肉を蓄える。」森の男や森の女は、たった一人でも野生の中で生き延びることはできますが、その存在は協力し合う集団よりもはるかに不安定なものになります。同じように、デマレージに基づく貨幣制度では、安全安心の基礎となるのは共有であり、個人的な蓄財ではありません。デマレージは食料貯蔵やその他の物の蓄積に対する狩猟採集民の嫌悪感を再現し、当時おそらく存在した恵み豊かな宇宙に対する信頼と同じ心理構造を誘発します。〈再合一の時代〉とは、豊穣ほうじょうという原初の心理へと、しかし、より高い複雑さで立ち帰ることです。それは、一部の原始主義者が文明崩壊後の姿として思い描くような石器時代のテクノロジーへの回帰ではなく、精神的な回帰なのです。

デマレージの発案者であるシルビオ・ゲゼルは、それがお金に対する考え方に大きな変化をもたらすことを予見していました。

〈自由貨幣〉の導入により、貨幣は雨傘のような存在に成り下がり、友人や知人は金銭の貸し借りを当然のように助け合う。誰も貨幣を保管したり貯金したりできないが、それは貨幣が流通するよう強制されているからだ。しかし誰も貯金することができないのだから、貯金そのものが不要となる。貨幣の循環は日常的で絶え間ないものだからだ。[8]

お金はもはや希少なものではなくなり、貯め込まれて他人から遠ざけられることもなく、最大限の「速度」で循環するようになるでしょう。政府は交換方程式(MV=PQ)に従って安定した物価を確保し、実質経済生産高(Q)に対応するよう通貨流通量(M)を調整します。(ベルナルド・リエターが提案したように、経済活動全体に対応する商品バスケットに通貨を連動させることで同じ結果が得られます。)ゲゼルはこう結論します。

その結果、需要はもはや資金の所有者の気まぐれに左右されず、需要と供給による価格形成はもはや利益実現への欲求に左右されず、需要は今や、景気見通しや物価の上げ下げへの期待に左右されず、政治的な出来事や収穫の予測、支配者の能力や経済的混乱への恐れなどにも左右されない。[9]

自由貨幣は私たちの社会に蔓延する経済不安の原因の多くを取り除くでしょう。お金が不足していない世界を想像できるでしょうか? もし安全安心のために貯金しなければならないという強迫観念がなかったら、あなた自身の人生はどう変わっていたでしょうか? 生きていくことがお金に依存し、お金が十分にない世界では、生きていくこともまた困難であり、安全安心は他人を打ち負かすことによってしか勝ち取れません。

デマレージに基づく貨幣制度では、通貨の総量が発行者によって決定されるとしても、その力学によって全ての人に十分な量が確保されます。今日の経済の矛盾、つまり物質的な財が溢れかえり、それが著しく不平等に分配されることで、ある者は常に欠乏状態に置かれるという状態は解消され、景気後退や不況につながるフィードバック循環も同じように消えて無くなるでしょう[10]。そしておそらく、もっと深い矛盾にも対処できるかもしれません。それは、何億人もの人々が失業していたり、つまらない無意味な仕事に従事していたりする一方で、必要で意味のある多くの仕事がやり残されているという、人間の創造性とニーズの断絶です。「自由貨幣では、需要は貨幣から切り離すことはできず、もはや貨幣を持つ者の意志の現れではない。自由貨幣は需要の担い手ではなく、需要そのものであり、需要は物質化され、対等な条件で供給を満たす。供給は、過去にも未来にも、物質的なものである。」[11]

プラトン以降、ユートピア思想の哲学者たちは、物質的テクノロジーが物理的領域にもたらしたのと同じ進歩を、理性と計画と方法が社会的領域にもたらすと考えました。テクノロジーが物理的自然という荒野を征服したように、社会計画が人間の本性という荒野を征服するのです。このどちらが失敗しても、同じことを単にもっとやる必要があるだけだと見られます。ナノテクノロジーの野心が、物理的なコントロールをミクロの精度で新たな段階にまで押し広げようとするのは、教育や法律という社会的テクノロジーが人間の行動をこれまで以上に細かく規制しようとするのに似ています。

狭い私利私欲を優先して、善良で必要な仕事を無視するように私たちを仕向けている強欲は、人間の本性の根本的な柱ではなく、私たちの貨幣制度とその根底にある自己と世界に対する誤った認識の産物なのです。私たちの制度に組み込まれた欠乏は、愛から行動し、充実した仕事をし、美を創造する「余裕がない」と信じるよう私たちに条件付けてきました。ゲゼルの自由貨幣はこうした制約からの解放を、そして制約の根底にある自己の妄想からの解放を象徴しています。寛大さを構造的に奨励し、ニーズを探し求める創造性を解放するのです。この点で、自由貨幣は贈与ギフトに基づくかつての社会への回帰を意味します。ルイス・ハイドが説明するギフトの流れの力学との驚くべき一致に注目してください。

贈り物ギフトは何もない場所に向かって移動する。その輪の中を巡ると、最も長い間何も持たずにいた人のほうを向き、他の場所にもっと必要とする人が現れれば、元の経路を離れてその人の方へと移動する。私たちは気前が良すぎて手ぶらになってしまうかもしれないが、空っぽになることで、それが全体に優しく働きかけ、巡っているものを引き寄せて、私たちを再び満たしてくれる。社会の本質は真空を嫌うのだ。[12]

後半につづく

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注:
[4] もちろん現在これは全て電子的に行うことができる。
[5] ベルナルド・リエターは『The Future of Money(貨幣の未来)』の中で、デマレージの歴史について素晴らしい考察をしている。
[6] マーシャル・サーリンズ[Marshall Sahlins], 『Stone Age Economics(石器時代の経済)』, p. 209
[7] リチャード・リー[Lee, Richard]. 『The Dobe !Kung(ドベ・クン)』. P. 101
[8] シルビオ・ゲゼル[Silvio Gesell], 『The Natural Economic Order(自然的経済秩序)』, 1906年. Philip Pyeによる英訳. 第5章E. ゲゼルは土地所有権の廃止も提唱した。
[9] ゲゼル, 第4章4
[10] 例えばデフレ不況では、貨幣が不足しているため誰もが貨幣を貯め込むようになり、不足は悪化する。
[11] ゲゼル, 第4章4
[12] ルイス・ハイド[Lewis Hyde], 『The Gift』, p. 23(邦訳『ギフト: エロスの交易』)

[訳註1] ポール・ホーケン『The Ecology of Commerce』(HarperCollins 1993年 日本語未翻訳)

原文リンク:https://ascentofhumanity.com/text/chapter-7-02/

2008 Charles Eisenstein


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