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折り重なる危機

訳者コメント:
 第7章から、目指すべき文明のあり方が語られます。本節では、ここまで本書で述べてきたことが伏線回収される、悲観的な楽観論、「いずれその時が来る」という重い楽観論が宣言されます。
 訳者自身の生い立ちから会社員生活、そして途上国体験から得た直感と共鳴するものが多くあり、それは子供の頃に垣間見た安保闘争や、大人たちが否定し隠そうとしたヒッピーの生き方とも通じ、いま田舎に住むことを選び、ある意味で仙人の生活を目指していることが、私の人生の伏線回収であるという確信を後押ししてくれます。
(お読み下さい:訳者からのお知らせ


第7章:再合一の時代

7.1 折り重なる危機

私たちの地球を苦しめている危機のどれかを真剣に研究している人々にとって、私たちの運命が絶望的なことに疑いの余地はありません。ほぼ確実なのは、政治、金融、エネルギー、教育、医療、そして最も重要な生態系が、みんな崩壊に向かっていることです。本書の執筆に費やした十年間で、私はこうした文明の危機を一つ一つ良く理解するようになり、その巨大さと必然性をある程度まで理解できるようになりました。毎年この一年が私たちの時代で最後の「普通」の年になるのではないかと考えていました。崩壊がもたらすものの恐怖を感じ、それを回避するため最善の努力をしたところで、私たちを破局へと駆り立てる力にはかなわないことを知って、私は絶望しました。

本書の主な目的の一つは、その絶望に語りかけることです。その答として私が提示するのは、理にかなっていながら誰ひとり想像しなかったような楽観論です。それは私たちが直面する危機の大きさを無視した盲目的な楽観論ではなく、この世界の醜い事実の全てに目を向けて取り込んだ実践的な楽観論なのです。その楽観論が深く認識している恐怖と苦しみは、文明と同じくらい昔から存在し、危機の集結が目前に迫る中で狂おしい最高潮に近づきつつあります。

何よりもまず、私が認識しているのは環境危機です。気候変動、砂漠化、サンゴの白化、樹木の枯死、表土の流失、生息地の破壊、生物多様性の回復不能な喪失、有毒廃棄物や放射性廃棄物、全ての生物細胞に蓄積するPCB、消滅しつつある広大な熱帯雨林、死滅した川や湖や海、ボタ山と採石場、生きた世界が舗装で固められ利益に落とし込まれる姿。

私が認識しているのは、ピークオイルのこと、そして経済インフラや食糧供給のあらゆる面が化石燃料に依存していることです。また私は、従来から知られている代替エネルギー源が、すぐにでも石油やガスに取って代わるのは望めないと理解しています。

私が認識しているのは迫り来る健康危機です。自己免疫疾患の急増と、重金属中毒、電磁波・化学物質・遺伝子汚染の原因とそれがもたらす影響です。また私は、退化した現代の食生活や、ほとんどの医薬品には毒性があり効果が無いこと、代替医療に対する抑圧のことも理解しています。

私が認識しているのは、世界金融システムの脆弱性、500年前から続くネズミ講(出資金詐欺)、そしてアメリカの債務ピラミッドが維持できなくなればたちまち起きるハイパーインフレと通貨崩壊と恐慌のことです。

私が知っているのは、ファシズムや監視国家へと向かう政治の傾向、戒厳令の発動という目的を隠しきれない緊急時対応計画、メディアの一極集中、そして社会全体に浸透している政府宣伝組織のことです。あまりにも上手く行っているので、組織の職員でさえその意味に気付いておらず、世界で最も重武装した国において、利益のための政府乗っ取りを正当化してしまいます。私が知っているのは、世界のパワーエリートの策略、武器・麻薬・刑務所産業への依存、そして「物事がバラバラになる」につれて権力にしがみ付くことへの絶望が高まっていることです[訳註1]。また少数の腐ったリンゴを取り除くことでシステムを浄化できるとも思いませんが、それは私たちの文明の重要な機関がほぼ全てこの略奪に加担していることを理解しているからです。

私が知っているのは、文明に長い間つきまとってきた血生臭い恐怖が今日でも本質的に衰えていないことです。私の楽観論は、ツチ族の赤ん坊が母親の目の前で壁に叩きつけられて死んでいくのを、無視するものではありません。歴史の中で繰り返され、終わりの見えない大量虐殺を、無視するものではありません。また、私の国を含め、世界中の刑務所や警察署で広く行われている拷問を、無視するものでもありません。

私の楽観論で認識しているのは、世界の言語と文化とコミュニティが、全世界を均質化する企業と消費者によって破壊され続けていることです。私が知っているのは、第三世界の工場での労働条件や、そこに蔓延する困窮と絶望のことです。私が会った労働者たちは何とか生活するために週80時間働き、そのおかげで先進国は何の役にも立たないプラスチックのガラクタの山に埋もれて窒息できるのです。

私が知っているのは、現在のグローバル体制下で最も恵まれた勝者でさえ、実際には最も哀れな犠牲者の一人だということです。私が目の当たりにしてきたのは、大金持ちの疎外感と絶望と孤独です。豪邸、お金、スポーツカー、資産、名声、権力をいくら手に入れたところで、心の隙間を埋めることはできないのです。

私が最も辛口な急進主義者と同じように認識しているのは、私たちの学校が刑務所のようになっていることです。有刺鉄線のバリケード、金属探知機、ロッカーの抜き打ち検査、制服、私物の所持禁止、薬物検査、武装警備員、私服警官、ビデオ監視、服従しない者への医薬による抑制などが揃っている場合もあります。私が知っている親たちの中には、子供に薬を飲ませなかったことで法的手段に訴えると脅された人々もいます。

私の楽観論は、テクノロジーという神が私たちを救うためにやって来るのを頼りにしているわけでもありません。なぜなら、テクノロジーが地球を荒廃させ、生活のペースを加速させ、世界をお金や財産やデータに変換し非人間的なものにしてきたと、私は認識しているからです。

ですから、私がただ危機の本当の様相を認識していないから楽観主義者なのだとは思わないでください。私はその全てを取り込みながらも、楽観主義者であり続けています。同じ楽観論でも、現在多くの人々が地獄に住みながら、さらに地獄を作り出しているという事実を軽々しく無視するのは、楽観論でも何でもなく単なる空想に過ぎません。それは、有毒廃棄物処理場をアスファルト舗装して、そこに駐車場以外の何かがあったことを忘れてしまうような楽観論です。見えていなければ、気にすることなど無いのです。

駐車場の比喩が示すように、この種の誤った楽観論は、じつは災いの元です。私の楽観論は、技術的対策テクノロジカル・フィックスの論理とは別のものです。技術的対策がいうのは、このような隠された問題は大して重要ではなく、最終的には科学が答えを見つけ、テクノロジーが方法を見つけてくれるということです。待ち望んだテクノロジーの理想郷ユートピアがますます未来へと遠ざかっていく今、私たちの多くはそのことを見抜いているのではないでしょうか。

ここでの私の目的は、私たちが本当に、環境、財政、政治、エネルギー、土壌、医療、水の危機に直面していることを、あなたに説くことではありません。他の人たちが私よりもはるかに説得力のある説明をしています。また、このような事態が避けられるかもしれないという希望をあなたに抱かせることが目的でもありません。危機は避けられません。なぜなら、危機を避けるために起こるべきことは、その結果としてしか起きないからです。破綻を回避するために針路を変える提案は、今のところ全て荒唐無稽で非現実的です。私が楽観論をとるのは、私たちが集団として落ちるところまで落ちたとき、「現実的なこと」「可能なこと」の定義がすぐにも変わると知っているからです。

別の言い方をするなら、私の楽観論は奇跡にかかっているのです。超自然的な仲介者が私たちを救いに来るのではありません。奇跡とは何でしょう? 奇跡は、何が可能なのかという新たな感覚から生まれるのであり、人生を管理しコントロールしようとする試みを放棄することから生まれるのです。個人の体験では、人生に打ちのめされたときに奇跡が起こることが多いものです。アルコール依存者にとって、「酒をやめればいい」という提案は馬鹿馬鹿しく、不可能で、想像もできないことです。奇跡が必要なのです。これと同じ変化が地球を救うために必要なのです。それを提案する主流派の政治家は誰もおらず、その変化がどれほど深いものであることが必要かを分かっている人もほとんどいません。

先に述べた危機が折り重なるとき、事態が制御不能であることを痛感し否定できなくなるとき、旧体制の失敗が完全に明らかになるとき、今は絶望的なほど急進的に見える解決策も当たり前のことになるでしょう。

そして、これは必ず起きます。それぞれの危機がいつ起こるかは分かりませんが、危機を駆り立てる力は容赦ないものであり、遅かれ早かれ姿を現すのは間違いありません。はるか昔に動き出した流れが臨界点を超えて加速し、私たちはその影響を味わい始めたばかりです。仮に今、私たちが新たな汚染をどうにか食い止めたとしても、既に起きてしまった生態系の損傷は破局を引き起こすのに十分なほど蓄積されています。同じ必然性が、公衆衛生、教育、金融、政治など、他の領域にも当てはまります。もう手遅れなのです。どれほど早く、どれほど悪く、どれほど長く続くかだけの問題なのです。あなたがどんなに悪い事態を想像しても、おそらくもっと悪いことになります。私の言うことが信じられないなら、『枯れゆく木々』や『沸点』といった本を読んでください[訳註2]。

タイタニック号のように、テクノロジー社会の勢いはあまりに強大なので、たとえ今エンジンを逆転させ激しく舵を切ったところで、短期的・中期的な物事の流れは大して変わらないでしょう。もはや避けられない自然との衝突に向かって、私たちはまっしぐらに進んでいます。しかし、私たちは迫りくる氷山を避けるためブレーキをかけたり舵を切ったりすることなどほとんど無かったばかりか、「全速前進」という無関心な方針を取り続けてきました。米国では、共和党の方針は基本的に「氷山って何だ?」というものであり、いっぽう民主党は針路を数度だけ変えようとしていますが、一等船室の飲み物をこぼすほど早く舵を切ることはありません。検討されている「現実的」な提案や実行可能な妥協案は極めて不十分です。京都議定書を一方の政党は否定し、もう一方の政党は支持しますが、それさえも遅すぎ甘すぎると分かっている人はほとんどいません。米国の外では、インドや中国のような「発展途上国」が欧米の機関投資家に後押しされながら、採掘・加工・消費・廃棄という旧来の直線モデルに従って、がむしゃらな工業化という石炭をタイタニック号のボイラーに投げ入れています。

その一方、船室ではパーティーが続いていて、その間にも最初の氷の砕け散る音が船内に響き渡り、凍える海水の奔流ほんりゅうが隔壁を次々と乗り越えていった後でさえ、パーティーは続きます。最上階の甲板かんぱんでは楽団が演奏を続け、船は傾いていきますが、平常という幻想を維持しようと命を捨てて絶望的な努力が続きます。

この時点で、競争、安全安心、経済的自立という企ての完全な破綻は火を見るよりも明らかになり始め、誰も無視できなくなります。以前に読んだ悲観的なビジネス書が予測していたのは、一方には犯罪が蔓延するスラム街、もう一方には塀に囲まれ、ゲートが設置され、フェンスで囲まれ、警報機が設置され、警備員が配置された裕福なコミュニティーへと二極化した社会です。あろうことか、著者の助言は何とか工夫して後者で生きられるようにすることでした。これは沈みゆく船の一番高い甲板によじ登るのと同じことです。誰もが口にするのは現代の競争激化ですが、私の脳裏に思い浮かぶのはネズミの大群が頂点を目指して争うように這い上る姿で、そこへ辿り着いても他のネズミたちより数分遅れて死ぬだけです。

そう、あなたは紛争地域、ゴミ焼却場、有毒廃棄物投棄場、スモッグ地帯、スラム街など、ますます有害になる世界の危険からできるだけ離れた場所に身を置くことはできますが、私たちの時代に折り重なる危機はあらゆる防御を遅かれ早かれ打ち破るでしょう。投資をどれだけ分散しても、壁に囲まれた屋敷に銃がどれだけあっても、地下室に食料の缶詰がどれだけあっても、災難という潮流はいずれあなたを飲み込んでしまうでしょう。ゲートや鍵や有刺鉄線や銃で確保できる安全は一時的なもの、詐欺的で不安なものでしかありません。やがて私たちが防空壕の心理構造を捨てて理解することになるのは、安全安心が唯一あるとすれば、その源は与えること、開放することであり、自己のために多くのものを奪うのではなく流動的な人間関係の中心にいることだということです。安全安心は独立からではなく相互依存から生まれるのです。生き残るのは要塞に閉じこもろうとする者ではなく、与え、助け、コミュニティーに貢献できる者たちです。彼らが新しい文明のいしずえを形作るのです。

私たちを襲う危機は10年、20年という時間の中に集結しつつあります。その一つ一つが他の危機を引き起こすのに一役買っていると同時に、一つ一つが本書で述べた共通の源から生じています。きたるべきものの兆しは、政治家がテロを口実に人権を無視し、人々の活動の監視記録とコントロールを強化しようとするときに見ることができます。同じことがアジアでのSARS危機のときにも起き、アメリカでもインフルエンザや天然痘が流行した場合の緊急時対応策として行われるかもしれません。そして歴史的にも、経済破綻と政治的ファシズムの関連性は十分に立証されています。すでに干ばつと生態系の荒廃が難民を生み始めていますが、現在の局地的な災害が合体して地域的あるいは地球規模の環境破壊へと膨れ上がったとき、どのような政治的不安定が生じるかを想像してください。すでに石油をめぐって各国は戦争状態にありますが、エネルギーだけでなく食糧や水の不足がもたらす結果を想像してください。

前述した陰々滅々いんいんめつめつのシナリオは、詳細はともかく論調としては見慣れたものに思えるかもしれませんが、考えてみてほしいのは、それが単なる〈終わり〉ではなく〈始まり〉なのかもしれず、異なる自己意識に基づく新しい時代へと私たちを駆り立てる、出産の危機かもしれないということです。これは出産が起こるのをじっと待っていればいいということではありません。危機の到来は避けられないにもかかわらず、それを回避するための何世代にもわたる活動家たちの一見無駄とも思える努力が、極めて重要なのです。もしあなたがそのような人で、絶望に立ち向かい、どうしようもなく大きな問題に取り組んでいるのなら、あなたの仕事は決して無駄ではないことを心に留めておいてください。再生可能エネルギー、廃水のリサイクル、地域通貨、湿地帯の保護、社会のあらゆる側面の改革など、どんな努力をもってしても破局を回避できないのは事実ですが、こうした努力は現体制が崩壊した後、つまり中毒者が最後の技術的対策を使い果たして底を打った後に起こりうる、地球再生のための種を蒔いているのです。

持続可能で調和した生活を送るのに必要な技術的解決策は既に全て存在していて、実際いつでも存在していたのです。必要なのは意識の転換であり、個人として、生物種としての私たち自身の再認識であって、それが過去数千年の間に拡大した分断と深まる不幸を逆転させるのですが、それは逆説的に、結果としてしか与えられないのです。

私が言う意識の転換とは、いかなる技術的発明を前提とするものでもなければ、テクノロジー水準の後退を主張するものでもありません。しかし、それがひとたび起きるなら、実はもう始まっているのですが、テクノロジーの大きな影響が当然のように進んでいくでしょう。先見の明のある人々が今このような物質的・社会的テクノロジーを開拓しているのは、旧態依然とした管理・支配のあり方がますます無益なものになっていることへの対応なのです。彼らの発明が広く採用されないのは、必要な意識の変化が単にまだ現れていないということです。それは単に現在の私たちのあり方と矛盾しているだけです。私たちは知るべきことを既に全て知っていて、まだ私たちがそこまで成長していないというだけなのです。

社会が持続可能なテクノロジーを抑圧する仕組みは全て、本書の核心である個別ばらばらの自己という同じ妄想の上に成り立っています。経済学では、この妄想は利子とコスト外部化として現れます。これらが越えがたい障壁となって阻害するのは、循環する流れを基にしたプロセスです。科学では同じ妄想が、何が可能で現実的であるかについて、他の概念を見えなくし、新たな理解と新たなテクノロジーの受け入れを阻む障壁を作り出します。医学では、旧態依然とした「我らと彼らの対決」という考え方の枠内での研究に集中するので、新しい自己免疫疾患には体質的に対応できず、他の治療法は非科学的だと分類されます。政治、法律、教育の分野でも見てきたのは、世界の秩序化、数値化、標準化、支配拡大に繋がらないような解決策が、コントロールのパラダイムによって切り捨てられる様子です。

分断の体制が新たな高みに達しようとしているという事実、地球全体が生命の金銭化と関係性の商品化に陥っているという事実、世界とそこにある全てのものを数値化し、名前を付け、管理することが、かつてないほど極端になりつつあるという事実があるからといって、もっと美しい世界への展望ビジョンが遠のいていくわけではありません。むしろ、岸に向かって打ち寄せる波のように、〈分断の時代〉は崩れ落ちる寸前に空洞化しながらも、最大限の高さまで立ち上がります。太古の昔に運命づけられていたこの崩壊が、今私たちの目前に迫っているのです。その後に私たちが築くことのできる世界が垣間見えるのは、あらゆる「オルタナティブ」(非主流の代替手法)ですが、今その効果はほとんど現れていません。

現在へと折り重なる危機は、何千年も前から未来に書き込まれていたものです。それは深い過去に始まった分断の必然的な結末であり、一度始まったら積み重ねていく他ありません。自分たちを自然から切り離された存在と見なし始めた瞬間から、私たちの運命は決まっていたのです。崩壊が間近に迫っているのは現在あまりにも明らかですが、世界がまだ大きく、私たちがまだ少数で、世界を他者として扱うことの影響から逃れやすかった何世紀も何千年も前に、それを予見するのははるかに困難でした。にもかかわらず、歴史を通じて、鋭敏な人々は不吉な前兆を見抜いてきました。それは私たちの自己観と世界観が駆り立てた先にある必然的な目的地でした。はるか昔に、災難が降りかかりつつある最初の兆候が私たちの自己観の中に書き込まれているのを彼らは見抜き、その洞察を神話と比喩の言葉で表現しました。

彼らの比喩のいくつかは非常に印象的です。バランスを失った生態系を象徴するイナゴの災い、私たちが自ら招いた病を象徴する腫れ物の災い。戦争と、戦争の噂。バビロンの娼婦は、性の商品化だけでなく、神聖なもの全般を金のために売ることを象徴しています。現在アメリカの原理主義キリスト教で流行している終末世界の予言は、本物の気付きを基にしていますが、違っているのは救いが外部からもたらされると考えることです。彼らが想像するのは、イエスが天から降りてきて、真の信者たちは歓喜の中、私たちが破壊した世界からの脱出に導かれるというものです。それは技術ユートピアを信奉する人々と全く同じ思考形態です。ただ神の正体が違うだけです。

折り重なる危機という同じ意識が、大衆社会に蔓延する恐怖として無意識のうちに現れます。調子の良い時は気付かないほどかすかなものですが、どんなに良い時でも人生やビジネスの浮き沈みに蔓延する周囲の不安を和らげることはできません。それは、科学に埋め込まれ〈テクノロジーの計画〉を推進する不安と全く同じものです。文化全体に染み込んだ不安が煽り立てるのは、私たちの特徴であるコントロールへの強迫観念です。

したがって、これまで何千年にもわたって人々が予言してきた世界の終わりは、もうすぐ到来します! 終末の日をたびたび先送りしたことでその信憑性が損なわれはしましたが、タイムズスクエアでプラカードを掲げる変人たちの背後にある基本的な心のエネルギーは、本物の源から湧き出たものです。彼らが頼っているのは本物の洞察です。文明という大建造物は、それが最終的には崩壊することを決定づける修復不能な構造的欠陥を抱えているのです。このまま行けば、私たちは自然とも人間の本性とも衝突する運命なのです。

ハルマゲドンやラグナロク(世界の終わりにおける戦い)といった神話の創始者にまで遡る、この長いキリスト教の伝統が一貫して過小評価してきたのは、分断がどこまで進むか、私たちが到達しうる疎外がいかに深いか、ぐらつく文明の大建造物をコントロールの技術で補修し補強する能力がどこまであるかということです。そしておそらく私にもまだその時が来ていないのです。おそらく私たちは、過去のテクノロジーがもたらした影響が急拡大するのを管理し続けることになるでしょうし、おそらく生態系や政治や肉体から失われた機能を補おうとする死に物狂いの努力は、これからも成功するでしょうし、おそらく社会や自然や文化や魂の資本が、まだ想像もつかないような新たな領域を発見し、永続的な成長の原動力となるのでしょう。

おそらく。しばらくの間は。でもたとえ迫り来る危機の集結を百年先まで食い止める方法を見つけたとしても、私のお話しすることが間違いということにはなりません。

注目すべきことに、これらの世界終末神話には共通点もあって、終わるのは世界そのものではなく、我々が知っている世界が終わるのだということです。終末戦争のように、その後の世界は直感や神話として集合的無意識に投影されます。心の奥底で、私たちは皆ずっと良い世界が可能だと分かっています。結局のところ、その理解こそが本書の冒頭で述べた「すごーい、未来だ!」という神話を生み出したのであって、〈テクノロジーの計画〉というイデオロギーのせいではありません。〈テクノロジーの計画〉というイデオロギーは、直感的に感じ取ったこの未来が、崩壊によってではなく、今までと同じ方向に突き進んでいけば得られると主張して横取りするのです。

同じ理解は古くから伝わる天国の神話にも表れていて、二元論という体制の下で理想化され抽象化されて、地上から切り離された領域に追いやられてはいますが、隠喩的なレベルでは私たちの知っている人生が必然的に終わることを示唆しています。天国に入るための手続きでさえ、ふつうは従来の自己の超越を伴います。それは古いあり方を手放すことであり、キリスト教式に言えば、キリストのうちに生まれ変わることです。同じように、折り重なる危機の後に人類が到達できる輝かしい地位は、私たちが自然とは別で自然の法則から免除されるという集団的自己定義が崩れた後にしか訪れません。

近代を通して繰り返されてきたユートピアというビジョンは単なるテクノロジー主義的なプロパガンダ以上のものですが、今日私たちが作り上げたものを遥かに超える美しい世界が可能だという普遍的な確信にも耳を傾けてください。しかし、〈ユートピア〉という言葉の文字通りの意味は「存在しない場所」なのですが[1]、私たちをここまで導いたような種類の努力では、そのような世界を実現することはできません。ユートピアは、より優れた科学やより精密な技術、内外の現実をより細かくコントロールすることによって達成されるものではありません。善良であろうと努力しても、自然や人間の本性を上手くコントロールしても実現しません。全く逆です。私たちが作り出した〈地獄〉は、自然をモノ扱いし、コントロールしようとする企てから始まったのです。その企てと、そこに付随する自己概念を超越することによってしか、現在私たちが置かれている状況をさらに強化する以外の何かを生み出すことは望めません。

千年王国による終末予言と同じように、〈水瓶座の時代〉の到来を告げるニューエイジの宣言もまた、機が熟していないことが証明されています。しかし、これらのビジョンが嘘だということにはなりません。60年代のヒッピーたちに疑いようもなく分かっていたのは、あと10年もすれば、戦争、お金、法律、学校など、全てが時代遅れになることでした。彼らが見ていたのは本当の未来、本当の必然で、それは彼らの多くが歯科医になったという事実によって否定されるものではありません。以前、私の兄が車両管理局の列に並んでいたとき、隣に立っていた元ヒッピーがこう言いました。「俺たち、こんなこととは縁を切ったはずだったんよ。60年代にゃ、行列やら書類やら身分証明書なんてのは、終わってたはずだったんよ。」ヒッピーたちの目に明らかだったのは、こうした制度は全て時代遅れであり、拡大した意識が急速に地球を覆っていく中で衰退していくことでした。あと数年で、それが実現するはずでした。

ヒッピーたちは間違っていませんでした。実際、旧文明の終わりを主観的に体験した者たちもいて、マトリックスからの脱落として自分自身の生涯のうちに形を現しました。幾人かは今日も社会の狭間で、ほとんど誰の目にも触れずに生きていて、お金も法律も戦争も彼らの体験には含まれていません。彼らは中国の伝説に登場する道教の仙人のようなもので、普通の社会から離れて人里離れた山奥へと消えていき、通常の文化で目隠しされた人の目には見えず、人間の問題に入り込んでくることもほとんどありません。それ以外の、歯科医や弁護士になるために自分のビジョンから身を引いた人たちにとって、あれほど明確で説得力のあるものに見えた未来は、未来のままでした。彼らが見たのは真実でしたが、そのビジョンの時間的解釈がずれていただけなのです。

それが必然的な未来であることは確かですが、逆説的な言い方をすれば、美の痕跡の最後のひとかけらを使い果たすその日まで無期限に先送りする力が、私たちにはあるということでもあります。

多くの人々にとって、危機の集結はもう既に起こっていて、ヒッピーや道教の仙人のように、コントロールされ束縛され切り離された自己の概念を手放し、分断のテクノロジーから離れて向かう先には、貨幣、教育、技術、医療、言語の新たな制度や体系があります。様々な方法で、彼らは〈機械〉の組織から身を引きます。危機が折り重なると、普段通りの生活はもはや意味をなさなくなり、再生への道、魂の変容に向かう道が開かれます。あらゆる時代の神秘主義者たちは、天国は人生と時間の果てにある遠い別の領域ではなく、むしろ普段の存在にみ渡っていて、いつでも手の届くところにあると認識してきました。イエスはこう言っています。「父の王国は私たちの中にあり、私たちの間にある。」これが、マシュー・フォックスが〈キリストの再臨〉に込めた深遠な意味です。客観的な時間の中の単一の明確な出来事ではなく、時間的に離れ、散発的でありながら必然的な、私たちのキリスト意識への目覚めの総体なのです[2]。私たちの時代が特別なのは、集団レベルでの分断のプロセスの完成が、このような個人的な危機の集結と、それに続く新たな自己意識への目覚めを、多くの人々に一斉に引き起こしていることです。

長らく失われていた黄金時代を取り戻すという約束は、数え切れないほどの神話にこだましています。心の琴線に触れるのは、太古の昔から空想家や理想主義者を鼓舞してきたもので、ことわざにあるように、人間の胸から永遠に湧き出る、消すことのできない希望を説明しています。また、それがあおる健全な不満は、現代的な不安の裏返しで、私たちにできるのは高々この程度なのだとは信じられません。その憤り、その静かな怒りは、快適さや贅沢によって一時的に和らげることができ、生存不安によって一時的に抑え込むことができ、常に若者に最も強く現れ、私たち全員の中に潜んでいて、十字軍のような理想主義へと駆り立てられる準備は常にできていますが、しばしばそれを生み出している状況そのものを永続させるために利用されるのです。親愛なる読者の皆さん、私の目的は、あなたの憤りを代弁し、人生はもっと素晴らしいものだという直感的な理解を再確認することなのです。最後に、洞察力のある漫画作家パトリック・ファーリーによる、過去と未来の〈黄金時代〉についての叙情的な描写を紹介しましょう。

私たちが懸命に逆の努力をしているにもかかわらず、ついに私たちの子孫が、互いを傷つけずに生きる方法を見つけるなどと、あなたや私は信じられるだろうか?
彼らが皆どれほど裕福になるか、あなたや私は信じられるだろうか?
私の孫娘とその友人たちが、生きていることをどれほど激しく愛するか、この愛が刹那的な気分などではなく、寝ても覚めても人生の一瞬一瞬を貫く、尽きることのない力だということを、あなたや私は一瞬でも理解できるだろうか?
あなたや私は信じられるだろうか? それを信じるに耐えられるだろうか?[3]

この章で説明するのは、未来のテクノロジー、その社会形態と物質生産のパラダイムについてです。その未来とは生命を愛する未来であり、その愛とは生きていることへの愛と、生きとし生けるものへの愛を含むものです。それらは全て、自己と世界に対する別の理解から生まれ、それを具体化します。現在の社会形態やテクノロジーが分断から生まれ、分断を強化するのと同じように、21世紀のテクノロジーが分断を逆転する原因であり結果でもあることを見ていきますが、これは宇宙に対する全く異なる理解であって、心理学から宇宙論に至るまで、あらゆるレベルで明らかになってきました。いま私がお伝えしようとするのは、最も有望な社会的・物質的テクノロジーの種が、いま芽を出して〈再合一の時代〉へと成長し、花を咲かせるチャンスを得て満開の花を咲かせたら、どのようなものになるかというビジョンです。危機が激化するにつれ、私たちは新たな選択と新たな可能性に直面することになります。やがて扉が開かれるであろう選択の影響と力の全てを、認識しようではありませんか。


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注:
[1] 語源はギリシャ語で「良い」を意味するeu-ではなく、「ない」を意味するou-である。
[2] マシュー・フォックス[Fox, Matthew,]『The Coming of the Cosmic Christ(宇宙的キリストの到来)』, HarperSanFrancisco, 1988年.
[3] パトリック・ファーリー[Farley, Patrick,] 『Chrysalis Colossus(クリサリスの巨像)』, www.e-sheep.com/chrysalis


[訳註1]「物事がバラバラになる」(Things Fall Apart)はチヌア・アチェベによる小説『崩れゆく絆』の原題。

[訳註2]『枯れゆく木々:アメリカの森林を襲う疫病(The Dying of the Trees: The Pandemic in America's Forests)』チャールズ・E・リトル [Charles E. Little](1995年)。ニューイングランドからカリフォルニアまで、全米各地で失われた樹木を調査する環境学者が、酸性雨、オゾン、紫外線、森林皆伐など、人間が作り出した原因と、科学者、政府、市民の反応と無関心を描く。
『沸点:政治家、大手石油会社、石炭会社、ジャーナリスト、活動家はいかにして気候危機を煽ってきたか—そして災害を回避するためにできること(Boiling Point: How Politicians, Big Oil and Coal, Journalists, and Activists Have Fueled a Climate Crisis -- And What We Can Do to Avert Disaster)』 ロス・ゲルブスパン [Ross Gelbspan](2004年)。地球温暖化の問題があることを認めつつも京都議定書に従うことを拒否し、化石燃料への依存を強めるエネルギー政策をとるアメリカ政府と産業界の画策を描く。
どちらも日本未訳。

原文リンク:https://ascentofhumanity.com/text/chapter-7/

2008 Charles Eisenstein


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