協力という通貨(後)
訳者コメント:
現代の通貨を作り出せるのは銀行だけであり、「信用創造」によって生み出されるのですが、地域通貨はこれを人と人との繋がりの中で草の根的に行うことを可能にします。地域通貨がもつ性質は、狩猟採集民のギフト精神を呼び戻し、グローバル資本によって破壊された地域経済を復活させます。この内容をチャールズは2011年の『聖なる経済学』で掘り下げています。
(お読み下さい:訳者からのお知らせ)
(前半から続く)
私的な蓄財を絶えず拡大強化しようとする衝動、つまり自己や「我と我が物」という切り離された領域を拡大し強化する衝動を、自由貨幣は逆転させます。自由貨幣が生み出す構造的な推進力は普遍的な兄弟愛へと向かいますが、これはイエス・キリストによって宣言されながら、教会によって徐々に破壊され、マルティン・ルターによって物質界から完全に追放されてきたものです。利子が自己の輪を縮め、後には現代文明の疎外された自我が残るように、マイナスの利子であるデマレージが、私たちを共同体や全人類と再び一体に結び、〈高利貸しの時代〉に付きものの人為的な希少性と競争に終止符を打つのです。
私たちが住んでいる世界は、やはり豊かなのであり、これまでずっとそうだったのです。現在の貨幣制度とその下にある、野生を独占的に所有するための囲い込みが生み出したのが人為的な不足で、そんなものはもともと存在する必要などなかったのです。世界の半分が飢える一方で、残りの半分は前者が食べていくのに十分な量を廃棄しています[13]。不足しているのは食料でも他の必需品でもなくお金であり、お金の不足が他の全てのものに同じ不足を引き起こすのです。
マイナス金利の通貨は、第4章で説明した、かつての贈与経済へと戻る一歩ですが、これが文字通りの絆(恩義)を生み出します。ルイス・ハイドの贈与理論について、作家のジェシカ・プレンティスはこう書いています。「ギフトの神聖でエロスに満ちたエネルギーの一部は、受け取る側がそれを蓄積できないことにあり、ギフトが渡され続けるか、別のギフトが贈られる必要があって、それによってギフトのエネルギーが動き続けます。ギフトは流れであり、循環する運命にあるのです。[14]」これは自由貨幣を完璧に表現していて、物置で埃をかぶっている贈り物のように、使われずにいると価値を失います。自由貨幣の制度で、貨幣取引は贈り物のやりとりのようになります。
希少性の問題をもっと直接的に解決する別の種類の貨幣に相互信用制度があり、しばしば頭文字をとってレッツ(LETS、地域交換取引システム)と呼ばれます。相互信用制度では、通貨は銀行や中央の発行者によって生み出されるのではなく、取引そのものによって生み出されます。その仕組みはこうです。ジェーンが芝刈りを必要としているとしましょう。ジョーは10レッツ・ドルでそれを行うことに同意し、その取引はコンピューターなどの台帳に記録されます。ジェーンの口座からは10ドルが引き落とされ、ジョーの口座には10ドルが入金されます。両者とも残高ゼロから始めたとすると、ジェーンの残高はマイナス10ドル、ジョーは10ドルになります。どこからともなくお金が生み出されます。ジョーはこの10レッツ・ドルを使って、フレッドから他の商品やサービスを買うことができますが、一方でジェーンは10ドル相当の別のサービスを地域社会に返すべき義務を負います。
このシナリオが信用できないと思えるなら、それが通貨を生み出す仕組みが本質的には現在の銀行債務制度と変わらないことを理解してください。銀行が住宅ローンのために10万ドルを貸し出すということは、どこからともなくお金を生み出すのと実質的に同じことです。レッツ制度の場合、負債と通貨はリエターが言うように「同じコインの裏表」なのです。重要な違いは通貨の創出を調整する方法にあります。現在の制度で通貨の創出を制約するのは、(1)準備預金の供給予備力と(2)借り手の信用力ですが、信用力とは融資の元本と利息を返済するため他者に競り勝つ能力があるということです。第4章で述べたように、このような制約がしばしば資金不足につながるのは、そのような制約が交換手段の需要と直接結びついていないからです。富の生産(と、利子の返済)のための手段がすでに不足している人々にとって、富を生産する手段である資本を利用する費用がより高くなるか、全く利用できなくなるような場合には、富の二極化につながることもあります。
これとは対照的に、レッツの資金創造はふつう地域社会によって管理されます。理屈の上では、ジェーンが返済するつもりもなく雪だるま式に借金を重ねていくことを防ぐものは何もなく、ジョーとフレッドが架空の取引を計上してフレッドの残高を積み増しておきながら、ジョーが街を抜け出してしまうのを防ぐものもありません。しかし実際にこのようなことをする人は、いずれ地域社会からサービスを拒否されることになります。レッツ通貨が形にしているのは「あなたに一つ借りがある」ということであり、ここで「あなた」とはサービスを提供した個人ではなく地域社会のことです。それが頼りにするのは社会的な圧力であって、あからさまなものと義務や恥などの形で内面化されたものの両方があり、これが制度の悪用を防ぎます。誰かが巨額の借金をすることが許されるのは、たとえば病気の場合など、本人と地域社会がそれを正当化できる状況にあると感じた場合だけです。
レッツ制度ではお金が取引によって生み出されるので、通貨が不足することはありません。必要とされるサービスを提供する、あるいは必要とされる商品を提供するという単純な意思さえあれば、取引は成立します。これと対照的な矛盾に満ちた現在の制度では、しばしば失業者とサービスを受けられない人々とを結びつけることができません。不足することのない通貨なら、必要なものを買うお金が足りない人はいなくなります。もちろん、「必要」は依然として文化や地域社会によって決定され、その人が望むものを提供しようとはしないかもしれません。重要なのは、この判断を下すのが地域社会であって、経済という非人間的で匿名の力ではないことです。このようにして、レッツ制度はかつて地域社会を結びつけていた互恵という古代の習慣を復活させます。
レッツなどの地域通貨制度は、個人の地域社会への貢献を数値化するだけでなく、経済活動を地域に留めておくことによって地域社会の結びつきを強めます。地域通貨はグローバル経済の冷酷な圧力を緩和し、逆転させることさえできます。グローバル経済こそが、事実上全ての人を他の全ての人との競争に放り込んでいるのです。ペンシルベニア州のスーパーマーケットには、この地でたくさん栽培されているリンゴを販売しているところはほとんどなく、代わりに西海岸やニュージーランドから輸入しています。地元の酪農家が廃業する一方で、消費者が飲む牛乳はミシガン州やウィスコンシン州で生産されます。従来の経済学では、州外の生産者の方が「効率的」で、土地や気候、文化から生じる「比較優位」を享受しているからだと言われてきました。実はこの「効率性」は、コストを上手く外部化することで得ている場合が多いのです。水、輸送インフラ、廃棄物を環境に吸収させるための補助金投入により、輸入産品のコストは人為的に引き下げられ、その価格にはこのような外部化されたコストが全く反映されていません。
地域経済も外部性の問題に悩まされることはありますが、その可能性が低いのは、外部化されたコストを支払うのが普通その事業を支えているのと同じ地域社会の中にいる人々だからです。全ての原材料と販売先を遠隔地の非個人の商品市場だけに依存している企業は、地域に投資する動機がほとんどなく、したがって責任ある行動をとる動機もほとんどありません。
コスト外部化の他に、外部の大規模生産者の効率が高いもう一つの理由は、地域レベルでは不可能な「規模の経済」を利用していることです[15]。残念なことに、規模の経済を裏返せば画一化と標準化があります。今日の経済は広大な地域で均一な製品やサービスを提供する国営企業やグローバル企業によって支配されることがますます多くなっています。経済の各分野がウォルマートに代表されるようなビジネスモデルに次々と屈しています。かつてのような独立資本の食料品店、パン屋、金物屋、衣料品店、ハンバーガーショップはとうの昔に姿を消し、代わって企業のフランチャイズ店が大勢を占めるようになりました。その結果、文化、料理、都市景観が北米全域、そしてある程度まで世界的に均質化し、「高速道路出口の景観」となりました。それがどのようなものかはご存じでしょう。何マイルにもわたって、ファストフード店、ガソリンスタンド、自動車ディーラー、大規模小売店、ショッピングセンターが続きます。ファストフードのフランチャイズが出店する目的は、地域社会に貢献するためではなく、ただ地域社会から富を吸い取り、最終的には遠く離れた本社や株主に送金するためなのです。地域通貨はその地域でしか使えないので、このような力に対抗できます。例えば、食料品店が支払いの一部を地域通貨で受け取ると決めた場合、地元の農家から商品を調達したり、おそらく給与の一部も地域通貨で支払うなど、地域内でその通貨の使い道を見つけなければなりません。全国チェーン店がこのようなことをする可能性は低いので、地域の店が競争力を持てるようになります。その結果、自己強化する「好循環」が回りだしますが、それは地域通貨を受け取った現地の納入業者や従業員が自ら地域通貨を使わなければならないからです。地域通貨を利用する企業や消費者が増えれば増えるほど、その利便性は高まり、企業が地域通貨を受け入れる動機も強まります。
上述した貨幣制度の最も深い影響は、おそらく心理的なものでしょう。利子や希少性によって規定されない通貨は、太古の狩猟採集民のような豊かさの心理構造を復活させますが、そこでは分かち合うことは簡単で自然なことであり、世界を我と我が物に囲い込もうと狂奔することもありません。そのため、自己と他者という絶対的な境界線ではなく関係性によって定義される、より開かれた自己の概念とも一致します。したがって、私たちの自己定義が変わらない限り、このような通貨のどれ一つとして現在の制度に取って代わることはないでしょうが、にもかかわらず、このような通貨は自己と世界の再認識を促す助けになり得る変革の手段なのです。新時代への転換点となる危機の集結が訪れるとき、(今も進行中の)金融危機は上で述べた全ての発想が根本的に異なる制度へと結晶化する道を開くでしょう。そうなれば、これまで悪の力であったお金も、相互に繋がり依存する自己にとっての優先順位、つまり持続可能性、美しさ、全体性に沿った新たな動機を具体化するようになるでしょう。
こんな経済を想像するのは考えすぎでしょうか? ビジネスとして最良の意志決定と生態学的にみて最良の意志決定が同じであるような経済。環境を保護するために、規制や強制力ではなく、経済的動機が組み込まれているような経済。ビジネスの創造的で起業家精神にあふれたエネルギーが、自然の全体性や社会の健全性と性格的に一致するような経済。ゲゼルはこう言います。「時代を超えて忌み嫌われてきたお金というものが、自由貨幣によって廃止されることはない。我々は基本的な経済法則が高利貸に他ならないことを示したが、自由貨幣はこれを変えることなく高利貸の働きを変え、悪を求めていながら善を達成する力のように作用させるのだ。[16]」
今のところ、ほぼ例外なく、お金は悪の力、あるいは「諸悪の根源」とさえ認識されています。何かを「する余裕がない」という表現は、親切心、寛大さ、余暇、創造性を求める私たちの生来の傾向にとって、お金が障害となることがいかに多いかを明らかにします。これまで述べてきたように、利子は私たちが人間の本性だと勘違いしている強欲を生み出し、それが固定化させる幻想は、安全安心や富の源が、世界をより多く自分のために集め、他の生きている人や動物、植物、生態系を全て犠牲にして、「私」という独占的な領域をどんどん拡大していくことにあるというものです。またそれは、私たちが世界にすることは私たち自身にすることだというカルマ(業)の教えと真っ向から矛盾しているようにも思えます。現在の貨幣制度では、世界に分け与えると私の取り分が多くはならず、少なくなることを意味するのです! したがってお金は、仏教で(そして間違いなく他の宗教でも)あらゆる苦しみの根源と考えられている分断という幻想を助長します。自由貨幣やレッツ制度は、この役割を逆転させてお金をカルマと一致させ、世界を豊かにすると自分たちも豊かになるという根本原理を否定するのではなく、むしろ強化します。そうすることで、現在の貨幣制度が発展した根底にある個別ばらばらの自己というドグマを覆すことにもなります。
危機の集結(この場合は特に金融危機)の前兆は1930年代に起こり、まさに私が説明してきたような貨幣制度が生まれ始めました。しかし、当時は集結する危機の要素が全て揃っていたわけではなく、自己と世界の近代的な概念はまだ完全に成熟していませんでした。1930年代、世界中の通貨が一斉に暴落すると、北米やヨーロッパでは何千もの地域通貨が現れました。アメリカで「緊急通貨」と呼ばれたこの通貨は、上記のような様々な特徴を備えており、導入された所はどこでも地域経済が回復しました。当時の代表的な経済学者の一人であったアーヴィング・フィッシャーは、世界恐慌を打開する方法として印紙(デマレージ)制度を提唱し、こう言いました。「印紙を正しく使えば米国の恐慌危機は3週間で解決する![17]」他の経済学者も同意見でしたが、ディーン・アチソン財務次官に進言したのは、政治が地方分権化しかねないという可能性でした。これに応えてルーズベルト大統領は緊急通貨を全て禁止し、代わりにニューディールという中央集権的な解決策を選んだのです。同じようなことが、オーストリアではヴェルグルやそれに倣った通貨に、ドイツではその数年前に起こりました。現在では、ほとんどの国が補完通貨を容認していますが、それでも様々な手段で抑制をかけていて、たとえば、職業サービスに対し地域通貨で収入を得た場合、依然として所得税が課され、これは国の通貨で支払わなければならないため、人々は実質的に地域通貨以外の経済圏で活動することを余儀なくされます[18]。
どうやら当時の世界はまだ地域社会への権力移行の準備ができていなかったようです。ニューディール政策やヨーロッパのファシズムに代表される中央集権的な解決策は、政治権力のための単なる策略にとどまらず、コントロールやトップダウンの画策、還元主義的思考といった心理構造の本質をなす一部分です。当時の時代精神がそのような解決策を決定づけたのです。ニュートンの科学では、解決策が自ら成長するのをただ待つのではなく、上から画策して押し付けるのです。ケインズ主義の呼び水的な景気浮揚策からファシズムの「列車を定刻通り走らせろ」まで、世界恐慌の間に選ばれた経済的解決策の全てに関与していたのは中央当局で(これはあるレベルでは個別ばらばらの主体、別のレベルでは自然に対する人類を、社会の文脈に置き換えたものですが)、壊れた機械をコントロールし秩序を与えようとしました。
中央集権的な解決策が実際に効果がなかったことは問題ではありません。ニューディール政策が人々を困窮から救ったのは確かですが、恐慌を終わらせたのは軍備拡張と第二次世界大戦の勃発でした。それ以来ずっと、戦時経済は私たちと共にあるのです。
いま私たちは同様の選択に直面していて、それは金融危機が深刻化するにつれて明確になっていくでしょう。ここでもまた決断を迫られるのは、一方では1930年代にファシズムや戦争につながったような中央集権的トップダウンのコントロールか、他方ではコントロールを手放しもっと有機的な解決に向かうか、どちらを選ぶのかということです。有機的な解決は、中央政府の観点から見たら、設計や計画という意味での「解決策」では全くありません。同じような特徴を持つ地域通貨は、自然発生的に幾度も生まれてきました。世界恐慌の緊急通貨よりも前に、同じような考えの通貨が1873年、1893年、1907年の恐慌の際にも存在しました[19]。解決策とは、より多くのコントロール、あらゆる変数のより詳細な測定、より総合的な設計にあるという考えに、私たちは完全に慣れきっていますが、それこそが〈テクノロジーの計画〉であり、この場合それが通貨に適用されるのです。しかし他の分野のテクノロジーと同じように、過去60年間(少なくとも欧米では)大きな金融恐慌がなかったために説得力を持っていた通貨コントロールという幻想も、今や薄れつつあります。やがてその失敗は否定のしようもなくなりますが、そのとき私たちが迫られる決断は、より高い代償を払ってでも失敗を否定するか、それとも野生の力、つまり人間のコミュニティーがもつ自発的な創造性を信じて解き放つかという選択です。
長くしがみ付けば付くほど、ぐらつく貨幣制度に次から次へと技術的対策を加えようと躍起になればなるほど、危機とその後の混乱はより深刻なものになるでしょう。しかし、最終的な結果は確かであって、「相互に繋がり依存する自己にとっての優先順位、つまり持続可能性、美しさ、全体性に沿った」新しい貨幣制度の出現です。
〈再合一の時代〉における貨幣は、社会、文化、自然、魂の資本を発展させるためのものであって、消費するためではありません。それは富を共有するための仕組みであって、蓄積するためではありません。それは美を創造するための手段であって、美を損なうためではありません。それは強欲への障壁であって、動機ではありません。それは創造的で楽しい仕事を奨励するものであって、「雇用」を強いるものではありません。それは自然の循環的な働きを強化するものであって、冒涜するものではありません。
パトリック・ファーリーが見通した未来を再び引用しましょう。「彼らが皆どれほど裕福になるか、あなたや私は信じられるだろうか?」 これが何を意味するのか、今ならわかるでしょう。富が蓄積から切り離され、豊かな人間関係を指すのであれば、一人ひとりの富は全ての人をより豊かにします。美の創造である芸術が、もはや金銭的な余裕によって制限されることがなくなるのは、お金が芸術の敵ではなく味方になるからです。ビジネスは、他者から富を奪うのではなく、他者に富を与える方法を模索することとなります。そうなれば、もう私たちの生活が安物で溢れることはなく、あらゆる取引が詐欺になることもありません。仕事はもはやお金の追求に縛られるものではなくなり、一人ひとりが固有の才能や気質に従って、お互いに対し、そして世界に対して最も善く奉仕する方法を模索することとなるのです。それが明らかに魂と経済をともに豊かにする道であるのは、もはや両者が対立するものではないからです。
注:
[13] 食品の廃棄は、農家の倉庫から夕食の食卓に至るまで、生産と消費のあらゆる段階で発生する。生産段階では、太陽光から食物への変換効率よりも、経済効率が優先され、より高い栄養価の農産物を得られる労働集約型農業は、機械化農業(特にその隠された補助金)に太刀打ちできないという結果になる。加工段階でも無駄があり、例えばモツ肉や傷物の果物や野菜を使わず廃棄する。流通段階でも膨大な無駄が発生しており、スーパーマーケットでは傷んだり賞味期限が切れたりしたものはすべて廃棄しなければならない。消費段階については、大学のカフェテリアに行って、学生たちがトレイをワゴンに載せて運んでいく返却口を観察すればいい。[14] ジェシカ・プレンティス[Prentice, Jessica.] 『Stirring the Cauldron – New Egg Moon(大鍋をかき混ぜる - 新しい卵の月)』, 2005年4月13日, www.wisefoodways.com(アーカイブ)
[15]「効率」の大半は、実際には生産効率ではなく価格交渉力によるものだ。大規模調達する業者は、生産者により低い価格を要求でき、他の点で必ずしも効率的とは限らない。
[16] ゲゼル, 第4章4
[17] この歴史的事件の引用と概略は、ベルナルド・リエター『The Future of Money(貨幣の未来)』 p. 156-7によるものである。
[18] 所得税は別の意味でもコントロールの体制を強化するもので、すべての収入と認められる控除を記録しておくことを義務づける。生活がますます経済化するにつれ、これらが意味するのは、より多くの生活が記録され、データ化されることだ。
[19] リエター, p. 156
原文リンク:https://ascentofhumanity.com/text/chapter-7-02/

