再合一のテクノロジー
訳者コメント:
石器時代に戻るのではない、新時代のテクノロジーをどう展望すれば良いのでしょうか。19世紀から20世紀初めの発明品を見れば、黎明期のテクノロジーは玉石混淆だということが分かるでしょう。理解が間違っていたり、まだ洗練が足りなかったりするのは当然と思わなければなりません。現在オルタナティブなテクノロジーを標榜するものも、多くはそのような段階にあるのです。
機械時代のテクノロジーとは違う点があるとすれば、確実性の崩壊によって、心のあり方がテクノロジーの働きに影響することです。常温核融合がそのようなテクノロジーの例かもしれないという可能性が示唆されます。よくよく考えてみれば、生き物を相手にするときは、世話する人の心のあり方によって結果が異なるというのは不思議でも何でもありません。核融合の原子核が生きていて魂を持っているとしたら…。この世界の本質が何なのか、はっとさせられます。
チャールズはこれまで通りのハードなテクノロジーも消え去るわけではないといい、情報テクノロジーの発展によってハードウエアへの依存が減り、消費エネルギーも少なくなると執筆時点では見ていました。でも現在問題となっているのは、AIや暗号通貨のせいで巨大データセンターが膨大なエネルギーを消費するようになっていることです。この他にも、ソフトウエアの肥大化によって、バージョンアップするごとに効率が悪くなり、ハードウエアの進歩を帳消しにしてしまうという問題があります。またしても、これはコンピュータの世界におけるジェボンズのパラドックスです。
(お読み下さい:訳者からのお知らせ)
7.5 再合一のテクノロジー
循環性、豊かさ、繋がり。このような水の性質を体現する貨幣制度と経済は、新たなテクノロジーのあり方をも生み出し、それはもはや分断の担い手ではなくなります。火は切り離し、浄化し、消費します。私たちは長い間、テクノロジーと火の性質を結びつけてきたので、〈再合一の時代〉を定義する新しいテクノロジーの中には、そう呼ぶことさえためらわれるものもあります。あるいは、現代の私たちにとってはありふれた、あるいは古風なものにさえ見えるものもあるでしょう。何千年も前のテクノロジーが復活し、その中には奇跡的と思えるほど予想外の新しい発明も混じっているでしょう。このローテクとハイテクの融合には共通するテーマがあります。その全ては、私が説明した〈再合一〉の経済・科学・心理構造から生まれ、そこに貢献することになるのです。
異なる通貨と、人間の役割についての異なる概念という全面的な後ろ盾があれば、グリーン・デザインと有機農がどのような高みに達することができるか、誰が分かるでしょう? 現在、兵器のために費やされている何兆ドルもの資金と何百万人という科学者の職業人生が、他の目的に使われるようになったらどうなるでしょう? もしそれが最重要のビジネス上の動機となったら、どれだけの工業製品や製造工程がエコロジカルなものに取って代わられるか、誰が分かるでしょう? 伝統とテクノロジーが融合したら、自転車に、ガーデニングに、帆船に、手工具に、食べられる庭に、繊維の生産に、農業に何をもたらすのか、誰が分かるでしょう?
修復経済の一端は、今すでに散発的ですが現れています。風力は最も急成長している電力供給源です。正味で売電する建築物があちこちで増えつつあります。BMWは分解して部品を再利用できる車を作っていますし、パナソニックはドライバー1本で完全に分解できる洗濯機を作っています[28]。ウェス・ジャクソンのパーマカルチャーから、何千もの有機・小規模農家の脱工業生産モデルの動きまで、この傾向は特に農業において顕著です。修復経済のテクノロジーのほとんどは既に存在し、何十年も前から存在している場合もあります。欠けているのは、文化・経済的な背景だけです。持続可能な技術に報いるための構造的な動機づけ、そして自然からの二元的な疎外に終止符を打つ魂の革命です。
多くの「ローテク」が復活するのと同時に、ハイテクの中には発展を続ける流れもあるでしょう。例えば、データの保存、配布、操作は、物理的なハードウエアをますます必要としなくなるでしょう。またそこに必要なエネルギーも少なくなっていくでしょう。ナノテクノロジーでさえ、その行き過ぎた期待を第1章で揶揄しましたが、新たな驚異を生み出すでしょう。しかし、私たちはナノテクノロジーを、自然を支配する新たなレベルとして捉えることはなく、利益より美を動機とし、親密で共創的な協力関係の新たな場と考えるでしょう。(あるいは、美と利益はもはや対立するものではないので、両方が動機になっているかもしれません。)繰り返しますが、私は手と心という人間の才能を放棄せよと主張しているのではありません。変わるのはテクノロジーの動機だけであり、したがって方向性と応用が変わるのです。私たちが知っているテクノロジーは、これからも「魔法と奇跡」をもたらしてくれるでしょう。
未来の通信技術に関するSF的シナリオのいくつかは、私が述べた人間の自己感覚の変化と驚くほど一致しています。携帯電話やインスタント・メッセージは、すでにテレパシーの一形態と見ることができます。結局のところ、これらのテクノロジーが可能にしているのは、離れた場所にいる他の人々と考えを共有することです。コミュニケーション・メディアの非物理化によって、このようなコミュニケーションはさらに直接的なものになり、互いの心の大部分にアクセスできるようになるかもしれません。オーウェル的な意味合いはひとまず無視して、このようなシナリオの一つを見てみましょう。キーボードとマウスの代わりに、体内に埋め込まれたデータ入力装置が神経ニューロンに直結し、考えるのと同じ速さで文字入力(あるいはポイント&クリック)ができるようになったと想像してください。(このような装置の荒削りな試作品はすでに存在しています。[29])また、記憶しておきたい、あるいは他の人に知ってもらいたいと思った考えをコンピューターのアーカイブ(ファイル保管庫)にアップロードすることもできます。一方、聴覚・視神経のニューロンを自動的に刺激する装置を埋め込めば、メッセージを受け取ることができます。外部からの言葉、声、映像が脳内を駆け巡るでしょう。でも外部とは何でしょう? このように集団でアクセス可能なデータバンクは、私たち自身の脳や自己を他者と共有する形で延長した、共通の心ではないのでしょうか? 私的な考えが私的なものでなくなり、頭の中の声やイメージがどこか他の所から来るとしたら、自己の境界線はどのように変わるのでしょうか?
確実性とコントロールという直線的なテクノロジーが、適切な領域で発展するように退くなら、他の種類のテクノロジーに道が開けるでしょう。個別ばらばらの自己という存在論に根ざさないテクノロジーとはどのようなものでしょうか? 水のテクノロジーと同じように繋がりを利用するでしょうけれど、それは私たちが現在抱いている分断という妄想のせいで、今の私たちに見えなくなっているものです。このような繋がりを仲立ちするのは、水だけでなく、電磁場やDNA、そして現在科学が認識していない、あるいはまだ解明されていない振動の媒体ですが、それらは20世紀の科学が原理的に予見していたもの、つまり量子力学の観測者依存性、非線形システムの自発的組織化、そして地球上のあらゆる生命の協力と相互接続性です。
このテクノロジーのあり方は、外部環境を支配することによってではなく、本当の私たちがどれほど大きなものであるかを探求し、それを具体化することによって、人間の成長を達成しようとするのです。人類の次の発展段階は、私たちがそれに逆らうのをやめ、それが自然に起こるようにするから生まれるのであって、現実に手を加えて何か新しく改良するから生まれるのではありません。これは動機と観念が違うからですが、かといって科学が終わるわけではありません。科学の一番良いところはこれからも残ります。それは、科学的方法の謙虚さと、それを駆り立てる好奇心と驚き、そしてそれを神聖なものにする畏敬の念と神秘です。でも目標は異なります。第1章で述べた上昇のイデオロギーが、「既にあるもの」を知ることによって既にあるものをコントロールしようとするのとは対照的に、未来の科学は「あるべきもの」を知ろうとします。そのためには、私たち自身と、自然界における私たちの正当な位置づけについての知識が必要となります。この点では、環境の持っている目的が個体の進化と行動を決定づけるよう助けるという、第6章で述べた生物学の新しいパラダイムを基にします。また、原始的な儀式の科学やシャーマニズムの技術は、自然の秩序を支配するのではなく、再び繋がることを求めるものでしたが、これも取り入れるでしょう。
自然の摂理は、私たちが想像するよりもはるかに偉大なものだからです。花の匂いをかいで鳥の声に耳を傾けるだけで満足するような野蛮な存在への後退を、私は提案しているのではありません。ちょっと待って、これは撤回します。花の香りや鳥のさえずりには、私たちが気付いている以上のものがあるのです! 私たちが「自然」と呼ぶものこそ、現代人には想像もつかないような人間の潜在能力を引き出す重要な鍵なのです。
花の香り…、花の「波動的」なエッセンスを心と魂の癒しや自己啓発に利用する、洗練された精妙な技術があることをご存知でしょうか? ニューエイジの戯言と見なされていますが、フラワーエッセンス療法やアロマセラピー、これらに関連した療法は、北米やイギリスでは何万人もの信奉者がおり、その原典には安易な否定を寄せ付けない、情緒的で洗練された、論理的な内面的説得力が現れています。これらは植物療法の復興の一翼を担っていて、既知の生化学的関係を超えた、人間と植物世界の繋がりに訴えかけます。特にお薦めするのは、マシュー・ウッド、スティーブン・ビューナー、エリオット・コーワンの著書で、ハーバリズム(本草学)をより広範で非還元主義的なパラダイムと位置づけています。従来の科学では、薬草の有効性を認めている場合には、その有効性を「有効成分」の直接的で直線的な効果という観点から還元主義的に説明しています。しかし、ウッド、ビューナー、コーワンが説得力を持って証明しているように、植物の機能には、私たちの理解が不十分なために「エネルギー的」「振動的」「不可思議」としか呼べないようなメカニズムも働いているのです。そしてこのような「より良い理解の欠如」こそが未だ発展途上にある科学の特徴であり、それが示唆するのは、魔法やエネルギー、振動に関する未来の科学を現在の努力と比べたら、スーパーコンピューターに対する算盤のようなものだということです。
自然を支配するのではなく自然と調和することで驚くべき結果を生み出す、もう一つの再合一のテクノロジーは、バイオダイナミック農法です。その神秘的な要素から嘲笑されることもありますが、このもう一つの未成熟なテクノロジーは、熱烈な支持者でさえやっと理解し始めたばかりです。パーマカルチャーのような当たり前のテクノロジーや、ミッシェル・スモール・ライトが開発した直感的なガーデニング技術のような神秘的なテクノロジーと共に、「庭園の地球」を約束してくれます。私はこれを「人間と自然の共創的パートナーシップ」と言いかけましたが、本当の可能性はもっと大きなものです。それは人間と自然、家畜と野生の区別を手放すことです。エコロジーのあらゆる特徴を取り込んで逆らわない農業を、私たちは思い描くことができます。
水だけでなく、DNAや酵素、フェロモンなどの生物化学物質もまた、相互に繋がるための媒体です。これらは共に働いて、情報をガイアのある部分から別の部分へ、生態系のある部分から別の部分へ、生物のある部分から別の部分へと伝達し、一つ一つの要素が大きな全体の中で機能を果たせるようにします。もし私たち人間が同じことをしようとするなら、未来のテクノロジーがそれぞれの媒体の能力を最大限に発達させるのは当然のことです。私がここで言っているのは「遺伝子工学」のことではありません。それはDNAを人間の狭い野心に従わせようとする、分子レベルでのコントロールの企てです。私が言っているのはむしろ、私たちの体内や共生パートナー(ウイルスを含む全ての生命)の内部にすでに存在する、眠ったままの、思いも寄らない遺伝子の潜在能力のことです。私たちの「ジャンクDNA」の中には現在ほとんど想像もできないような能力をコード化したものが眠っていて、適切な「スイッチ」、つまり身体または外部環境からの刺激によって、活性化するのを待っているのです。
生物圏は遺伝子の宝庫ですが、私たちはその探索をやっと始めたばかりです。そこには夢にも思わなかった目的を達成できる手段が含まれています。ポール・スタメッツは有毒廃棄物を無害化するキノコを遺伝子操作で作ったわけではなく、その能力はすでに存在していたのです。彼は単なる学び手であり、素晴らしい自然の管理人にすぎません。彼の研究、そして何千年にもわたる園芸家たちの仕事は、大地の恵みを受け取り受け継いでいくという、テクノロジーに対する別の概念を示しています。それこそが、「贈与の魂」を科学技術に当てはめたものです。でもそれは受け身で待っているのではありません。このような贈り物を発見するためには、注意深い観察力、洞察力、忍耐強い努力が必要です。その違いは、自然の恵みという根本的な摂理への信頼であり、遺伝子工学のようなコントロールに基づくテクノロジーを不要なものにします[30]。
検索エンジンに「DNA活性化」と入力したところ12万件がヒットしましたが、これらは既成科学の枠から完全にはみ出た、紛れもない家内工業です。その多くは、直感や天使のチャネリングといった極めて主観的な領域のもので、時には見え透いた疑似科学の業界用語で飾り立てられています。科学のふりをしない方が、私には本物だと思えます。私が特に失望したのは、グレッグ・ブレイデンの『ゴッド・コード』を読んで、人間のDNAが聖書の旧約聖書の文章を暗号化しているという彼の説の中に、ひどい数学の乱用を次から次へと見つけたときです。それは軽蔑ではなく、まさに「失望」でした。というのも、詩や神話のレベルで、ブレイデンは重要な真実を語っているからです。彼は生命が生まれながらに持っている神聖さと無限の可能性に語りかけているのです。バイオフォトニクスやバイオエネルギーのようなニューエイジや関連分野の泥々の下には有効な洞察があり、場合によっては健全な科学的研究さえあります[31]。
先駆者は常に何かを間違えているものです。これらのテクノロジーはまだ発展途上であることを覚えておいてください。DNAだけでなく、私たちの生物学的な機能は全て、癒しや創造性、そして宇宙的目的への全面的な参加に応用できる、手付かずの可能性を秘めているのです。
私たちが他の人々、地球、あらゆる生命と相互に結ぶ関係のもう一つの側面に、電磁気的なものがあります。かつては取るに足らない現象だと考えられていましたが、機械のノイズや、私たちの脳、心臓、臓器、そして実際に生きている全ての細胞から発生する電磁場から伝わる情報に、あらゆる生命が反応することを、先見の明のある数少ない科学者たちが認識するようになりました。すでに医療の先駆者たちは、インターネット上に見つかる多くの小道具を使って、この原理を治療に応用する方法を模索しています。この未開拓の電磁コミュニケーションという領域が、あらゆる生きた細胞を織りなしていることを考えるなら、コントロールに基づく普通の反応は、「現実をより強力に、より正確にコントロールするために、この知識をどのように活用できるか?」というものでしょう。〈再合一の時代〉なら、その反応は、私たちが埋め込まれている存在の海に、もっと敏感に調和するようになるということです。その調和から生まれるのは、私たちが「直感」と呼ぶような知識で、現在の私たちの考え方では超自然的と思えるでしょう。その知識に対応して生まれるのは、人と人、植物、動物、病原体、そして私たち自身の臓器、組織、細胞ともコミュニケーションを取り合うための、夢にも思わなかった方法でしょう。このコミュニケーションを増幅したり明確化させたりするテクノロジーはすでに出現しつつあり、その中にはフェルデンクライス・メソッド、EFT、脊髄ネットワーク分析、アプライド・キネシオロジー、そして数多くの「エネルギー」療法などがあります。
正統科学は私が上述した結論を一般的には否定しますが、既知の物理的な力に訴えるという意味で、少なくとも妥当性はあります。責任ある科学者なら、「本当かもしれないが、疑わしい」と言うでしょう。無責任な推測だが、少なくとも可能性はあるということです。残念ながら、「既知の物理的な力」では、代替医療、超常現象、気功など、多くの分野で観察される全ての現象を説明することはできないようです。例えば、電磁波によって説明できると思われる効果が、逆二乗の法則に従わないことが多いのです。また、時間を遡って結果を投影することで、一見すると因果律を破っているようなものもあります。私が提案するのは、前述した水の構造、電磁気学、DNAなどのメカニズムは、未来のテクノロジーの基本原理となる相互関連性や全体性という基本原理のほんの一部の現れに過ぎないということです。
デカルト的な客観性の終焉とともに、観察者と被観察者の本質的な不可分性が示唆するのは、信念と意図を集中することで現実に影響を与える可能性があることです。プリンストン変則工学研究所(PEAR)の実験では、何百万回もの試行によって、ランダムと思われる量子事象にも統計的に有意なオブザーバー効果があることが示されました。ヘルムート・シュミットが先鞭を付けた他の実験では、この効果が時間を遡り、事前に記録されたデータに影響を及ぼす可能性があることが示されているようです。ハートマス研究所が行った実験では、一連の平凡な写真の中に無作為に配置された不穏な写真に対して、実際に写真を見る数秒前に顕著な感情的反応があったことを報告しました。クリーヴ・バクスターが何十年もかけて研究したのは、近くの植物に与えられた損傷だけでなく、傷つけようとする意図だけでも、植物に直流電気反応を引き起こすことでした。もちろん、祈りが治癒に及ぼす効果に関する研究も数多くあり、その中には一流の医学雑誌に掲載された二重盲検試験を用いた研究も含まれています。これらは 「変則現象研究」の世界における氷山の一角に過ぎませんが、私はここでその可能性を示唆するために触れただけで、それが本当だとあなたに信じさせようとしているわけではありません。それは他の人にお任せします。誠実な意見開示のために言っておくと、わたしはそれが本当だと信じていますが、そこには但し書きがあります。「本当」とはどういう意味でしょうか? ニュートン的な世界マシーンに特有な「自分の枠外にある」客観的現実を離れて「本当」を定義することは非常に難しいのです。実際、この章で触れた全ての現象と、私が論じていない多くの現象も、実験室では全く捉えられないことが良く知られています。コントロールが厳密であればあるほど現象は見えにくくなり、ずさんな手順による人為的な結果に過ぎないという結論に至ります。最も劇的な効果は裏付けに乏しく検証不可能であり、実験結果は再現性がないことが多く、最も厳密な二重盲検試験では、何千人もの実践者が広く受け入れている通念がプラセボ効果に埋もれてしまいます。この捉えどころのなさこそが現象の中心的な特徴であり、それを理解する鍵なのです。とりあえず考えてみてほしいのは、客観的でない世界で「本当」とは何を意味するのかということです。何かが私には起こってあなたには起こらないというのが有り得る世界、現実の舞台となる絶対的で普遍的なデカルト座標系が存在しない世界で、「本当」とは何を意味するのかということです。
これは真面目に言ってるんです。少しの間この本を置いて、客観的な背景なしに「本当」とは何を意味するのかを考えてみてください。私はもう十年間、ほぼ毎日このことを考えていますが、今でもそのたび目眩がします。
奇妙なことに、同じような捉えどころの無さが、常温核融合のような論争の的になっている他の科学分野でも悩みの種となっています。この場合、最初の研究者であるフライシュマンとポンズが発表した劇的な結果を、他の科学者は再現できませんでした。いや、再現できたでしょうか? 実際に結果を出した者も多かった一方、そうでない者もいました。でもその人たちは元の実験手順を正確に守ったでしょうか? ポンズとフライシュマンの発見の再現に失敗した研究室の中には、それを否定したい既得権益を持つところもあって、多くは「高温核融合」研究組織の一部でした。特にひどかったのは、マサチューセッツ工科大学がこの実験を再現しようとしたところ、従来の理論が予測するレベルの中性子を発生させることができなかったために、常温核融合を全面的に否定したことです。そんなことが起こるはずがない、と彼らは結論づけました。後になって、マサチューセッツ工科大学の実験が実際には異常な熱を発生させていたことが明らかになりました。この論争は現在も続いており、一般的な合意では、この現象は作為的なものか、そうでなければ偶然の出来事だということになっています。その多くが行き着くのは、「真実であるはずがないから真実ではない、なぜならそれを説明するメカニズムが知られていないからだ」という古くからの常套句です。しかし、第三の可能性が存在します。おそらく常温核融合が機能するのは、それに相応しい信念の雰囲気の中だけであり、それがいつでもどこでも機能するのは、その信念の雰囲気が社会全体にとって相応しいものとなっている場合だけなのです。おそらく常温核融合もまた、物質のテクノロジーであると同時に心のテクノロジーとして理解しなければならないのです。
テクノトピア信奉者は、クリーンで安価な無限の新エネルギー源を浅はかにも夢見て、これで問題は全て解決だ!と言います。しかしおそらく私たちは、豊穣の宇宙から私たちを切り離す分断のイデオロギーを手放さない限り、これらのエネルギー源を利用することはできないのです。おそらく、不足、欲望、欠乏という私たちの心理構造は必然的にエネルギー技術に投影されるので、所有とコントロールという人間の私的領域に現実を囲い込もうとするのをやめない限り、真の豊かさは訪れないのです。言い換えれば、無限のエネルギー源は、私たちにその準備が整ったとき初めて到来するということです。常温核融合(その他多くの「無限エネルギー」分野)の個々の研究者が肯定的な結果を得ることがあっても、イデオロギーの力がその幅広い応用を妨げるのです。私たちの根本的な世界観である欠乏と分断の心理構造が変わらない限り、この状況も変わらないでしょう。私としては、まだ無限のエネルギーがないことを喜ばしく思います。
いや、実際にはもうあるのです。常温核融合、ゼロ点エネルギー、ハイドリノ・エネルギーなど無限エネルギー技術の全てが空想だったとしても、現在の深刻化するエネルギー不足は欠乏という心理構造の間接的な結果であることに変わりはありません。私たちの宇宙は無限のエネルギーに満ちています。この半世紀で石油戦争に費やされた全ての資金が、風力、太陽光、潮力、地熱発電の開発に使われたと想像してみてください。将来のエネルギー節減の資本組み入れを奨励する金融システムがあったと想像してみてください。私たちはすでに豊富なエネルギーのテクノロジーを持っているのです。化石燃料エネルギーの使い途のほとんどは、人間の幸福にほとんど寄与していません。兵器の製造と戦争の遂行に、一体どれだけの割合が費やされているでしょう? すぐ埋立地行きになる粗悪な消費財には? 人々を隔離し孤独で惨めにする、エネルギー多消費の派手な豪邸には? 自動車に依存した郊外インフラの運営には? そこで人々は、自転車や鉄道で移動するコンパクトな村よりも、ちっとも幸せな生活を送ることができないというのに? 本章で先に述べたグリーン・テクノロジーは、私たちの生活の質を下げるものではありませんし、魔法のような新発明を待つ必要もありません。でも魔法のような「無限エネルギー」技術と同じように、私たちの信念がその豊かさを遠ざけているのです。結局のところ、豊富なエネルギーの大半を浪費している戦争や経済制度、貪欲さを生み出しているのは、自然からも人間同士からも切り離された自己という、私たちの根本的な信念なのです。信念が現実に影響を与える道筋の多くは、ごくありふれたものです。
ここで示唆した心のテクノロジーは、確実性の喪失という代償を伴います。それがどんなに強力でも、外部の宇宙を無理やりコントロールするために使うことはできません。これが全て真実だと想像してみてください。人の心は実際にスプーンを曲げることが(もしかしたら、もっとすごいことが)できる、人は浮遊したり同時に二つの場所にいたりすることを学べる、がん性腫瘍は熱いストーブの上の雪玉のように溶けてなくなる、物体を自在に具現化したり人体を透視して病気を診断したりできる。そして、点在するそのような出来事の物語が、私たちの真の可能性のほんの小さな断片を指し示しているに過ぎないことを想像してみてください。火のテクノロジーが本来の場所へと退いた未来が、停滞した退屈なものである必要はありません。しかし、そのようなテクノロジーが意図と信念によってのみ可能となるのなら、私たちが手放さなければならないのは、信念の根拠となる観察を傍観者として行う、合理的な観察者というイデオロギーです。第6章で述べたように、信念が観察を決定するのであって、その逆ではなく、それは私たちの思い込みなのです。もしそれが新たな科学の基礎となるのなら、その科学から生まれるテクノロジーもまた、まさに同じ確実性を捨てなければなりません。
確実性の代わりに、私たちは自己探求、選択の意識、そして創造性を力づける感覚を持つようになります。自己と非自己の区別にある錯覚的な性質と、独立して「自分の枠外に」存在する宇宙が偽りだということを理解するなら、私たちは人生を安心と安楽の型枠に押し込めようとする無益な計画を放棄するでしょう。安心と安楽の型枠は、この計画を生じさせている深い不安に対して生じたものです。私たちが繋がりを実感するようになればなるほど、私たちの行動はその繋がりを強化し、私たちの体験の中にさらなる繋がりを持ち込むようになります。現実は私たちの信念に従うようになり、より流動的で夢のような性質を帯びるようになります。逆説的ですが、コントロール、確実性、証拠という心理構造を手放すことで、実体験を決定する遥かに大きな力を行使することができるようになり、無意識のうちに選んでしまったものを相手に力なく闘うのではなく、私たちが体験すべきことを選択するようになるのです。
注:
[28] ホーケン, p. 72
[29] 現在のところ、これらのほとんど、あるいはすべてが医療用である。例えば、サイバーキネティクス社は、麻痺患者が義肢装具を操作できる埋め込み型デバイスを開発した。また埋め込み可能なマイクロチップは医療やセキュリティのさまざまな用途に使われるようになっている。
[30] 遺伝子工学の深い問題は、極めて非線形なものに対して直線的なコントロールを押し付けようとすることだ。このような失態から様々な予期せぬ結果が生まれる。私たちは自分が何をしているのか分かっていない。このようなテクノロジーを使うための知識と知恵を持つには、まだ何千年もかかると私は思う。
[31] 例えば、ハートマス研究所(HeartMath Institute)、国際生物物理学研究所(International Institute for Biophysics)、気功研究所(Qigong Institute)の研究を参照されたい。
原文リンク:https://ascentofhumanity.com/text/chapter-7-05/

