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仕事と芸術の融合

訳者コメント:
 日本の家電メーカーが力を失い、ファストファッションが蔓延し、100円ショップが生活の一部となった現在、私たちの身の回りにあふれる品物の質は、30年前と比べて明らかに低下し、「チープ」になりました。同時に、品物への愛着が減り、丁寧に使おうとする注意も散漫になりました。「断捨離」といって、物を捨てることによって自分の身の回りをコントロールすることも流行していますが、どこか殺伐としたものを感じます。
 機械文明の中で相反する存在になってしまった仕事と芸術が、来るべき修復経済の中で一体となるという話を読んで、まっ先に思い浮かんだのは柳宗悦の民芸運動です。宗悦は戦前の朝鮮半島で無名の陶工が作り出した実用の雑器の中に健康で力強い美が宿っているのを見出しました。そこには「用と美」の融合がありました。それに比べると「有名」の芸術家が貴族の鑑賞のために作った一品ものの作品は、どこか病的で作為的で弱々しいのだと見ました。使うための機能性を満たし、無心に繰り返し作られるものが、洗練された美しさをまとうという原則は、工業デザインにも通じるものです。(宗悦は大量生産自体を否定しませんでした。製造する側も使う側も、ただお金のために粗悪品で十分としてしまうのが問題なのです。)
 工業製品の修理可能性は最近話題になっている問題です。アメリカのトラクター会社ジョン・ディアはユーザーによる修理をさまざまな手段で阻止してきたことで知られます。優れた工業デザインを売り物にしているアップルでさえ、ユーザーが分解したり部品交換することが不可能になるような構造を長らく採用してきました。現在の貨幣制度の中で、メーカーができる限り多くの金銭的利益を上げることを目標にすると、これが合理的戦略になってしまうのです。「修復経済」の中では、計画的陳腐化と大量消費は経済的に正当化できなくなるでしょう。
 修理という行為を芸術にまで高めるのが日本伝統の金継ぎです。元々の作り手と、使い手、さらに金継ぎで直した人の手と魂が吹き込まれ、器は美しさを増していくのです。
 2000年以前まで、インターネットは商用利用が自粛されていたので、無償の情報が善意で提供されるユートピアができたように見えました。グーグルやアマゾンやフェイスブックも登場したばかりの頃は革命的に見えました。本書が書かれた2008年はこの余韻が残っている頃だったと思います。しかし今ではネット空間を広告が埋め尽くし、有料の壁が張り巡らされています。チャールズが希望を見たP2P革命の象徴的存在だったファイル交換ソフトWinnyは、著作権や企業秘密といった既得権と対立するものと見なされ規制されました。
(お読み下さい:訳者からのお知らせ


7.6 仕事と芸術の融合

仕事は現代生活を決定づける特徴です。私たちが誰かに「何をなさっているんですか」と尋ねるとき、一般的には「あなたの仕事は何ですか」、つまり「お金のために何をしていますか」という意味です。そして仕事は、人生の決定的な特徴であるとともに、それ自体が苦役、退屈、犠牲、決まり切った繰り返しを連想させます。日々の労苦です。これらは〈機械〉の特徴であり、機械文明にどっぷり浸かっている私たちが、仕事を余暇や楽しみとは相反するものとして捉えるのも不思議ではありません。

機械論的な宇宙観の崩壊と機械文明の終焉は、仕事が時代遅れになるのではなく、仕事の質が変わるという新たな期待をもたらします。ポスト機械時代のエコロジー経済における仕事は、新たな性格を帯びたものになります。この変容は、仕事そのものの内容や性質にとどまらず、「雇用」という経済関係に大変革をもたらします。仕事と余暇、仕事と人生が一つになるのです。

数百年もの間、機械は人間に代わって単純で骨の折れる仕事をこなしてきました。逆説的ですが、今でも人間の仕事の大半は退屈で型どおりの作業です。そのわけは、機械がより多くの職務を引き継ぐ一方で、膨張する巨大機械から新たな職務が生み出されてきたからであり、その機械を構成する人間の部品は、生きていない部品と同じように、機械が必要とする標準化に従わなければならないからです。労働を廃絶しようとする努力が、廃絶する以上の労働を必要とするのは、その努力自体が機械の方法論を強化するものだからです。またもや、親方の道具で親方の家を壊すことはできないのです。仕事の変革は、二世紀にわたって未来学者たちが思い描いてきたのとは異なる方法でやって来ます。それは、定型業務が全て完全に自動化されたからではなく、社会が必要とする職務がますます少なくなっていくからです。

地域通貨とグリーン・テクノロジーの影響のひとつは、多くの産業で規模の縮小が起こることです。今日、大量生産工程の多くが効率的でありうるのは、コストを外部化しているからに他なりません。農業はその典型です。工場式農業は、労働時間という点では有機農業より効率的ですが、エネルギー使用や汚染物質発生という点でははるかに効率が悪いものです。コストが内部化されれば、現在の産業慣行の多くは、より労働集約的な方法に移行するでしょう。多くの分野で時代遅れとなるのは、大量生産と、その典型である組立ラインです。そこでの仕事は定型化され、反復的で、高度に細分化され、技能はほとんど必要とされず、個人的な接触はほとんどなく、何層にも重なる階層的管理が必要とされます。

このような特徴と対照的なのが修理作業で、地元に密着し、小規模で、高度な技術を必要とし、個人的で、結果が目に見えます。今日の経済論理では、古いステレオを修理するより新しいのを買った方が安いということになりますが、原材料が本当のコストを反映するようになり、設計者が耐久性と修理のしやすさを考慮するようになれば、この論理は逆転するでしょう。その結果、(修理にはかなりの労力が必要ですから)労働集約的なものになるでしょうが、労働の性質は、それが伴う経済モデルと同じように、大きく異なるものになるでしょう。

工場制度、そしてそれに伴うマンフォードの巨大機械の心理全体を過去のものにしようとするもうひとつの原動力は、工程や経営管理が複雑化し、ますます管理不能になっていることです(つまり、管理という還元主義的なパラダイムでは管理できないのです)。その結果もたらされるビジネスの変革は、企業階層のフラット化という形ですでに目に見えていますが、これはビジネス上の新しい流行などではなく、現実的な必然であり、設計過程が自らの管理の重みに耐えかねて崩壊した結果なのです。今日の複雑な工程は、従来の一部だけ切り取ってコントロールするような工学的方法では対処できないことがだんだんと増えていて、そこでは問題を部分に、さらに下位部分などへと分解しますが、これは従来のビジネス階層を反映したものです。ビジネスであれ工学であれ、問題解決への旧来の(分解して一つ一つの部分を個別に扱う)取り組み方は、もはやあまりうまく機能していません。

どのような機械でも、それを構成するのが人間であれ無生物であれ、部品間の関係の複雑さは部品の数に伴って指数関数的に増大します。変数の増殖はたちまちコントロール不能になり、ある時点で従来の還元主義的な解決策に代わって、あやつるのではなく「育てる」解決策を取らざるを得なくなります。これは回路設計のような多くの分野で既に起きていることで、解析的手法では手の届かない設計解を進化的アルゴリズムで探索します。ソフトウェア工学は製品の複雑さが階層的な管理を拒むもう一つの例で、独立したプログラマーたちの間で設計解をゼロから育て上げることも増えています。

ミシェル・バウヴェンスのような先見の明のある思想家たちは、情報テクノロジー分野のピア・トゥ・ピア(P2P)革命を、経済的、社会的、政治的組織の新しいモデルとして一般化してきました。ピア・トゥ・ピアのネットワークは、古代の贈与経済や、デマレージを基にする経済の特徴に驚くほど似ています。ポトラッチ社会と同じように、このようなコミュニティにおける地位は、どれだけ所有しているかではなく、どれだけ貢献したかによって決まります。資源は一般的に貯め込むことなく共有され、物品の交換は贈与ギフトを基にして行われます。このようなネットワークが生み出した新しいモデルのジャーナリズム(ブロゴスフィア)は、従来の報道機関よりもはるかに効率的に膨大な量の情報を収集し、ふるい分け、編集し、整理できます[32]。P2Pの要素を持つ他の体制としては、ウィキペディアや、アマゾン・ドット・コム、イーベイ、グーグルの周辺で成長している仕組みがあります。いずれも情報を無償で提供することで利益を得ています[33]。膨大な量の独自情報を蓄積し販売するというビジネスモデルにしがみついていた情報プロバイダーは、次々と落後していきました(ブリタニカ百科事典がその例です)。また音楽、映画、ソフトウェア業界は、情報イコール財産というモデルにしがみつこうと苦闘しています。

さらに周辺では、もっと露骨に贈与ベースの巨大な闇経済が繁栄しています。ファイル共有ネットワークに参加する人々は、自分の音楽コレクションやソフトウェアのクラック[34]を誰でもダウンロードできるようにオンライン上に置くとき、ギフト精神を全面的に信頼しています。このようなサブカルチャーの一部では、データに対して金銭を要求するのは無礼なことだと考えられています。

無償で与えることで利益を得るという考えは、仕事の性質におけるもっと大きな変化の一部です。お金のために働くのではなく、良い仕事をすることの副次効果としてお金を得るようになります。お金の奴隷でなくなれば、仕事は美、奉仕、楽しみ、自己表現といった別の目標に貢献するようになります。つまり、労働者は芸術家になるのです。これはまた、修復経済において発展することになる、物質的なものと結ぶ全く異なる関係の結果でもあります。

コストは内部化されるため、現在私たちが買っているプラスチックのガラクタの山は、はるかに高価なものになり、プラスチックのガラクタの山など無くなってしまうでしょう。消費財は総じてもうそれほど安くはなくなり、「安いチープ」という言葉の両方の意味でそうなるでしょう。私たちは自分のことを史上最も豊かな社会に生きていると考えていますが、大量の安物で溢れた生活はそれ自体が貧しく安っぽいのです。安物ではなく、完璧な技術と配慮で心を込めて作られた物に囲まれて暮らすことこそ、本当の物質的な豊かさでしょう。一人ひとりの才能が、機械生活のために抑圧されることなく、仕事の中で十分に表現される社会を想像できるでしょうか? 電化製品、衣服、家具のひとつひとつがとても賢く設計され、とても丁寧に作られ、美と機能がとても上品に融合しているので、安っぽすぎて気にもしないような使い捨ての品物が無いのを誰も寂しいとは思わないような家を、想像できるでしょうか? 生活が美しく作られたもので溢れるようになるわけは、修復経済においては私たち全員が職人であり、仕事を続けるために自分の才能を否定するのではなく、自分の才能を全面的に発揮して仕事に取り組むからです。その一環として伝統工芸が劇的に復活することになりますが、それは「天然資源」が値するのは最高の職人技をもってしか有り得ないほど貴重なものとなったからです。しかしハイテク分野でさえ、狭く専門化された仕事の職務は現在よりはるかに少なくなり、皆が自分自身を芸術家と考えるようになるでしょう。

修復経済は、仕事と芸術、仕事と余暇、用と美といった、私たちの文化の基本的な二元論を取り払うことになります。そうなれば、私たちが夢見るテクノロジーのユートピアの中心にある崇高な理想が結実します。それは仕事が時代遅れになるのではなく、仕事の真の本質を実現することにあります。仕事をマンフォードの機械文明という観点から見た場合、それが狭く抑圧的なものとなるのは避けられません。だからこそ、テクノトピアの夢想家たちが目を向けたのは労働の終焉であり、皆が王となって機械の奴隷を従えることだったのです。仕事の本質についての先入観に縛られて、それ以上のことは想像できなかったのです。しかし、仕事と芸術を再合一ごういつに導き、私たちが時間を売ってお金に換えることの原因となっている仕事とそれ以外の生活の分断を癒すことは、遥かに根本的な野心なのです。

生きていくために仕方なく屈辱的な仕事をしている人の作った物で生活するのは、私たちの尊厳に対する侮辱です。強制された仕事は奴隷労働です。本当に豊かな人に、そんな物は必要ありません。生活に用いる全ての品物が、最善の状態にある人々によって作られている、そんな人生を私たちは思い描くことができるでしょうか?

旧石器時代の平等主義社会から、人類は大規模な農耕文明へと進化し、そこでは奴隷を所有する者が豊かな者でした。機械時代になると、あからさまな奴隷制度はなくなりましたが、ほぼ全ての人が生存不安から屈辱的な仕事をする制度が取って代っただけでした。「死にたくなかったら働け!」それは奴隷制度ですよ。人はみな王、人はみな神という機械技術の壮大な約束は、その反対をもたらしました。人はみな奴隷です。所有者のいない奴隷は、みなお金という頸木くびきの下で労働しているのです。しかし今、機械の時代が終わりを告げ、私たちに見える可能性は、本来の平等主義へと立ち戻ることです。そこでの経済は、豊かさという文脈の中を流れる贈り物ギフトとなるのです。

もし〈再合一の時代〉にまだキャリア・カウンセラーがいたら、このような問いに答えてくれることでしょう。「私のクリエイティブな才能のうち、どれが一番楽しいでしょう?」「どの芸術を追求したいと、私は望んでいるのでしょう?」もはや仕事と芸術は対立するものではなく、同一のものとなるのです。

仕事と芸術の再合一は新しい種類の物質主義を伴います。物を大切にすることには美徳と喜びがあります。物が溢れ、安物が氾濫する前なら、人々は皆そうしていました。1930年代まで、人々は手工具、釣り竿、三輪車、子供のおもちゃといった品々を大切にし、一生、あるいは何世代にもわたって使い続けられるよう手入れをしたものです。今、わざわざそんなことをするでしょうか? なぜ安物のために時間と労力を費やすでしょうか? 新品をたった20ドルで買えるのに。テレビの修理のように、物の手入れは経済的に非効率なものになっています。ある観点から見ればこれは便利なことで、私たちは物の手入れをしなければならないという重荷から解放されます。しかし第4章の観点から見れば、それは奴隷制度です。経済的な逼迫(時間をお金に換える必要)から、私たちは物を大切にする美徳や喜びを味わう余裕がなくなっています。安物が氾濫する今日、時間は節約できても生活は安っぽくなります。命を換金するのをやめることで、修復経済は私たちを再び自由にし、品物を愛するようにし、愛するに値するものを私たちに提供するようになります。

私が提案しているのは、物質世界との断絶でもなければ、デカルト的な魂のために世界と肉体を克服するという偽物のスピリチュアリティでもありません。その反対に私が思い描くのは、私たちが所有する品物への愛を減らさず増やして、それらがどこから来てどこへ行くのかを気にかけるようになる未来です。私が思い描くのは、物質世界での生活を絶え間ない美の生成に参加する機会として捉える未来です。

単に経済システムの結果というだけでなく、現代生活の安っぽさは、デカルトが物質から精神を抽象化したことに内在している、物質の価値の切り下げが反映されたものです。物質世界が魂である自己から切り離されたものなら、誰がそれを気にかけるでしょうか? ニュートン的な世界マシーンが崩壊するなら、私たちは世界と再び一体になり、世界と再び恋に落ちるでしょう。恋に落ちるということは、境界を解消することであり、自分自身を拡大して他者を取り込むことです。もうそれは起こっています。気づきましたか? 一つひとつ、社会が優先してきたことを私たちは拒否し、人生に再び恋をしています。それこそが私たちの本性なのです。本性を否定するためには努力を積み上げるしかありません。生物学的な生命ライフと個人的な生活ライフ。両方の意味でライフを愛するのが私たちの本質なのです。世界を愛し、その中での時間を愛する。私たちは長い間この両方を否定するよう脅され、その結果、両者が略奪されるのに甘んじてきました。生きている世界を資源と物とお金に落とし込み、私たちの時間を商品としての時間、雇用、生計を立てるための厳しい必要性へと落とし込むことに甘んじてきました。良い知らせは、私たちが分断を手放し、人生と再び恋に落ちるとき、これらの結果もその正反対のものに道を譲るということです。世界のため、私たち自身のために、美しいもの、美しい音楽、美しい考えを創造することに熱意を注いで生きることしか、私たちは認めません。「私の曾孫ひまご娘とその友人たちが、生きていることをどれほど激しく愛することになるのか、そしてその愛がはかない気分などではなく、寝ても覚めても人生の一瞬一瞬に行き渡る、尽きることのない力となることを、あなたや私は一瞬たりとも理解できるでしょうか?」

いつになっても、洗わなければならない食器、掃除しなければならないトイレ、屋根をかなければならない建物はあるでしょうし、考える必要も無く、手間がかかり、ひどく不快と思えるような仕事が常にあることを、私は否定しません[35]。でも生活を維持するために肉体的な努力をすることの何が悪いでしょうか? 咀嚼そしゃくマシンを発明して、自分で食べ物を噛む「労力」を省けばいいのでしょうか? 人類の上昇の終着点は、永遠にベッドに横たわり、全く何もしなくても栄養や喜びや興奮を与えてくれる様々な機械に繋がれていることなのでしょうか? それこそが機械の約束が完成した姿ではないでしょうか? 私たちのために全ての仕事をこなすだけでなく、私たちに代わって私たちの人生を生きる召使い。いいえ、生きることの動作が苦労である必要はありません。仕事が苦役になるのは、反復と標準化で効率を上げようと多様性を犠牲にするからです。ここに農業とガーデニングの違いがあります。前者は苦役の典型ですが、後者は経済合理性がなくても人々がそれを行うほど楽しいものです[36][37]。農園が工場に似ていれば似ているほど(そしてガーデンに似ていないほど)、農作業は退屈で命をすり減らすものになります。従来の農業は、他の製造業と同じ原則に従って行われてきました。ガーデンなら、綿花やトマトやブドウを何週間もずっと収穫する人はいません。小規模の混合農場なら、鶏を屠殺する一工程だけを何週間も何ヶ月も何年もずっと何度も繰り返す人はいません。

仕事を抑圧的なものにするのは、その内容ではなく、その期間と動機と目的です。自分のトイレを掃除するのは、屈辱的なことでもなければ特に手間のかかることでもなく、見知らぬ人のために一日中ずっと何百ものトイレを掃除するのとは全く違います。誰もトイレ掃除のためにこの世に生まれてきたわけではありません。そして生存不安で脅され打ちひしがれ強要されたのでなければ、誰もそのような生活に屈することはないでしょう。仕事が芸術であり、お金に不自由しない社会では、人々はお金のために自分の時間や尊厳、誠実さを売ってお金にしようとは思わないでしょう。組立ラインの労働や単純作業だけでなく、劣悪な労働や生命を否定するような労働は無くするように経済を構築しなければなりません。いま工業設計の仕様書にそのような要件が盛り込まれることがどれほどあるでしょうか?

〈再合一の時代〉は過去への回帰でもなければテクノロジーを放棄することでもありません。むしろ変化するのは、テクノロジーの動機と組織原理です。生命をお金に換える心理・経済的な力が逆転すれば、もはやテクノロジーは換金をより速く効率的に行うことを求めなくなります。未来のエンジニアが設計するのは、持続可能性、尊厳、そして美しさです。言い換えれば、彼らは芸術家なのであり、庭園の地球で芸術家の世界に貢献するためのテクノロジーを創造するのです。全ての芸術家が遭遇する葛藤、市場のために創作することと魂のために創作することの間の葛藤は、仕事と芸術、お金と持続可能性が一致するなら、消えてなくなるでしょう。


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注:
[32] これは複雑な話題だ。ブロゴスフィアと従来のジャーナリズムは共生関係に成長しつつあり、そこから全く新しいものが生まれるだろう。どちらも他を飲み込んだり、取って代わったりすることはない。同じようなプロセスが、ぐらついた科学論文誌の制度を変え始めている。
[33] アマゾンの場合、無料情報はユーザーレビュー、ユーザーレビューのレビューなどの膨大なデータベースで構成されている。もちろんそれだけがアマゾンの収益性の理由ではないが、何かを無料で提供することは同社が利益を得る方法のひとつであるのは間違いない。
[34] ソフトウェアのクラックとは、市販ソフトウェアの違法コピーを動作可能にするための手順である。
[35] しかし、現代生活の仕事の多くは、自然から切り離された状態を維持しようとする私たちの強迫観念の産物であることに留意してほしい。ウッドチャックや狩猟採集民はトイレ掃除も皿洗いもしない。しかしその多くは住居を建設し維持する。そのような形の分断さえも元に戻したければ、哺乳類以前の状態に戻らなければならない。
[36] ガーデンについて語るとき私が念頭に置いているのは自然との協調であり、支配ではない。ガーデンはそのどちらをも体現できる。一方の極端な例としては、ビクトリア様式の外来種の庭園があり、正確に配置された各々の植物は、人間の意図を土地に対して全面的に押しつけたものである。もう一方の極端な例としては、どんな動物でもその植物環境と相互作用して生じる生態系の変化がある。
[37]経済的不合理性の問題については、スーパーでレタスを買う代わりに自分でレタスを栽培することでどれだけ節約できるかを計算してみてほしい。その上であなたが費やす時間を考慮する。たとえ買うのが有機農産物だとしても、1時間に50セント以上の節約になるとは思えない。

原文リンク:https://ascentofhumanity.com/text/chapter-7-06/

2008 Charles Eisenstein

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