遊びへ帰る
訳者コメント:
再合一の時代にふさわしい学校教育のモデルとして、生き方のモデルとして、アメリカのマサチューセッツ州にあるサドベリー・バレー・スクールを取り上げます。子供たちに好きなようにやらせる学校などというものが、この世に存在しうるのだろうかと、普通の人なら思うでしょう。しかし「機械文明」の部品となる人材を作るという役割を度外視し、人間本来の発達と学びを目的とするなら、これは成り立つのです。
自分の子供の頃を思い出してみると、父が与えてくれた大工道具で満足いくまで工作をしたし、小学5年から中学校まで通った発明クラブは、当時まだ定式化されたプログラムが少なく、ほとんどが自由工作だったので、自分の頭で考えてモノを作るという機会に恵まれ、エンジニアとしての基礎を身に付けたのだと思います。大学で学ぶような、数式で抽象的な理論をこねまわすことは、実際の仕事の上では一部にすぎません。父の農業機械を見たのも大きかったと思います。発動機、耕耘機、田植機、稲刈機、脱穀機、籾摺り機、動力噴霧機など、子供の私が実際に触るのは危ないから許してもらえませんでしたが、使う場面や、修理するところを横で見ていました。昔の機械はベルトや歯車がむき出しでした。機械の動きはある意味で自然現象なので、見る者を教育する力があります。今だったら危険な部分は全てカバーするようになり、機械の動きは見えにくくなりました。それでもコンピュータ画面上の偽物のボタンとかよりも教育的ではあるでしょう。
何かに没頭し、ノリにノって取り組むとき、人は時間の感覚を忘れ、一番クリエイティブな仕事ができるものです。今の会社は労働時間管理が厳しくなり、徹夜で作業するなどということは許されなくなりました。深夜残業をしてはいけないというのは、不本意な仕事でこき使われるときにだけ言えることで、自発的に創造的な仕事をする場合にまで一律に適用すべきではないでしょう。伝統工芸を受け継ぐ職人を育てたくても、労働基準法が壁になって、もう不可能になったのだそうです。遊ぶ、つまり何かに没頭する子供の能力を失って萎縮したのが大人で、そういう大人を集めて機械文明を動かしているとしたら、どう考えてもお先真っ暗です。
(お読み下さい:訳者からのお知らせ)
7.7 遊びへ帰る
多くの教師は子どもたちを未熟な大人だと思っている。大人を萎縮した子供と考える方が、より良く「敬意ある」指導につながるかもしれない。 (キース・ジョンストン)
産業革命の初期、近代的な学校教育が考案された目的は、退屈で、反復的で、劣悪で、やり甲斐のない労働に子供たちを慣れさせるためでした。従って、仕事を芸術に転換することは、子供たちが芸術家として生きていくための準備となるように教育を転換することと並んで行われます。「協力という通貨」の節で私はこう書きました。「仕事はもはやお金の追求に縛られるものではなくなり、一人ひとりが固有の才能や気質に従って、お互いに対し、そして世界に対して最も善く奉仕する方法を模索することとなるのです。」この文脈において、教育は生計を立てるための準備から、自己発見の過程へと転換されます。それが答を促す問いは次のようなものでしょう。「自分の好きなことは何だろう? 私にしかない才能は何だろう? どうすれば人に奉仕し、より美しい世界の創造に参加できるだろう?」
教育においても仕事においても、こうした理想がすでに存在していることが示すのは、私たちがその正当性を直感的に認識し、現在私たちが体験している世界よりも良い世界を求めて止まないことです。それこそが教育であるべきだと、私たちは心の底から分かっています。教育者たちはこのような自己発見という考え方を口先だけは支持しますが、実際にはコントロールの命令がその真の表現を妨げます。
金融危機が新たな貨幣制度への道を開き、環境危機が新たな産業制度の導入に拍車をかけ、これらと並ぶように押し寄せる教育危機が、私たちの知っている学校制度を消滅させようとしています。教室での暴力がエスカレートし、識字率が急落する中、すでに学校の正当性と教師の才能は失われ、生徒は逃げ出しています。典型的な対応は、さらなるコントロールの強化です。生徒にもっと標準テストを受けさせ、教師の資格要件を厳格化し、武装警備員を増員し、金属探知機、ロッカー検査、校舎に鉄条網を設置する。
学校教育の成功モデルは、コントロールの強化ではなく、それを手放すことによるものです。その出発点は、人間が生まれながらに持っている好奇心と創造性を信頼することです。「人は本来、学ぶことを望むものである」とアリストテレスは書きましたが、それが見られるのは、(就学する前の)子供が強制されずに学ぶ非常に大きな能力を持っていることです。モンテッソーリ教育やシュタイナー教育(ヴァルドルフ教育)の教育哲学者たちは、子どもたちの自然な好奇心や成長意欲を満たすための教育資源を発達の各段階で提供することを中心にして教授法全体を構築してきました。彼らが強制の代わりに用いる手段は、人間が生まれながらに持っている好奇心、知性、意欲、知恵への信頼から生まれたもので、機械文明の制度的要求や自然(人間の本性)を征服するというイデオロギーの逆を行きます。
管理教育に代わる美しい純粋な例がマサチューセッツ州のサドベリー・バレー・スクールで、シュタイナーやモンテッソーリ以上に子どもを信頼するという原則を掲げています。この学校にはカリキュラムも、テストも、成績もなく、生徒自身が決めた規則以外には何もありません。創設者の一人はこう書いています。
私たちは(生徒が)教材や本や先生を自由に選べるようにしたかったのです。私たちが感じていたのは、人生において唯一重要な学習は、おだてたり、ご褒美で釣ったり、圧力をかけたりすることなく、学習者が自分自身で課題に打ち込んだときに起こるものだということです。…私たち自身に忠実であるためには、学校主導のプログラムという概念から離れなければなりませんでした。私たちに必要だったのは、全ての衝動が生徒から湧き出すようにさせることであり、学校はその衝動に応えることだけに専念しました。[38]
例えば、「サドベリー・バレーの子供は誰一人として、読み方を学ぶように強制されたり、押しつけられたり、促されたり、おだてられたり、ご褒美で釣られたりしたことはありません」。そして意義深いことに、「当校に失読症者はいません。当校の卒業生には、真性の文盲も機能的文盲もいません。」外部から強制する仕組みや外部からの動機づけがないにもかかわらず、サドベリー校の子供たちは、必ずしも伝統的な学問分野とは限りませんが、驚くようなレベルの成果を示します。とはいえ、普通は従来のような教科も基本を全て習得しますが、それはただ従来の教科の内容がとても基本的だからです。この学校の逸話によると、9歳から12歳の自発的なグループが、小学1年生から6年生までの算数の全課程を、20時間の学習で身につけたということです[39]。外部の教育専門家は別に驚きはしませんでした。
教科の内容自体がそれほど難しくないことは誰でも分かっている。難しいのは、ほとんど不可能なのは、一歩一歩やることを嫌がる若者の頭にそれを叩き込むことだ。ただ一つ僅かな可能性があるとすれば、毎日、少しずつ、何年もかけてしつこく叩き続ける以外に方法はない。それでも上手くいかないのだ。ほとんどの小学6年生は算数ができない。勉強する気のある子供をくれさえすれば、20時間かそこらで身につくだろう。[40]
自主的な学習よりもさらに(分断の)直感に反するのは、生徒による完全な自治です。5歳から18歳までの全生徒と職員全員が1票を投じる全校議会で、学校の全ての規則と重要な決定がなされます。これとは対照的に、私が通っていた高校では、学校のマスコットとホームカミング[訳註]のクイーンを選ぶことしかできませんでした。サドベリー校では生徒が実権を握っています。資金の使い途、教師の採用・解雇、規則や違反に対する罰則を決めるのも生徒たちです。規則違反者には、生徒を構成員とする裁判制度が適用されます。人間の本性に不信を抱く私たちは、このような制度がうまく機能するはずがないと想像しますが、多くの人の証言によれば、それは見事に機能するのです。もちろん、生徒議会がミスを犯すこともあります。私の子供たちが通うペンシルベニア州の民主的な学校、サークル・スクールでは、議会が掃除の廃止を決議したことがあります。(教師たちはこの提案に反対票を投じましたが、多勢に無勢でした。)そのため掃除はなくなりましたが、2週後に議会は決定を覆しました。生徒たちは掃除の必要性を体験的に学んだのですが、これと全く異なる普通のモデルが、掃除をする理由は「しなければならないから」です。生徒たちが学んだのは、権威に従うのではなく自己を信頼することです。このモデルは自分を信じてもいいと自分が信じている場合にのみ意味をなします。サドベリー校のモデルは人間の本性と自己理解についての根本的な仮定を具体化しています。サドベリー校は「再合一の時代」における学校のあるべき姿の先駆けであり、その時が来れば、切り離された自己という幻想を繋ぎ止めようとする現在の努力がとうとう耐えられないものとなり、崩壊するのです。その時が来るまでは、サドベリー・バレーのような学校は、LETS通貨やエネルギー療法と同じように、支配的で制度化された世界観と対立するため、私たちの社会では隅っこにしか居ることができないのです。それでもこのような取り組みが非常に重要なのは、折り重なる危機の後に社会を再建するとき、このモデルを私たちは感謝をもって自然に採用することになるからです。
「強制されたり、押しつけられたり、促されたり、おだてられたり、ご褒美で釣られたり」することがないのなら、サドベリー・バレーの生徒たちは何をするのでしょう? 強制を内面化し、それに導かれた生活に慣れきっている私たちは、自制心がなければ甘え、やりたい放題、怠け者の生活になってしまうと想像します。私の教えている学生たちに、もし意志の力がなくなったらどうなるかと尋ねると、その答はたいてい、昼まで寝ていて、一日中テレビの前でゴロゴロし、いちばん身近で便利な楽しみにふけり、その後は「甘え、怠惰、無関心の漠然とした終わりのない悪循環」です[41]。しかしこれは、本当は「仕事」に対する反抗でしかなく、その時この言葉は、産業革命以前はともかく以後ずっとそうであるように、私たちが生き延びるために強いられている、不快で、屈辱的で、辛い労働という意味になるのです。それは人間の本性ではありません。怠けと甘えは人間の本性ではありません。人間の本性とは何でしょう? それをサドベリー・バレーに見ることができるのは、強制がなければ子供たちがするのは、まさに「遊ぶ」ことだからです。
そしてここで、私たちの文化を定義づける二元性のひとつ、仕事と遊びの区別に突き当たります。第2章の最後の節、「遊び好きな宇宙」では、「純粋に遊びのための遊びは時間の無駄だという見解は、〈生存こそ人生の目的〉という前提に基づくもので、これが現代の科学と経済学の根底をなすことを述べています。結局のところ、一分一秒でも遊びに費やせば、その分だけ人生で成功する機会を失っていることになります」と書きました。しかし、けっして軽薄でも愚かでもなく、「学校での遊びは真剣勝負です。…遊びは子供たちにとっても、遊び方を忘れていない大人たちにとっても、常に真剣なものなのです。[42]」遊びとは、あるべき大人の人生を子供版にしたものに他なりません。その価値は、運動能力や問題解決技術を発達させることにあるのではなく、「身に付いたのは、疲れを知らず、急ぐこともなく、新しい考えを途中で放棄して他のことに移る必要もなく、そういった制限を気にせず、目の前の仕事に徹底して注意を集中する能力です。」遊びとは、内面から湧き出る自由な創造性です。大人の人生では、「制限を気にせず」何かに没頭することを妨げる「〜しなきゃいけない」の容赦ない統治の下で、遊びは消えてしまいました。この「〜しなきゃいけない」こそが制限なのです。スケジュール、プレッシャー、罪悪感、生存不安。私たちはいつも怯えているのです。
遊びへの惜しむことのない集中力を、私たちは時の無い感覚として体験します。ジョセフ・チルトン・ピアースが「同調」と呼ぶこの状態では、私たちの学習能力と創造能力が最大限に発揮されます。(皮肉なことに、学習を動機づける規範化された脅威は、実際には学習にとって有害な心理状態を作り出します。)遊びがもつ時の無い感覚は、現代人の(あるいは学童の)忙しく予定が組まれた生活とはほとんど相容れません。第2章で説明したように、原始社会は時の無い社会でした。時間と分、時刻と日付、時計と予定表は、分業と機械が必要とする人間活動を複雑に調整するのに伴って初めて生まれました。遊びの人生とは、時の無い人生です。
ここで『世界一素敵な学校』の一節を紹介します。これを読むと私の目には涙があふれます。私たちの文明が人の魂に対して犯した罪の何と大きいことか。そして暗示される処方箋は何と単純なことか。
学校は朝8時半に始まり、5時に閉まる。誰かが朝9時に暗室に入って時間を忘れ、作業が終わった4時に出てくることも珍しくない。
ジェイコブは陶芸のろくろの前に座る。彼は13歳だ。今は午前10時半。彼は準備を整え、ろくろを回して壺を作り始める。1時間が経ち、2時間が経つ。彼の周りには様々な活動が渦巻いている。友人たちは彼抜きでサッカーの試合を始める。3時間が経つ。2時15分、彼はろくろから立ち上がった。今日、彼は何の成果も得られなかった。どの壺にも彼は満足できなかった。
翌日、彼は再び挑戦する。今回、彼は1時にろくろから立ち上がり、気に入った壺を3つ仕上げていた。
11歳のトーマスとネイサンは、朝9時からダンジョンズ&ドラゴンズのゲームを始める。5時までには終わらない。翌日の5時にも終わらない。3日目に、終わったのは2時だ。
9歳のシャーリーは椅子に座り、本を読み始める。彼女は自宅でも読み続け、それから3日間、終わりまで読み通した。
6歳のシンディとシャロンが森へ散歩に出かける。素敵な春の日だ。4時間ずっと外にいる。
秋の早朝、ダンは池に釣り糸を垂れる。3年後、彼はまだ釣りをしている。
あなたはこれを、私たちが生きるべき人生のモデルとして認められますか? 自分の活動を選択し、その結果に満足するまで完全に没頭する? 自分以外のいかなる予定や要求からも自由になる? 私たちの文化で最も強力な創造の原型も同じです。聖書の創世記で、神は世界を創造した後、「良い」と言われました。いま私たちは「良い」ではなく、その代わりに「これで十分」に落ち着きます。成績、上司、市場のために、これで十分。そうすることで、私たちがここにいる創造的な目的を否定することになります。しかし13歳のジェイコブのように、私たちの中の何かが、こうした制限から解放されて美を創造したいと望んでいて、創造的な仕事に没頭し、そのために必要な時間だけ没頭し、最後にはそれを満足げに眺め、「良い」と言えるようになりたいと望んでいるのです。
ダニエル・グリーンバーグはこう書いています。「サドベリー・バレーで時間は商品ではありません。『使う』ものではありませんから、上手も下手もありません。『浪費』したり『節約』したりするものでもありません。…学校が個人のリズムに示す敬意は侵すことのできないものです。」そこにいる子供たちが示してくれるのは、教育だけでなく人生のモデルであり、それは私たちがほとんど意識しないほど深く根付いた文化的な前提を覆すものです。時間を使うもの、浪費するもの、節約するものと考えるのをやめること。それは、カール・マルクスが夢見たどんなものよりも、ずっとずっと深い革命になるでしょう。
私がサドベリー・バレー・スクールについてここまで掘り下げてきたのは、私たちに遊びを取り戻すためのモデルを提供してくれるからです。そして、遊びに帰ることが、私たちを何千年もの間ますます厳しく縛ってきた、計測された時間という覇権を打倒する鍵なのです。幼い頃から、盗み取った細切れのひと時を除けば、時のない人生を体験した人はほとんどいません。私たち大人は、遊びや創造性の多くを、生活と無関係な週末の趣味として隅に追いやってきましたが、それは普通の学校の生徒が授業の合間や先生に隠れてこっそりやらなければならないのと同じです。
機械イデオロギーの苦い結果を元に戻す唯一の手段として、私は石器時代のテクノロジーへの回帰を提唱しているのではありません。テクノロジー、お金、医療、教育といった外向きの形は確かに変わるでしょうが、その変化は宇宙との新たな関係の結果として現れるのです。新たな関係を、おそらく最もよく言い表す言葉は、遊び心です。遊びに時は無く、生存と引き換えに醜さを生み出す強制的な仕組みに囚われないだけでなく、「分断の時代」を定義する人為的な自他の区別を、遊びは消し去るのです。遊びがもたらす同調の状態では、目の前の課題に私たちが没頭するにつれて、切り離された自己という感覚は消えていき、宇宙を操作する個別の主体ではなく、私たちは宇宙自身の創造プロセスの有機的な担い手になるのです。私たちを通して、宇宙は自らを創造するのです。創造的ではなく「探索的」と呼ばれるような遊びにも同じことがいえます。私たちは自分の境界と遊び、限界を探り、自分が何者であるかを定義します。この種の遊びの原型は、幼児が自分のつま先や手や声で遊ぶことでしょう。そうやって彼女は、運動や感覚器官や発話を調整することを学ぶのです。彼女は自分の身体に既に存在する現実を単に発見しているのではなく、探索が彼女の身体の発達を刺激するのです。あらゆる面で、本物の遊びは本質的・必然的に何かを創り出す営みなのです。
〈再合一の時代〉は遊びの時代となり、教育だけでなく、仕事、芸術、科学など、あらゆる人間の努力を再定義するでしょう。幼児が自分の身体と戯れながら同時に身体を創造するのと同じように、科学はもはや、「外部」に独立して存在する現実が発見されるのを待っているだけだと想定することはないでしょう。しかし、ニュートン的な決定論と客観性に基づく〈科学的方法〉はどうでしょうか? ベーコンが自然を尋問し秘密を引き出す手段として打ち出した〈科学的方法〉は、その私情を挟まぬ客観性の裏返しである知的謙虚さをも体現しています。それは先入観(仮説)に捉われない意思を表していて、世界そのものや世界と私たちとの関係に対する既存の理解に捉われないという意思表示なのです(これこそが実験であり、世界と関係する探索的な方法です)。〈科学的方法〉は未来の科学の一部であることに変わりありませんが、遊びの精神で構想されるでしょう。実験とは、「これをやったらどうなるか見てみよう」という精神にほかなりませんが、ベーコンが言ったように自然を拷問にかけるのではなく、自然と遊ぶ方法になるでしょう。仮説は世界にどのような影響を与えるかだけでなく、仮説が私たちにどのような影響を与えるかによって検証されるでしょう。自然をコントロールするのではなく、自然の中に自分の居場所を見出そうとします。自然は私たちの支配の対象ではなく、私たちの教師となります。なぜなら、その美しさと複雑な全体性は、私たちの合理的で還元主義的な、したがってコントロールのための理解を超えていることに気づくからです。
乳幼児が自分の身体を発見し発達していくように、自然における私たちの居場所は定まったものでも制限されたものでもなく、常に展開し続け、私たちの遊びを通して発見され、創造されます。探索的な遊びという線に沿った科学のモデルは、進歩や目的についての生態学的な概念と一致していて、切り離された存在としての私たちの自己を超えたところに生まれる役割を果たそうとします。そのため、先史時代の儀式によく似ていて、私たちは自分のイデオロギーを投影し、それが自然をコントロールしようとする(例えば、狩りに幸運をもたらそうとする)無力な試みだと考えますが、実際には「地球のバランスを回復」しようとするものであり、人類がすでに自然から切り離されてしまったことによって引き起こされた損害を償おうとするのです。
〈再合一の時代〉の一つの側面は、長い間切り離されていた科学と宗教の融合です。私たちはすでにその予兆を、量子力学から生まれる神秘的な隠喩が増えつつあることに感じていて、これは自然を貫く有機的な知性の認識であり、自然に対するエコロジカルな理解に必然的に付随する魂の目覚めです。客観性が崩れれば、実験と儀式を隔てる壁も崩れるでしょう。なぜなら、どちらも目指す目標は同じで、自然の活動的なバランスにおける私たちの役割と職務を発見し実践することにあるからです。
折り重なる危機は「分断の時代」に終止符を打とうとしており、それとともに、私たちが「文明」として知る全てのものが終わるのです。しかし、我々が知っている文明の終焉が過去への回帰である必要はありません。私たちが人類の上昇と自然支配の拡大を同一視するのは、宇宙に本来備わっている創造的エネルギー、神聖さ、目的を否定しているからに他なりません。自然そのものが活力に満ちていて、創造的であり、成長していることを認識すれば、私たちに必要なのは、もはや自然を超越することではなく、そこへより完全に参加することだけなのです。
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注:
[38] ダニエル・グリーンバーグ[Greenberg, Daniel,] 『Free at Last』, サドベリー・バレー・スクール出版局, 1995年. p. 3(邦訳『世界一素敵な学校: サドベリー・バレー物語』緑風出版、2006年)
[39] グリーンバーグ, p. 15-18
[40] 同
[41] この引用は私の前著『The Yoga of Eating(食のヨガ)』(New Trends, 2003年)からのもので、意志力の誤謬について広範に議論している。
[42] グリーンバーグ, p. 80
[訳註] ホームカミングは、アメリカの学校で年に1度行われる旧教職員と卒業生を招待して行う行事。通例9月または10月に行われ、フットボールやバスケットボールなどの他校との対抗試合、祝宴、マーチング・バンドが先導するパレード、ホームカミング・クイーンやキングの投票による選出と「戴冠式」などが行われる。
原文リンク:https://ascentofhumanity.com/text/chapter-7-07/

