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ギフトの精神

訳者コメント:
 現代の生活は「得る」ことに意識が集中しているのに気付きます。「利益を得る」「知識を得る」「ポイント獲得」「所得」「お得」。そうすると、得の反対は「損」であり、忌み嫌うべきものとなります。与えることは本当に損なのでしょうか?
 諺にある「情けは人のためならず」の本当の意味は、他人に情けを掛ける(つまり施す、与える)と、それは巡り巡って自分に返ってくるから、他人だけのためにすると考えるな、という戒めなのです。しかし現代人の多くはその反対の意味に捉えるようになり、情けを掛ける(つまり甘やかす)と、人の成長を損なうので、その人のためにならない、という意味になってしまいました。この諺の本来の意味には、ギフト社会の循環と双方向性が込められていたのです。
 自分が手にしたのが「獲得した」ものなら、それは自分の払ったお金や時間と交換に得た、自分の所有物でしかありません。でもそれが誰かから「与えられたもの」「賜物」ならば、そこには自然な反応として感謝が生まれます。これこそが、私たちが戻っていくべきギフトの心理構造(メンタリティー)なのです。
 受け取る側にギフト精神が無いとき、「私の欲しいものだけちょうだい!」といって贈る人に指図することになり、これでは奪うのと同じことです。カタログギフトなんてものは、ギフトでも何でもありません。
 ギフト(gift)という言葉の持つ様々な意味合いについて、少し説明しておく必要があるでしょう。gift は give に関係する言葉で、「与えられるもの」という意味ですが、対応する日本語は「贈り物」「贈与」「賜物」などです。人間の才能という意味もあり、これは「天賦の才能」というように神から与えられたものだという考えから来るものです。この文章の中では「与え、与えられること」という広く抽象的な意味になっていきますので、カタカナの「ギフト」へと収斂させています。
(お読み下さい:訳者からのお知らせ


7.9 ギフトの精神

時の輪から出て、愛の輪の中へと来たれ  (ジャラールッディーン・ルーミー

第4章では、世界を概念の上でモノ扱いすることが、いかに貨幣と財産を全て消費する体制に繋がるかを説明しました。従って、このモノ扱いを逆転させれば、私たちは現在の「奪い取り」「貯め込む」という衝動が始まる以前の経済制度へと戻ることになります。私はそれを「贈与ギフトの社会」と呼びます。

人間の交流という領域においてデマレージ制度が体現するのは、ルイス・ハイドがギフトと同一視する基本原則、すなわちギフトは受け継がれなければならず、受け継がれなければ停滞し、やがては呪いとなるという原則です。しかし、ギフト精神は人間の領域を超えて広がり、自然にも世界全体にも、異なる関係を特徴づけます。

石器時代の文化に浸透していた儀式の多くが、土地への贈り物、水への贈り物、魚への贈り物、木への贈り物という形で考えられていたのも偶然ではありません。アメリカ先住民のハーバリストが薬草を採りに行くとき、お供え物としてタバコやトウモロコシの粉を少し持っていくのが一般的で、それは植物と土地から得た物への儀礼的なお返しなのです。人と人との間でも贈り物には儀式がつきものですが、それはクリスマスの朝を想像すれば分かります。私たちは本能的に贈り物を神聖な機会と認識し、そこから儀式が湧き起こるのを抑えることはできません。

科学と宗教が融合するなら、それは人類という種の神聖な目的に深く関わるものとなり、ギフトの精神という観点からも理解することができます。なぜなら、もし科学がもっと大きな全体の中で私たちの役割を完遂しようと求めるのなら、「私たちは世界に何を与えねばならないか」という問いに基づく以外に、その完遂をどう理解すればいいのでしょうか? 生態系はそれ自体がギフトの網の目であり、そこでは、個々の生物と各々の生物種が、ダーウィンの「適性」という限定的な損得勘定が許す範囲をはるかに超えて環境に貢献しています。もし私たちが自然をモノとして見るのをやめて、生態系の一員として自然に参加しようとするなら、そのギフトの網の目に参加しなければなりません。自然界には余計な生物種などなく、余分な能力もありません。私たちが世界を征服するために使った人間特有の能力にも、確かにその目的があるのです。

読者の中には、人間の目的についてもっと具体的な説明を待ちきれない人もいるのではないでしょうか。私がこれまで書いてきたのは、他のどの生物種にもまして、人類が地球の生態系の維持と進化に果たす役割と職務のことです。その職務が何なのかについては、これまで曖昧にしてきました。私が提示するのは、計画というようなものではなく、異なる考え方です。私たちは遊びを通して自分の本当の役割を創造し発見するのです。その役割が何であるかを最初から知っている必要はなく、重要なのは心理構造メンタリティであり、ギフト意識の中にいることから生まれる関係性です。それはちょうど、プレゼントを買いに行くとき、何を買うか決まっているわけではないけれど、「ちょうどいいもの」は必ず見つかるのであって、それを見れば分かると知っているようなものです。

人類の上昇が支配や分断という意味合いを失うのは、「私たちだけにできる世界への贈り物は何か」という観点から考えるときです。その問いが、やがて未来の科学とテクノロジーを定義することになるでしょう。宇宙が展開する美しさに、私たちはどのように参加できるでしょうか? 分断の幻想が癒されるなら、私たちは美しさという観点から集団の目的を定義するようになるでしょう。個人が芸術の精神で仕事に取り組むように、私たちもまた、新しいテクノロジーが省力化やコスト削減、利益創出につながるかどうかではなく、より美しい世界に貢献するかどうかで評価するようになるでしょう。そして、これは利益追求のため良心を慰めることにはならず、科学の根本的な動機を吹き込むでしょう。

いい未来が待っているみたいですが、今はどうなんですか? 奪い取り貯め込むことを基本とする社会に生きている今日、ギフトの精神、つまり豊かさの精神で生きる、そして究極的にはギフトの輪の中で境界を解消することは、はたして可能でしょうか?

思い出してください、分断は幻想です。私たちはその幻想の中で生きるか、それを否定するかを選ぶことができますが、生命と宇宙が天の恵みという根本的な摂理にかなったものであるという基本的現実は変えられません。ライフそのもの、つまり私たちの人生は、賜物ギフトなのです。私たちの人生、私たちの才能、私たちの能力、私たちが人間であるという恩恵は、私たちに与えられたものであり、他の賜物と同じように、それらは貯め込むものではありません。それは古典派経済学の資本のように、我と我が物を際限なく増やすために捧げられるものではなく、停滞し腐敗することのないよう受け継いでいかねばなりません。古代の贈答の輪は、皮膚に包まれた自我エゴよりも大きなアイデンティティを定義していましたが、その中で各個人は自分の贈り物がいつか何らかの形で返ってくると知っていました。この輪、つまりギフトの網の目は自立的なもので、自然界の生態系の網がその中の全ての生物種を維持するのと同じです。言い換えれば、それぞれの贈り物は最終的に、ふつうは何か別の形となって、贈り主に戻ってくるのです。「私たちは寛大なせいで手ぶらになるかもしれないが、手ぶらでいることが世界全体を優しく引っ張って、巡っているものが私たちを満たすために戻ってくるのだ。」

では、個人の生命、健康、才能、幸運という賜物ギフトを私たちに贈ったのは誰なのでしょうか? そして、私たちはどのようにお返しをすればいいのでしょうか? 私たちの賜物は、もし生存と繁殖のためでなければ、もし妄想にとらわれた自己の破滅的な増大のためでなければ、何のためにあるのでしょう? この問いに対するキリスト教の答は、「神をたたえるため」ですが、残念ながら最近では、神を讃えるというのは、イエスについての歌を歌うことだと解釈されることが多いのです。それは違います。神を讃えるとは、神の最も輝かしい現れを讃え、それに参加することです。神は、やはり創造主として知られているのですから、神を讃えることは、その創造を敬い、創造に参加することなのです。私たちの賜物は創造の才能なのです。私たちを人間たらしめている心と手という賜物、生そのものという賜物によって、私たちは今も続く創造のプロセスに独自の仕方で参加できるのです。残念ながら、私たちは長い間それを逆の意図で使ってきました。神の創造物(生き物)と戦い、均一でも直線的でもない世界に、均一性と直線性を押し付けるために。その闘争は、言語、数、時間という有史以前からの起源を持ち、止めどなく高まる代償を要求してきましたが、もうほとんど終わりに近付いています。それを維持するのに必要な資源はほとんど枯渇しています。やがて私たちは、自然の恵みを奪い取ろうとするのではなく、ただ受け入れるようになり、貯め込むのではなく、受け渡すようになります。

贈り主が神であろうと宇宙であろうと(全体が魂を持った宇宙では、その両者に何の違いがあるでしょう?)、私たちの人生は賜物であり、その賜物を受け継ぐ方法は、その人生をできる限り美しく生きることです。現代社会がギフトの網から自らを切り離したように見えることが問題なのではありません。この分断は幻想です。貯め込むことには一見合理的な利点があるにもかかわらず、実際には醜さよりも美しさを選択するとき、私たちのギフトは小さくなるどころか大きく育つことに気づくのです。

森はいつでも与えてくれるという狩猟採集民の信念は、今も私たちに受け継がれています。「今日あるもの全てを使ってご馳走にしよう。明日は明日のものを食べよう。」しかし他にも多くの信念が伴っていたに違いありません。世界は天の恵みという根本的な摂理にかなったものだと信じ、贈り物を与える網の目として世界を受け入れ、その網の目に入ることで、自己の境界を開くことになります。それは自分たちが個別ばらばらの存在だという幻想を見破ることです。それはコントロールするのではなく信頼することでもあります。余すところなく受け取るということは常にコントロールを手放すということであり、そうでなければ受け取るのではなく、与える者を操っているに過ぎず、それは奪うことです。ギフトの精神は分断の体制の現れをことごとく解消します。金銭取引がギフトの取引に取って代わると、自己の輪は縮小し、やがてジャン・カルヴァンアダム・スミスのような孤独で欲得ずくの領域になります。ギフトの中で生きることは、その流れを逆転させ、個別ばらばらの自己とそれに伴う全てのもののしがらみを解くことです。ギフトの中に生きることは、支配の命令、世界に名前を付け数字を振る企て、還元主義的な確実性の追求、世界をお金や所有物に変えようとする衝動を手放すことです。

分断は幻想なので、私たちは今ここで「ギフトの中に生きる」ことができ、石器時代の先人たちより難しいことは決してありません。唯一の障壁は私たちの信念にあります。このように生きる「余裕がない」という認識、それが危険だという認識が、どれだけ真実かといえば、まったく昔と変わりません。狩猟採集民が食料の確保や備蓄を怠り、世界をもっと我が物にしなかったせいで、その明くる日、無駄に空腹になることは間違いなくあったでしょう。私は世界が安全だと言っているのではありません。しかし、私たちが貯め込むことで世界がより安全になるという認識もまた幻想なのです。私たちは一万年前に比べて安全でもなければ裕福でもありません。昔も今も、必要なのは信頼の態度なのです。

しかし、「狩猟採集社会なら私はギフトの中で暮らしたいが、現代社会でそれは現実的ではない」と考えるのも、同じく幻想です。それが「現実的」だったことは決してなく、切り離された自己の安心感を最大化することにはなりません。

ギフト精神の一部として、「私は必ず与えられる」という信念があります。私は必ず与えられる、したがって、安心して与えても良いのです。狩猟採集民の見せる豊かさの態度は、物質、社会、文化のどの領域であっても、私たちがギフト精神に向かうことを選ぶとき、今も同じようにいつでも当てはまります。ギフトの中で生きるために、私たちを取り巻く世界全体が先に変わる必要はありません。必要なのは、違うレンズを通して世界を見ることだけです。私たちが慣れ親しんでいるのは、与えられた状況から何を得られるか、どのように利益を得られるかという観点から考えることです。賜物の中で生きるということは、その態度をもって、一人一人に、それぞれの選択に、「私は何を創造できるか?何を与えることができるか?」と問いつつ臨むということです。生存不安を植え付けられた現代人は、すぐに「じゃあ私はどうなるの?」と抗議します。私たちが実際にギフトの中で生き始めると、この抗議が幻想の上に成り立っていることが分かります。私たちは宇宙がお返ししてくれることに気づきます。例えば、私は学生たちが自分の就職先を決めるとき、その根拠として「いちばんお金や安全、地位を得られる職業は何か」というような取る精神(ひいては農業の精神)ではなく、「私が最も世界に与えたいものは何か」を考えるよう促しています。それを軸にキャリアを築けば、想像もつかないような成功を収めることができるでしょう。

このような考え方は、私たちの才能や財産、そして人生そのものをすべてギフトと認識し、感謝の気持ちを育むことで、そのギフトをどんな形であれ受け継いでいこうという気持ちから、自然に出てきます。それが私に与えられたように、私もそれを世界に与えよう。これとは対照的に、現代のイデオロギーは全ての資源をギフトとしてではなく所有物と見なし、根源的に私たちのものであって、何の義理もないものと見なすよう仕向けています。ギフトは恩義を生むことを思い出してください。これは伝統的なギフトの社会的ネットワークにも、生命・財産・才能というギフトにも言えることです。私たちがこのようなギフトをそれ以外の方法で使うとき、私たちは不穏な雰囲気や不安を経験し、悪循環を完結させ、もっと多くのものを手に入れ、奪い、所有することに拍車をかけます。気付いていなくても義理が魂に重くのしかかります。

ギフトの中で生きることの精神力学は、芸術と音楽の領域で特に顕著です。即興演劇の先駆者であるキース・ジョンストンは、芸術的創造性の源泉は、コントロールし、合理的で、計画する自我を超えたところにあると観察しています。即興劇を演じ、物語を作り、道化になるには、そのような自我の部分が邪魔をしないようにして、私たちがギフトの明確な通り道チャネルになれるようにする必要があるのです。

芸術は自己表現であるという考え方があるが、それは歴史的に見れば奇妙なことである。かつて芸術家は、何か他のものが働く媒介として捉えられていた。彼は神のしもべだった。おそらく仮面職人は、自分が彫る仮面のビジョンを見る前に一週間断食して祈っただろう。なぜなら皆が見たかったのは「彼の」仮面ではなく、神の仮面だったからだ。エスキモーが、骨の中にはたった一つの形しか入っていないと信じていた頃、芸術家はアイデアを「考える」必要などなかった。彼はそこに何があるのか分かるまで待たなければならず、それは極めて重要なことだった。彼が彫り終わっても、友人たちは「3つ目のイグルー[雪の家]のナヌーク[白熊の王]がちょっと気に入らない」と言うことはできず、「彼はそれを出すのにしくじった」とか「このところ非常に奇妙な骨がいくつかある」と言うことしかできなかった。[48]

私たちは、ギフトを持ち続けて我が物にしようとすると、それが枯渇してしまうことに気づきます。受け取るためには進んで与えなければなりません。ハイドはこう書いています。「計り知れない淵から才能が湧き上がってくるとき、私たちは心が軽くなる。そのとき、それが孤独な自惚うぬぼれではなく無尽蔵なのを知るのだ。境界の中に押し込められるものは全て、それ自体の枯渇も押さえ込まねばならない。[49]」お見事!

中世の伝統によれば魔法使いの力は利己的あるいは邪悪な目的のために使うなら枯れてしまうとされていますし、ブラジルのトランス外科医ジョアン・ジ・デウス(ジョン・オブ・ゴッド)も、治療のために金銭を受け取ることを拒否するのに同じ理由を挙げています。利己的に行動すると、私たちは宇宙から切り離されることになるのです。「金目当て」の芸術家にも同じことが起こります。ギフトの果実を私利という限られた世界の中に留めようとするあまり、ギフトの源泉を自分の世界から排除してしまうのです。

多くの偉大な芸術家たちは自分たちの作品が自分自身を超えたところから生まれていると認識しています。古代ギリシャではこの源泉をムーサとして擬人化していました。『小人の靴屋』の童話も同じことを言っています。靴屋が眠っている間に(つまり、彼の意識が邪魔をしない間に)魔法の妖精たちがやってきて、靴屋が自分で作るよりもはるかに美しい靴を作るのです。「霊感」インスピレーションという言葉も同じ理解を含んでいて、文字通りには「魂を取り込む」という意味なのです。ここで思い出してほしいのはアメリカ先住民のスピリット・ソングで、これは外部の源から来るのだと一般的には主張されています。東洋の伝統にも似たような原則があります。ある種の武術の形は、超人的な源から人間に伝えられると理解されていて、私は台湾の道教の修養センターでその現象を目撃しました。そこでは時折、大学生や主婦などが、それまで一度も見たことがない武術の型へと自然に入り完璧にこなしていました。重要なのは、武術の訓練を受けた人たちがこの高い感受性の状態に入ることがほとんどないことで、まるで訓練が邪魔をしているかのようです。同じ現象はヨガの伝統でも珍しくありません。米国の2つのヨガの流派であるクリパルヨガとカーリ・レイ・トゥリヨガの創始者たちは、意識的にポーズを練習するのではなく、ヨガが身体を通して伝わるのだと主張していて、このときの自然発生的なポーズの流れは、意識的に真似るよりもはるかに完璧だと理解されています。最後に音楽家は、ロックバンドのグレイトフル・デッドの言葉を借りれば、「音楽が楽団を奏でる」ときに同じ状態を体験するのです。

神秘主義者や芸術家にとっては、自分自身よりも偉大なものが私たちを通して流れているのです。息が私たちの中を流れ、食物が私たちの中を流れ、物質が私たちの中を流れ、私たちの体内の細胞や原子は一生の間に何度も入れ替わります。生命が私たちの中を流れています。生命が私たちを生きているのです。でも私たちはその逆だと誤解しています。これを受け入れて争わないことが、狩猟採集民の本来の豊かさに戻ることなのです。

個人的なレベルで〈再合一の時代〉に入るということは、ギフトの中で生き始めるということです。すると境界線が解消し始めます。社会的な境界はもちろんですが、それ以上に重要なのは、私たちと世界を隔てる自他の境界の絶対性が解消するのです。再合一は集団のレベルでも同じように起きつつあります。人類という種全体がギフトの精神に入り、自然の上に昇ろうとする破滅的な努力をやめるのは、私たちが集団として、「ガイア全体の中で、私たちに相応ふさわしい役割と機能は何か?」と問い始めるときです。同じように、個人が世界と再び一つになるのは、世界に打ち勝ったりコントロールしたりしようとするのではなく、世界に対して与え、感謝の念を十分に認識しつつそのギフトを受け入れようと求めるときです。それが私の言う「ギフトに生きる」ということです。それは、狩猟採集民を彷彿とさせるような、コントロールのない豊かさの状態、支配のない創造性と成長の状態、鋭敏なマインドフルネスを育む安楽の状態です。それは今すぐにでも始められます。個人の危機が折り重なって、奪い取りコントロールするやり方が耐えられなくなるまで待ってはいけません。

〈再合一の時代〉に個人として入ることは、集団として新時代に入ることと密接に結び付いています。私たちの多くがギフトの精神により深く入り、生命と世界を感謝を持って扱うようになるなら、もう無意味な仕事の屈辱を受け入れなくなり、世界をより醜い場所にすることを選ばなくなるでしょう。このような選択の結果は、やがて政治、社会、経済へと波及します。遅かれ早かれ、災難によってそうせざるを得なくなるのだとしても、私たちがギフトの精神に立ち戻ることは避けられません。それが現実の本質だからです。真実は姿を現します。真実に抵抗するのをやめましょう。真実に殺される前に。



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注:
[48] キース・ジョンストン[Johnstone, Keith], 『Impro: Improvisation and the Theatre(インプロ:即興と演劇)』. Routledge, New York, 1979年. pp. 78-9
[49] ハイド, p. 20

原文リンク:https://ascentofhumanity.com/text/chapter-7-09/

2008 Charles Eisenstein

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