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塔の傍らで遊ぶ

訳者コメント:
 2023年4月から2年あまりにわたって翻訳してきました『人類の上昇』、ひとまず完結です。お付き合いくださいましてありがとうございました。

 全人類の上に折り重なるこの危機の時代に、個人として何ができるのでしょうか。再合一とは、繋がり直すこと。創造という宇宙の遊びに参加するのです。それが地球の危機とどう関係があるのでしょうか? あるのです。自己と他者は一体である、内と外は一体であるというインタービーイングの原則を理解するなら、地球の癒しは自分の内なる世界の癒しと密接に繫がっているとわかります。深い理解の宣言をもって、本書は締めくくられます。
(お読み下さい:訳者からのお知らせ


8.6 塔の傍らで遊ぶ

現実を数字と名前に落とし込み、世界を所有しコントロールしようとする企ての中で、私たちはバベルの塔を築き上げ、有限の道具を使って無限の世界を急襲し強奪してきました。これを実行するために、私たちはあまりにも専門化し、切り離され、世界を落とし込み、疲弊させてしまったので、私たちが天へと昇るための壮大な巨大機械は、もはや辻褄が合わなくなっています。私たちが持つコントロールの手段は、私たちが解き放った混沌を管理するには足りません。私たちの上昇も、その上昇の幻想さえも、ただ全てを繋ぎ止めるにもその努力が増大し、全ての資源が消費されるにつれて、足踏み状態となります。今、塔はその重みにぐらつき、崩れた所を補強しようとするたびに建物全体が不安定になるにつれ、この文明の廃墟の中から、おそらく私たちの目にはっきりと見えてくるのは、私たちが集団として切望してきた目的とは何だったのかということです。

私たちのバベルの塔という探求における最高の皮肉は、有限の手段で無限へ到達しようと目論みながら、実際には正反対のことをやっているということです。私たちは、無限のもの、神聖なもの、唯一無二であるものを全て解体し、有限のもの、コントロールされたもの、無個性で標準的で測定可能なものに変えています。セコイアの森が家具や所有物に、そして最終的にはお金に、そしてコンピュータの中の数字に落とし込まれることを考えてください。私たちは地球を現金化し、人生を売り払い、現実をデータに落とし込んでいるのです。やがて社会、文化、自然、魂の資本が全て使い果たされ、お金に換えるものは何もなくなるでしょう。

塔はぐらぐらと揺れ動きます。かつては誇らしげに先陣を切って自然を征服していた科学とテクノロジー、そして管理とコントロールという体制の全体が、今ではただ物事をつなぎとめようと、ますます絶望的な努力に掛かり切りになっています。私たちは自らを自然から、全体性ホールネスから、ひいては健康から切り離し、次から次へと技術的対策を講じることで、その結果に必死に対処しようとします。人生を繋ぎ止めようとする依存症患者のように、私たちは借金を借り換え、合理的な理由を作り、短期的な問題を解決するために長期的な影響を生じさせ、常に全てが管理下にあるかのように装います。「科学が解決策を見つけるだろう」と私たちは考え、将来に報いを受けるときまで問題を先送りして対処します。

次第に手に負えなくなる依存症患者の人生と同じように、このような努力はいずれ完全に崩壊する運命にあり、テクノロジー、科学、医療、お金、財産、教育といった既存の制度に暗黙のうちに含まれているコントロールという考え方全体を放棄することによってしか、回復し、癒すことはできないという気付きに、私たちは直面するのです。その時、自然のもつ癒しの力、野生、宇宙に内在する意志、合理的な理解とコントロールを超えた何者かの恩恵と豊穣さに、私たちは心を開くでしょう。私たちはそれらを自分自身よりも偉大なものだと考えてきました。

あるレベルでこれが意味するのは、私たちの産業、社会、教育、経済のプロセスの手本を自然界に求め、機械やコンピューターの比喩を生態系の比喩に置き換えることですが、生態系においては糧とならない廃棄物は存在せず、外という場所は存在せず、中央集権的な組織は存在せず、各部分は他の全てに依存し、全体のニーズを満たすためにその職務を最もよく果たす者が成功者となるのです。

それ以上に、自然は生命と世界の落とし込みを伴わない創造性のモデルを私たちに与えてくれます。私は以前から、環境保護運動が期待を裏切る原因が、「持続可能性」よりも前向きなものを明確に打ち出せないことにあると感じてきました。人類への賜物である創造性、つまり文化とテクノロジーは、私たちが多くのものを破壊することを可能にし、当然ながら途方もない害悪の源であり抑制しなければならないものと見なされています。「賜物を呪いから切り離せるのでしょうか?」私は本書の冒頭で問いかけました。人類の救済は人間という種の本質を否定することにあるのでしょうか? そうではないと私の心が言いますが、長い間それ以外に取るべき道はありませんでした。そして今、ようやく私が思い描けるようになったのは、私たちを人間たらしめている才能の溢れんばかりの表現を受け入れてくれる、持続可能というよりも大きな未来です。先住民の芸術家が自分の仕事のことを、彫刻の素材の中に初めから入っている形を露わにすることだと理解していたように、私たちは集合的に自分のことを、自然の絶え間ない自己表出の代理人だと捉えることができます。私たちはもう押し付けるのではなく、発見し開示するのです。自然に戻るということは、消極的になることでも、創造の努力をやめることでもありません。私たちは創造する存在であり、〈創造主〉の「姿に似せて」作られたと言われ、自然の一部であって〈宇宙の創造性〉そのものに他なりません。もはや自然を、外部にいる創造者による芸術の受動的で不活発な基材と見なす必要もなく、力が無作為に相互作用してできた空虚で気まぐれな結果と見なす必要もありません。新たな美の形と美のシステムを限りなく創造する、自然のありのままの姿を振り返ることで、私たちの最高の目的は、美がまだ顕在化していない領域をも現実にすることだと理解します。実際、私たちはすでに何千年にもわたりそうしてきました。廃墟だけでなく、テクノロジーはほんの数世紀前には想像もできなかったような新しい創造的表現を私たちに与えてくれました。これまでと違うのは、それが間もなく私たちの意識的で集団的な目的になるということです。いま「お金のために」仕事をするよう私たちに迫っている力は、それを生み出している分断の幻想とともに消え去るでしょう。その代わりに生まれるのは、全体性ホールネス、美、持続可能性、発見、芸術に報いる〈再合一〉の文明の新たな力です。管理とコントロールという心理構造メンタリティに内在する不安から解放された私たちは、見せかけの生存の必要性のために美を犠牲にすることをやめ、美を創造する自由をも手にするのです。

地球を破局の瀬戸際まで追いやる力を与えてきた人間の才能は、本質的に邪悪なものではなく、くじくべき悪魔的な力でもなく、結局のところ、美の創造を新たな段階に引き上げるための神聖な手段なのです。問題は、私たちがそれらを神聖なものとして尊重してこなかったことです。私たちは自分の才能をお金のために売りました。私たちがはまり込んでいるのは、快適さと安全安心と喜びを得ることが目的だという妄想で、人生には生き残ること以外に本当の目的はないという考えからきていて、私たちが深く抱いているニュートン的な存在論から導かれるものであり、それ自体が分断の頂点に立つものです。

テクノロジーの目的は自然と美の創造を次の段階に引き上げることだと私が言うとき、一般に言われているようにテクノロジーが生存の問題を本質的に解決したからというのではなく、今こそ物質主義の破壊的な悪循環を止め、芸術、音楽、文学、純粋科学、そして美を楽しむことに目を向ける時なのです。つまり、もう引退すべき時なのです。この考え方は少なくとも石炭の時代までさかのぼり、工業労働者のひどい苦しみが、豊かな〈黄金時代〉を迎えるために必要な一時的な犠牲であるという理由で正当化されていました。さて、理屈で考えれば、それはもう実現しているはずで、少なくとも私たちが貪欲でさえなければ、兵器に1兆ドルも費やすようなことさえしていなければ、経済体制がこれほど歪んだものでさえなければ、それは実現しているはずです。この見解が無視しているのは、「生存の問題」など存在しなかったという事実です。〈豊穣の時代〉はテクノロジーの成果ではなく、テクノロジーこそが私たちを豊かさから引き離し、不安と欠乏と疎外の世界へと導いたのです。しかし、もし私たちのテクノロジーを押し進めてきた自己と世界に対する誤解が変わるなら、分断の力としての役割も変わるでしょう。

私が言う美の創造とは、これまでの美術に限定されるものではありません。美術品は美術館に隔離され、生活からほとんど切り離された世界になってしまったからです。あらゆる産業プロセス、あらゆる社会制度、生活の中のあらゆる関係性が、私たちの芸術の対象となり得るのです。人類が傾倒する芸術は、定年退職者の趣味ではなく、人生と芸術、芸術と仕事、仕事と遊びの融合なのです。

生き残ること(つまり「生計を立てること」)に集中するのではなく、世界との交わりが私たちの遊びとなります。結局、私たちの目的は、自然が新たな美の領域を創造し続けていることを理解し、感謝し、そこに参加することなのです。それは遊びを通して行われます。子供が世界を「理解し、感謝し、参加する」ことを学ぶやり方と同じではありませんか? ある意味、分断の過程は全て宇宙的な遊びに他ならず、違うのは、私たちがもはやそのゲームに没頭することなく、分断という幻想の本質に無自覚ではなくなることです。この意識をもって、私たちの遊びは遊び心を取り戻すのです。

第7章で述べた「語り部の意識」との類似は重要で、物語りと遊びは、実は深く結びついています。遊びplayとは演劇play、つまり物語を演じることであり、独自のルールや取り決めを持つかりそめの現実です。私たちが自分の物語を意識的に創造するようになると、私たちは宇宙のゲームの意識的なプレーヤーになります。名前と数字、イメージと機械、テクノロジーと文化など、切り離された人間の領域で使われる全ての道具が、私たちの遊び道具となり、芸術の道具となります。もはや切り離された人間の領域へと無意識のうちに迷い込むことはなく、私たちは自由に自然と繋がり直すことができるのです。私たちはその直線性を、切り離そうとした自然の巡りと結び直します。私たちはその記号と物語を、意識的な創造的意図と結び直します。私たちはその技術を、自然の目的とプロセスに結び直します。いま意識的に才能を発揮することで、私たちはもはや自然と対立することのない人間の領域を創り出すことができるのです。

自然と繋がり直し、自己と世界を再認識することは、実現不可能な理想に聞こえるかもしれませんが、実はこれ以上ないほど近くにあります。中国の諺にこうあります。「地平線は遠くにあるようでいて、すぐ目の前にある。」その一方、どんなに遠くへ旅しても、もはやこの地球上のどこにも完全に手つかずの「自然」を見つけることはできません。騒音、化学物質、光など、あらゆるテクノロジーの痕跡から逃れることはできません。あらゆる生態系は乱されています。さらに、私たちはどこへ行くにも、自分自身、自分の考え、そして自分の在り方を携えて行くのであり、文明からの旅人である私たちの存在そのものが、滞在先の純粋さを汚してしまうのです。諺にある地平線のように、手つかずの自然は近づくにつれて遠のいていきます。

その一方、自然は私たちの目の前にあり、私たちの中にあり、私たちの周りにあります。そこへ近づくにつれ遠のいていくのは、自分から切り離されたものとして考えているときだけです。意図してテクノロジーを捨て石器時代に戻ることで、人間界と自然界を再合一させようと試みることもできるでしょうが、憧れていた純粋な状態は、諺の地平線のように、私たちの目の前から遠ざかっていくのではないでしょうか。分断の起源は石器時代のずっと前までさかのぼります。真核生物の独裁を打倒すべきでしょうか? 幸いその必要はありません。諺が暗示するように、自然への回帰は感じ方を変えるのと同じくらい簡単なことです。本書を締めくくるにあたって、人間界と自然界を個人のレベルで再合一させる方法について、いくつかの考えを述べましょう。

自然に還るというのは、数分のあいだ四つん這いになってタンポポの匂いを嗅ぐような簡単なことでもあります。こんな小さな行為でさえ、その癒しの力は素晴らしいものです。あなたがどれほど疑い深くても、どれほど理性が拒んでも、ただタンポポの匂いを嗅ぐだけで、ただ虫の動きを見るだけで、ただ雲を5分間眺めるだけで、目覚ましい効果があります。トム・ブラウン・ジュニアはこう言いました。「空き地や公園を5分も歩けば、人を改心させる働きがある。より多くを見て、より多くを感じられるようになり、生きていることを実感できるようになるのだ。」陳腐なことのように思えますが、「自然と繋がり直す」最もありふれた方法でさえ分断の幻想を弱めることができますが、家や車やコンピューターという箱の中にいると、はるかに簡単にこの幻想を持ち続けることができてしまうのです。

自然は私たちの体の中にもあります。デカルト的な心と身体の分裂は、自己を身体とは別のものと位置づけますが、それを癒すのに役立つ様々な実践法は、その分裂のばかばかしさを体験させます。ヨガ、太極拳、武道、フェルデンクライス・メソッドオーセンティック・ムーブメントコンタクト・インプロコンティニュアム・ムーブメントなど、さまざまな実践的ヒーリングが教えてくれるのは、身体は心の一面であり、心は身体の一面であることです。

でも、ヨガ教室に申し込んだり、公園で散歩する回数を増やしたりするのが、地球を癒すことになるのでしょうか? そうでないことは明らかですが、最初は気づかないうちに、そのようなかすかな変化が分断の幻想を崩し始めるのです。個人のレベルでの〈再合一〉のプロセスは、多くの場合しつこく続く不安として始まり、それが本格的な折り重なる危機の多発へとつながるのです。それは人生や世界の何かがおかしいという感覚であり、この感覚だけでも感受性の強い人には危機となることがあります。仕事も、計画も、生き方も、露わになった真実の前ではもう意味をなしません。やがて、人生のあらゆる側面が徹底的な変容をとげます。

環境と社会の危機に関する多くの書物が提供するのは絶望でしかなく、「これらの問題はあまりにも膨大で、あなたにできることは何もない」とか、「環境に優しい」製品を買うとか、ビール缶をリサイクルするといった熱意のない緩和策という形になってしまいます。ある意味、その絶望の正しさが証明されるのです。たとえ自分のエコロジカル・フットプリントをゼロにしたとしても、地球を情け容赦なく破壊している巨大な力に比べれば、個人の行動など屁でもないことは誰もが知っています。人間の条件という悲劇を完全に理解した上で意味のある人生を送ることは、違うブランドを買ったり、座禅瞑想セットを買ったりすることで達成できるものではありません。やがて私たちは、変革が人生の核心に、人間関係や仕事といった核心的な問題にまで及ぶ必要があることに気づきます。だんだんと、スピリチュアルな気づきは物質的な性格を帯びてきます。絶望の源は、私たちが知っているような人生は続けられないという気づきにあります。もしこの気づきが無意識のものであったとしても、無意識の心が危機を作り出し、新たな人生の状態へと生まれ出ることを促すのです。

この核となる変革において、私たちは前述の絶望を無にしてしまう力を利用します。それは同じように「自然に帰る」ことからもたらされるのですが、身体やアウトドアとのつながりを取り戻すという初歩的な段階よりも、はるかに繊細で深いレベルのものです。それは本書の主要なテーマと類似していて、切り離された人間の領域を、捨て去るのではなく変容させることで、もはやそれが不自然ではなくなるというものです。個人のレベルでは、言葉の力、語り部の意識、そして賜物ギフトの中に生きることによってもたらされます。これらによって、私たちは世界を創造する存在としての可能性を最大限に発揮することができます。これらの概念が、世界の偉大なスピリチュアルな教えのほぼ全てを内包しているのは偶然ではありません。それは、無執着と、愛と、切り離された自己を超えた何かへ心を開くことです。アウトドアや身体よりも、自然はこれらのものの中にあるのです。賜物ギフトの中に生きるとは、生態系のギフトの輪に再び参加することにより、常に開花し、変化し続ける全体の中で、私たちの役割と本分を果たすのを目的とすることです。語り部の意識とは、今も続く宇宙の自己創造という遊びの中で、意識的な役割を担うことです。

自然に帰ることは、私たちを生存不安の鎖から解き放ち、美の創造者、つまり芸術家としての目的を教えてくれるだけでなく、美を創造する最善の方法も教えてくれます。大量生産されたもの、人為的に切り離された自己が考え出せるどんなものよりも、偉大で壮大なパターンを観察することによって、私たちはそのパターンの中で果たすべき固有の役割に気づくようになります。この理解は、私たちがそのパターンの一部であるという単純な事実から生まれます。それは私たちと別のものではないのです。自然を観察することで自分自身を観察し、自然について学ぶことで、私たちは自分自身について学ぶのです。「私」の本分、つまり「かりそめに自意識をもった、このパターンの一部分」が明らかになるのです。

遅かれ早かれ、それを突き動かす危機の源が自分の内であろうと外であろうと、これまで私たちが知っていた普通の生活は終わりを告げます。テクノロジーと自己改善という必死の悪あがきは、普通の生活を少しでも長く持続する方法を絶えず見つけようとします。めったに認識されないのは、「普通」こそが問題の根源であり、それ自体の破滅に向かう種を含んでいるということです。それを持続できるのは絶え間なく増大する苦しみだけであり、いま私たちの世界を蝕んでいる苦しみそのものです。また、めったに認識されないのは、その普通がたとえ持続可能であったとしても、持続する価値はないということです。私たちは壮絶なまでに貧しい生活に慣れてしまったのです。しかし埋もれた記憶に残っているのは人生のあり得る姿、あるべき姿で、その記憶がときおり浮かび上がるのは、本書の冒頭で述べたような、喜びと繋がりにあふれた明晰な瞬間なのです。私はこの記憶と知識に語りかけます。私自身も含め全ての人に思い出してほしいのは、はるかに美しい世界と人生が可能であること、そしてこの可能性が人間のあり方に革命をもたらすことです。これは緊急の呼びかけです。あなたが目覚めようとしている全ての真実に照らして、理にかなった人生を送るのです。社会と地球の危機、分断の幻想、個別ばらばらの自己という無常、無限のコントロールという企ての無益さ、魂の資本の強奪、世界のお金への落とし込み、時間と人生の切り売り……、いったい何のためでしょう?

私たちにできること、私たちに必要なことは、意味のある人生を送ることです。危険なのは、こうした真実を目の当たりにしてもなお、とにかく幻想を追い続けることです。古い習慣はなかなか変えられません。諺にこうあります。「真実があなたを自由にする。」 これ以上は必要なく、これ以下では不十分です。大昔から続いてきた人間の本性を超越しようとする努力はもう終わり、私たちに必要なのは、私たちが何者であるかをより完全に理解することだということを、いま学びつつあるのです。私が「再合一の時代」と表現した全体性ホールネスへの回帰の一環は、普通の生活に都合が悪くなるような世界や自分自身の一部を、これ以上隠さないようにすることです。自分自身を否定しては、傷ついた地球を癒すことも、生きている魂を助けることもできません。その反対です。私たちの本性が否定され、本当の自分から切り離されたことが、そもそも現在の危機を引き起こしているのです。何世紀にもわたり受け続けてきたメッセージは、小さき者になれということでした。テクノロジーで他の自然を克服するのと同じように、自己鍛錬で人間の本性に打ち勝つのだ。しかし現在、コントロールというイデオロギーの基盤となっている自己観と世界観は時代遅れとなりました。自然と人間の本性に対する戦いはもう終わりです。今こそ、私たちの正真正銘の本性へと足を踏み入れるときであり、そうして自然の美しさを次の段階へと進化させる神聖な目的を担うときなのです。

ここに本章の最初で述べた自己受容と自己信頼があります。これらが個別ばらばらの自己の破壊的で偏狭な強欲につながるものでないのは、これが私たちの本当の姿ではないからです。結局のところ、自己愛の道こそが必然的に私たちを世界との愛に引き戻すのです。この道に痛みがないわけではなく、それどころか存在する全ての痛みを含んでいます。しかし痛みと悲しみの反対側には、理解と全体性ホールネスと、ひいては自由があるのです。私たちが人生と世界をどんなものにしてしまったかという悲しい真実、現実を名前や数字、お金や財産に落とし込んできた数千年にわたる悲しい真実を取り込むことで、私たちはあり得るもの、あるべき姿、そして実際にある姿のビジョンを取り戻すことができ、生命への愛と、私たちを愛する生命の内に、完全で創造的な存在としての生まれ持った姿を取り戻すのです。

私たちが求める無限はすでにここにあり、それはずっとあったのです。この〈塔〉の崩壊、管理下の世界の崩壊、科学が追求してきた確実性の崩壊は、私たちを一万年にもわたり奴隷にしてきた詐欺を白日の下にさらしつつあります。しかし、この詐欺にも目的があることを忘れてはなりません。これまで私たちが没頭し、今その夢から目覚めようとしているこの探検ゲーム、分断が、遊びから始まったことを忘れてはなりません。私たちの冒険の旅、分断の最果てへの旅は、今ほとんど完了しました。産みの苦しみがどんなに辛くても、光は私たちを手招きしています。魅了され、理解し、そして完全性ホールネスに至る場所との〈再合一〉を果たすのです。この先に待つ暗闇を抜けて差し込むその光が、私たちの支えとなりますように。


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原文リンク:https://ascentofhumanity.com/full-text/chapter-8-06/

2008 Charles Eisenstein


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