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語り部の意識

訳者コメント:
 言葉が人間社会の中で担う役割は、多細胞生物の体内で働くホルモンのようなものです。言葉が社会全体の在り方を形作るのです。現代社会で言葉が嘘や欺瞞に満ち、逆に力を奪うものになっているのは、言葉を無意識に使うからだと著者は指摘します。無意識の言葉が力を奪う働きは、自分の心にリフレインする独り言に特に現れます。「どうせ私なんか…」「そんなことやってる場合じゃない」という無力な独り言は、親や学校や社会から繰り返し吹き込まれたもので、それが無力感を固定化し増幅します。私のすることには私が選択権を持つということを、意識的に言語化することで、言葉が世界を創る力を復活することができると著者は説きます。
(お読み下さい:訳者からのお知らせ


7.10 語り部の意識

この二章で、〈再合一の時代〉への移行に伴う大きな変化の一端を明らかにできたと思います。私の言い方はどちらかといえば控えめなものでした。分断の終焉は、お金や財産、テクノロジーや医療、仕事や教育の形よりもはるかに深く浸透していくでしょうが、最終的に変容するのは個別ばらばらの自己を支える心理的基盤そのもの、つまり記号言語、数と測定、直線的な時間、二元論的な宗教です。すでに見てきたのは、遊びが直線的な時間の測定と主体・客体の分離を拒む様子です。私たちは永遠の遊びの中に身を置き、「宇宙自身の創造的プロセスの有機的な主体」となるのです。

さて、第2章の議論を基にすれば、表象言語は私たちを遊びの世界から必然的に引き離し、対象と名前、自己と他者という分割された領域に私たちを投げ込むように見えます。もしかすると私たちは〈アダムの言語〉に戻り[50]、表象言語とそれを基にする全てのテクノロジーを放棄してもいいのかもしれません。間違いのないように言っておくと、言語は他のどのような形のテクノロジーよりも強力であり、それに先立つものです。今日の世界で私たちが成し遂げることは、ほとんどすべて言語によって達成されるのです。私たちはアイデアを述べ、依頼をし、可能性を説明し、影響を警告し、他者に行動を呼びかけます。もちろん、ティピー[アメリカ先住民の円錐形テント]を建てるなど言語がなくてもできることはありますが、人間活動の協調を必要とするものは無理です。空港の運営やマイクロチップの製造といった活動には、人が決めた記号や数字の大系と、時間の区切りが絶対に必要です。

しかし私が本章で主張してきたのは、テクノロジーが不自然である必要はなく、また切り離された人間の領域を維持する絶望的な努力に頼る必要もないことです。来るべき時代の人類の運命は、自然を新たな領域へと拡張することです。石器時代に逆戻りする必要はありません。廃物がかてとなる限り、自然が直線的だと装わず循環性を体現する限り、コントロールの企てではなくギフトの力学を働かせる限り、人間の領域はもはや切り離されたものではなく、それ自体があらゆる意味で自然なものとなるのです。そしてこの新しい領域で情報伝達を担うのが記号というテクノロジーです。そこでは、言語の役割はホルモンや神経伝達物質などのシグナル伝達分子が体内で果たす役割と非常によく似ています。それは社会の複雑さがある限界以下では必要のないものです。それはガイアの身体から今まさに芽生えた多細胞の〈超人類〉の生理にとって不可欠なものです。本節では、たとえ表象的であるとしても、言語の本当の起源と目的へと私たちを立ち返らせる新たな概念について説明します。言語は、人類が宇宙と共創的に遊ぶための道具となり得るのです。

言語の使い方の変化は、これまで述べてきたような地球と私たちの関係におけるテクノロジーの役割の変化と類似しています。私たちの言葉の目的は、実はコミュニケーションではなくコントロールであることが多いのが分かるでしょう。私が目の当たりにしたのは、自分の話す文章がことごとく、他人の私に対する認識を操作したり、自分の望むものを手に入れたり、彼らの私をコントロールしようとする努力を阻止したり、自分のアイデンティティを投影したり、自分の縄張りを維持したり、自分が善良で正しいと思える世界を作り出したりするための、悪巧みの一部であるように思われる状況でした。このように仕組まれた文章は、実は嘘だったのです。その内容の意味が嘘でないとしても、無意識のうちに意図されたものであることは間違いありません。

嘘の目的は、分断のテクノロジーの目的と根本的には同じで、操りコントロールすることです。そして第2章で見たように、今日ほとんどの言葉はある種の嘘です。では、本章で述べた物質的テクノロジーの変容と並行するような、言語テクノロジーの変容を思い描くことはできるでしょうか? 再合一の技術は、より高い自然の秩序の展開へと全面的な参加を求めるものです。自然をコントロールするのではなく、自然を充足させようとし、自然の循環を破壊するのではなく、拡げていくことを目指すのです。切り離された人間の領域を現実の他の部分と調和させるのです。これらの特質は言語のテクノロジーにどう反映されるのでしょうか? 自然の法則に合致した人間の表現領域を私たちは思い描くことができるでしょうか? 〈再合一の時代〉は、表象言語の終焉を意味するのではなく、意識的な遊び、素晴らしい創造的ゲームのための装置として、本来の位置へと単に立ち戻るだけなのです。

まさにそのようなテクノロジーの要素が、今日さまざまな源から現れています。ブラッド・ブラントンのラジカル・オネスティ(根本的な正直)、タマラック・ソングのトゥルススピーキング(真実の話し方)、マーシャル・ローゼンバーグの非暴力コミュニケーション、神経言語プログラミング運動、ハイム・ギノットの親子コミュニケーションの原則のような考え方が集まって、真実の言語を創り出そうとしています。しかし、より美しい世界を創るとき、つまり長い間切り離されていた人間と自然の領域を結び直す世界を創るとき、言語がもつ役割を理解する鍵は、言語の起源と本当の目的に立ち返ることです。第2章で少しだけ触れましたが、おそらく言語の起源と真の目的は物語を語ることなのです。ここでこの意味をさらに詳しく説明し、その重要性を明らかにしたいと思います。

言語とは、人が時をもてあそぶための道具です。対照的に、〈アダムの言語〉は今この瞬間のコミュニケーションです。今ここにいるあなたと私のことです。判断も、解釈も、計画も、推測もせず、できません。過去と未来を認識することはできませんし、非常に小さな規模を超えて人間の活動を調整することもできません。ふつうの言語は違います。言語がこうしたこと全てを可能にするのは、言語が現実とは別の地図を作り、それを操作してもてあそぶことができるからです。私たちは物語を創り、それを演じます。物語を共有することで、私たちの行動は調整され、物理的現実に物語のイメージを刻むことができます。ここに言語の創造的な力があります。

新たな言語テクノロジーがもつ力を過小評価してはいけません。私たちは、自然、文化、美、善、地球を食い尽くす膨大な破壊のかたわらで、それらを単に些細ささいな事として片付けたくなるかもしれませんが、大量虐殺ジェノサイド生態系破壊エコサイドも、結局は認識とコミュニケーションの産物であることを忘れてはなりません。森全体をおが屑にしたり、民族全体を奴隷にしたりする物理的な力は、一人の人間にはありません。そんなことをするのは、言語による他ありません。社会的領域における私たちの物語は、物質的領域における体験へと変換されるのです。私たちが破壊をもたらすのは、自分が何をしているのかを知らないからです。言語が私たちを現実から引き離し、愛をその自然な対象から切り離したのです。

もちろん、ひとつの有り得る解決策は、石器時代に戻る人がいるように、表象言語を完全に放棄して、現実から距離を置かず嘘をつくことが不可能な〈アダムの言語〉だけを使うことです。しかし、私がその選択肢を拒否するのは、テクノロジー全般を放棄することを拒否するのと同じ理由からです。私たちを人間たらしめている手と心という賜物ギフトは、他の動物がもつ賜物と変わらず、目的があって存在しているのです。言葉は癒しの道具にもなり得ます。言語がなければ、森全体をおが屑にしたり、民族全員を奴隷にしたりする物理的な力は一人の人間には無いと、私は言いました。その通りです。しかし、言語がなければ、人間には生態系全体を癒す力も民族全員を解放する力もないことも、また同じです。ガンジーにはインドを解放する超人的な能力があったのでしょうか? レイチェル・カーソンは言葉の力ではない何かによって環境保護運動を起こしたのでしょうか?

テクノ理想郷の信奉者が想像するのとは裏腹に、平和で豊かな時代を切り開くために、新たな物質的テクノロジーは必要ありません。欠乏と戦争は私たちと他者との関わり方が産むものです。〈分断の時代〉という結果をもたらしたのは私たちが築き上げた物語であり、自分のことを自分に語る物語です。言葉の創造力を疑うことができるでしょうか? これを理解するには神秘主義的な原理など必要ありません。本書で探求してきた「切り離された人間の領域」はテクノロジーと記号で作り上げたものです。前者は後者の上に成り立っているので、人類の上昇の全ては記号によって築かれていると言えます。現代人が体験する世界全体は物語の上に成り立っています。言葉の力とはこのようなものです。例えば、合意がなければ財産とは何なのでしょうか? また別の記号、紙切れ、コンピュータのビットが表す意味についての合意がなければ、お金とは何なのでしょうか? 私たちが構築したものに意味があるという合意がなければ、時間とは何なのでしょうか? 新石器時代のテクノロジー以上の人間の活動のために必要な調整は、記号の解釈を共有することに基づいているのです。それは意味に基づいていて、これらの意味が合わさって世界についての私たちの物語を構成しているのです。

ニューヨーク市の高層ビル群や集積回路チップのような素晴らしくも不自然な複雑さを持つ物体は、地質学的時間のごく短い瞬間に、完全に有機的な母体から生まれたのです。このような奇跡を可能にしたのは、第一に言語、つまり共有された意味の大系です。今、私が目の当たりにするように、人類の文明を救うには奇跡が必要です。ほぼ確実にやって来る地球の未来は明らかです。マイクロチップのような奇跡だけが、私たちの厳しい未来を変えることができるのです。私の知る限りそのような奇跡を起こす唯一の方法は、最初の奇跡を起こしたのと同じ方法です。それは新たな物語を導入することです。私たちは分断の物語を語り、語り直し、その細部を際限なく作り続けてきました。今こそ別の物語を語る時です。

しかし、〈再合一の時代〉には物語の転換以上のものを必然的に伴います。それは以前にも起こっていました。切り離された人間の領域が本当に切り離されたものだったことはないと、私は述べました。私たちは本当に自然から独立していたわけではありませんし、直線的な消費も本当に直線的ではありませんでした。私たちは無意識に偽りの装いの中で生きてきました。同じように、〈分断の時代〉の言葉の問題は、物語を語ることが無意識になってしまったことです。私たちは混乱の中で、言葉という切り離された領域を、それが表しているはずの現実と取り違えます。自分の物語が物語であることを忘れると、どうすることもできず自分自身や世界に嘘をつくようになります。なぜなら地図とは常に、地図に描かれたものが歪められた姿だからです。言葉はその抽象性ゆえに不正確であって、それが指し示す特定の物体、プロセス、感情とは一線を画しているのであり、そのため私たちは相手の真意を推し量ることになり、誤解を招くことになるのです。しかも、この抽象化と歪曲の性質は決して無害なものではなく、私たちのあらゆるコミュニケーションに、分断の体制を助長する無意識の欺瞞を吹き込みます。

私たちの物語が実現した影響、つまり物理的な現実へ刻印されたイメージが、私たちが意図したものとは反対のものだったとしても驚いてはいけません。経済学者が言う経済成長や市場の発展は、全て言葉や数字で語られるのですが、それが実行されると悲惨で貧しい現実を生み出します。作戦司令室にいる政治家たちは、自由と安全と善を追求するために敵の戦闘員や巻き添え被害のことを言いますが、作り出すのは暴力と恐怖の現実です。私たちは非現実を現実とき違え、自分たちが作り出した非現実の中で懸命に生きようとしてきました。それでも現実が入り込んでくるのを押し留めることはできないほど勢いを増しています。私たちの物語はバラバラに壊れつつあります。

〈再合一の時代〉という物語は、記号という同じテクノロジーを使った単なる別の物語ではありません。根本的に違うのは、語る行為が意識的になることです。物語を現実と混同するのではなく、現実を創造するために意識的に言語を使い、物語を創り出して演じるのです。それを意識的に行うために、自分の選ぶ言葉に埋め込まれている隠れた前提に敏感になります。私たちはまだ「環境」のような言葉を使うかもしれませんが、実際にはそのようなものが自分自身から切り離されて存在しないないのを十分に理解した上で、その言葉を使うでしょう。本書で私が観察してきた隠れた前提を持つ他の言葉についても同様です。同一性の「is(である)」、つまり二つのものが同じでありうるということ、絶対的なデカルト的現実を意味する「存在する」という言葉、「物質と精神」「人間と自然」のように現実を人為的に二分する区別。実際、すべての言葉は嘘の記号化であり、すべての表現は虚偽を含みます。それでも私たちは〈再合一の時代〉において言葉やその他の形の表現を使い続けるでしょう。しかし私たちは自分自身を欺いてそのような嘘の中に生きることはしません。私たちはもう二度と物語の中で自分を見失うことはありません。私たちは言葉を注意深く意識的に適用し、その意味に捉われません。

この向き合い方を語り部の意識と呼びましょう。すでにそこにある現実を描写しようとするのではなく、それについての物語を通して私たちが現実を創り出していることを意識するのです。科学において、語り部の意識とは理論や実験の創造的な性質を意識することであり、言語そのものが自己と宇宙に関する深い前提を内包しているのです。テクノロジーにおいては、私たちが行う選択を、私たちと他者や他の生命との関係を定義する方法として捉えることです。それが問いかけるのは、「私たちは自分を何者として創ろうとしているのか」ということです。政治や行政の形や制度は最も根本的に変化し、そのとき私たちは名前や分類、抽象化されたものを信じなくなり、人間の現実とじかに接するようになります。これらの形や制度は全てそれ自体が物語です。アメリカは物語です。フランスは物語です。法律は物語です。言葉や記号、ただそれだけで、私たちが同意した以上の意味はありません。私たちの過ちは物語を語ることではなく、物語を現実だと思い込むことにあります。その思い込みを手放せば、物語と意識的に遊ぶことができるようになり、役に立たなくなったら物語を手放すことができるようになります。今ある物語よりもずっと世の中の役に立つ物語があると私は思います。しかし、私がすでに述べた〈再合一の時代〉に沿った将来の政治と政府について語るのは、他の人々に任せます。

何千年もの間、物語を語るという創造的な遊びは私たちを奴隷にし、私たちは語り部の意識を失ってしまいました。見せかけを維持しようとする努力に耐えられなくなり、ついに私たちは目覚めるのです。物語を維持することはもうできません。直線性の物語、分断の物語、他者の世界に取り残された孤独な自己の物語。私たちは語り部ではなく、作家でもなく、ありのままを描写し、対応し、管理し、コントロールする、単なる報告者に過ぎないという物語。私たちは今その物語から目覚めようとしています。世界と人生の創造者は私たちではないという物語から。

実際、私たちの個人生活こそ、無意識の物語への隷属が最も破壊的となるのです。私たちが生きているのは捏造された解釈の世界で、それを現実と間違えているのです。私たちが生きているのは判断の世界、押しつけられた意味の世界です。もしかすると、父は私をよく怒鳴ったし、私は3歳だったから、私が悪いと思うことにしたのです。彼女はあなたを捨てて出ていき、あなたはそれを裏切りと解釈し、自分が愛に値しない人間だと思うことにしたので、自分は未練がましく、差し出がましく、支配的だと気づくのです。私たちは自分の物語の中で生きていて、自分を正当化し隷属を強めるための出来事を、その物語が作り出すのです。

このような物語の起源や数多くの変種については本書の範囲を超えていますが、多くの場合、容易には気付きにくいものであり、より大きな文化がもつ自己の物語に当てはまっているので、まったく目に見えません。より広い文化的な物語と同じように、それらが無意識である限り、私たちはその奴隷となるのです。私が提唱するのは、この物語をはっきりと理解することであって、物語を捨て去ることではありません。そう、私たちはその気になれば、今この瞬間の体験に立ち戻ることができ、すべての判断を手放すことができます。その気になれば〈アダムの言語〉に戻ることができるのと同じことです。しかし、私たちはそこに留まるよう運命づけられているのではありません。私たちは三次元の現実、空間と直線的な時間の中に進み出て、その道具を使って美を創造するよう運命づけられているのです。意味を創造し、物語を創造するよう運命づけられているのです。私は、時間に縛られた物質的存在としての自己の存在を放棄しようと言っているのではありませんし、私たちを人間たらしめている文化やテクノロジーという賜物ギフトを放棄しようと言っているのでもありません。しかし、もうそのような意味や物語やテクノロジーの奴隷になる必要はありません。〈再合一の時代〉に入るということは、意識的な創造者としての力に目覚めることです。

私がそれをマスターしたとは言いませんが、自分の物語を意識的に創造するようになるために、個人的に役立った原則をいくつか紹介しましょう。結局のところ、私が言う集団的な変革は、多くの個人的変革が合流することによってのみもたらされるのです。本書では、私たちの多くが深く内面化している三つの文化的な物語について触れました。その第一はニュートン的な力と質量の世界であり、私たちの個人的な生活において強迫観念や無力感として現れます。言葉の上では、「しなければならない」「できない」「する必要がある」「すべきだ」「やってみます」「あなたのせいだ」といった言葉に表れます。第二は、デカルト的な肉体と魂、良い部分と悪い部分へと自分を引き裂いてしまうことです。それは人生において、絶え間ない自己犠牲という闘争、未来のために現在を犠牲にすること、欲望に闘いを挑むこと、自然や野生に対する文明化され条件づけられたものの押しつけとして現れます。言葉の上では、やはり「すべき」「すべきでない」として表れます。第三の物語は、分断と欠乏です。それは「する余裕がある」などという言葉に表れ、私たちが宇宙や全ての生命と繋がっていてギフトは必ず自分に戻って来るということを信じませんが、もしそうなら、コントロールと支配は必要なくなるのです。

このような物語に名前を付け、その働く様子を観察するだけでも、弱体化させる効果を持ちます。しかし、私自身や他人に対する話し方を通して意図的にそれを無効化するのが良いと気づきました。私たちを奴隷にしている物語を拒否するような言葉の使い方ができますし、そうすれば自由の獲得を加速できます。例えば、マーシャル・ローゼンバーグは「しなければならない」という文章を、「…なので、私は…することを選びます」と全て言い換えることを提案します。個人的な例を挙げましょう。私はよく「嫌なんだけど、成績をつけなければならない」と言っていました。これを、「そうしないと失業するのが怖いから成績をつけることにする」と言い換えると、全てがより明確になりました。自分の誠実さを犠牲にしてまで成績をつけることに比べたら、職があるかどうかなど取るに足りないことに気づき、学問の世界を去ることにしました。「しなければならない」と考えると、自分の持つ力を投げ出してしまうのです。その言葉には自分が無力だという前提が含まれています。私が実践している他の言い換えは、「あなたは…すべきだ」を「あなたは…することもできる」に、「私は…すべきだ」を「私は…できる」や「私は…したい」に置き換えることです。また、あなたの辞書、特に内なる対話の語彙から「やってみます」を削除し、単に「やります」で言い換えるという実験もできます。もしあなたが自分の言葉に忠実なら、何かに同意する前によく考えるはずです。「やってみます」は逃げ口上であり、実際には何もやらないということを丁寧に言っているだけです。それはまた、私たちの創造性をくじく外からの力が支配する世界、つまり自分は無力だという思い込みを規範化します。これら全てについて、私はもっと徹底的な議論をする価値があると思いますが、それは本書の範囲を超えており、将来の本を待たねばなりません。今のところは、「できる」「することを選ぶ」「したい」の背景には全く異なる考え方があることを観察してください。無力さの物語をそのような言葉で語ることはできないのです。

もうひとつの力づけは、先に述べた第二の内面化された物語に関連しています。第3章で述べた「私個人の理性の時代」とは対照的に、私はもう自分のすること全てを理性で正当化しようとはしません。その代わりに、「やりたかったからやったんだ」と言います。何だって! それは許されないことだろう? 欲望に従うなんてできないよね? この欲望に対する抵抗も、肉体と魂が分裂したことの現れです。良い部分、より高い部分、精神的な部分、つまり心と意志が、悪い部分、つまり肉欲を支配しなければならないのです。将来の報酬のために今を犠牲にするのです。これは、宗教と教育を通じて今も私たちを支配している農耕の心理構造メンタリティの変種のひとつに過ぎません。でも天国は永遠にもうちょっと向こうにあるのです。

伝統文化が認識していたのは、物語には単なる報道記事や子供の娯楽を超えた重要性があることです。物語を語ることは、人々の魂を伝えて世界を創り出す神聖な職務でもありました。世界を生み出す神聖な力を持つのは〈アダムの言語〉の音声だけではなく、私たちの言語も同じ力を持っています。いま私たちは無意識のうちにその力を使うことで、意図しない影響を生み出しています。私たちは自分の力を、言葉の力を知りません。ある意味、話すことは全て物語であり、それは話すこと全てが表現の世界に新たな追加を生み出すからです。したがって、ネイティブ・アメリカンが信じていたように、話すこと全てには世界を生み出す力がありますが、それは私たちが表象の世界を実行に移すからです。私たちは自分の物語を生き、それを世界に刻みます。ではなぜ、今日の私たちの言葉はこれほど無力に見えるのでしょうか? そのわけは、私たちが浸りきっている偉大な文化の物語やイデオロギーが目に見えないのと同じように、言葉も無意識に使っているからです。弱いのは意識的な嘘ではなく、無意識の嘘です。意図的な嘘は、世界を創造する意識的な行為に違いありません。先に述べたような力を奪う話し方は、全てではないにせよ、多くが無意識の嘘なのです。自分の言葉に世界を生み出す力を取り戻したいのなら、言葉を黄金として扱わねばなりません。言葉を弱体化するひとつの形に悪態があります。「ファック」というとき、生命を創造する神聖な喜びを下品な軽蔑語にするなんて、本当は何を言っているのでしょうか?「ダム(地獄に堕ちろ)」というとき、私たちは本当に誰かに永遠の苦しみを望むのでしょうか? いいえ、私たちは無意識に話しているのです。その他の言葉を弱体化する言い方には、うわさ話、世間話、さまざまな否定的な言動があります。ここでは詳しく説明しませんが、ぜひ考えてみてほしいのは、そのように話すとき私たちはどのような世界を創造する物語を語っているのかということです。言葉が真に力を持つためには、それを私たちの創造的な意図と一致させなければなりません。そうして初めて、私たちは人生の物語を創造することができるのです。

無意識に嘘をついていると、自分自身や他人に対する信用が損なわれます。もし、私たちが正直に話し自分の言葉を黄金として扱う習慣を養うなら、偉大なことを宣言すれば、それが実現するでしょう。言葉の力に気づけば気づくほど、話し方はより注意深くなり、言葉を大切にすればするほど、言葉の力は強くなります。私たちは自分の言葉が常に実現するよう条件づけ、自分の言葉の持つ魔法のような創造力に対する深い自信を育みます。

集団レベルであれ個人レベルであれ、語り部の意識は〈再合一の時代〉を特徴づける新しい自己意識と切り離せません。それは〈分断の時代〉を特徴づける「ここにいる観察者」と「外にある客観的な世界」の区別を曖昧にしていくことにかかっています。それは危機が引き起こす分断の幻想の崩壊と並行して、自然に現れるでしょう。無力さと分断の物語は、単にもう人の心をとりこにすることがなくなります! その代わりに、私たちは繋がりの物語、相互共存インタービーイングの物語、すべてを包み込むギフトの輪への参加という物語を持つことになります。この物語の一部は、実はメタ物語であって、それは私たちの物語すべてに創造的な力を与え、物語を語る上で意識的になるよう動機づける、物語についての物語なのです。

将来これが実際にどのような姿になるのかについて、私が曖昧にしか説明しなかったとしたら、それはおそらく、数世紀後に語り部の意識を中心に構築されるであろう社会が、現在のものとはあまりにも違っていて、あえて紙の上にそれを表現することさえできないからです。現在のようにドラマと現実が区別されるのではなく、未来の社会は物語の中の物語の中の物語、劇の中の劇の中の劇で構成され、そこに一方が「現実」で他方が「非現実」という感覚はありません。人生はすべて遊びとなり、遊びはすべて真面目なものとなります。私たちは、人間が何かに打ち込むのと同じくらい深く、偉大な芸術家が偉大な傑作に注ぐのと同じ情熱をもって、これらの物語のいくつかに打ち込むかもしれません。各々の人生は傑作となるでしょうし、私たちの集団的な企てのいくつかは何世代にもわたって、現実(と私たちが呼ぶもの)の構造を変えていくでしょう。私たちが宇宙そのものと意識的な共創的な協力関係を完全に結ぶとき、これが最終的な〈再合一の時代〉の成就となります。それまでの間は、次の百年ぐらいの間に偉大な語り部が現れ、人生のあり方や私たちが創造できる世界の展望について、美しく信じるに値する物語を語って、私たちを鼓舞するでしょう。そのような物語は、私たち一人ひとりの才能を引き出し、可能性を伸ばす役割を持つでしょう。それはもう始まっています。このドラマへの出演者募集の呼び声が聞こえますか? そこにある美しい人生を手にするには、勇気さえ見つければいいのです。



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注:
[50] 第2章を読んでいない人のために補足しておくと、〈アダムの言語〉(lingua adamica)とは人類の原初の言語である。正しくは言語などではなく、人間という動物の鳴き声である。

原文リンク:https://ascentofhumanity.com/text/chapter-7-10/

2008 Charles Eisenstein

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