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人間の本性を回復する

訳者コメント:
 子供の頃から繰り返し叩き込まれるメッセージは、自分の怠け癖を克服して勉強しろ、トレーニングしろ、つまり克己心こっきしんを持てということ。「自罰的」になれということ。これは自己の一部を切り離し、敵と見なして打ち負かす、分断の命令だったのです。敵を打倒する革命で政権を転覆しても、新政権は暴力的な圧政になるだけです。自己を狭く定義してはなりません。自己の一部に不寛容であってはなりません。アメリカ・ファースト、日本人ファースト、都民ファーストというような狭い利己主義も、結局は自分が疎外されてきたことを裏返して投影したものであり、誤った自己観がもたらしたものです。
(お読み下さい:訳者からのお知らせ


第8章:自己と宇宙

8.1 人間の本性を回復する

ある秋の日、田舎の丘の上で、薬草医が私を問い詰め、どうして自分が悪いと信じるようになったのか思い出させようとしました。というのも、私が本書で提示した思索の集大成とは反対に、深い感情のレベルでは、私もふつうの人と同じように、自分には本質的に価値がないと長年にわたって信じていたからです。彼女(薬草医)はこう言いました。「あなたが悪いと最初に言ったのは誰だったの?」

私は率直に答えることができませんでした。「最初に言われた」ときがあったとしても、そのひどい判断を最初に受け入れたときがあったとしても、私は思い出せません。母親や父親や教師を責めることもできるでしょうが、実際には、親や教師が恥や条件付きの賞賛、罪悪感などを行使するのは、周囲の文化的な力をどうすることもできずに伝えていただけななのです。「あなたが悪い」というメッセージは私たちの文明全体を覆っています。それは幼い頃から容赦なく叩き込まれ、自己と世界についての最も根本的な信念と結びついています。

科学において、この信念は利己的な遺伝子、つまり生物学的な個別ばらばらの自己として現れ、その成功とは自分以外の自然を打ち負かすことです。宗教においては、「人間の完全な堕落」、あるいは肉体と魂、精神と物質の分断に由来する教義となります。経済学においては、自分の経済的な「利益」を最大化しようとする合理的な行為者である「経済人」となります。その結果が〈管理下アンダー・コントロールの世界〉で、こうした信念から生じる(私たちが人間の本性と勘違いしている)行動を抑制しようとします。そして〈管理下の世界〉の道具である意志の力や強制力や規則や動機づけが、「あなたが悪い」というメッセージを植え付け強化します。

このメッセージはどこにでもあります。

「ポイ捨て禁止、罰金300ドル。」ここで仮定されているのは、自然で利己的な無関心を最も効果的に抑制するには利己心を脅かせばよいということです。

教師:「成績をつけなければ、どうやって生徒たちに学ばせることができるだろう?」強制されない限り、生徒は生まれつき怠け者なのであり、無知な自分で満足なのです。

親:「ごめんなさいと言うまで、ここに立ってなさい!」人々には罪の意識を持たせなければなりません。

州の法律:「病欠が7日を超える場合、保護者は医師の署名入り理由書を提出しなければならない。」

「ジョニー、よくもそんなことを!」

する必要がある。そんな余裕はない。しなければならない。するべきだ。自然、そして人間の本性は、敵対的で容赦がなく、神聖でもなく生まれながらに目的を持っているわけでもなく、それを克服し、支配し、コントロールするのは私たち次第なのです。自然に対しては物理的にコントロールするテクノロジーを使い、より安全で、より快適で、より豊かなものにします。人間の本性に対しては心理的なコントロールのテクノロジーを使い、より優しくなって、利己性と残忍さと獣性を抑えつけます。私たちの文明は、これら二つのコントロールの上に成り立っているのです。

本書で私が述べてきたのは、コントロールの計画は必然的に崩壊することと、それが必然なのはコントロールの計画が究極的には嘘の上に成り立っているためであることです。また第7章では、折り重なる危機によってそれが崩壊した後に生じるであろう世界について述べました。最終章となる本章では、自然と人間の本性への信頼に基づいて、「良い人になるために努力する」(あるいは例えば、利己的でなく、貪欲でなく、もっと倫理的な人になるために努力する)のではない方法について述べます。〈分断〉がもたらした計り知れない苦難を前にして、そのような信条を呼び起こし維持するために、分断と再合一の原動力についても説明し、私たちが個人としても集団としても、分断という長い旅路を歩んできた宇宙的な必然性と目的を理解できるようにし、私たちの発展における次の段階に逆らわなくてすむようにします。

私たちの破滅的な文明が善と悪との闘いの上に成り立っているとすれば、それを癒すのに必要なのは逆のこと、つまり自己受容と、自己愛と、自己信頼です。私たちの善意とは裏腹に、私たちが悪とみなす人間の本性を克服し、規制し、コントロールしようと努力したところで、文明の悪と暴力が決してなくならないのは、人間の本性との戦いが、自然との戦い以上に多くの分断、多くの暴力、多くの憎悪を生み出すだけだからです。「憎しみを持つ者を殺すことはできるが、憎しみを殺すことはできない」とマーティン・ルーサー・キングは言いました。親方の道具で親方の家を壊すことはできません。自分の中の悪いと思う部分に対して戦いを仕掛けることはできますが、たとえ勝ったとしても、ボリシェヴィキや毛沢東主義者のように、勝者が新たな悪役となります。意志の力が必然的にもたらす自己からの分断は、やがて何らかの形で外の世界に投影される以外にないのです。

はいはい、自己受容ねえ…。この概念は最近ではほとんど決まり文句のようになってしまいました。しかし自己受容、自己愛、自己信頼という〈再合一〉への道は、完全な形にするなら非常に根本的なものであり、善良な人間であるための大切な教義に異議を申し立てます。できる限り純粋に言わせてもらえば、個人として社会として私たちが救われる道は、利己心を捨てることではなく、むしろもっと利己的になることにあります。

そんなことが有り得るのでしょうか? 私たちをこのような混乱に陥れたのは、まさに利己心と強欲ではないのでしょうか?

いいえ。私たちに利己心と見えるものは、自己に対する誤った見方から生じたのです。私たちが何者かということの文化的な思い込みは、私たちが生まれながらに持つ力を騙し取り、幻想を強化し続けることへと私たちを縛り付けます。自己に対する新たな理解が生まれれば、利己心は全く異なる意味を持つようになるでしょう。

もうこの幻想は薄らいでいます。社会の勝者が誰なのかを定義する安全安心と成功という企てが破綻したことを、もう私たちは目の当たりにしています。例えば経済的な自立がいかに私たちを人間社会から切り離し、テクノロジーによる自然からの遮断がいかに私たちを生命のコミュニティから孤立させているかということを、もう私たちは目の当たりにしています。健康、経済、政治、環境が悪化するにつれて、幻想の中にいる限られた個別ばらばらの自己にコンロトールの企てが利益をもたらすことさえ、ますます不可能になっています。安全安心、快楽、富という、利己心の表向きの目標を考えれば、実に皮肉なことです。だからこそ、集団として個人として、私たちに可能な黄金の未来への道は、犠牲と努力の道ではなく、ただ最初からずっと真実だったことに目覚める道なのです。『食のヨガ』の中で、私はこの考えを食物に当てはめてこう書きました。

通常、私たちが利己心だと考えているものを深く調べてみると、そこに悲しい妄想のあるのが見つかります。私が想像するのは、広大な果樹園で、果実がたわわに熟した木々の真ん中に座って、形の悪いリンゴの小さな山を警戒しながら守っている自分の姿です。本当の利己心とは、もっと大きな山をもっと注意深く守ることではなく、果実の山を心配するのをやめて自分の周りの豊かさに心を開くことでしょう。そのような吟味をしなければ、私たちは永遠に地獄にいることになります。5百平方メートルの新しい家を建てても、本当は1千平方メートル必要だから幸せにはなれないと考えてしまうのです。その一方、何かを手に入れなければ、それが結局のところ幸福をもたらさないことに気付かないのはよくあることです。だからこそ、欺瞞に満ちた利己心さえも解放への道となる可能性があって、できる限りの利己心を貫いてほしいのです。信じられないかもしれませんが、純粋に利己的になるには勇気が必要です。何かに十分多大な傾注をしているとき、この答えを恐れるあまり、それが私たちを幸せにしたかどうかを敢えて自問しません。高校、大学と勉強に明け暮れ、楽しい時期を諦め、それから医学部に通い、インターンとして眠れぬ夜を過ごし…、あれほどの犠牲を払ったのに、敢えて医師であることが嫌だと認めるでしょうか? 利己的になるのは簡単なことではありません。心の奥底で自分に本当に優しくしている人が、いったい何人いるでしょうか?

食という領域は自分に優しくするための練習方法なのです。大食漢が正当な取り分以上のものを食べ、自分のお腹に詰め込んでいる様子を考えてみましょう。それは欺瞞に満ちた利己心の例であり、自分自身にとって良くないことをしています。大食漢はますます多く食べます。もっと、もっと、もっと! でも彼は自分自身を傷つけています。もし彼がもっと利己的で、自分に優しくすることを第一に考えていたら、こんなに食べなかったかもしれません。それは皮肉であり、奇跡でもあります。食事で自分自身を大切にしようと決めたとき、最終的な結果は健康な食事であり、不健康な食事ではありません。たとえそのダイエットへの道が特大サイズのアイスクリームから始まるとしてもです!

私が聴衆を前にして根本的な自己信頼について話すとき、感謝を込めた肯定(「ずっとこの時を待っていました、ずっとわかっていたのに、ほとんど信じようとはしませんでした」)から、怒りに満ちた抗議(「そんなことになれば私たちが知っている文明は崩壊してしまう」)まで、さまざまな反応が見られます。どちらの反応も正しいのです。例えば、自分自身や他人を貶めるような仕事に対して、誰もが生まれつき持つ嫌悪感を信じたら、文明に何が起こるでしょうか? 多くの人は、感謝と抗議の両方の反応を同時に抱くのではないでしょうか。条件づけられた自己は、自分が切に望む自由そのものを恐れているのです。集団のレベルと同じように、個人のレベルで自己信頼に生きることは、私たちが知っている人生の終焉を受け入れることです。仕事、環境、人間関係など、何が起きてもおかしくありませんし、全てが変わるかもしれません。自由と引き換えに、私たちは予測可能性とコントロールを放棄しなければなりません。

コントロールのイデオロギーは、政治・宗教的な信条のあらゆる分野に浸透しています。宗教の保守派が私たちの罪深い本性を取り締まるべきだと考えるように、環境保護運動家は私たちの強欲と利己心を抑制し、世界を汚染し取り分以上の資源を独占するのをやめるべきだと言います。そして事実上、誰もが信じているのは「遊びより仕事が先」だということで、やらなければならないことをやり終えるまで、自分が本当にしたいことをするのを許しませんが、これこそ農耕の心理構造メンタリティです。右派にも左派にも、正反対の理論家たち、例えばデリック・ジェンセンアン・コールタージョン・ロビンスマイケル・シャーマーにも、その十字軍兵士[教義を信じて戦う者]の文章に満ちているのは怒りと非難です。これらは同じテーマの変種に過ぎません。

どちらの側も、私たちの文明の指針となるイデオロギーを少し違う形で表現しているだけです。ですから一方が勝ったところでほとんど何も変わりません。共産主義でさえ、人間による人間の(ましてや男による女の、人間による自然の)支配と搾取を終わらせることはできませんでした。本書が宣言するのは全く異なる種類の革命です。それは私たちの自己意識そのものにおける革命であり、結果として私たちと世界、そして互いとの関係における革命なのです。それは、現体制の暴力的な転覆によってではなく、それを時代遅れにして乗り越えることによってのみ達成されるのです。

善良な人間になるためにもっと努力しなければならないと言う人は、人間の本性について同じ誤った前提に立っています。自己信頼が意味を持つのは、私たちが基本的に善良である場合だけです。人間の暴力と私たち自身の失敗を見れば、私たちは善良でないと結論づける他ありません。暴力や悪の根源は、抑制されていない人間の本性にあるように見えますが、それは妄想です。根源はその逆で、人間の本性が否定されていることです。私たちが本当の自分から切り離されていることです。

自己信頼は怠惰と強欲に堕ちていく悪循環を本当に生むのでしょうか? 自制心が緩んだなら、子供を怒鳴りつけ、ジャンクフードを食べまくり、毎日寝坊し、学業を放り出し、ふしだらなセックスをし、面倒なリサイクルをやめ、手当たり次第に好き勝手をし、他人への影響を顧みず、いちばん手軽な快楽をとことんまで享受できるように思えることもあります。でも実際には、これらの行動はすべて本当の自分自身との断絶の症状であり、本当の自分が解き放たれているのではありません。私たちが子どもに対する忍耐を失ってしまうのは、子どものリズム(そしてすべての人間のリズム)と相反する、締切やスケジュールという時間の尺度に、私たち自身が隷属しているせいなのです。私たちは、工業的に加工された食品や匿名の生活の中で欠落している本物の滋養の代用品として、ジャンクフードを食べまくっているのです。夜更かしや寝坊をしたいのは、その日を迎え予定された生活を送りたくないからなのか、あるいはもしかしたら不安に基づく生活の絶え間ない集中砲火を受けて神経のストレスで疲れきっているのかもしれません。私たちはプロのスポーツ選手の勝利に共感し、その勝利を自分が実現できない偉大さの代用品にします。私たちは、コミュニティや自然とのつながりという失われた豊かさの代わりに、経済的な豊かさを切望します。おそらく、私たちの暴力や罪はすべて、本当の自分に戻ろうとする足掻あがきに過ぎないのです。

言い換えれば、人間の本性の害悪は、実際には人間の本性を〈否定〉することから生まれたものなのです。私たちは、自然と人間の本性から身を守り、その両方を乗り越えていかねばならないとそそのかす、極悪非道な詐欺の犠牲者(そして加害者)なのです。実際、この幻想が薄れると、自分自身を受け入れ、愛し、信頼することの結果を見せてくれる素晴らしい人々が現れます。そのような人に出会うと、いつも私は自分の中にある制約と不安がいかに強いかを思い知らされます。現代社会の中でも狩猟採集民のように豊かな心理構造メンタリティを保っている人々がいて、 そのような人に出会うと、自分の堅苦しさから思い出すのはイエズス会の伝道者、ポール・ル・ジューヌのことです。

私が彼らに言ったのは、お前たちの管理は下手だということ、これらのごちそうは将来のために取っておいたほうが良いこと、そうすれば空腹に苛まれることもなくなるだろうことだ。彼らは私を笑った。「明日には明日の獲物でまたごちそうを作るのだ。」[1]

このような人たちは、「私にそんな余裕があるのか?」という問いに決して縛られません。彼らは物惜しみせず、心を開いていて、どういうわけか彼らはいつも養ってもらっているようです。私が最近出会った男性は、シャーマンであり芸術家でもありますが、サービス料を取りません。彼の家は生徒や友人たちからの贈り物でくまなく飾られています。修復経済の出現を待つまでもなく、貨幣経済に代わるギフト経済とギフト生態系に心を開くだけで、私たち自身の生活にそれを取り入れることができます。そのために必要なのは、ただ単純に、与えることと受け取ることです。自由に与え、受け取るためには、必ず何とかなるという信頼が必要です。必ず何とかなります。世界は与えてくれます。そしてそれは、私たちが世界を敵対する個別の他者として見るのをやめたときに起こるのです。その今にも崩れ落ちそうな幻想が、世界との不安な対立関係の中に私たちを閉じ込めているのです。

自己信頼の素晴らしい結果を、この社会の天才たちの中にも見ることができます。それは自分の情熱を愚直に何年も費やして追い求めるほど自分を信じていた人々です。アルベルト・アインシュタインがスイスの特許庁で上司に説教されるところを想像します。「アル、机で落書きをしていても何も始まらないぞ。向こうのミューラーのような立派な労働習慣が必要なんだ。さあ、集中して仕事だ!」そしておそらくアインシュタインはこう考えました。「上司の言う通りだな。今夜は相対性理論で遊ぶのはやめて、『現代特許』誌を家に持ち帰って勉強しますよ。頑張れば昇進だってできるかもしれない。」でも彼はそうせず、代わりに方程式に引き込まれ、雑誌は開かれることなく放置されました。彼の天才的な創造力は、慎重で現実的で安全なことをするよう自分を律したからではなく、情熱に対する恐れを知らぬ献身から生まれたのです。それは私たちみんな同じです。先に私は、(成績のため、上司のため、市場のために)必要以上に良いことをするのは合理的ではないと述べましたが、ここで言う「合理的」とは、切り離された自己にとって経済的利益があるという意味です。必要という強迫観念から解き放たれてこそ、私たちは美の創造に全力を注ぐことができるのです。不安からくる時間やエネルギーの制約から、やむにやまれず経済的な目的のために、あるいは権力を持つ権威者を喜ばせるために十分なだけのものを作っていては、誰も素晴らしいものを創り出すことなどできません。私たち自身の幸せや充足感のためには、「これで十分」では不十分なのです。誰かのために何かをする理由が、その人や組織が自分に対する力を、生殺与奪の力を握っているからであるというのは、まさしく奴隷制の定義です。

自己信頼は条件を認めません。私たちは、自己決定を安全で取るに足らない非常に限定された人生の分野に向けることに慣れています。「自分の高潔さを尊重するが、職を失わない程度に限る。」「自分の体の声に耳を傾けるが、糖分を欲しがらない場合に限る。」「自分の本当の望みに従うが、金儲けは除く。」自分の望むものを諦めることを勧めているのではなく、私が言いたいのは、本当に望むものは往々にして私たちが思っているようなものではないということです。残念ながら、それを知る唯一の方法は、とにかく手に入れるしかないこともあるのです。やっと富と名声を手に入れたと思ったら、けっきょく本当に望んでいたものとは違うと知る人がどれだけいるでしょうか? でもそうする以外に知る方法はなかったでしょう。欺瞞に満ちた利己心も、本物の利己心への道となりうるのです。

おそらく私たちの文明全体についても同じことが言えます。おそらく私たちが本当は何者なのかという真実に目覚めるためには、少なくとも私たちの文明が崩壊しなければならないでしょう。おそらくその虚しさを悟るために、私たちはその壮大な野望を完遂しなければならないのかもしれません。確かに、〈テクノロジーの計画〉を完遂するのは不可能ですが、個別の問題はコントロールの手法で、つまり技術的対策テクノロジカル・フィックスで屈服させることができます。断片的に見れば、〈テクノロジーの計画〉は大成功です。私たちは魔法と奇跡の領域に到達しました。私たちは神のような力を手にしました。でもどういうわけか、私たちを取り巻く世界は崩壊していきます。しかしテクノロジーに対する私たちの信頼がなかなか薄れないのは、限られた領域ならその成功が否定できないからです。おそらく、技術的対策が詐欺であることを暴露する方法があるとすれば、最も広範な全体的レベルにおいて、取り返しのつかない、紛れもない失敗を経験することです。

第1章に出てきた薬物依存のたとえを思い出してください。「ドラッグ・フィックス(渇望を癒すためのクスリ)」が目先の問題を解決するのに無力なわけではありません。薬物は効きます。退屈だ、不快だ、憂鬱だ、孤独だ。薬物はこれらの感情を(当面の間は)確かに取り除き、たとえ原因がそのままであっても、痛みは根本的には避けられるという嘘を助長します。テクノロジーの場合、この嘘は自然破壊の影響を避けられるというもので、自然のバランスを取り戻すのではなく、過去の破壊に蓋をしながらバランスをどんどん崩してもいいというものです。この嘘は、借金は返さなくていいというものです。この嘘は、世界に私たち自身が作り出した以上の目的はなく、したがってそれを破壊したところで何の影響もこうむらないというものです。この妄想は、神聖なものなど何もないのだから、私たちは臆することなく破壊してもいいというものです。薬物であれテクノロジーであれ、当面の間は効果があるからこそ魅力的なのであって、それがあまりに強力なので、それが引き起こす厄介な問題や、さらにそこから生じる苦痛から、同じ対策によって未来永劫まで逃げることができ、やがては〈最終的解決〉が救ってくれると想像してしまうのです。

薬物の場合、たいていは薬物使用が引き起こす合併症がそこにある痛みを覆い隠す力を圧倒するまで、薬物依存は終わりません。薬物に破壊された生活の痛みが増すにつれ、痛みを麻痺させる薬物の力は弱まり、続発する問題を抑え付けようと、あらゆる資産、あらゆる手段を使い果たし、人生は手に負えなくなり、先延ばしにしていた影響が、折り重なる危機として現れます。依存症患者は「どん底に落ち」、人生は崩壊します。

苦しみの完全な除去へと極まっていく〈テクノロジーの計画〉を可能にしてくれるのは、石炭の力、あるいは電気、あるいは原子力、あるいはコンピュータ、あるいはナノテクノロジーだと夢想するのは、いつかアルコールやコカインが以前の乱用によって引き起こされた痛みを一時的に取り除くだけでなく、その痛みを引き起こしているすべての問題を解決してくれると想像するのも同然です。実にばかげた妄想です。

どの段階の依存症にも、理性だけでなく心で嘘を見抜き、コントロールの企てを放棄する可能性があります。依存症そのものにコントロールの企てを当てはめ、自己否定の態度で取り組むなら、長続きする解決策とはなりません。依存を断つことができるのは、その対策が嘘であったことに気付き、自分が拒んでいるのは自分が求めていないものであって、求めるものを拒んでいるのではないということを心から理解したときだけです。そうでなければ、やがて再発することは避けられません。

本書の目的のひとつは、そのような再発を防ぐことです。危機が折り重なり物事がばらばらに崩壊したとき、個人と集団のレベルで新たな自己感覚が開かれます。私たちはそのことを認識し、時が来たならそれを土台にして次の世界を築きましょう!

本書のもうひとつの目的は、私たちがこの移行に逆らわないよう促すことです。だからこそ、変革の原動力を説明することが重要なのです。第5章で私はこう書きました。「秩序あり安定し永続するかに見える〈コントロールされた〉生活の崩壊よりもっと悪いのは、時間と若さが尽きる時までそれが順調に進んでしまうことです。」長くしがみつけばしがみつくほど、累積される影響も大きくなります。すでに過去数千年間にわたり私たち人類がもたらした損害の累積は、地質学史上6番目の大絶滅を引き起こし、来世紀には戦争、飢饉、疫病によって何十億もの人々が滅亡するのに十分なものです。もし私たちが、社会・精神・自然の資本を枯渇させ続け、コントロールの影響をさらなるコントロールで抑え込もうと必死になるなら、最終的な代償はもっと悪いものになるでしょう。

だからこそ、「できるかぎり自分に優しくしてあげなさい」というメッセージには、自分に優しくするとは何なのかについての新たな洞察が伴っている必要があるのです。私たちの社会における成功の方程式は、災難の方程式なのです。集団レベルだけでなく、個人レベルでも、人生の目的を安全や快適さの求めと引き換えに抵当に入れたなら、最終的には破産に至り、私たちは蜃気楼を追い求めて無駄にした年月を振り返りながら、孤独で病んだまま取り残されるのです。

しかし、私自身、多くの年月を無駄にしてきましたが、私たちが追い求めた代用品が、本当は何の代わりだったのかを、そこから学ぶことができるのなら、その年月がまったく無駄であったことにはなりません。本当に望んでいたのは親密さだけだった。本当に望んでいたのは滋養だけだった。本当に望んでいたのは慰めだけだった。本当に望んでいたのは愛だけだった。本当に望んでいたのは自分の素晴らしさを表現することだけだった。では、テクノロジーの種である人類が目指す本当の目的とは何なのでしょうか? というのも、〈人類の上昇〉とは実際には下降であり、現実そのままの豊かさの切り下げであり、採食の本来の豊かさを放棄することだからです。でもおそらく、それだけではありません。おそらく私たちは何か集団的な目的や運命に向かって手探りで進んでいるのでしょうが、むしろ代用品や見せかけ、妄想を追い求め、際限ない破滅をもたらしたのです。もしかしたら、この探索が私たちを〈分断〉の極みにまで導くのは必然だったのかもしれず、おそらくこれに続く〈再合一〉は、原始的な過去への回帰ではなく、より高い意識レベルでの再合一となるのです。螺旋を描いて一段高みに昇るのであって、一巡して元に戻るのではありません。

このように極端な〈分断〉を必要とする変革のプロセスとは何なのでしょうか? それは私たちをどこに連れて行くのでしょうか? 結局のところ、現在の地球を巻き込んでいる暴力の大波には何か目的が、変革的な意味があるのでしょうか?



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注:
[1] ポール・ル・ジューヌ[Le Jeune, le Pere Paul]. 1897年『Relation of What Occured in New France in the Year 1634(1634年に新フランスで起こったことの関連)』、ルーベン・ゴールド・スウェイツ編『The Jesuit Relations and Allied Documents(イエズス会関係文書)』第6巻に収録。Cleveland: Burrows刊.(フランス語初版1635年) マーシャル・サーリンズによる引用。

原文リンク:https://ascentofhumanity.com/text/chapter-8/

2008 Charles Eisenstein


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