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悼みと贖い

訳者コメント:
 私たちの文明は、地球と生きとし生けるものを傷つけるのと映し鏡のように、消費社会という薄められた形で、私たち自身の中にも同じく傷を作っているので、私たちの文明が過去に犯した罪と向き合うこと、つまり、犠牲となったものたちに対しては「私があなただったらどう感じただろう」といたみ、その傷跡をできうるかぎり癒して償う、つまりあがなうことが、私たち自身の中にある心の傷を癒すために必要なのです。
 これと並んで見えるのが、いま世界に横行する歴史歪曲の動きで、過去に起きた虐殺を、加害者の側から無かったことにして否定します。虐殺が起きる前には必ず犠牲にされる者の他者化と非人間化があります。社会の犯した罪を贖うことを拒否するなら、その他者化を正当化し継続することにしかなりません。麻薬と同じで、問題を解決せずに先送りするだけなのです。
(お読み下さい:訳者からのお知らせ


8.5 いたみとあがな

では、犠牲者はどうなるのでしょう? 私たちの「上昇」の結果として人生を破壊された男たち、女たち、子供たちに何と言いえばいいのでしょう? かつて空を暗くした何十億羽ものリョコウバトの群れをいたむべきではないでしょうか? ドードーオオウミガラスアメリカグリ、そして現在絶滅の一途をたどっている何百万もの動植物を悼むべきではないでしょうか? 生態系の要となるセイヨウニワトコの、樹齢百年を超えるこの素晴らしい茂みが、新しい道路を建設するために引き裂かれ舗装されたことはどうでしょう? 砂漠と化した森はどうでしょう? 白人入植者にスポーツとして射殺された先住民の子供たちは? 薬草医をしていたために魔女として拷問され生きたまま焼かれた女性たちは? 今日の学童たちが、おだてられ、強要され、薬漬けにされて、「子供の王国」だったはずの時間を、机の前で、部屋の中で、列に並んで過ごしているのはどうでしょう? 19世紀イギリスの炭鉱で働いた子どもたちが、炭鉱を出た数十年後に発育不全に陥り、体を壊し、貧窮のどん底に突き落とされたのはどうでしょう? 母乳を奪われた赤ん坊は? 強姦された女たち、拷問され殺された男たち、それを行った兵士たちを見ている子どもたちは? 強制収容所や、アウシュビッツ、グラーグ[旧ソ連の矯正労働収容所]で、過酷な労働の末に死刑を宣告された男たちの言いようのない苦痛について、私たちは何と言えばいいいのでしょう? 共産主義の粛清の犠牲者や、処刑に使った銃弾の請求書を送られた遺族に対して、私たちは何と言えばいいのでしょう? 黒人男性が殴られ、リンチされ、その光景を描いた絵葉書が母親のもとに送られたことは? 飢餓を通り越して体が崩れていく飢えた子供たちに、私たちは何と言えばいいのでしょう? その母たちに何と言えばいいのでしょう? 輸出向け玩具の工場、絨毯工場、チョコレート農園で働く子供たちはどうでしょう? 組み立てラインの無数の労働者たちは、人間の創造性をわずかばかりの機械的動作に落とし込まれ、そうして有毒な素材から生産される空虚な消費者向けのガラクタが、遅かれ早かれ埋め立て地に送られる運命にあるのはどうでしょう? アメリカ先住民に対する裏切りに次ぐ裏切りによって、虐殺された人々、騙し取られた土地、非合法化された宗教、意図的に破壊された文化は? 毒に侵された世界のガン患者たちは? ピラミッド建設で働いた大昔の奴隷たちは? 石を運ぶ生活と、狩猟採集民の生活を比較すれば、私たちがした駆け引きが明らかになります。〈機械〉の最初の記念碑であるピラミッドには、私たちの上昇の愚かさと恐ろしさがはっきりと表れています。人生を労働と交換し、無用の大建造物を建てるのです。

事実を知らないままでは、世界との真の平和を結ぶことはできません。『言葉よりも古い言葉(A Language Older Than Words)』、『』、『収容所群島』、『枯れゆく森(The Dying of the Trees)』、『失われた植物の言葉(The Lost Language of Plants)』、『進化の終焉(Evolution’s End)』、『涙の道(Trail of Tears)』、『未来への反逆(Rebels Against the Future)』などの本を読んでください。私たちの文明が何をもたらしたのか、はっきりと認識しなければなりません。もし私たちが、鉱山や工場を正当化する産業革命の技術ユートピア主義者のように、犠牲者は私たちがより高い状態へと上昇するために必要で価値のある代償だと主張するならば、その代償が何だったのかを明確にしなければなりません。〈分断〉の代償は、悪の極み以外の何ものでもありませんでしたし、この先もあり得ません。

これまで述べてきた〈再合一〉、つまり、より高い意識レベルへの転生は、私たちの長年にわたる〈分断〉の道を解消し、統合することによってのみもたらされるものであり、犯罪者の反省や被害者の赦しが犯罪を正当化しないのと同じように、その悪を正当化するものではありません。それでも、〈分断〉の犠牲者の苦しみを理解する別の方法があります。

何年か前、私のよく知る男性が、家の外に生えていた立派なゴボウを掘り起こさざるを得なくなりました。[アメリカではゴボウを食べる習慣がなく、ここでは単に背の高い多年生の雑草。]以前、彼はそれを掘り起こすように言われ、半ば従いながら、根を残して葉だけ刈り取ったことがありました。今回は彼の妻が見張っていて、ちゃんと根こそぎ掘り起こすかどうか確かめました。その間ずっと彼の心は重苦しいものでしたが、妻の怒りを恐れるあまり、自分の誠意を主張することができませんでした。その日、何かが変わりました。彼の言葉を借りれば、「私たちの結婚は、強く、深い根を持っていたからこそ、幾多の修羅場を乗り越えてきたのですが、今それは消えました。」その植物は何度も芽を出して、そこで成長することを望みましたが、彼は自分の意志を、それも本当の意志ではないのに、自然に押し付けました。彼は自然を管理下に置いたのです。そのゴボウの運命は、ゴボウが破壊される過程は、生態系破壊エコサイド大量虐殺ジェノサイドの最悪の極みと本質的に何ら変わりません。そのどちらにも、それが必要だという認識があり、善意を打ち負かす恐怖があり、罪なきものたちが破壊されるのです。しかしその後、結婚生活の波乱を経て彼が気付いたのは、ゴボウが自分を犠牲にしてしか伝えられなかった重要な教えを授けてくれたことです。それは、境界、誠意、コミュニケーション、そして変化についての教えであり、その教えのためにこそ、ゴボウはそこに生えることを選んだのだと、彼ははっきり感じたのです。

自閉症を治すためのボディ・エコロジーという手法を開発したドナ・ゲイツは、自閉症児の家庭に共通点があることに気づいたと私に語ったことがあります。ワクチン、水銀、抗生物質など、身体の生態系ボディ・エコロジーを乱す直接の要因を超えたところに、自閉症の深い理由がありますが、それは目的であって原因ではありません。彼女が信じているのは、子供たちはある意味このような境遇を選んで生まれてきたのであり、それは両親や家族に大きな贈り物をするためだったということです。もちろん、自閉症を賜物ギフトだと考える親はほとんどいませんが、自閉症児を持つということは、手厚いケアが必要でいつまでも成長しない乳幼児を持つようなものだからです。多くの場合、子供の要求が余暇時間をすべて消費してしまうので、普通の生活は不可能になります。人生の野心は、報酬を考えず他の存在を世話するという要求に道を譲るのです。

最後の一文を読み直してください。これこそが、聖人たちが時代を超えて私たちに授けてきた喜びの処方箋ではないでしょうか。おそらく、この子供たちは人生において何が大切かを理解する助けとなるため転生を選んだ崇高な魂なのです。ドナが見出したのは、順風満帆な生活を送っていた家庭に自閉症が偏って多いことで、そのような家庭では、自閉症児を持つことがなければ、現代社会の差し出す目標や優先事項の虚しさが、少なくとも時と若さの尽きるまで、明らかになることはなかったでしょう。自閉症など「知的発達の遅れた」子どもの多くは、紛れもなくスピリチュアルな性質を持っていて、「特別」という表現は単なる婉曲表現などではありません。自閉症が治ってもこの性質は残り、彼らはしばしば驚くほど無私無欲で、満足し、思いやりがあり、愛情深く、感情的に成熟しています。ある意味で、彼らは現代の出産方法、医療行為、公害、無知な食生活による罪のない犠牲者ですが、より高い視点から見れば、彼らは私たちの社会の癒しという崇高な目的を果たしているのです。

私たちはしばしば、不幸は過去の悪に対する罰のようなものだと考えますが、これは洋の東西を問わず宗教思想に通底するテーマです。東洋には、現在の苦しみは過去の悪い行いによって生じた悪業あくごうの表れであるという考え方があり、西洋には、ヤハウェがソドムとゴモラの都をその罪のために打ち倒し、ニネヴェをその「邪悪」のために脅すというイメージがあります。しかし、最も苦しむのは罪なき者であることが多いという自明の事実によって、前世から原罪まで、将来の再生から天国と地獄まで、あらゆる種類の神学を解釈し直すことが必要になります[9]。小児がん病棟にいる、かわいい無邪気な赤ん坊たちをどう説明すればいいのでしょう? 盲目的で非情で無目的な偶然として説明したくなければ、犠牲者の無実を別の方法で説明する必要があります。おそらくこの子たちは偉大な魂で、私たちの文明が罪のない犠牲者を大量に必要とするのに応えているのです。「私が行きます」とこの子たちは言うのです。「私なら耐えられます。この経験をする準備はできています。」

私たちは民族全体、文化全体、あるいは種全体を、同じように見るかもしれません。私たちの文明が衰退していくのは、これまで犯してきた暴力の当然の報いとして理解できるかもしれませんが、北米の(あるいは、どの大陸を選んでもいいのですが)先住民の美しい文化が破壊されていくことを、どう説明すればいいのでしょうか? 神、人間、自然に対するどのような罪が、この暴力的な絶滅を正当化できるでしょうか? 確かに、一部の部族は好戦的で部外者には友好的でないと思われていましたが、ヨーロッパ人と初めて接触したとき、多くは子供のような信頼と気前の良さで人々を驚かせました。どの部族も、最も好戦的な部族でさえも、〈機械文明〉の仕業しわざである人間と環境の破壊に匹敵するようなことを、何も行っていません。がんで死にゆく3歳児も本当は同じように自業自得なのだと、私たちは説明しようとするかもしれません。そうではなく、目的をもった宇宙を信じるなら、その答えは別のところに求めなければなりません。

私が提示する答は、私たちが破壊してきた民族、文化、生物種、生態系の全てが一緒になって、「分断」という私たちの文明の大いなる病を癒す薬になるということです。この病の本質は、美しいものを破壊することです。このような生命の落とし込みが意味するあらゆる暴力によって、現実をデータの束に変換し、生命を金銭に変換するのです。分断とその先に高い次元で再合一するというプロセスにおいて構造的に必要なのが、すでに分断のない状態で生きている無私無欲の存在なのです。ゴボウの根のように、自閉症児のように、彼らが担っているのは気高く大らかな役割です。絶滅させた文化、生物種、民族が、私たちに教えと薬を授けたのです。

私たちが破壊した文化は跡形もなく消え去ったわけではありません。私たちが破壊したものは全て、個人的なレベルであれ文化的なレベルであれ、私たち自身の精神にその痕跡を残し、それが意識的な体験に現れると、自動的に将来の薬となるのです。誤解しないでください。犠牲者は結局のところ自ら志願したのだからといって、私は加害者を免責するつもりはありません。また犯罪や悲劇の大きさを軽視するつもりもありません。それでも、彼らの犠牲は無駄ではなかったのです。

全ての暴力行為は加害者に痕跡を残すので、加害者は最終的に自分が加えた暴力と同等の暴力を受けることになります。おそらくこれが理由で、イエスは自分を苦しめる者たちを前にしてこう言ったのです。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのか分かっていないのです。」イエスが理解していたのは、彼らが置かれている状況と、彼らが平和へと到達するまでに辿らねばならない自責の念の大海のことでした。語源的に言えば、自責の念(remorse)とは「噛み返す」という意味であり、彼らがイエスにしたことを、彼ら自身にもしていることを、イエスは見抜いていました。心的外傷後ストレス障害(PTSD)を患う兵士の研究によれば、最も深刻な障害を持つのは、暴力を目撃したり受けたりした兵士ではなく、暴力を犯した兵士の方です。「参加した戦闘が低強度でも誰かを殺した兵士は、高強度の戦闘を経験したが誰も殺さなかった兵士よりも、PTSDの割合が高かった」のです[10]。研究者のレイチェル・マクネアはこう言います。「私たちが殺戮を行ってきたにもかかわらず、人間の心は殺すようにはできていません。殺すことで、私たちの一部は病みます。殺すことは人間の本性に反しています。[11]」

莫大な力を加えなければ、人間を殺人者にすることはできず、森林を伐採したり、土地を荒らしたり、罪のない人々を殺したりするような人にすることはできません。私たちが普通にしていることをするためには、生まれつき持っている全体性ホールネス、魅了され、繋がる能力、生物愛バイオフィリアといった状態から引き離される必要があります。私たちの文化がもたらす凶悪な暴力を犯すには、たとえ大量消費のような控えめで間接的な形であっても、まず私たち自身をずたずたに切り刻む必要があります。私たち加害者は、何千年もかけて作られた精神破壊マシンの最終産物であり、それが私たちを傷つけ打ちのめして、ほとんど原形を留めぬほどにしてしまったのです。私たちの癒しは犠牲者を通して起こるのであり、私の友人の癒しがゴボウという植物を破壊し、そして悼むことを必要としたのと同じです。

私たちの〈分断〉、破滅した全体性ホールネス、〈堕落〉の状態から、必然的に行き着くのは暴力行為です。暴力は傷ついた魂の症状です。そしてこの病の治療薬は、まさにその暴力の結果なのです。私たちがしてしまったことを認めて悼むプロセスそのものが癒しなのです。傷ついた人間から暴力の機会を遠ざけるだけでは、持続可能な解決策にはなりません。何かがそれを表に出さねばならず、やがて何かがそうするでしょう。

これは、私がこれまで引き起こしたすべての痛みから自分を免責し、「まあ、私の傷がその原因だったのだし、私の回復のために必要だったんだ」と考えて正当化できるということでしょうか? いいえ、「私は何てことをしてしまったんだ?」という気づきによってのみ、癒しはもたらされます。自責の念こそが癒しとなります。したがって文化のレベルでは、この文明が犯した罪や黒い過去を直視することが、私たちの癒しとなります。苦い事実を否認して生きることは、さらなる暴力を永続させ、分断と苦痛という私たちの状態を長引かせるだけです。私たちが地球に、その文化と人々に何をしたかを認識することで、いま真実が明らかになりつつあります。これもまた、〈再合一の時代〉が近いことを示す兆候です。確かに、社会の多くの層は今も否認を続け、自分たちが世界に与えた傷跡をそのままにして生きることを選び、世界と自己、我と汝が、本当は別々ではないことを知らず、どんなにコントロールしたところで悪影響が最終的に加害者まで行き着くのを食い止められないことを知りません。否認が永遠に続くことはありません。膿んだ傷の痛みを永遠に隠すことはできず、痛みが続くとやがて真実は無視することも否定することもできなくなります。

昔々、〈偉大な魂〉が世界に語りかけました。〈偉大な魂〉はこう言いました。「世界は病んでいる。何百万もの人々が人生から自らを切り離し、その苦しみは年を追うごとに増している。間もなく彼らは自らを、そして善なるもの全てを完全に破壊するだろう。彼らには薬が必要だが、警告しておく。彼らは飲む薬のほとんどを、最も恐ろしい形で破壊する。薬になる用意ができている者は誰だ?」部族の魂たちは言いました。「用意はできています。」森の精霊たちは言いました。「用意はできています。」 カエルの霊たちが言いました。「用意はできています。」そして地球が言いました。「用意はできています。」

マルティン・プレヒテルはかつてこう言いました。「セコイアは自分たちの絶滅を全く不幸とは思っていない。」また私の知る別の男性は、LSDの影響下でセコイアと交わした長い会話のことを語っています。セコイアが彼に言ったのは、自分たちを切り倒す人たちを悲しく思い、その者たちが自滅する前にそれをやめるよう望んでいるということでした。セコイアが知っていたのは、このような壮大な存在を単なる金のために破壊するなら、いずれ膨大な代償を払わされるのは避けられないということです。

破壊され、切り倒され、舗装され、絶滅させられ、強姦され、投獄され、奴隷にされた全ての生命と美は、世界に偉大な贈り物ギフトを与えたのです。私は時々思うのですが、[強制移住されるインディアンが通った]〈涙の道〉という名は、チェロキー族が流した涙にちなむものではなく、彼らは涙など流さず、むしろ打ちのめされることなく毅然として通り過ぎるのを見に集まった大勢の白人の涙にちなんで付けられたのです。そのイメージはアメリカ国民の精神に深く刻み込まれているので、私たち自身が分断を癒し、このような犯罪を犯すことを可能にした冷酷な魂を和らげるまで、決して私たちの心が休まることはないでしょう。個人だけでなく、国家や文化も集団的な犯罪によって自分自身を傷つけるので、カルマは単に個人的な現象ではありません。国家の救済は、私たちが自らの過去の醜悪さを直視し、鞭打たれた奴隷、リンチされた男、辱められた子供たちの痛みを映し鏡のように感じたときに、初めて訪れるでしょう。いずれにせよ、私たちはこの全てのことに涙しなければならないのです。

〈分断〉の犠牲者の苦しみは決して無駄ではありません。分断から暴力が生まれ、それが加害者の魂に響いて分断を癒すための種を形作るのです。

これが被害者であるあなた方にとって(被害者は私たち全員であり、同時に加害者でもありますが)、少しでも慰めになれば幸いです。ふつう最終的な癒しと救済は私たちの目には見えませんが、じつはその苦しみの一部は、そこに目的が無いように見えることなのです。被害者もまた、完全な疎外感、すべての苦しみに内在する孤独を体験します。思い浮かぶのは十字架にかけられたキリストの姿です。「父よ、なぜ私をお見捨てになったのですか?」この原型的な物語の中で、彼を苦しめた者たちを駆り立てたのと同じ〈神〉からの分断、つまり、現在と将来の私たちの全存在からの分断の、その極みを贖罪者は経験するのです。セコイアもゴボウも、殺され、奴隷にされ、破滅させられた者たちも、苦しまずに済むのだと思ってはなりません。この世の苦しみを過小評価してはなりません。その一人一人がキリストに加わって、私たちが完全な存在となれるように、究極の犠牲を払うのです。そして読者の皆さんも例外ではありません。神聖な目的のためにこの涙の谷に生まれた崇高な存在として、自分自身を愛し、認めてください。あなたの痛みはどれ一つとして無駄ではなかったのです。

いずれにせよ、私たちはこの全てに涙しなければなりません。人類、国家、文化の犯罪に当てはまることは、私たち個人にも当てはまります。私たちの気高さを認め、私たちの傷を優しくいたわるのと同じように、もし私たちが完全になろうとするなら、私たちの分断から生じた暴力、傷跡、〈他者〉の破滅のことも悼まなければなりません。全ての生きとし生けるものが自由になるまで輪廻に留まるという菩薩道は、尊い犠牲以上のものであり、根本的な必然なのです。

分断の人生から来る痛みを完全に取り込むことが、私たちを全体性ホールネスへと駆り立てます。いずれにせよ、その痛みを感じることになります。私たちは、どんな犠牲を払っても渇望を癒すためのクスリを手に入れようと決心する中毒者のように、それがやってくるのを待つか、それとも自分から進んで行くかのどちらかです。おそらく、コントロールすることの虚しさ、結果をいつまでも先延ばしにすることの虚しさを知ることができれば、それに立ち向かう勇気を持つことができるのです。依存症患者が本当に回復に向かうのは、どん底に落ちてからだと言われていますが、「どん底」が人によって違うこともまた同じように真実です。ある時点で依存症患者は、打ち砕かれた人生や、引き裂かれた家族、病んだ身体、破滅したキャリアの痛みから逃れるのはもうやめようと決意します。彼は積もり重なった苦悩を感じ、失われたものを悼み、償おうとします。時には、友情も、富も、健康も、全てが失われ、クスリのためにお金に換えられる前に、この転換に成功することもあります。おそらく私たち人間も罪をあがない、全ての美、全ての善、全ての富、全ての命をむさぼり尽くす前に、破壊してきた世界に対する償いを始めるのです。


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注:
[9] 実際、私はこれらすべてを信じているが、その条件として、輪廻転生や死後の世界といった概念は、直線的な時間や個別の自己という文脈の外では、全く異なる意味を持つのだ。
[10] この発見はレイチェル・マクネアによるもの, 『Yes!』誌, 2005年冬号, p. 22.
[11] 同, p. 23

原文リンク:https://ascentofhumanity.com/text/chapter-8-05/

2008 Charles Eisenstein


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