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【聖なる経済学】 誰がゴミを片付けるのか

訳者コメント:
私はクソ仕事をするためにここにいるのではない。「そんな仕事は誰も本当に望んでいないし、いつか誰もしなくなるでしょう。」という前節の言葉を受けて、この節は始まります。お金がないから、生きていけないから働くという奴隷経済の中に、実は私たちは生きていて、生存不安の脅しがなくなり、環境影響の見えないコストを全て価格に含めたなら、そもそもクソ仕事など存在しなくなるのです。


誰がゴミを片付けるのか

それは現実的な見解でしょうか。コロナ前の時代に私が書いた、ちょっとした考察を皆さんと共有したいと思います。

奴隷の世界
 私は今、大きな空港でこれを書いています。この空港に関連する仕事には何千人もの人々が従事していますが、実際に人間らしい仕事と言えるものはごくわずかです。
 私はホテルのシャトルバスで空港へ向かいました。道中、ペルー人移民の運転手に話したのは、週末に行った講演のことや、より美しい世界への私のビジョンのことでした。そして例として、「あなたは一日中空港とホテルの間を行ったり来たりしていますよね。きっと『私はこんなことをするためにこの世に生まれてきたのではない』と思う瞬間もあるでしょう」と私は言いました。
 「そりゃあ間違いないですよ」と彼は言いました。
 同じことを考えずにいられなくなるのは、空港の売店でレジ係が購入品を入力し、お釣りを渡して「ありがとうございました、良い一日を」と言うのを見ているときです。また、無言で無愛想に、無表情でゴミ箱からゴミ箱へと移動し、ゴミをカートに捨ててビニール袋を交換する男性を見ているときです。人間が一日中このような作業をしなければならないような世界は、一体どんな世界なのでしょうか。そして、このような光景に憤慨しないなんて、私たちは一体何者になってしまったのでしょうか。
 チケットカウンターや保安ゲートで働く男女の仕事は、習得に数時間ではなく数日から数週間かかるような、やや刺激的な仕事ではあるものの、人間の能力や創造性を十分に引き出すには程遠いものです(ただし、他者への奉仕、人々の幸福、人との出会いなど、他の理由で満足感を得られる場合もあるでしょう)。客室乗務員も同じです。パイロット、航空管制官、整備士だけが、人間の学習能力を総動員して何ヶ月以上も取り組まないと習得できないと思える仕事をしています。
 私にとって奇妙なのは、これらの仕事の中で最も過酷で残酷な仕事が、最も低い賃金しか受け取っていないことです。経済的な理由は理解できますが、心のどこかでその理屈に反発し、荷物係や運転手、レジ係はパイロットよりも高い給料をもらうべきだと考えてしまいます。
 こうした下働き労働者がいなければ、この空港も、そしてこの社会も、現在の形では機能しないでしょう。私の旅行は彼らの労働に支えられていますが、彼らはその労働に対して、かろうじて生き延びるだけの賃金しか受け取っていません。
 では、なぜ彼らはそのような仕事に同意するのでしょうか。確かなのは、一生をかけてそれをしたいという願望からではないことです。もし彼らに理由を尋ねることができれば、それを彼らが侮辱に感じて口を閉ざすことがなければ、「やらざるを得ないんです。生活していかなければならないし、これが私が見つけられた最良の仕事なんです」と答えるでしょう。
 今日の私の旅は、人々が生き延びるために、やりたくない仕事をしているからこそ実現しているのです。それが「生計を立てる」という意味です。生存の脅威とは、本質的な意味では、頭に銃を突きつけられているようなものです。もし私が死の脅しを使ってあなたに労働を強いるなら、あなたは私の奴隷です。空港だけでなく、組立ライン、労働搾取工場、農園、そしてほとんどあらゆる場所で、多くの人々が人間の尊厳に反する仕事を強いられている限り、私たちは奴隷社会に生きているのです。奴隷の労働から得られるものはすべて、耐え難い精神的代償を伴います。痛みを伴う空虚感や不誠実さが心の奥底に生まれ、人々の目をまっすぐ見ることさえ恥ずかしくなってしまうのです。
 この現実に、どうしようもないと肩をすくめ、奴隷社会に生きることを甘んじて受け入れられるでしょうか。私は、すべての男女の目を直視できるようになりたい。彼らの屈辱から私は何の利益も得ていないという確信が、そこにあってほしいと思うのです。

私にはもっと自分本位な動機もあって、奴隷の世界には生きたくありません。奴隷労働の産物には、その精神が宿っているからです。強制徴用された者の他に、今日の私たちを取り巻く粗悪で、魂がなく、有害で、醜く、安っぽい品物や建物を作る人などいるでしょうか。奴隷の他に、サービスを提供する時にこれほど怒りに満ちた不愉快な態度をとる人がいるでしょうか[11]。私たちの「商品やサービス」の大部分を作っている人たちは、お金だけのためにやっているのであり、「やらなければいけない」からという理由だけで仕事をしているのです。私が生きたいと望むのは、自分の仕事に情熱を注ぐ人々が作った美しい物であふれる世界です。

労働は忌まわしいものだという偏見を植え付けられた人なら、誰も強制的に働かされることのない制度を私が提案しても、そんなものは甘い考えだ思うでしょう。誰が食料を栽培するのでしょう。誰がゴミを片付けるのでしょう。誰が道路を掃除するのでしょう。誰が工場で働くのでしょう。私は、不快な仕事がすぐに廃絶されると言うわけではありません。ただ、そういう仕事はどんどん減っていくと言っているだけです。すでに、政治家たちが雇用という形でより「多く」の仕事を作り出そうと最善を尽くしているにもかかわらず、また私たち自身が消費を伸ばし続けようと最善を尽くしているにもかかわらず、ありつける「仕事」は減っているのです。

しかし、誰がゴミを片付けるのでしょうか。私たちは、最も不運な人々が最悪の仕事をさせられる社会に甘んじなければならないのでしょうか。お金による生存圧力によって、自分にふさわしくない仕事を強いられる人がいる社会に甘んじなければならないのでしょうか。一部の屈辱的な仕事は必要不可欠であり、誰かがそうした仕事をせざるを得ない(そうしなければホームレスになり飢える)ような経済が必要だと認めるならば、私たちは本質的に奴隷制、「やるか死ぬか」に同意していることになります。ならば、細かい分業体制を備えた現代経済を、トイレ掃除人やゴミ収集員といった職業が必要ないものに変えていくことは可能でしょうか。屈辱的な労働の典型であるゴミ収集を例に、この問題を詳しく考えてみましょう[12]。

そもそもなぜゴミ収集員が必要なのでしょうか。なぜ収集すべきゴミがこんなに多いのでしょうか。それは、使い捨てのガラクタを大量に消費するから、生ゴミを堆肥化しないから、再利用やリサイクルされない包装材を大量に使っているからです。使い捨て製品や包装材が可能なのは、それらが人為的に安価だからです。包装材を作るための資源採掘や加工にかかるコストのほとんどは外部化されており、埋立地や焼却炉での廃棄コストも同様です。第10章で提案したように、これらのコストが内部化されれば、使い捨て製品の生産ははるかに非経済的になり、詰め替え可能な容器のようなものが、経済的な論理によって環境面での配慮を強化できるようになるでしょう。同じ考えが生ゴミの堆肥化についても当てはまります。遠隔地の巨大農業に対する隠れた補助金(輸送費、水、農薬など)がなくなると、家庭菜園をする経済的な動機が生まれるでしょう。これほど大量のゴミを出す理由など、実際には存在しないのです[13]。

ゴミ収集が将来たどる道は、工場労働や清掃業、スーパーマーケットのレジ係、あるいは今日の世界を支えている、しばしば不快で屈辱的な職業の進化とは、細部において異なるものになるでしょう。これらはそれぞれ異なる方法で縮小あるいは消滅するでしょう。小規模な多作物農場は、腰をかがめて行う重労働の多くをなくします。小さな宿屋、B&Bベッドアンドブレックファスト、そしてカウチサーフィング〔旅費を節約しながら現地の生活や文化に触れるための、一般家庭のカウチ(ソファ)や空き部屋を利用する短期滞在〕は、職業としてのホテル客室係の必要性を減らします。テクノロジー、機械化、ロボット工学が、組立ライン労働をだんだんと不要なものにします。数は少ないけれど耐久性のある製品を生産する機運が高まれば、製造業は減り、メンテナンスと修理作業が増えます。これは、はるかに単調作業が少なく、やりがいのある仕事です。仕事は必要に迫られてするものではなくなり、心が求める仕事以外には応募者がなくなるので、工業デザインはコストではなく仕事の退屈さを最小限に抑えるという新たな動機を得るでしょう。

自ら進んで8時間も組み立てラインで働いたり、延々と続くトマト畑を収穫したり、一日中トイレ掃除をしたりする人はほとんどいないでしょうが、そうするのは他に選択肢がないと感じているからです。ベーシックインカムはすべての人に選択肢を提供するものなので、経済に求められる進化は、そのような役割をなくすことです。ですが完全になくす必要はありません。皿洗い、トイレ掃除、かがみ作業は、長時間続けさえしなければ、退屈で屈辱的なものにはなりません。私は兄の小さな有機農場や小さな建設会社で働いたことがあります。小規模で様々な作業をしていたので、どの仕事も苦痛ではありませんでした。確かに、ジャガイモを3列掘ったり、200本の支柱に溝を切ったりといった退屈な作業もありましたが、これらは何日も続くような大変な作業ではなく、たいていは冗談を言い合ったり、物思いにふける機会さえありました。1日数時間ゴミ収集をしたり、皿洗いをしたり、ハンバーガーをひっくり返したり、ホテルの部屋を掃除したり、それを3ヶ月や半年やるのは、それほど苦痛でもありません。実際、人生には、単調作業に身を委ねて休息を取りたい時もあります。私自身も、単調な肉体労働が心の癒しになった時期がありました。

今日「仕事」と呼ばれているものが大幅に減少したからといって、私たちが暇を持て余し、空虚な快楽に時間を費やすようになるわけではありません。先に述べたように、人間のニーズは有限ですが、ある意味で無限とも言えるニーズも確かに存在します。自然とのつながりを求めるニーズ、愛し、遊び、創造するニーズ、人を知り、知ってもらうニーズ。これらは、物を買い足すことでは決して満たせません。私たちは無限なものへのニーズを満たそうとするために、有限なものをますます蓄積しているのです。それはまるで天まで届く塔を建てようとするようなものです。

非貨幣の領域には、定量化できないものすべてが含まれます。現代社会は定量化できるものが溢れかえり、定量化できないものが不足している状態にあります。巨大だが醜い建物、大盛りでも栄養価のないカロリー、どこにでもあるが低俗な娯楽などです。貨幣の領域が縮小すれば、きっと爽快な変化になると思いませんか。

衣食住のような有限のニーズは定量化可能なニーズであり、したがって商品、ひいてはお金の領域に自然に収まります。私たちはそれらを容易に満たすことができ、実際、テクノロジーのおかげでますます容易に満たせるようになっています[14]。有限のニーズを満たすために働く労力がますます少なくなった結果、人間の時間とエネルギーのますます大きな割合が無限のもの、つまり芸術、愛、知識、科学、美に費やされるようになるのは当然のことです。したがって、人間の活動のうち、お金の領域、仕事の領域に属するものの割合がますます小さくなるのも当然のことです。

これまで私たちは、無限のものを有限にしようと努めてきた結果、芸術、愛、知識、科学、美といったあらゆるものを貶めてしまいました。私たちはそれらを売ってお金に換えてしまったのです。商業的な応用が科学を導くとき、私たちは科学ではなく、その偽物、つまり利益に奉仕する疑似科学を手にすることになります。芸術が金銭に屈服するとき、私たちは芸術ではなく「芸術」、つまり自意識過剰な自己の戯画を手にすることになります。同じような倒錯が、知識が権力に従属するとき、美が商品を売るために利用されるとき、富で愛を買おうとするとき、あるいは愛が富を得るための手段となるときにも生じます。しかし、売り渡しの時代は間もなく終わります。

貨幣経済の長い上昇は終わりを迎えつつあり、私たちの仕事や生活における貨幣の役割も変化し、長年抱いてきた直感、恐怖、制約を覆します。古代ギリシャ時代から、貨幣は普遍的な手段であると同時に普遍的な目的であり、限りない欲望の対象であるという役割を高めてきました。もはやそうではありません。その衰退は始まっており、私たちは貨幣では届かない領域にますます多くのエネルギーを注ぐようになるでしょう。余暇の増加、あるいはもっと正確には、愛のために行う労働の増加は、貨幣経済の衰退と密接に関連しながら進みます。人類は成熟期に入りつつあります。肉体的な成長が終わり、私たちが与えたいと望むものに目を向けるようになるのです。


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注:
11. こうした仕事においても人々がしばしば友好的で感じが良いという事実は、人間の精神の尽きることのない高潔さの証です。
12. 屈辱的とは、私たちの認識においてのことです。他者に暴力を振るわない仕事であれば、尊厳、遊び心、愛情をもって行うことができます。
13. ゴミという現象自体が比較的新しいものです。1970年代初頭に台湾の農村で育った私の前妻が覚えているのは、彼女の村にはゴミ収集車など存在しなかったことです。あらゆるものが再利用され、リサイクルされ、堆肥化され、焼やされていました。今日でも、ペンシルベニア州ハリスバーグでは、リサイクルや再利用を支えるインフラがほとんど整備されていないにもかかわらず、私の家庭から出るゴミの量は近隣の約4分の1です。ですから、一世代後には、現在必要なゴミ収集量の10分の1程度で済むようになると予想するのは、全く妥当なことだと思います。
14. 今日、何十億もの人々が生活必需品さえも不足しているのは、私たちが彼らのニーズを満たすことができないからではなく、していないからです(第2章参照)。その理由は、人為的希少性を生み出し、労働力と資源の流れを誤った方向に導く経済制度にあります。

原文リンク:https://sacred-economics.com/sacred-economics-chapter-14-the-social-dividend/

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