推しの光、私の影 最終話
最後の温もり
薬を手に取る前に、カーテンを少しだけ開けた。
細い光が、床に落ちる。
埃が、ゆっくり舞っていた。
あと一度だけ。
それだけは、決めていた。
机の上の睡眠薬を見る。
小さな白い粒。
これを飲めば、また美月に会える。
そう分かっている自分が、少し怖かった。
会えば、壊れそうな気がする。
会わなければ、美月はあの場所に残るのかもしれない。
どちらも、怖かった。
それでも、指は薬を摘んでいた。
水で飲み込む。
苦さが、喉を通る。
やがて、部屋の輪郭がゆっくりと溶けていく。
音が遠くなる。
意識が沈んでいく。
――また、あの場所へ。
気がつくと、控え室だった。
前回と同じ明かり。
壁際に並んだ衣装。
静かな空気。
そして、かすかに残る甘い髪の匂い。
美月が、最初からそこにいた。
私服のまま、椅子に座っている。
私を見ると、小さく笑った。
その笑顔は、前より少しだけ弱かった。
「 来てくれた 」
「 ……うん 」
美月はゆっくり立ち上がり、私の前まで来た。
「また会えるよね?」
その言葉が、胸の奥に深く入った。
会える。
そう言ってしまいたかった。
何度でも会いたい。
この場所に来たい。
美月のそばにいたい。
でも、頭の奥であの声がする。
――次は、戻れなくなる。
「 美月 」
「 うん?」
私は、美月の目を見つめた。
「 私、ずっと応援してる 」
声が少し震えた。
「 大好きです 」
美月は黙って私を見つめている。
「 歌も、笑顔も…… 」
一度、息を吸う。
「 ここにいる美月も 」
美月は目を細めた。
「 ありがとう 」
少し間が空いた。
「 君が来てくれるとね……私、自分を思い出せるの 」
「 自分を?」
「 うん 」
美月は胸元に手を置いた。
「名前とか」
少し間を置いて、
「 舞台とか……終わったあとの静けさとか 」
私は何も言えなかった。
美月は部屋を見回した。
「 ここ、ずっと同じなんだ 」
「 ……同じ? 」
「 ライブが終わって、また始まって 」
美月は少し寂しそうに笑った。
「 歌って、笑って……また最初に戻る 」
「 同じ夏のまま 」
その言葉に、胸が痛くなった。
「 閉じ込められてるみたい……って言ってたよね 」
「 うん 」
美月は小さく頷いた。
「 たぶん、本当にそうなんだと思う 」
その瞬間。
視界の端で、白い光が揺れた。
――あの存在。
部屋の隅に、白い輪郭だけの“何か”が立っている。
今回は、最初から近かった。
『 最後だ 』
頭の中に、声が落ちる。
『 想いを深く交わせば、二度と戻れない 』
私は息を呑んだ。
『 何もせずに去れば、彼女はここに残る 』
背筋が冷たくなる。
美月は、白い光には気づいていない。
ただ、私だけを見ている。
「 ねえ 」
美月が手を伸ばした。
指先が、私の袖に触れる。
「 また来て 」
来たい。
何度でも。
このまま夢の中で会い続けたい。
でも。
美月は、同じ夏を繰り返している。
私がここへ来るたび、少しずつ現実を思い出している。
私は、袖に触れた指をそっと離した。
「 美月 」
「 ……なに?」
「 もう、繰り返しじゃなくていい 」
美月が、驚いたように私を見る。
「 私は、ずっと応援してる 」
声が震える。
「 現実の私も 」
少しだけ息を吸う。
「 ここにいる私も 」
美月の瞳が揺れた。
「 だから―― 」
胸の奥が痛い。
それでも、言った。
「 もう、ここで待たなくていい 」
言葉にした瞬間、胸の奥が熱くなった。
これは告白ではなかった。
私が美月を自分のものにするための言葉でもない。
ただ、ファンとして伝える。
最後の応援だった。
白い光が、一気に強くなる。
世界が、きしんだ。
美月の目に、一筋の光が走った。
それでも、美月は笑った。
「 ありがとう 」
その声は、とても優しかった。
「 君がいてくれて、嬉しかった 」
床が遠のいていく。
壁が白い光に溶けていく。
美月の手が、空中で止まる。
「 待って――!」
私も手を伸ばした。
けれど、もう届かない。
美月は首を横に振った。
「 大丈夫 」
その笑顔は、初めて会ったときと同じだった。
「 もう、いける気がする 」
十七歳の美月が、光の中へ消えていく。
その直前。
美月の唇が、ほんの少しだけ動いた。
何かを言った。
名前のような。
呼びかけのような。
けれど、聞き取れなかった。
『 戻れ 』
あの声が響いた。
強い光が、すべてを飲み込んだ。
目が開いた。
薄暗い天井。
埃っぽい空気。
いつもの部屋。
夢は終わった。
……はずだった。
私は右手を見た。
温もりは、もうなかった。
あの紙コップの温度も。
美月の指先の感触も。
甘い髪の匂いも。
すべて消えていた。
それなのに。
胸の奥だけが、静かに熱かった。
私はゆっくり起き上がった。
そして、カーテンを両側へ開けた。
朝の光が、部屋に入ってくる。
眩しい。
長いあいだ忘れていた明るさだった。
スマホを手に取る。
美月の名前で検索した。
古いライブ映像。
今の映像。
たくさんの動画が並んでいる。
私は、二十五年前のライブ映像を開いた。
十七歳の美月が、ステージの上で笑っている。
『 みんな、大好きー! 』
懐かしい声。
懐かしい笑顔。
何度も見てきた映像だった。
私は、最後まで再生した。
ライブが終わる。
画面が暗くなる。
スタッフロールが流れ始めた。
私はスマホを伏せようとした。
そのとき――。
画面の中央に、一瞬だけ白い文字が浮かんだ。
――紙コップの君へ。
「 ……え? 」
息が止まった。
私は画面を見つめた。
けれど、文字はもう消えていた。
スタッフロールだけが流れている。
慌てて巻き戻す。
同じ場所で止める。
再生する。
何もない。
もう一度。
何もない。
何度繰り返しても、あの文字は現れなかった。
私はしばらく、画面を見つめていた。
気のせいだったのかもしれない。
夢の続きだったのかもしれない。
疲れていただけなのかもしれない。
それでも。
私は、少しだけ笑った。
「 ……美月 」
誰も答えない。
ただ、画面の中で美月が笑っている。
私はスマホをそっと伏せた。
会いたい。
その気持ちは、消えていない。
でも、もう胸を締めつけることはなかった。
「 また、会えるといいな… 」
今度は、夢の中で会いたいとは思わなかった。
現実の世界で。
遠くからでもいい。
ただ、美月が笑っているのを見られれば、それでいい。
そう思った。
私は窓の外を見る。
人の気配。
車の音。
昼に向かう光。
現実の音が、部屋の中に流れ込んでくる。
もう大丈夫。
――そう言い切ることは、まだできない。
四十二歳の私は、まだこの部屋にいる。
何も変わっていない。
それでも。
カーテンは開いている。
部屋に光が入っている。
右手は、もう熱くない。
胸の奥には、小さな光だけが残っている。
推しの光。
私の影。
そのあいだで、私はもう一度だけ呟いた。
「 ……ありがとう! 」
会えない。
結ばれない。
それでも、愛おしく想い、推すことはできる。
それだけで、今は十分な気がした。
――そして、この物語の「 私 」は、
もしかしたら、今、これを読んでいる あなたなのかもしれない。
――紙コップの君へ。
あとがき
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。
全4話、最後まで付き合ってくださり感謝します。
誰かの夜に、小さな光が残っていたらほんまに嬉しいです。
推しの光、私の影 第一話
推しの光、私の影 第二話
推しの光、私の影 第三話
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