推しの光、私の影 第三話
「 揺れる境界 」
指先の温もりが、消えない。
朝になっても。
昼になっても。
右手だけが、ほんのり熱を持っていた。
夢の残り香のようだった。
あの紙コップを握った感触。
美月の指先が触れた瞬間の温もり。
何度思い返しても、胸の奥がざわついた。
私は古いライブ映像を開いた。
二十五年前の夏。
十七歳の美月が、ステージの上で汗を浮かべながら笑っている。
『 みんな、大好きー! 』
同じ声。
同じ笑顔。
何度も見てきた映像だった。
けれど、その日は何かが違った。
画面の端が、ほんの一瞬だけ歪んだ。
「 ……え? 」
私は画面を見つめた。
美月の視線が、こちらを向いた気がした。
まるで、画面の向こうにいる私を見ているように。
そして、次の瞬間。
観客の波の奥に、一瞬だけ人影が重なった。
チェックのシャツ。
デニムスカート。
――十七歳の私。
「 ……嘘 」
慌てて映像を止めた。
部屋が静かになる。
時計の秒針だけが、小さく響いていた。
私は巻き戻した。
けれど、そこにはもう何も映っていない。
何度確認しても同じだった。
……おかしい。
ただの夢では、もうない。
そう思った。
でも、すぐに打ち消した。
疲れているだけ。
薬のせいかもしれない。
そう思おうとしても、胸のざわつきは消えなかった。
夕方。
カーテンの隙間から、細い光が部屋に差し込んでいた。
私はその光を眺めながら、何度も同じ映像を見返した。
止まる位置は、いつも同じ。
美月がこちらを見る瞬間。
そして、十七歳の自分が映る瞬間。
私は画面を閉じた。
「 ……会いたい 」
自分でも驚くほど、小さな声だった。
でも、その言葉を口にした途端、胸の奥にあったものがはっきりした。
どうしようもないくらいに…
会いたい。
もう一度。
あの場所へ…
でも――
このまま会い続けたら、何かが変わってしまう。
そんな予感も、確かにあった。
夜。
私はベッドの脇に座り、睡眠薬を手のひらに乗せていた。
小さな白い粒。
昨日までは、「 眠るための薬 」だった。
今は違う。
この薬を飲めば、また美月に会える。
そんな考えが、頭から離れなかった。
「 ……会いたい 」
私は水を一口飲んだ。
そして、薬を飲み込んだ。
意識が、ゆっくり沈んでいく。
音が遠くなる。
部屋の輪郭が消えていく。
そして――
世界が、静かに変わった。
気がつくと、私は控え室のような場所に立っていた。
まぶしい照明はない。
控えめな明かりだけが、部屋を照らしている。
壁際には衣装が並び、テーブルの上には飲みかけのペットボトル。
空気には、ほんの少し甘い髪の匂いが残っていた。
「 ……また会えた 」
声がした。
振り向く。
美月が、そこにいた。
ステージ衣装ではない。
薄手の私服姿だった。
前に会ったときより、少しだけ疲れた顔をしている。
「 ……美月 」
名前を呼ぶと、美月は小さく笑った。
「 君、前にも会ったよね 」
心臓が、大きく跳ねた。
「 ……覚えてるの? 」
美月は少し不思議そうに私を見つめた。
そして、確かめるように言った。
「 あのとき、紙コップを渡したことも 」
私は息を呑んだ。
「 昨日のことも、覚えてるよ 」
夢なのに。
美月が、覚えている。
その事実だけで、頭の中が真っ白になった。
「 ……夢じゃないの? 」
思わず呟く。
美月は答えなかった。
代わりに、少しだけ寂しそうに笑った。
「 なんかね 」
美月は部屋の中を見回した。
「 ずっと待ってた気がするの 」
「 待ってた……? 」
「 うん 」
少し間を置いて、美月が続ける。
「 ここ、閉じ込められてるみたいで…… 」
その言葉に、胸がざわついた。
「 何度も同じことを繰り返すの 」
美月は笑おうとした。
でも、うまく笑えていなかった。
「 ライブが終わって、また始まって。歌って、笑って…また最初に戻る 」
私は何も言えなかった。
「 君が来てくれるとね 」
美月が私を見る。
「 少しだけ、現実を思い出せる気がする 」
胸の奥が痛くなった。
私はずっと、美月に救われていた。
何度も。
何度も。
美月の歌に。
美月の笑顔に。
暗い現実から引き上げてもらっていた。
でも――
もしかしたら。
美月も、誰かに救われることを待っていたのかもしれない。
そう思った瞬間――
視界の端で、白い光が強く揺れた。
「 ……! 」
あの存在だった。
部屋の隅。
白い輪郭だけの“何か”が、静かに立っている。
美月は気づいていない。
私だけを見ている。
『 もう繰り返すな 』
頭の奥に、冷たい声が響いた。
私は息を呑んだ。
『 境界が崩れている 』
「 境界……? 」
思わず声に出してしまう。
美月が振り返った。
「 どうしたの? 」
「 ……何でもない 」
白い光は動かない。
ただ、静かに私を見つめている。
そして――
『 次は……戻れなくなる 』
背筋が凍った。
何が戻れなくなるのか。
私なのか。
美月なのか。
それとも――
この世界そのものなのか。
聞き返そうとした。
けれど、その前に美月が近づいてきた。
「 大丈夫? 」
「 ……大丈夫です 」
「 顔色、悪いよ 」
美月が私の顔を覗き込む。
近い。
シャンプーのような甘い香りがした。
私は反射的に胸を押さえた。
「 ただ、少し…… 」
「 少し、なに?」
言いかけて、止めた。
好きがとまらない。
もっと会いたい。
ここにいたい。
そんな言葉を口にしてはいけない。
何かを望んでもいけない。
推し神さまの言葉が、頭の中で繰り返される。
――境界が崩れている。
それでも。
美月の目は、どこか寂しそうだった。
「 ねえ 」
美月が小さく笑った。
「 また来てくれる?」
私は答えられなかった。
来たい。
会いたい。
でも、怖い。
次に会ったら、本当に戻れなくなるかもしれない。
それでも――
「 ……美月 」
「 うん?」
私は言葉を探した。
けれど、何も言えなかった。
その瞬間。
世界が歪んだ。
床が遠くなる。
壁が揺れる。
美月の姿が白く滲んでいく。
「 待って――!」
手を伸ばした。
けれど、指先が透けていく。
美月も手を伸ばした。
「 待って!」
その声が遠くなる。
『 時間切れだ 』
あの声が響いた。
強い光が、すべてを飲み込んでいく。
最後に見えたのは、
こちらへ伸ばされた美月の手だった。
目を開ける。
薄暗い天井。
埃っぽい空気。
いつもの部屋。
夢は終わった。
……はずだった。
私は右手を見る。
まだ、温かい。
それだけではなかった。
部屋の中に、ほんの少しだけ違う匂いが残っている。
汗。
照明の熱。
そして――
甘い髪の匂い。
私は布団の中で、右手を握りしめた。
「 ……あと一度だけ 」
口にしてから、自分で怖くなった。
あと一度。
それで終わるのかもしれない。
それとも――
本当に戻れなくなるのかもしれない。
もう会わないほうがいい。
頭では分かっている。
分かっているのに。
胸の奥から、あの声が消えない。
――また来てくれる?
私は天井を見つめた。
しばらく、何も考えられなかった。
やがて、小さく息を吐く。
「 ……会いたい 」
その言葉は、誰に聞かせるでもなく、部屋の静けさに溶けていった。
「 会えば、壊れそうな気がする 」
目を閉じる。
それでも。
胸の奥には、あの笑顔が残っていた。
そして、私は、もう一度だけ呟いた。
「 ……それでも、どうしても、会いたいな 」
あとがき
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。
会いたい気持ちと、このままでは変わりそうな予感。
その両方を、静かに書いてみました。
推しがいてくれることで、今日を越えられる日がある。
その尊さを、大切にできたなら嬉しいです。
もし「続きを読みたい」と思っていただけたなら、とても励みになります。
あなたの推し活が、あたたかく続きますように。
推しの光、私の影 第一話 紙コップの温もり
推しの光、私の影 第二話 「また会えるなら…」
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