推しの光、私の影 第一話
「紙コップの温もり」
睡眠薬を飲んだ夜、私は不思議な夢を見た。
17歳の推しが、そこにいた。
夢のはずなのに、とても優しい温もりが残った——。
カーテンを閉め切った部屋は、昼なのか夜なのか分からなかった。
薄暗いワンルーム。
私は布団にくるまっていた。
部屋の中には埃っぽい空気と、モニターの青白い光だけが漂っている。
外の音は遠くて、まるで別の世界のもののように感じる。
42歳。無職。
外に出る気力もなく、ただ一日をやり過ごすだけの毎日。
スマホの通知音さえ、今は怖かった。
時間だけが、ねばつくようにゆっくり流れていく。
テレビをつけると、ちょうど美月が出演しているトーク番組が流れていた。
画面の中で、美月がニコニコ笑っている。
あの笑顔は17歳の頃と少しも変わらない。
透明で、優しくて、キラキラしている。
「 実は、アイドル時代に彼氏がいたの。……17歳の頃かな。すごく大切な人だったけど、仕事と両立できなくて、結局…… 」
その言葉が、胸の奥に静かに刺さった。
美月……それ、嘘だよね?
あの頃のあなたが、そんなに誰かを好きになっていたなんて。
布団の中で目を閉じた。
10年前、私はまだ会社員だった。
あの頃は毎週のように美月のライブに通い、ステージの上で輝く彼女に何度も救われた。
キラキラした歌声と、ニコニコ全開の笑顔で、私の暗い日常を優しく癒やし照らしてくれていた。
でも今は、まったく違う。
社会から取り残されたような感覚に、自信はすっかり失われ、ただ部屋に閉じこもる日々。
唯一の救いは美月の存在。
変わらず推し続けることだけが、かろうじて私をこの世界につないでいる。
最近は夜も眠れなくなり、ついに心療内科を受診して睡眠薬を処方された。
今夜も、ため息をつきながら苦くて小さな粒を、水で流し込むと、意識がゆっくりと沈んでいく。
──そして、世界が変わった。
夢の中で、私は不思議と体が軽かった。
自分の意志で自由に動ける。
現実よりずっと鮮明で色鮮やかな世界。
音も匂いもはっきりしている。
気がついたとき
私は大きなライブ会場の最前列に立っていた。
熱気と光。汗の匂い。
ただの夢にしては、あまりにも鮮明だった。
25年前の夏。
17歳の美月がステージの上で輝いていた。
汗の浮かんだ額、キラキラした瞳、透き通るような歌声。
「 みんな、大好き! 今日は本当にありがとう! 」
歌い終わった瞬間、美月の視線が、
私をまっすぐに捉えた。
心臓が、静かに、でも大きく跳ねた。
ライブが終わり、握手会が始まる直前だった。
美月はステージから降りてくると、スタッフに何か囁いてから、ゆっくりと私のほうへ近づいてきた。
「 君、初めて見た顔だね! 」
至近距離で聞く声は、想像以上に甘くて柔らかかった。
私は言葉を失った。
夢の中の私は、17歳の頃に着ていた服を着ていた。
お気に入りのTシャツに薄手のチェックシャツ、デニムスカート。
体は17歳に戻っているのに、心は紛れもなく42歳のままだった。
美月は本当に目の前にいて、私を見つめている。
「 握手会、来てくれる? 」
美月が小さく微笑む。その笑顔に、胸が痛いほど締め付けられた。
( 私は、推しをこんなに愛していいのかな……? )
頭の奥で、テレビの言葉が何度も響く。
——17歳の頃に、彼氏がいた。
私が固まっていると、もう一歩近づいて、囁くように言った。
「 後で、控室の近くのケータリングスペースに来てくれる?」
「 え……? 」
「 リハで疲れちゃって。少しだけ、誰かと話したいの… 」
その瞬間、私の視界の端に、淡い光が揺れた。
白い光の中に、
静かな存在が浮かび上がる。
優しく、けれどどこか冷たい声が、頭の中に直接響いた。
『 ——それ以上、近づくな 』
背筋が凍る。
『 戻れなくなる 』
白い輪郭だけの、ぼんやりした“何か”が立っていた。
『 もし想いを告げたり、
想いを引き出したりすれば…
二度とここへは来られない 』
私は息を呑んだ。
——推し神さま?
ライブ後の喧騒の中、美月はまだ私の返事を待っている。
私は一瞬、言葉を飲み込んだ。
それでも。
「 ……うん、行くよ 」
控室近くのケータリングスペースは、意外と静かだった。
簡素なテーブルにサンドイッチやフルーツが並び、控えめな照明が落ちている。
美月は紙コップに麦茶を注いで、私にも一つ差し出した。
「 疲れたときは、甘いものよりこれがいいんだよね! 」
コップを受け取り、指先が触れた瞬間。
その温もりが、胸の奥にまで広がっていく。
現実では、もう何年も感じていなかった気がした。
麦茶のわずかな苦みが、舌に残る。
勇気をふりしぼり伝えた。
「 ……大好きです。ずっと、ずっと応援してました… 」
声が少し震えた。
「 ありがとう。でも、なんだか寂しそうな顔してるね? 」
夢の中なのに、心臓が痛いほど鳴っている。
私はコップを握る手に力を込めた。
この時間が、永遠に続けばいいのに。
美月は、何か言いかけて——やめた。
私は、その先の言葉を聞けなかった。
私は息を止めた。
その意味を聞こうとした瞬間、視界が白く滲む。
遠くで、あの声が響いた。
『 時間切れだ 』
待って。
まだ——。
目を開けると、薄暗いアパートの天井があった。
窓の外はまだ暗い。
部屋はいつもの埃っぽい静けさに包まれている。
夢は終わったはずなのに。
右手だけが、まだ温かい。
私はそっと指を握りしめる。
まるで、あの紙コップの温もりが残っているみたいに。
天井を見つめながら、そっと息を吐いた。
会いたいな。
そう思ってしまった時点で、
もう戻れない気がした。
あとがき
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。
「推しに救われたことがある人」の気持ちを書いてみたくて、この物語を書き始めました。
うまく眠れない夜や、孤独が強くなる日でも、誰かの声や笑顔に救われる瞬間があると思っています。
これは夢の話ですが、どこか現実の感情にも触れていただけたら嬉しいです。
初めての小説なので緊張していますが、もし「続きを読みたい」と思っていただけたなら、とても励みになります。
少しでも、あなたの推し活や毎日が、笑顔であたたかいものになりますように。
そして、もし作品を気に入っていただけたら、いいねやフォローをしていただけると、本当に嬉しいです。
「紙コップのぬくもり」が、誰かの心に少し残りますように。
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