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"浮遊"女子高生 清水いぶき、離陸中。#11

第12章 星の誕生 ― ボイドにて

そこには、ほんとうに、何もなかった。

光も、音も、粒子のざわめきさえない。
時間の脈動すら消えた、完全なる空白――宇宙の「間《ま》」。

星も、銀河も、塵もない。
重力すら希薄な、忘れられた沈黙の空間。

いぶきは、ただひとり、そこにいた。

呼吸すら奪われるほどの静けさ。
まるで宇宙が、うっかり目を逸らしてしまった場所。
存在の影すら残らない、絶対的な“孤独”のなかに、いぶきはそっと浮かんでいた。

最後に見えたのは、天の川の残光だった。

いくつかの星雲が、彼方に沈んでいく。
やがてそれも消え、闇だけが残った。

聴こえるのは、彼女自身の心の音だけ。

「……さみしいね」

ぽつりと落とした言葉さえ、どこにも届かず、ただ自分の中に返ってくる。

ここは、誰にも気づかれなかった場所。
誰の祈りも届かない、永遠に近い時間をただ耐え抜いた空白。

「……誰もいないの、ずっと……寂しかったよね」

そうつぶやいて、いぶきは自分の両腕で、自分の身体をそっと抱きしめた。

まるで、目の前に泣いている誰かを慰めるように。

「だったら、私が……楽しい星を、つくってあげる」

その言葉が、空間の深部に、小さく波紋を描いた。

見えない闇が、ほんのすこしだけ揺れた。

いぶきの瞳に、微かな光がともる。

「笑う子がいて、走る子がいて……お父さんとお母さんが、ちゃんと手をつないでる世界」

「朝には鳥が鳴いて、夜には、誰かが誰かを、やさしく包んで眠る。そういうのが、いいな」

「……争いのない星にしたい。みんなが安心して、ちゃんと明日を信じられるような場所」

「地球もね、楽しいこと、たくさんあったから」

その想像は、沈黙の宇宙に、ひとしずくの色彩を垂らしていく。

ボイドの奥底に、名もない夢の“種”が、ゆっくりと膨らんでいった。

「どんな星にしよう?」

それは、クレープ屋でトッピングメニューを選ぶような、ささやかな楽しさ。

「衛星は……ひとつじゃさみしいよね。二つ? ううん、三つ。くるくる回ってたら、かわいいもん」

「空の色は、青にすこしだけ紫が混ざってて……夕方は、オレンジと金色が混じってくれたらいいな」

「海も必要だよね。浅いところはキラキラで、でも深いところはちょっと怖くて……うん、そういう海」

「山もあったほうがいい。朝日が最初に届く場所。そこで、誰かが毎日、なにかを願うんだ」

その言葉ひとつひとつが、やがて、惑星の大気となり、海となり、大陸となっていく。

風が生まれ、雲が流れ、草が芽吹いた。

いぶきは、そっと目を閉じる。

彼女の身体の輪郭は、すこしずつ宇宙の布地に溶けていく。

音もなく、名もなく、ただ、やわらかな温もりだけが残った。

そして――

いぶきは、“星”になっていた。

まだ小さな、けれど確かに息をしている星。

澄んだ空気と、やわらかな海と、誰かの眠る草原。

三つの衛星が夜空をくるくると舞い、彼女の夢を見守っていた。

その星には、命が生まれた。

小さな虫が羽ばたき、鳥がさえずり、子どもが走り、大人が笑い、誰かが誰かを、そっと抱きしめた。

言葉はなくても、そこには、確かな祝福があった。

風の匂いにも、波の音にも、少女の優しさが、すこしだけ染み込んでいた。

「……ごめんね。待たせたね」

そう囁くような声が、どこからともなく響く。

ボイドに、光が、ひとつ、灯った。

あまりに小さく、けれど確かにあたたかい、希望の灯。

静けさの奥で――誰かが、たしかに、微笑んだ気がした。



エピローグ ― 八つ橋と重力波と

11月の、よく晴れた午後だった。

かずさは、八つ橋の紙袋を両手で抱えて、清水家の玄関に立っていた。
チャイムを押す指先が、わずかに震えていた。

応じたのは、やつれた顔のいぶきの母だった。
何も言わず、ただ「ありがとう」とだけ告げて、かずさを家の中へと招き入れた。

リビングの隅には、簡素な仏壇が置かれていた。

白い布。
少し萎れた花。
学生証のコピーのような、小さな遺影。

写真はまだ決まっていないらしい。

かずさは迷った。

この八つ橋を、そこへ供えていいのか、わからなかった。

だから、何も言わず、テーブルの隅にそっと置いた。袋のまま。
風呂敷のようにやさしく包まれた秋限定の、さつまいも味。

「……おばさん」

ようやく発した声が、すぐに揺れた。

「いぶきは……死にたいなんて、思ってませんでした。私と、同じで……明日も学校、行こうねって……言ってたんです」

そこまで言って、もう言葉にならなかった。

嗚咽が喉を塞いだ。
目の前の景色が、滲んだ。

いぶきの母は、それでも黙っていた。
ただ、かずさの背中を、そっと撫でていた。

リビングに静かに流れていたテレビの音が、やけに鮮明に聞こえてきた。

「……国立科学天文台は本日、宇宙マイクロ波背景放射(CMB)の観測中、未確認の波形異常を検出したと発表しました」

「観測された異常は、既知の重力波とは異なる周波数帯にあり、現在の理論では説明が難しいとしています」

「ある研究者は、“空間構造の局所的な再構成”という仮説を挙げており……」

いぶきの母がリモコンを取り、音量を少し上げた。

画面には、暗い宇宙空間を背景に、ダークマター分布を映す三次元マッピングが表示されていた。

その中央に、ぽつんと赤く染まった一点。

キャスターは、それを「冷たい空白に咲いた波紋」と呼んだ。

けれど、かずさの耳には、もう何も届いていなかった。

彼女は、ぽろぽろと涙をこぼしながら、まだその言葉を繰り返していた。

「いぶきは……ほんとうに……明日も、行こうねって……」

テーブルの上で、八つ橋の袋が、ふくらんでいた。

まるで、彼女がまだそこにいて、「あとで一緒に食べよう」と言っているように。

仏壇の花瓶には、誰かが差し替えたばかりの花が咲いていた。

その花が、風もないのに、ふと――ほんのすこしだけ揺れた。

まるで、遠い場所で、誰かが静かに笑ったかのように。





あとがき

ずっと、「ふわふわと浮かぶ女の子」の話を書いてみたいと思っていました。

それは、空を自由に飛ぶというよりも、
重力からすこしだけ外れてしまって、
空中をゆっくりと泳ぐような――
宇宙のなかで、静かに回転してしまうような、

そんな少女の姿。

彼女がなぜ浮かぶのか。
その終わりには何があるのか。

考え続けるうちに、それは「生きること」そのものへの問いへと、自然に繋がっていきました。

元々、私のアイデア倉庫のなかで、「星になる」予定だったのは、この《いぶき》という少女でした。でも今では、彼女が生んだ“やさしい星”で、別の物語の誰かが救われていたらいいな、と思っています。
『朱星』を読んでくださった方には、わかっていただけるかもしれません)

物語がひとつ終わるたび、私は少し救われます。

そして、読んでくださったあなたの心にも、
ほんのわずかでも、やさしい余韻が残っていたらと願っています。

創作って、すばらしいですね。

お読みいただき、ありがとうございました。
心からの感謝をこめて。


全話へのリンクはこちら↓
第1話ープロローグ/地に足のついた、最後の日
第2話ーふわつく日常・自覚なき浮遊
第3話ー浮遊判明・滑り出す日常
第4話ー浮つく日常・繋がれた身
第5話ー住み着く天井・離れゆく日常
第6話ー天井接近警報
第7話ーそれでも、楔となるもの
第8話ー縋れない地面、遮るもののない空
第9話ー見下ろす地図、思い描く場所/大気圏の会話
第10話ー軌道の彼方へ ― いぶきの宇宙航路
第11話ー第12章 星の誕生 ― ボイドにて/エピローグ


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渡野 凪沙(わたしの なぎさ) もし、よろしければ―― 缶ジュース1本分くらいの「応援」を送っていただけたら、 息子とふたりで仲よく分け合って、しあわせのおすそ分けにします。 きっと次の言葉を紡ぐ力になります。よろしくお願いします。