"浮遊"女子高生 清水いぶき、離陸中。#01
【あらすじ】
重力が、少しずつ効かなくなってきた。
誰にも気づかれないように、浮かないふりをしていた。
でも本当は、心も身体も、もう地面を離れかけていた。
10代の若者を中心に報告されはじめた“浮遊現象”。
それは、生きづらさや孤独感に呼応するように、重力を拒む身体の変化だと言われている。
主人公・清水いぶきは、ある朝、自分の身体がわずかに浮き始めていることに気づく。
やがて彼女は、母や友人の支えのもと、離陸と向き合う日々を送るが……その先には、ある静かな「選択」が待っていた。
これは、ひとりの少女が空へと昇っていく、優しくて、切なくて、ほんの少し希望に触れる物語。
プロローグ:政府発表資料(抜粋)/令和12年3月13日 17:00 公表
【件名】上昇性浮遊現象に関する統一見解の発表について
【本文】
国内各地で報告が相次いでいる、人が地面から浮上し、空中を漂う現象(以下「浮遊現象」)について、本日、政府は関係省庁および専門機関の調査結果を踏まえ、初の統一見解を発表しました。
現時点で判明しているのは、これは「重力の消失」ではなく、人体に対して上向きに作用する未知の力(以下「浮遊力」)が発生している現象であるということです。
この浮遊力は、人の体重(質量)に比例して反作用的に強く働く傾向があり、数値的には0.1NF(ニュートン・フロート)単位で段階的に増減することが確認されています。
また、浮遊力の発生には、身体的疾患や物理的環境の変化ではなく、精神的・感情的要因が深く関与しているとされ、特に以下のような共通点が観測されています:
・生きづらさ
・孤立感
・社会的期待に対する疲弊
こうした浮遊現象は、10代から30代前半の若年層に多く見られ、特に女性の発症例が増加傾向にあることも判明しています。
政府は本現象を「浮遊力障害(Floating Tension Disorder)」と仮称し、当事者の尊厳と日常生活への支援を重視した包括的な対策体制の構築に向け、各自治体および関係機関との連携を進める方針です。
今後の詳細については、内閣府 科学技術・青少年支援局までお問い合わせください。
第1章 自由浮遊高度:0cm 浮遊力:0NF
地に足のついた、最後の日
朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでいた。
うっすらと白くけぶった部屋の空気を、いぶきはまだ眠そうな目で見つめていた。
「……ん」
目覚まし時計の音はとっくに止まっている。
布団から出るのに少しだけ気合いを要したのは、昨日の部活で走り込みが多かったせいだ。
ふくらはぎがまだ、じんじんしていた。
台所には、湯気の立つ味噌汁の匂い。
トーストもいいけど、朝はやっぱりこっちが落ち着く。
いぶきは食卓につきながら、母が作ってくれた鮭の切り身を口に運ぶ。
テレビからは、ニュース番組が流れていた。
「本日までに、今月の浮遊による失踪報告件数は国内でのべ124件。10代女性が最多となっています――」
けれど、家族の誰も、目を上げることはなかった。
「次は、関東地方の天気予報――」
母は洗い物をしながら「今日は雨、降らなさそうね」とつぶやき、いぶきも「体育あるし、ラッキーかも」と返す。
“それ”がどんな異常であっても、日常にまぎれてしまえば、関心を払う者はいない。
まして、自分には関係ないと思っている限りは。
食事を終えると、いぶきは洗面所にこもり、慣れた手つきでストレートアイロンを手に取った。
前髪と、サイドバングのあたりだけ、軽く整える。
……つもりだった。
「あ、やば。跳ねた」
変な角度で熱を入れてしまったらしく、前髪がピョンと横に向いてしまった。
ついでに、サイドバングもどこかふくらんで見える。
やり直す時間は――もうない。
鏡を見て、ため息をひとつ。
「……ま、いっか」
スカートのプリーツを指でならし、鞄を肩にかける。
時計はもう7時半を過ぎていた。
靴を履きながら、母に声をかける。
「いってきまーす」
「はい、気をつけてね。あ、帰ったら、届いてる玄関の荷物、部屋に入れておいてよ」
「はーい」
玄関のドアを開けると、外の空気がひんやりと頬にあたった。
高く晴れた空に、うっすらと、何か黒いものが浮かんでいる。
……気のせい、かもしれない。
誰も、それに気づく様子はなかった。
今日も、地に足をつけて歩いていく。
いつも通りの、はずだった。
「はい、みんな席つけー。HR始めるぞー」
教室の扉を開けて入ってきた担任の声に、生徒たちがばらばらと席に着く。
清水いぶきは窓際の二列目。
陽の当たる場所がちょっとだけまぶしくて、頬を片手で隠した。
「昨日、浮いたやつの件、知ってる?」
「えー、また?どこの学校?」
「たしか、となりの市の附属校。校庭で飛んでったんだって」
「まじかー。体育中だったらウケるー」
ざわつく教室。誰も真面目には話していない。
「浮遊」はいつの間にか、ワイドショーのネタのひとつになっていた。
担任はプリントを持って教壇に立つと、事務的に読み上げた。
「はい、浮遊予防に関する注意喚起です。浮遊感を覚えた者、あるいは周囲にその兆候が見られる場合は、速やかに保健室へ……と書いてあります。誰か、いるかー?」
「はーい!おれ、浮きそうでーす」
「バカ言うな。真面目に答えろ」
「はいはい、冗談っすよー」
「……他に、いないか? ……よし、じゃあ1時間目始めるぞー」
いぶきは、無意識に自分の足元を見た。
ちゃんと、地についている。
なんでこんなこと、確認するんだろ。
そう思って、ひとつ息を吐いた。
昼休み。
購買でパンを買ってきた親友のかずさが、机にドンと紙袋を置いた。
「はい、いぶきの分も。チョコとたまごサンド。どっちがいい?」
「どっちでもいいよ。ありがと」
「じゃあ、たまご、あたしね」
ふたりで並んでパンを食べていると、向かいの席の子たちが話しているのが耳に入る。
「ママの従妹の、知り合いの、近所の人の娘さんがさ、浮いちゃったんだって」
「え、マジで?」
「いじめ、が原因らしいよ」
「わたしはね、失恋で飛んだって話聞いた。他校だけど」
パンをかじっていたいぶきは、ぽつりと口を開いた。
「……みんな、いろいろ悩んでるんだねぇ」
その瞬間、話していた子たちの視線が、ぴたっといぶきに向いた。
「な、なに?」
「いや、いぶきだけは、浮かないよなって」
「うん、悩みなさそうだし」
「失礼な!あるし!ちゃんと、あるよ!」
ふくらんだ頬を指差しながら、いぶきは抗議する。
「たとえば、来週の古典の小テスト。あと、沢渡先輩のこととか!」
「……あー、沢渡先輩ねえ」
「こないだ、1年生の女子に告られたって噂だよ?」
「えっ!? それで……どうなったの?」
「さあ? いぶき、直接聞いてみたら?」
「そ、そんなの……できるわけないじゃん……」
声がしぼむ。
胸の奥で、何かがふわりと浮き上がる感覚があった。
……あれ、今の、ちょっと危なかった?
(こんなんで悩んでたら、本当に浮いちゃうぞ、私)
心の中で、冗談のつもりでつぶやいた。
でも、その冗談に、どこか現実味が混ざっているような気がして、いぶきはもう一度、自分の足元を見下ろした。
ちゃんと、地に着いている。
……大丈夫。わたしが、浮くはずなんかない。
放課後、部活の時間。
トラックの端に立って、いぶきはランニングシューズの紐を締め直した。
今日は、風が強い。
何本か走ったあと、ストレッチをしながら、顧問の先生が言った。
「清水、なんか、今日は動き軽いな」
「え、本当ですか?」
「うん、ピッチがいい。……ただ、接地が浅い。無理してないか?」
無理、というほどじゃない。
けれど、たしかに今日は、ちょっと足が地面をとらえづらかった。
「スパイクのピン、減ってるかも……」
そう言い訳して、いぶきは苦笑いを浮かべた。
帰宅途中、空は薄く赤く染まりはじめていた。
通学路にある小さな川のほとりで、いぶきはランドセルを背負った小学生たちが石を積んで遊んでいるのを横目に見た。
と、その時、風に吹かれて制服の裾がふわりとめくれた。
「……わっ!」
慌てて押さえる。
今日の風は、空まで引っ張っていきそうなほどに強い。
そう思いかけて、ふと足元を見る。
少しだけ、背が伸びたような気がした。
地面が、いつもより遠く感じたのは、気のせいだろうか。
「……いやいや、ないない」
首をふって、早足で家路をたどった。
家に帰ると、母が夕飯の支度をしていた。
ニュースの音声が、テレビからぼんやり流れている。
「本日、全国で確認された浮遊行方不明者は12名……」
「ただいまー」
「おかえり。お風呂、先に入っちゃってー」
なんてことない、いつもの夜。
机の上には、沢渡先輩が載っている部活の大会パンフが開きっぱなしになっていた。
制服を脱ぎながら、いぶきは独り言のようにつぶやいた。
「……悩みがない、わけじゃないんだけどな」
その声は、部屋の隅にだけ、ぽつんと落ちて、誰にも届かない。
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・第1話ープロローグ/地に足のついた、最後の日
・第2話ーふわつく日常・自覚なき浮遊
・第3話ー浮遊判明・滑り出す日常
・第4話ー浮つく日常・繋がれた身
・第5話ー住み着く天井・離れゆく日常
・第6話ー天井接近警報
・第7話ーそれでも、楔となるもの
・第8話ー縋れない地面、遮るもののない空
・第9話ー見下ろす地図、思い描く場所/大気圏の会話
・第10話ー軌道の彼方へ ― いぶきの宇宙航路
・第11話ー第12章 星の誕生 ― ボイドにて/エピローグ
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