匂いの文明史②なぜ人間は匂いを言葉にするのが苦手なのか
人に「この匂いを説明してください」と言うと、多くの人は少し困った顔をする。
甘い匂い。
青い匂い。
雨の匂い。
なんとなく懐かしい匂い。
こうした表現はできるが、匂いそのものを正確な言葉で説明するのは難しい。
視覚ならどうだろう。
赤、青、黄色、丸い、四角い、大きい、小さい。
音ならどうだろう。
高い音、低い音、強い音、弱い音。
ところが匂いになると、途端に語彙が曖昧になる。
これは日本語の問題ではない。
実は人類全体に共通する特徴である。
人間は「視覚の動物」
人類の祖先である霊長類は、進化の過程で非常に大きな変化を経験した。
それは 視覚の発達である。
多くの哺乳類は嗅覚中心の動物だ。
犬や狼にとって世界は匂いの地図である。
個体識別、感情、健康状態、さらには時間の経過まで匂いで読み取る。
しかし霊長類は違う道を選んだ。
森の木の上で生活するためには
果実の色を見分ける
枝の距離を判断する
仲間の表情を読む
こうした能力が重要になる。
その結果、人類の祖先は
両眼による立体視
高度な色覚
を発達させた。
嗅覚は少しだけ退いた
進化は万能ではない。
ある能力が発達すると、別の能力の重要性は下がる。
嗅覚もその一つだった。
哺乳類は匂いを感知するための
「嗅覚受容体遺伝子」を多数持っている。
犬
約800〜1000以上
マウス
約1000
人間
約400
しかも人間では、その半分近くが機能しない遺伝子になっている。
つまり人類は進化の過程で
「使わなくなった匂いセンサー」
を少しずつ失ってきたのである。
匂いは言葉の脳に届きにくい
もう一つ理由がある。
脳の中で匂いは特別な経路を通る。
視覚や聴覚の情報は、まず大脳皮質へ送られ、言語処理に繋がる。
しかし匂いの情報は
感情
記憶
を司る大脳辺縁系へ直接入る。
そのため
匂い → 感情
匂い → 記憶
は非常に速い。
しかし
匂い → 言葉
は少し苦手なのである。
匂いが記憶を呼び起こす理由
誰でも経験があるだろう。
ある匂いを嗅いだ瞬間、昔の記憶が突然よみがえる。
雨上がりの土の匂い。
祖母の家の畳の匂い。
夏祭りの屋台の匂い。
それらは言葉より先に、感情として立ち上がる。
匂いは、説明するより
思い出す感覚なのだ。
言葉になりにくい感覚
こうして見ると、人間が匂いを言葉にするのが苦手なのは自然なことだ。
私たちの文明は
見る
読む
書く
という視覚中心の世界で発達した。
文字も、絵画も、映像もすべて視覚文化である。
その文明の中で、匂いは少しだけ脇役になった。
しかし脇役だからといって、存在感が弱いわけではない。
むしろ匂いは
記憶の奥に直接触れる感覚として、静かに残り続けている。
次回は、少し意外な話を紹介しよう。
世界には
「匂いを言葉にするのが得意な民族」
が存在する。
彼らの言語では、匂いは色と同じくらい明確に分類されている。
📚匂いの文明史シリーズ👇
①「匂い」はなぜ「くさい」と感じられるのか
②なぜ人間は匂いを言葉にするのが苦手なのか(本作)
③匂いを言葉にできる民族(3月21日公開)
④江戸は本当に臭かったのか(3月23日公開)
⑤匂いを失った文明(3月27日公開)
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『匂いの地図師』前編
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