「自分とか、ないから。教養としての東洋哲学」|AC✖️HSPの私の今を語る
やまねです😊
しばらくnoteをお休みしていました。
というのも、父が亡くなり、孤独になった母を支え、なぜか自分が1週間近く入院することになり、退院後にはゴミ屋敷一歩手前の実家の片付けをしたりと盛りだくさんの日々を送っていたため、疲れ切ってしまっていました。
で、そんな時に出会ったのが、しんめいPさんの著書「自分とかないから。教養としての東洋哲学」(サンクチュアリ出版)。
この本は、もともと著者がnoteで出した記事『東洋哲学本50冊よんだら「本当の自分」とかどうでもよくなった話』が話題になり、それがきっかけとなって出版に至ったそうです。
noteがきっかけなんて、なんだか親しみが湧いてくる!
疲れ切って本屋をふらつく
「あぁ、もうダメだ」と思った時は、なぜかよく本屋の中をふらついてしまいます。
多分心のどこかで、無数にある本の中のどこかに答えがあるかもしれないと思っちゃってるんですよね。
まぁ、大抵は答えなんて見つからないんですが。
でも、本当にまれになんですが、そこで手に取った本に救われたという経験がなくもなくて、奇跡的な出会いに恵まれることがあります。
今回もその一つかもしれません。
「自分とか、ないから。」を手にとって、ちょっと笑って楽になったし、これから自分の気持ちを楽にしていく道が見えた気がしました。

この例え、ものすごくわかりやすかったです!
「空」って、こういうことかと腑に落ちたし、
卒業式の日の教室がキラキラして見える理由が判明して感動しました。
以下、引用になります。
『「学校」というフィクションが消滅』して、『人も、モノも、みんなが意味から解放されて、なにものでもなくなったときの、この感じ。(中略)すがすがしくて、キラキラしてて透明な感じ。』
「教養」って副題にあるけど、実用的。そして、笑える。
本の副題が「教養としての東洋哲学」となっているので、教養が身について賢くなれるような感じの本かと思っていたのですが、全然違いました笑。
私の印象としては「笑えるエッセイ➕実用書」。
本の中でも、『「知識」を目的にしない!』のが東洋哲学を生かすコツだと書かれているように、教養として知識を蓄えておくというより、実際に今の自分の心を楽にする考え方として、東洋哲学のエッセンスを教えてくれる内容になっています。
だから、正直、あんまり教養は身につかないかもしれないけど、とっても実用的。著者のユーモアあふれる体験談を通して、自分を楽にするために東洋哲学の教えを活用する方法を見出すことができるようになっています。
自分の体験を面白おかしく語れる著者の視座に何だか「悟り」を感じる
この本では、著者の体験談として、挫折と逃避の繰り返しの中で、追い込まれていき、最後には実家の布団から出られなくなるまでのエピソードが、東洋哲学の紹介と共に語られていきます。
無職になったり、離婚したりのエピソードって、実際には苦しいこともたくさんあったんじゃないかと思うんです。
ところが、全く悲劇的な描かれ方をしていなくて、全体を通して笑えるんです。
で、この言葉を思い出しました。
「人生は近くで見れば悲劇だが、遠くから見れば喜劇である。」
(Life is a tragedy when seen in close-up, but a comedy in long-shot.)
チャップリンの言うように、自分の体験を渦中で見れば悲劇のように感じてしまうけど、ちょっと遠くから離れてみれば笑えるんですよね。
こんな感じで、著者のしんめいPさんは、自分のことをとても客観的に見つめることができているから、自分の経験をユーモアたっぷりに語れるんだろうとなと思いました。
それって、瞑想を通して、自分を外側から観察しようとする仏教的なアプローチそのものだなと思いました。
東洋哲学の教えを、著者が本当に自分の血肉にしているんだろうなということが伺えますよね(元々そういう方なのかもしれませんが…)。
だから、文の内容そのものだけじゃなくて、しんめいPさんの人となりが表れている文体そのものから、その生き方を学べる感じがする本なんです。
🪷「泥の中の蓮」もしくは私というフィクション
で、AC✖️HSPの私は今、色々なことがあって苦しんでるわけですが、この本を読んでみて、どう楽になったかと言うことについて最後に書いていきたいと思います。
まず、最近の私は、色んなことがあって、すっかり打ちのめされていました。
そして、今まで色んな経験を乗り越えて、自分は随分と成長したと思ってきたのに、結局打ちのめされてしまっている現状に、「やっぱりあんまり変わってなかったんだな」と、正直がっかりしておりました。
また、ゴミ屋敷に近い状態になっていた実家を片付けた際には、自分はこんなゴミ溜めのようなところで育ったんだなと言うことを再認識し、自分は汚い存在なんじゃないかみたいな嫌な気持ちを思い出していました。
でも、しんめいPさんのように、ちょっと遠くから、そんな私を眺めてみると、自分がそのゴミ溜めのような泥があったからこそ成長してきた蓮のように思えてきたんですよね(ちょっと美化しすぎですかね笑)。

そして、今は「成長した自分」というフィクションから更に脱皮し、「自分とか、ないから。」の境地に、また一歩近づくチャンスなのかもしれないなと思いました。
で、こんな風に玉ねぎを剥いていくように、一つずつ自分というフィクションを脱ぎ捨てて、「無我」にいたることができれば、先祖代々受け継がれてきたACとしての苦しみも、HSPとしての生きづらさも、いつか全部丸ごと愛で包み込むことができるようになるのかもなと思いました。
「日々是好日」。
何もできなくなる位に苦しい日も、それをあるがままに受け入れれば、それも良い1日になるのかもしれないと思うことができる読書体験でした!

いつかこんなふうに「1🟰無限」「無限🟰1」であることを感じて、
心が楽になる日が来るかもしれない!
