ネオンが教えてくれる大切なこと
今回は、ネオン・サインという発明を通じて発明家の話をする。
とりあげる発明家は1人や2人ではない。ネオン看板に行きつくまで他多くの発明が関わってくるため、そういう話になるのだ。これは今回の大テーマでもある。
大切なことが知れる文章になるよう、努力してみる。簡単な言葉しか使わない・わかりやすい図解をさしこむ・笑い話や音楽も入れていく。あなたががんばらなくても読みきれるように。君が楽しんで学べるように。
では、行ってみよう。
ネオン・サインと聞いて世界の人々が最も思い浮かべる都市は、ラスベガスだろう。

観光客向けのヘリから夜景を見下ろすツアーがあるらしい。「ベガス・ネオンナイト・ツアー」とか、そういう名前に違いない。宝石箱をひっくり返したようなーーとはこのことか、と上空で思うのだろう。

私の友人が2人そこへ通っていた。
派手なことを好む人もいるもんだ。魂がバブリーという感じ。元気でいい。お金があると人間は元気?😂これを貼るのをがまんできない。
この勢いのまま、笑い話からいこうか。私の体験談だけれども。
仕事関係の人らに連れられて、『ケントス』へ行ったことがある。何才でいらっしゃるのか把握していなかったが、(彼女はたまたま)初老と言えるような見た目をしていた。その女性が踊り出し。私はあっけにとられた。すごくすごくダンサブルだったのだ。
「昔は千が万だったのよ〜」(耳タコ)と言うお姉さまがたが、おそらく変わらず元気に働いているのを見て。順応性の高さを尊敬する。記号的な立場は私の方が上なのだが、人生の大先輩であることは絶対だし、お母さんのようにあれやこれやとかまってくれる。私はうれしくて。素直にあまえている。
「あの人は医者だからやめておきな」「職業がダメなんですか」「医者は助平(すけべえ「え」をキッチリ発音するスタイル)だから」「そうなんですか」(また何かとんでもない理論が聞ける予感にワクワクする私)「人体に興味があるから医者になったんだから」人体。
つい先日も、夜中までつきあわされた。朝から夜まで働いた後にすごい体力だ。明日は早い時間から予定があるから嫌だと言うと、「フッ」と返された。本当にそれだけ鼻で笑っただけ。みんなでタクシー代を出して私だけ早く帰してくれて、結局すごくやさしい。

薄紅は受かったら真紅になるのか……。

やっぱり夜は必ず遊んでいたんだ。
日本にネオンが本格的に導入されたのは、高度経済成長期とかぶる1960年代だ。

「ネオン」で日本人が思い浮かべるのは、ベガスよりもこちらかもしれない。約58ha周囲3.5kmの緑豊かな公園に隣接する、日本最大級の繁華街。不夜城・新宿歌舞伎町。

ネオン看板の職人は言う。ネオン街が消滅しない限り、ネオン・サインは続くと。
治安や衛生面を懸念して、繁華街を嫌う人も少なくないと思うが。そういう人はたいがい住人ではない。部外者が遠くから文句を言ってくるのだ。私たちは安全性や清潔さを追求しないならず者ではない。新宿区は絶妙なあんばいで成り立っている。現に私は、田舎のようにおだやかな暮らしができているよ。
最初のネオン・サインはいつ導入されたのか。それ以来、技術はどのように進化してきたのか。
フランスの技術者ジョルジュ・クロードは、ネオン照明の発明者として知られているが。(ネオン・サインの歴史を語る文章で、彼からしか書いていないものも見かけるが)

私は、クロードが「最初の人物」だと言うのは違うのかなと思っている。ウィリアム・ラムゼーやハインリヒ・ガイスラーをシカトしてジョルジュ・クロードだけとりあげるのは、スワンやデービーにふれずエジソンを語るのに近い。

貴ガスの発見でノーベル化学賞を受賞した人。
エジソンは電球を発明した・ホイットニーは綿繰り機械を発明したでは、正直、浅すぎるのだ。何も知らない方がマシなレベルである。
早めに言っておく。ネオンの話はじまるの遅そうと感じそれが嫌な人は、私の文章とは真逆くらい相性が悪い。この回だけでなく、もう読まない方がいい。タイパのためなら真実でなくてもいい人のために、私は何も書いていない。
(いい機会だから書くが。私がタイパをくだらないと思っているわけがない。時間ほど大切なものはないくらい時間は大切だ。結局は、そういうやり方が一番タイパ……コスパもか……が悪いと言っている。とびぬけた天才でもない限り、木1本1本のことなど忘れる。森を一度深く知りさえすれば、忘れない。そうやって、私たち同じ凡人の中で、大差がついていくのだ)
残った人へ。順を追って解説する。
発明には常に多くの人たちが関わっているが、最後の1人か2人が名声を総どりする。現実はこうだ。これをポジティブにとらえる/表現することも可能だ。→ 発明とはもっとコラボレーション的なもの。


1500年代後半。ガラスやレンズがどんどん発達し、望遠鏡が発明されるのは時間の問題だった。
オランダのハンス・リッペルハイがそれを成したわけだが。レンズを通すと大きく見えるぐらいのこと、誰でも気づいた。みんなバカじゃないのだから。
望遠鏡のウワサを聞きつけたガリレオは、実物を見もせずに自作した。(しかも、より優れたものを)それで太陽系をつぶさに観察した。こういうことが「すごいこと」だ。
ガリレオは確実に偉人だが。彼がリッペルハイやガラス業界(ガラス・ビジネス)の恩恵を受けていたというのも、また事実だ。

蒸気エンジンと言えば、スコットランドのジェームズ・ワットだが。その60年ほど前にすでに、蒸気機関は発明されていた。英国人発明家のトーマス・セイヴァリによって。
炭鉱にあふれる水をどうにかするのに、バケツよりは有効な手段だった。トーマス・ニューコメン(彼も英国の発明家)が手を加えて気圧で動くようにし、大気圧エンジン/大気圧機関と名づけた。50年ほど使われたが、常に冷やしたり温めたりする必要があった。
ワットが開発したのは蒸気用の分離したコンデンサーだった。これはエネルギー効率を非常によくした。
ワットとマシュー・ボールトン(英国の工場経営者で実業家)は、蒸気機関を商用化して、世界を変えたのだ。産業の意味で。

「1793年にイーライ・ホイットニーは綿繰り機械を発明した」これだけを知っていて何か意味があるか。皆無だ。
綿繊維と種子をできるだけ速く分離したいわけだ。そのためのシンプルな道具はあったが。大した効率を生んでいなかったし、長い綿にしか使えなかった。
ジョージアの綿は短毛種の木綿だ。州がスポンサーとなり、ホイットニーは綿繰り機の製作に着手した。成功した。

楽になったなら自分らでやれよ!
働いていたのは黒人奴隷たちだ。彼ら彼女らの仕事が楽になった?そういう見方ができるのは一般的な労働者の中でだけだ。要するに、木綿が高収益な作物となったのだ。ホイットニーが築いたもう1つのものは、アメリカ奴隷制度の経済的基盤だ。
こりゃ儲かる。やっぱり奴隷絶対だわ。
誰だよ奴隷に洗礼受けさせたりしてる奴。
聖書に書いてあることにしよ。
洗礼を受けても無駄・奴隷は奴隷、と。おけ!
わざとカジュアル書きしたが。本当にこういうことをやらかした。人間は狂うことができる。
神の声が聞こえる。ちょ、勝手に私の話変えないで!?肌色で区別なんてしてないから!そういうとこ本当かんべんしてほしい。

彼に悪気はなかったーーある意味この表現は正しい。「何も考えていない」人だったのだから。次は、政府から軍用のマスケット銃の製造をうけおった。以降、生涯、武器づくりをした。


古代ギリシャの時代から、エレベーター(人力でもち上げる道具)は存在した。

産業革命により、蒸気や電気のエレベーターが使えるようになると(建築の話)。アメリカの建物はどんどん高くなっていった。建物が高くなるにつれ、のぼらねばならない階段は増えていった。どうなるかわかるよね。エレベーターが必要になる(人が乗る方の話)。
お食べ。エレベーターと建造物のサンドイッチだよ。

1853年にアメリカ人のエリシャ・オーチスが、セーフティー・ブレーキを発明した。
電気エレベーターはロープで支えられていたため、壊れることがあった。Without オーチスでは、時々エレベーターは落下し続けていただろう。Without オーチスでは、摩天楼は存在していないかもしれない。
たとえと言うより一例だ。みんなが世界をつくっている。


さて。「スワンをスルーしてエジソンだけを見るな」の説明に入る。

一部の人に衝撃を与えて申し訳ないが。いや、私は何も悪くないが笑。エジソンは電球を発明していない。
トーマス・エジソンは光を与える電気器具を発明していない。フィラメントのある電球すら発明していない。では、彼は何をしたのか。1880年に実用的な電球の販売をはじめた。
アーク・ランプと呼ばれた世界初の電灯は、英国の化学者ハンフリー・デービーによって、その78年前に発明されていた。
アーク灯は、長もちせず明るすぎた・プラチナで作ろうとしたもののプラチナは高すぎた・光が強烈で紫外線を多く含んだ。

放電灯(discharge lamp):放電発光を利用した電灯。
炭素アーク灯(carbon arc lamp):電極に2本の炭素棒を用いて両極間にアークを生じさせて、光るようにした電灯。照明に用いる場合、強すぎる光をおさえるために着色ガラスなどでおおう。
管長が短く電流が大きいため放電灯と区別されがちだが、アーク灯も放電灯と同様の性質をもつ。

読書が大好きだったデービーは、10才にも満たない頃から、本から得た知識をまわりに語って聞かせていた。

彼が実験を好むようになったきっかけは、馬具工房を営んでいた人物である。馬具以外にもさまざまな工作をしていたその人が、自作の模型などを用いて、彼に科学の基礎を教えたのだ。

世界のみんなが、歴史のみんなが、つながっている。たった今この瞬間も「歴史が君を必要としている」。

1882年に東京電燈会社設立事務所が、開業の記念にと、銀座大倉組前で2000個のアーク灯を点灯した。市民が一晩中おしかけたそうだ。
開化絵が赤いのはアニリン赤を使用していたからだが。別名、赤絵。まるでネオンみたいだ。(後で解説する)
デービーの話を続ける。
ブリストルの気体研究所(人工的に製造した気体を医療に応用することを目的とした研究所)で、各種実験の監督役をしていた頃のこと。
製造した亜酸化窒素 = 笑気ガスを定期的に吸引しにきていた仲間の中に、前述した蒸気機関のジェームズ・ワットもいた。みんな笑気ガスが大好きだった。それを麻酔剤として使用することには思いいたらず。研究所の意味よ。この中毒仲間がよ😂
息ぬきは大切。何事もバランス。

その土地の周辺案内をしてくれた女性とは、不倫関係をもった。働きながら性愛も大いに楽しんだ。無理やりというわけでなし、女性側がOKしたのだから別にいいだろ。
あらゆるガス実験でかなりの危険をおかしていた。死にかけたこともあった。足元をふらつかせながら「私は死なない!」と叫んだ際の、彼の脈の記録によると、思いきり死にかけていた。笑

おもろい人だが。デービーはやることやった。
歴史のおもしろい点で。動かない時は、「息してる?」と確認したくなるくらい動かない。不思議なことに、動き出すと一気に動くものだ。Let it Fire!Let it Light!
1800年頃の「デービー灯」から、およそ50年を経て。英国人化学者のジョゼフ・スワンが、炭素化した紙のフィラメントを発明した。

長時間点灯はまだかなわなかったが。白熱電球街道がはじまったわけだ。
ドイツのハインリッヒ・ガイスラーとユリアス・プリュッカーが、1857年に水銀空気真空ポンプを発明した後。ガラス管の中を真空状態にすると、電流を流した炭素のフィラメントは簡単に燃えつきず、ある程度の時間発光し続けることがわかった。

真空ポンプの技術が向上した。
スワンもエジソンも、点灯時間をのばすために、さまざまな素材のフィラメントを試した。スワンがセルロースのフィラメントにたどりついた頃、エジソンは竹炭にたどりついた。
エジソンは、世界各地の6000種を超える素材で実験を繰り返していた。友人のヒゲでもやってみたし、テーブルにおいてあった扇子でもやってみた。これが大当たり(ヒゲの方じゃないよ笑)。扇子の竹は200時間も輝いた。そこで、竹にしぼって1200種類を試した。助手が、伊藤博文から「竹なら京都」・初代京都知事から「京都の竹なら八幡か嵯峨野」とアドバイスを受けたらしい。
八幡真竹を炭化させたフィラメントで、2450時間という脅威的な発光記録をうちたてた。


使われなくなるまでの十数年間、日本の竹が、米国の家庭や職場や街頭を照らしていたのだ。
そこからは、いわゆるマーケティングだ。スワンの会社とエジソンの会社は合併した。
エジソンの偉業は技術的なイノベーションにある。長時間の点灯を可能にし実用性を高めたことに。
彼はすごい。「電気を売った」のだから。
エジソンの本丸は電力ビジネスだった。白熱電球はそのプロセスの1つだった。

エジソンが出願した特許の大半は、発電機か電流計だった。白熱電球を売りたかったのではなく電気を売りたかったわけだから、どれだけ(何ワット)電気を使用したか測定できないといけない。ビジネスにするには。彼が電力計に関する特許をたくさん取得した理由が、わかるだろう。
エジソンが発明王と呼ばれること。これをどう思う。そんなものではないと揶揄してなどいない。何かよりふさわしい冠名があるのではないか、と言っている。
エジソンの白熱電球の商業的成功に刺激され。複数の発明家たちが、ガス放電管を実用的な照明システムに転用しようと試みた。

アーク・ライトからはじまった話だし。
『死のソムリエ』という過去回で紹介した人物も、私の考えでは、死の商人ではない。発明品と発明家の関連回として、貼っておく。
テスラについて、フォードとライト兄弟の関係について、ダグラス・エンゲルバートとGUIについて、も書きたいところだが。
(ごく手短に。ライト兄弟は、航空のパイオニアに頼るだけでなく、当時あった他の発明を活用した。自動車だ。ライト兄弟には、ちょうどよいタイミングで、軽い動力へのアクセスがあったという意味でもある。みんなつながっている)
もうネオンの話をする。
いや、その前に、繰り返す。
発明とは、何世代ものコラボレーションの結晶であること。1人の天才が目立つことはあっても、1人だけでは絶対に実現できないこと。偉大な発明は、常に巨人の肩の上にあるということ。
こういうことを忘れてはならない。こういうことが大事な話だ。
この回が人気があったこと、うれしかった。仲間がたくさんいる気がして。

wowakaさん × まふさん最高。私のライティング・テンション(?)をあげてくれる。ありがとう。常々思うが、故人も生きている。
1890年代。スコットランドの化学者ウィリアム・ラムゼーは、(英国の学者ストラットと協力して)ネオン・アルゴン・クリプトン・キセノンという4つの貴ガスを発見した。ラムゼーは(他の2つの貴ガスである)ヘリウムとラドンも単離・分析した。

これら6つの気体は、他の原子と結合しにくい性質をもつ元素群を形成している。最外殻電子殻が満たされているため、通常の条件下では、非常に安定し反応性をもたない。価電子が全て満たされた独特な電子配置によるもの。rare gas から noble gas に、呼び名が改められた理由だ。

ドイツの物理学者でガラス細工技術者のハインリヒ・ガイスラーは、ガイスラー管も作った。

ガイスラー管:真空放電管。低圧の貴ガスを封入したガラス管の両端に電極設け高電圧を加えることで、放電させるもの。色は、ガラスの含有物・ガスの種類や圧力・その組合わせによって異なる。ネオン灯や蛍光灯の先駆けとなった。改良された放電管は、電子やX線の発見につながった。
「管から放たれる深紅の光。それ自体が物語を語り・いつまでも心にとどまり・決して忘れることのできない光景だった。これまでの苦労を思い出した。あらゆる困難を乗り越えるだけの価値があった。この世の何物も、私が見たような輝きを放つものはなかったのだから」
深紅の光ーーネオンだ。

ネオン管:ガス放電灯の一種。高い光度の割に眩しさがなく・線的に発光し・さまざまな色を表現できる。広告照明に最適と言える。

ここまできたー!!という気持ちになるでしょう。当事者のような高まりを感じられるでしょう。タイム・トラベルはこうやって可能である。

ジョルジュ・クロードは、すぐに消灯してしまう原因をつきとめ、それを解決した。彼は、明るく安定して点灯するネオン管を生み出した。例)6mのネオン管の輝きが1200時間も持続。エジソンのパターンと同じく、大変重要なことだ。
これで。冒頭の「クロードが最初の人物というのはどうなのか」という言葉を説明しきった。
ガイスラー管に窒素や二酸化炭素を入れたムーア管というものも、先に米国で生まれていたーーなど。言っていくとキリがない。
クロードはネオン照明の発明者であると。このような断片的な情報の無意味っぷりが伝わっただろうか。
本当に別に知らなくてもいい。どんな人の前でも電球や蛍光灯は光る。恩恵を受けよう。
クロードは、1910年のパリ・モーターショーで、オレンジ・レッドに輝く10m以上のネオン管を発表した。(厳密には、初公開は同年のパリの政府庁舎だったと言われているが)

岡田氏お得意のムーラン・ルージュの解説。
特許を取得し。「クロード・ネオン・ライツ」という会社を成立し。ネオン・サインの販売をはじめた。
10万ドル+ロイヤルティーという高額にもかかわらず、アメリカの大都市などでフランチャイズが続々とオープンした。
ネオン・サインを世界で最初に導入したのは、記録によると、パリの美容室(1912年)だ。「Palais Coiffeur」という文字がネオンで照らされた看板は、モンテマルトル通りで人目をひいた。パリ中の他の事業主が、独自の看板を注文するようになった。
アメリカに導入されたのは1920年代。ロスの自動車販売店の経営者が、「Packard」と書かれた看板を発注。すぐにアメリカ全土にも広がった。
世界中で使われるように。
タイムズ・スクエアの初ネオンも自動車屋だったが。シカゴの初ネオンは中華料理屋で。ラスベガスの初ネオンはホテルだった。このように、あらゆる業界がとり入れていった。
わかる。こんなものを1店舗だけが使っていたら、相当目立つ。うちもやろう!うちも!となるに決まっている。

文字にイラストが組合せられた。巨大なものも制作された。


1930年代なかばまでに、世界中のほぼ全ての主要都市で見られるようになると。ネオン照明技術は大きく進歩した。
例)ネオンのかわりにアルゴンを使用し、蛍光管のコーティングをさまざまな形で試したことで。「ネオン・サイン」の色の選択肢が増え、より多色で精緻なものになった。(こうなるとアルゴン・サインだよな、と思ったり思わなかったり)
冒頭に貼ったド派手な「フラミンゴ」看板(1953年)は、ラスベガスで最も象徴的なネオンのビンテージの1つ。
日本の最初の設置については、銀座の「谷沢カバン店」・「白木屋」大阪支店・日比谷公園と、諸説あるようだが。
谷沢カバン説を紹介する。
ピカソは言っていた。「もし私が中国に住んでいたら、画家ではなく書家になっていたに違いない」漢字はそのままで芸術性が高い。

明治から大正にかけて、西洋文化の流入で、さまざまなバッグの需要が急増したが。当時の日本語には、それらを包括する適切な言葉がなかった。
さすがに行李(こうり)ではない・袋でもないと。この会社が「鞄」(革偏に包を組合せた字)を提案したのだ。これが銀座や日本全体に浸透した背景には、ネオン看板の力もあったのではないか。

西洋文化を吸収し、独自のモダニズムを築いていった日本。
動画をお借りした。
こんな文章を書いているくらいだ。私は(も)ネオン・サインが好きなのだ。
ネオン・サインの傑作を見て。ネオン・サインのある最高の情景や空間、その唯一無二雰囲気を。

自然と人工物のこのあんばい。めちゃくちゃいい。


ピンクが効いてなかったらまた違うのだろうな。


新宿租界キーリングをいくつかもっていて愛用している。女の子っぽいのやネオン感のあるの。


いつメン(いつも読んでくれている人)は、ネオンの話でも宗教の話するのかよと言うより、ネオンの話でも神の話できるのもはやすごいよ()と言ってくれるだろう。ツッコミを入れられる前に自らふれておいた。
私が信仰心の詩を書いたのなら。絶対に自然の画像を添付したりしない。それは結果だ。私はもっと、構成要素や機構を感じたいのだ。なんでって、それが本当だしイケているからだ。





1960年代には、ネオン・サインの使用は減少傾向に。もはや目新しいものではなくなり、より安価な電飾看板が人気を集め出して。日本は、流行り出した頃だろうけどね。
この頃までのネオン・サインの多くは、鉛を含むガラスで作られていた。建築における鉛の使用に対する健康被害への懸念が高まり、より安全な選択肢へと移行していったというのもあり。
1980年代に、ネオンは短期間の復活をとげた。『マイアミ・バイス』などのドラマがネオンへの愛を後押しし、多くのナイト・クラブやバーが再びネオン・サインを採用したのだそう。

1990年代にまた人気を失い。近年は三度注目を集めている。
何回なくなっても戻ってきているのだから、もう明らかだ。人類は相当ネオンが好きなのだ。みんな素直になればいいのだ。笑
ヴィンテージ・ネオンと現代のネオンの最大の違いは、現代のネオン・サインのほとんどが実際にはネオンを使用していないことだ。
今は、従来のネオンやアルゴンの色を模倣する、カラーLEDが使用されている。


ネオン照明からLED照明への移行は、商業照明に革命をもたらしただけでなく、環境に優しくコスト効率に優れた照明看板への道を開いた。選択肢が増えることはいいことだ。

「〇〇までその色は幻だ」
ネオンは、管に閉じ込められ電気を流されるまでは、鈍く目に見えない気体だ。
「ロサンゼルスに着く前から、そのにおいがしていた。長い間閉めっぱなしだったリビングルームのような、古臭いにおいだ。しかし、色とりどりの光に惑わされた。すばらしい光だった。ネオン・ライトを発明した男の記念碑があってもいいのに」
レイモンド・チャンドラーの『リトル・シスター』に、こう書いてある。

前述したロスの自動車屋の看板は、オレンジ色のネオン管に透明な青いふちどり(おそらく水銀を加えたもの)で。1923年製の5人乗りの車の半額ほどしたが。見とれて立ち止まる人たちによって交通渋滞が起こった。
第一次世界大戦のトラウマと大恐慌の影響から、立ち直ろうとしている最中の世界において。それはまさに、「新しいもの」であった。

これも1939年なのが切ない。
第二次世界大戦中の夜間停電は、アメリカ中のネオン・サインを消した。そのまま二度と点灯されないものもあった。
悲しい話だな。
ネオン作品を文化遺産だととらえ、保存や復元をしようと奮闘してくれた、収集家らがいた。
なぜ、ロスやベガスだったのか。ここにも学ぶべき点がある。
白熱電球の時代から。照明広告はあくまでも建物に随従するという制約があった。だが。道路中心の都市であるロスやベガスは、その制約から解放されていた。
それらの都市では、広告は主に車上から見られる。車上から見るための広告がまず設計され、それに追従する形で建築がたてられるという、逆転現象が起きていた。
建築から解放された照明広告は、特にベガスにて、多彩で巨大なイリュージョンを形成した。
「ラスベガスを1マイル離れた91号線からながめれば、建物も樹木も見えず、ただ広告しか目に入らない。塔のように高々と、空中にそびえている。時に弱く時に強く輝きながら、回転している。芸術史のいかなる概念をもってしても、そこに展開する多彩な空想を表現することはできない」『エレクトロ・グラフィック建築』より。
やはり「エメラルド・シティー」感がある。
ネオンは文化だ。
80年代。タイムズ・スクエアからネオン・サインを排除しようという都市計画は、市民団体の運動によって、阻止された。
現在。多くの美術館が、新しいノスタルジーの対象として見い出し、ネオン・サインを展示している。
「発光する線」は、芸術上の造形において、非常に使い勝手のよいものであろう。
100年以上前に発明され何度も衰退しかけた古典的なネオン管は、今でも存続している。
広告という特殊な用途であったことは、大きかっただろうが。大量生産でなく1つ1つを受注する方式であったため、市場が小さくなっても単価が上がりにくかったのだろうが。
それでも。
「多方向に光が広がるあの感じは、LEDでは出せない。ネオンは光のぼけ方がよく、LEDの光にはないいかがわしさのようなものがある」
「これだけ流行っているにもかかわらず、ネオンの職人は増えていかない。技術のあるネオン職人は60代〜70代(FAXで仕事をしたりする世代)だ。ネットで検索してもひっかからないからだ」
という文章をネットで見かけたのだが。いや、ネオンで商売をしている人が言うのだから、そうなのだろうが。
先ほど書いたとおり、LEDも改良されていっている。

LEDサインへの移行が進む大きな理由に、職人の手作業では量産化ができないというのがある。
職人の卓越した技術による手作業で、丸くて細い筒状のガラス管を曲げて文字形にする。独特の勘をそなえた熟練者でも折ってしまうことのある、繊細な管。技術の継承は容易ではないというのも。

ガスを充填する製法や高電圧を必要とすることから、破損すると事故や火災につながる危険性があるとして、ネオン管は消防法による規制の対象になっている。低電圧で動作するLEDネオンは、高電圧で動作するネオン管に比べて危険性が少ないし。LEDネオンの素材はネオン管のようなガラス製ではないため、割れた時にケガをする心配もない。これらは事実だ。
LEDネオンの部材費が低価格化していても、ネオン管の方が導入コストをおさえやすいが。高寿命・低電圧という特質から、LEDネオンはネオン管に比べて、ランニング・コストが圧倒的に低い。
これらも要因であろう。
ネオンの光は希望の光だ。

競争はいいことだ。限られたパイをとりあう系の発想しかもてないと、いくらそれが現実だとしても、心もち的につらかろ。みんなで楽しく響きあおう。「これ」は、オーケストラもしくはバトン・リレーだよ。
テキトーによさげなことなど言っていない。今回は、この話を掘り下げていないだけだ。

人間には、違う朝をむかえる能力がある。自ら望んで選択して、だ。サルトルは広く深く見通してこう考えた。我々は自由である運命にあると。
