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プラグマティズムについて

アメリカ哲学の伝統とはプラグマティズムの伝統である、と米国の学者が言っていた。

今回は、プラグマティズムについて書いてみようと思う。基本はおさえながら、何かしら個性的な文章が書けるように努力してみる。

これ、本の表紙。渋いよね。

プラグマティズムは、問題解決・意思決定・物事の予測・行動/実行のための手段としての、言語・思考・意味形成に焦点をあてている。

知識・言語・概念・意味・信念・科学……は、その実際的な用途と成功を通してとらえるべきであり。楽観主義や悲観主義・社会が決める善悪ではなく、機能的かつ応用可能な現実的視点にもとづいてとえるべきである。

ざっくり言うと、こういう哲学的思想だ。

もっとカジュアルに表現してみようか。人生はこう↓であってはダメ!というのが、プラグマティズムだ。

暗闇の中で車を運転している私
「これが道であることを願う」

真実は、抽象性ではなくその機能性と実用性によって、決定され左右されると言っているようなものだ。

それって、どうなの?

プラグマティズム自体、もちろん深堀りしていくが。「社会が決める善悪」ここにもフォーカスしていきたい。

無論、社会で決まっているルールを無視したり・違反したりしてもいいのではないかーーなどと検討していくという意味ではない。


私たちは、道徳的・政治的退行が蔓延する不安な時代に生きている。

道徳的な進歩が全くないとは言わない。

女性や非異性愛関係にある人々の権利は多くの地域で改善されたし、アパルトヘイトはより公正な制度におきかえられた。

「成しとげるまでは、いつも不可能に思える」
ネルソン・マンデラ
コーサ語のフルネームは Nelson Rolihlahla Mandela だ。Rolihlahla の意味はトラブル・メーカー。渋い!
日本人が「ウーマン・リブ」と呼ぶのは、
1970年に朝日新聞がそう紹介したかららしい。

Women's Liberation は、ベトナム戦争反戦運動や公民権運動が起こっていた頃のアメリカではじまった。

動物を虐待したり・子どもを暴行したりすることが間違っていると感じるのは、単に個人の価値観や文化の慣習だけによるものではない、と私たちは基本的に考える。え、そうだよね?

(ふと、確認を入れてしまったように。案外、コンセンサスがとれているわけではなく。私は〇〇で当たり前だと思っていたのだけれど……ということが各自にある感じ。それが社会の実態だと思う)

私たちの信念は、あらゆる種類の歴史的偶然に依存して発展してきたのだ。歴史的に偶発的な能力や限界をもち、そこから道徳規範を生み出している(にすぎない)。


具体例をもって、説明する。

教育について語った『エミール』の中で、ルソーが女性に教えようとしたのは、男性の判断に服従することや夫の不正に耐えることだった。

現実に存在する不平等は歴史的・社会的につくられたものであると見ぬいた人が、女性には自由や平等が与えられなくても仕方ないと?

ルソーは、両性の身体構造の差の精神への影響を考慮していたようだ。いや、それはまっとうな考え方だよ。そこから、一方は能動的で強く・他方は受動的で弱くなければうまくいかないと。彼なりにマクロに、世界の調和を考えてのことだったのではないだろうか。

過去回のこの部分を見てほしい。

このように。目的は同じでも手段が異なるというのは、珍しいことではない。

(十中八九、男女の「脳」に差はないが。明らかに違う身体箇所はたくさんある)


もう少しルソーの話を続ける。一旦、つながりが見えにくいかもしれないが。後でわかる。

生後すぐに母親と死別し・父親とも事情があり一緒に暮らせず・兄は行方不明に。親戚のもとに身を寄せたルソーは、そこで虐待を受けた。本だけが友達状態になってしまったのに、読書をすることもはばまれ。盗みなどの非行に走るようになった。

彼に、不当な支配への反発心がなかったとは考えにくい。かなり高い確率で、そういう基本概念をもっていただろうと推測できる。

家出をし、放浪生活へ。あるカトリック司祭の保護を受け、ひとまず落ち着ける場所を手に入れた。その頃、15才で運命の女性と出会う。相手は29才だった。「彼女は私を天国へと導いてくれる伝道師だ」生い立ちに同情し、いろいろと面倒を見てくれた人だった。後に身内として彼を引きとり、さまざまな教育を受けさせてくれた人だった。

Françoise - Louise de Warens
日本ではヴァランス夫人と表記するようだが。
仏語の音を聞いてみたら普通にウォレンスだった。

生涯で最も幸福だったのはこの時期だったと、ルソーは晩年に語った。

「私が真の愛情を感じたのは、生涯にただの一度しかなく。その相手はラルナージュ夫人(ルソーが恋愛をした別の女性)ではなかった。私はヴァランス夫人を昔も今も愛している。そのようにはラルナージュ夫人を愛さなかった」

「私が自らに課した禁欲を彼女も認めたふりをしていた。しかし。それは、顔には表さなくとも、女性が決して許そうとしないものの1つなのだ。そのために自分が禁欲せねばならぬからというよりも、自分の肉体が無視されたと思うからだ」「彼女の肉体を自由にし得る時に何もせずにいることは、彼女に対する最も許しがたい罪となる。これに例外はないように見える」

(完全に的を射ている。女という生き物に対して察しのいい男だ。禁欲 → 彼女と肉体関係をもった時、どうしても近親相姦みを感じてしまったんだね。しかたないよ、ルソー)

この音楽(歌詞はロマンチックなラブ・ストーリー)のYouTubeコメ欄に、「読者とその架空の恋人や夫に完全にあてはまる。読者がこれを現実ではなく想像であると理解した時」というコメントがあった。普段なら、白ける皮肉を言うなよと思うが。プラグマティズムについて考えている今、深いものに見えたりしてしまった。

『エミール』には、こういう内容もある。

「小さな義務を果たすことは英雄的行為に匹敵するほど大切なことだ。常に人から尊敬されるように心がけよ」と助言してくれた牧師は、私が無為のあまり邪道におちいりそうなのを救ってくれた人だった。

ルソーが、人間の自由と平等を語る文脈で「人間」に女性を含めなかったような人には、私には思えない。

私の言いたいことが伝わるといいのだが。人間や物事は多面的なのだ。


いつなんどきどうなるかわかったもんじゃない、ということでもある。

こちらの記事からお借りした。

前述した文章を繰り返す。

私たちの信念は、あらゆる種類の歴史的偶然に依存して発展してきたのだ。歴史的に偶発的な能力や限界をもち、そこから道徳規範を生み出している(にすぎない)。


世界のあらゆる場面で、私たちは「これ」を見ることができると、私は思うんだよ。

女性が泣いているのが聞こえたのだが、本人がはぐらかすため、支えてあげることができない男性がいる。いつか準備が整ったら、僕に話しておくれよ。なんだって聞くから。でも、それまではこう言うよ。風の音だったんだね。

『Must have been the Wind』(風だったに違いない)という歌だ。


プラグマティズムの基本的な思想を思い出してほしい。

実際的な用途と成功を通してとらえるべき・社会が決める善悪ではない・現実的な視点にもとづくべき・真実は機能性と実用性によって決定され左右される。

これを採用すると。ルソーは、著書で公に説いた内容から、端的に女の敵にしかなり得ないだろう。ルソーはこういう理由でこう言ったのではないかと私が思いをはせたこと、ましてや彼のラブ・ストーリーを私たちが知ることなど、全て無意味である。

「真実」とは?なんだか切ない気持ちになってくる。

プラグマティズムはアメリカの哲学?米国政府は、どんな背景や理由があろうがイスラエルのやっていることはダメ、というスタイルをとっていないではないか。ああ、そうか。プラグマティズムはアメリカの哲学!あんなことをするイスラエルでも止めないことで、何か自分たちの実利にかなうのか。

私が人生で最もアメリカに失望したのは、この日だ。スタンディング・オベーションと書いて恥と読む、という感じだった。ネット上のアメリカ人たちも失望しすぎて、恥ずかしい!以外の語彙力を失っていた。

これネタニヤフね。残りはイスラエルの犬なのかな。
オバマは否定コメントをしたらしいが。
もうどうでもいいよ全員終わってるよ、と思った。

米国で暮らしたことのある私が・あたまとこころの一部が米国産な私が、その頃の諸々の嫌な思い出よりも、こちらの方に嫌悪感を抱いたのだ。最悪の気分になった。

「ガザ地区1日あたりの子どもの死亡数として最多」という記事。これは3月半ばのものだ。停戦のやりとりは何だったのだ。


少しずつ、けれど確実に、世界は壊れていく。

どれも昔のこと?

今までに改善されたことがないとは、最初から私は言っていない。本質的に成長しているように見えない、と言っている。

今まではよしとされていたものやなんら問題視されていなかったものが、ある日突然「悪」へと変わる。世間の批判を一斉にあび、集中攻撃を食らう。まるでウィルスのように一気にはびこる。何が。マリスがだ。

野沢尚作品で私のオススメは『呼人』だけれど。

1週間もすれば忘れ去ることができるような内容に大興奮し、新たなターゲットを見つけてはそれを繰り返す。この現象は(明らかにインターネットを介して)加速している。つまり。人々は、自らがターゲットになる可能性を上げていっている。

こちらからお借りした。
一部の男性も、理想の夫像を語っていたくせにと怒っていたようだったね。こちらは、大口をたたいておいてーー的なことだったのだろう。いくら影響力のある人物だからと言って、赤の他人のライフ・スタイルがなぜそこまで気になるのだ。

根本的な意見の相違は、ソーシャル・メディアのサイロによってあおられている。

あらゆる領域において、科学的・政治的・倫理的・美的に、私たちは真実を追求することを目指しているが。歴史上も今も、一部の人たちは真実とはまるで無関係のような存在に見える。

制度が硬直しているところこそ、詐欺師の楽園となる。まじめくさった軍隊や貴族社会や王宮の政治機構をコケにして、痛快な悪ふざけや大泥棒を働く悪漢たちが跋扈する。18世紀~20世紀、まさに近代的システムが整備されんとするヨーロッパの出来事をその裏面と深層から見すえる。(紹介文そのまま)

 「自分で調べることをよしとする」時代に、専門家が無視されている。(私は今、適切な情報に行きつけもしないようなド素人のファクト・チェックなどのことを言っている)

公衆衛生対策や選挙結果に関する陰謀論が、蔓延している。物事を疑ってかかるのが悪いのではなく。リサーチと呼べるほどの行為ができない人が多すぎること・短い時間と少ない労力で知った気になりたがる傾向が強すぎることが、問題だ。

私たちは「ポスト真実」の世界を生きている。昔も今もいつだってそうなのだから、ポストと言うのも微妙か。


ここからは、プラグマティズムの代表的な思想家たちを見ていこう。

ウィリアム・ジェームズ

ウィリアム・ジェームズは、神学者の息子として、1842年にニューヨークで生まれた。父親が家族をともなってヨーロッパ各地を旅したことから、ウィリアム少年は大西洋を横断する折衷的な教育を受け・経験を得たそうだ。心理学の講義を米国で開始したのは彼だ。

若かりし頃のジェームズ。ブラジルで撮ったらしい。
いいね😂人柄が伝わってくる感じがする。

「運命が1つの扉を閉じたならば、信念が別の扉を開く。開いている扉を見つけよ」

「人は幸せだから歌うのではない。歌うから幸せなのだ。人は楽しいから笑うのではない。笑うから楽しいのだ」

「祈りは宗教を行動に表したものだ。つまり、祈りこそ真の宗教である」(これは後でとりあげとみようと思う)

「どんなに金言名句をたくさん知っていても、どんなによい気質をそなえていても。機会がくるたびに具体的に行動に出なければ、人格は少しも向上しない」

全て、ジェームズからの引用。


これ、すごくプラグマティズムっぽい話だ。

「プラグマティズム」は、ギリシア語のプラグマ(行為・実践)からの造語だ。


チャールズ・サンダース・パース

この用語を最初に用いたのはチャールズ・サンダース・パースだった。彼の1878年の論文『如何にして我々の観念を明晰にすべきか』の中に、はじめて登場した。

パースはマサチューセッツ州のケンブリッジ生まれ。ハーバードやMITがある土地だ。

父親は、50年以上ハーバード大の数学教授をつとめた人物で。数学科のポスドクは、その名を冠して、Benjamin Peirce Fellows and Lecturers と名づけられた。

息子も秀才だった。ハーバードの卒業生らを中心に結成されたサークル、形而上学クラブ。その主要メンバーにパースがいた。会合で、(先ほど書いた)「プラグマティズムの格率」を発表したりしていた。

残念ながら、生きている間に彼が世に知られることはなかった。

具体的事実や実際的結果を重視する哲学思想「プラグマティズム」を広く世に知らしめたのは、ジェームズだった。2人は友人だった。その後、ジョン・デューイやジョージ・ハーバート・ミードによって展開され。20世紀におけるアメリカの主要な哲学潮流の1つとなった。


プラグマティズムには、米国の開拓者精神やアメリカン・ドリームの実力主義が反映されている。プラグマティズムは、「新世界」アメリカの風土に合致した実験的精神を色濃く反映している。と考えられている。

思考の唯一の働きは信念をつくることであり、信念とは行動のための規則である。パースはこう信じていた。バチッと言いきっていていいねと思う。

プラグマティズムの射程は、認識論を中核として、形而上学・道徳論・社会理論にまでおよぶ。

拡大して見ていくと、仏教も同じことを言っているよな。生物は動的であるからして、「変化が唯一の不変」なのかもしれない。


パース、「プラグマティズムの規則」なるものを提示。その際、幸福を求めるプラグマティッシュ(実用的)な法則と、幸福であるに値することのみを求めるモラリッシュ(道徳的)な法則の区別を意識したという。

パース、(前述した)「プラグマティズムの格率」なるものも提示。我々の概念の対象によってもたらされると考えられ得る実際の効果が、いかなるものであるかを考察してみよ。これらの効果についての我々の概念が、その対象について我々のもつ概念の総体である。

私の中で、この言葉が安達祐実さん演じる少女のキャラクターのセリフとして、再生された。こんなにしっかりした少女なら言うかもしれないと、絶妙なリアリティーを感じ。自分で発生させたアテレコに自分で吹いてしまった。

お金がないとお母さんが死んじゃうんだもんな。ストレートだよな。シナリオ・ライターは才能があるよね。パースみたいに小難しく長ったらしいことを言わないもん。印象的で短いキーワードにできている。


パースは、ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスを高く評価していたそうだ。

私は、このグーフィーみたいな顔の銅像に
どうしても笑ってしまう。

曲としてもテーマにあわなくないな。貼っておこう。「純愛なんてさ信じてたのに 本命じゃなくて浮気女側」これはプラグマティズム的に問題❌だろう。

スコトゥスは中世ヨーロッパの神学者で哲学者だ。

トマス・アクィナス後のスコラ学の正統な継承者と言われているが(その表現に間違いがあるわけではないが)。スコトゥスとアクィナスの神学観は異なっていた。

アクィナスが神学を、純粋に理性的探求ととらえていたのに対し。スコトゥスは神学を、人間を神への愛に導く実践的な学問ととらえていた。人間の幸福は、神を直観することではなく神への愛の実践にあるーーといった感じだ。

スコトゥスとパースのつながりが垣間見える。

ジェームズもスコトゥスのような意味あいで、「祈りこそ真の宗教」と言っていたのだろうか。わからないが。そうだとしたら、私の価値観とは違うや。


アクィナスの話をする。私がしたいからする。

アクィナスを、歴史上最も偉大で・最も生産性の高い哲学者とみなす人もいる。

アリストテレスの著作1冊に対する彼のコメントは50万語におよび、全体では800万語にもおよぶ膨大な著作を残した。

彼の『神学大全』は比類ないものだ。彼の『哲学大全』も比類ないものだ。

『哲学大全』は、「神は存在するのか。以下の理由から存在しないように思われる」という一文ではじまる。衝撃だ。彼が生きたのは約800年前だ。反対者の見解をここまで真剣に受け止め・こんなにも公平にあつかう人がいたなんて。衝撃だ。

神学と哲学の統合を試み・神は聖書とは別に証明できると説き・両者は互いに補完しあいながら機能すると語った。ヨーロッパを徒歩で縦横し人々にそれを教え・勝ち負けではない知的な理解を与えてまわった。

当時として、異例のロール・モデルである。

ベノッツォ・ゴッツォーリ作『聖トマス・アクィナスの勝利』。(タイトルからして心配)

黄金の太陽の下で玉座についているのが、アクィナス。彼を称賛するように見下ろしているのは、キリストと福音書記者たち。敬虔な様子で彼の両脇に立っているのは、アリストテレスとプラトン。

すごいあつかいだな。それはまだいいのだが。

彼の足元で押しつぶされているように見えるのは、12世紀のイスラム哲学者ルシュド

ルシュドの別の絵。

かんべんしてほしい。この絵の作者はアクィナスをわかっていない。

このように。アクィナスの信奉者たちは、自分たちの敵に対して、師の思想を鈍器のように使うことがあった。アクィナスがカトリックの戦斧などと呼ばれてしまうことがあるのは、そのせいだ。

実例を1つ。
アクィナスが仏国王(ルイ9世)と会食をした時のこと。
彼は、突然、こぶしをテーブルにたたきつけた。
高級なティー・セットがガチャン!カタカタ……と鳴った。
「これでマニ教徒も落ち着く!」
物質は悪であると言うマニ教徒らへの、反論を思いついた瞬間だったのだ。
ルイ9世、びっくりさせないでよー!と、こういう顔文字みたいになったのではないか。笑
Σ(´□`;)
後に、彼の信奉者たちがこの行為だけを表面的に模倣して、テーブルに『神学大全』をたたきつけるということをするようになった。

画家を少しは擁護すると。15世紀、スペインやイタリアからコンスタンティノープルにいたるまで、キリスト教国とイスラム教国の間の緊張が戦争へ発展していた頃だ。イスラムの学者をふませてしまったのも、まぁ、しかたない。

温厚なアクィナスは、激昂した場面でさえ対立者と冷静に向きあっていた。自論と完全に異なる理論に対しても、個人攻撃を決してせず「自明の理に反する」などと記していた。

信仰と理性は調和のとれたパートナーシップにある、と主張していた。著作は明快で構成も整っており、大げさな表現がぜんぜんない。信仰を共有していない他の思想家たちから、絶えずインスピレーションを得ていた。神に関する真実を熱心に追求するには開かれた心が求められる、と深く理解していたからだ。

現代人もアクィナスについて知るべきなのは、彼が全てにおいて正しかったからではない。彼の姿勢や態度に普遍的な学ぶべき点があるからだ。

人生の終わりに言葉では言い表せない神のヴィジョンを体験したアクィナスは、「私が書いてきたのはただの藁だ」と言った。


現代社会において。「我々か彼らか」という力学は容易に認識できる。

SNSによって際限なく増幅される怒りにおぼれ、敵を倒したり問題を解決したりしてくれる(ように見える)ヒーローを熱烈に応援する人々。批判・ミーム・皮肉。それらが真実かどうかは関係ない興奮さえすればよい、と言わんばかりだ。

そういうことに生きがいを感じている人たちが、大勢いる。

これは違う。彼はすばらしいことを言っている。

アクィナス式でなく、まっこうから激しく対立しても。本気と本気のそれなら、こんなにも素晴らしい。

左:アインシュタイン  右:ボーア

ある種の実験では。全く同じ条件で行ったにもかかわらず、結果が同じにならないことがある。X%の確率で結果Aになる・Y%の確率で結果Bになる……と、確率的にしかわからない/確率的にならわかる。実験をはじめた時には結果がまだ決まっておらず、結果を測定した瞬間にAになるかBになるかなどが決まるのだ。(ボーアの確率論)

アインシュタインはこれに同意せず。実験は全く同じ条件で行われてはいない。人間の技術ではまだはかり知ることのできない物理量があり、それが異なっていたのだとした。(アインシュタインの隠れた変数理論)

アインシュタインが「神はサイコロをふらない」と言ったのは、このような状況で・ボーアらの考えを批判する文脈でだ。したがって、彼がこう見解を述べたのも自然な流れだ。「今日の科学が神の存在を証明できないのは、科学がそこまで発展していないのであって、神が存在しないのではない。人間の五感は限られており、神の存在を感じることはできない」

ボーアとアインシュタイン

1926年のこと。シュレーディンガーは、ボーアの招待を受け、コペンハーゲンにいた。

古典物理学の老大家たちから、彼の描は熱狂的に受け入れられていた。これで、中途半端な量子の連続性の沼であがかなくて済むと。再度、厳格な仕事が優勢になると。

若い物理的者たちはその逆だった。その猫は半古典的だと。波動力学の直感性は認めるが、アインシュタインの道からもボーアの道からもそれるものだと。

ボーアとシュレーディンガーの討論は、コペンハーゲン駅ですでにはじまっていたそうだ。議論は全くの平行線のまま、数日間続いた。あたまを使いすぎたのか、シュレーディンガーは発熱してしまった。妻に看病をさせつつも、寝こむシュレーディンガーの枕元でボーアはささやいた。まだまだ話しあうからな、君が私の考えを理解し受け入れるまで。的なことを😂

これはウィリアム・ジェームズの考えだが。プラグマティズムにおいて、真理とはベールをはがされ発見されるのを待っているような存在ではない。プラグマティズムにおいて、真理とは発明だ。

小ネタを1つ。シュレーディンガーの若かりし頃の写真を見てほしい。星の王子さまみたいだから。笑


アインシュタインはこうも言っていた。「理論上は理論と実践は同じである。しかし、実際にはそうではない。したがって、実用性という概念は理論レベルではなく、実際に機能するものに焦点をあてている」

プラグマティズムの最も重要な特徴の1つは、実践的な結果を他の全てよりも優先させる方法論的思考だ。

プラグマティズムは、豊かな人間経験とその実践的含意を重視しているのか。それとも。プラグマティズムは、実用性へ傾倒しすぎているのか。

プラグマティズムは、コミュニティーの幸福などに対する実践的な解決策の適用を奨励し。自身の幸福のみならず、社会への貢献・世界をよりよいものにするための実践的な活動の重要性を強調する。

ジェームズは、心理学における機能主義学派の先駆者でもあった。人生において有益で健全な実践的側面だけが、真に意味のあるものだと信じた。


親は理想主義的になりがちだ。我が子に、自分が知る限りの最高のものを与えたいと願うため。

愛ゆえにだが。明確な境界線をもうけ、それに従わない場合に厳しい罰則を科したりしてしまう。

このアプローチが子供の反感を買ってしまうことに気づいたり、「一般的なアプローチ」というものは通用しないと気づいたりすると。より現実的な考え方に転じる。柔軟な戦略を採用し、実践を通じて何が最も効果的かを探る。

このような過程を通じて。子どもをある程度自由にさせる方が厳格なルールを押しつけるよりもいい、と学んでいく。


「良い計画を今激しく実行することは、完璧な計画を来週実行するよりもよい」ジョージ・パットン

すごいね😅


創作活動に情熱を注ぐ人が小説家を目指しているものの、そのキャリア・パスの不安定さと不確実性を理解しているーーというケースがあるとする。

実際に、よくあるパターンだろう。

日常生活の要求と経済的な安定を考慮し、まずは、企業のコンテンツ・ライターとして安定した仕事に就くことを選択する。これにより、自分のライティング・スキルを活かし、定期的な収入を得ることができる。空いた時間に小説の執筆を続けることもできる。


抽象的原理を排し、実際に行動を起こして、そこから得られる結果にもとづいて物事を判断する。能動的かつ積極的な精神態度。

たしかに、アメリカンだ。内面的思索を重視するヨーロッパの哲学とは異なる。


他の哲学運動と比較してみる。

理想主義:抽象的なアイディアや概念ではなく実際的な結果に焦点をあてるという点で、異なる。

合理主義:理論的推論よりも経験と実践の重要性を強調するという点で、合理主義とは対照的だ。

経験主義:いくつかの類似点を認めるが。実際の応用の重要性を強調するという点で、単なる観察を超えていると言える。

実証主義:実証データーによる科学理論の検証ではなく実際的な結果に着目するという点で、異なる。


最後に。

プラグマティズムは、南北戦争後の荒廃から出発した思想である。

自らが正しいと信じて疑わないこと。それは両刃の剣である。プラグマティズムを考える時、これに留意することが必須であると感じ。今回、プラグマティズムの解説に、異なる意見をもつ者に対する接し方の話をあわせて書いた。

信念の一致は傍観者を安心させる。矛盾した信念は、それを抱く人々の「認知的不協和」というよく使われる用語を浮き彫りにする。

新型コロナウイルスは生物兵器だが、子どもや大人が感染しても安全な普通の風邪であり、ワクチンの方が危険であるという考え。たとえばね。

少なくとも表面的には、矛盾している。

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