誤謬や犯罪さえ、私たちをつないでいるのかもしれない。
今回は、「バイアスを超えれる人間は1割以下」という回の続きを書く。別個に読んでも完結するように書く。
これは、確証バイアスの話を私なりに書いたものだったが。
その他、認知・権威・正常性・希少性・内集団・後知恵・自己奉仕バイアスが、それぞれどのようなものであるか。そういう話はもうしない。
不安材料が羅列されただけの文章は、私の趣味ではないため。
次の問いに答えてほしい。
リンダは31才、独身。率直で聡明な女性だ。大学では哲学を専攻していた。差別問題などの社会正義に深い関心があり、とあるデモにも参加したことがある。
どちらがより可能性が高いか。
① リンダは銀行の窓口係である。
② リンダは銀行の窓口係であり、フェミニスト運動に積極的にとりくんでいる。
認知的誤謬に関する研究で有名なトベルスキー氏とカーネマン氏がこの質問をした時、被験者の8割以上が②を選択した。
もう1つ答えてほしい。
どちらがより可能性が高いか。
① 車のタイヤが明日パンクする。
② 車のタイヤが明日パンクし、青い車に乗った男性が助けてくれる。
①より②の方が可能性が低いことは明らかだ。
最初の問いで②を選んでしまった人へ。別に、落ちこんだりする必要はない。明るくいこう。

何も気にすることはない。相変わらずおもろい人だw
さて、該当者に何が起こったのか考えてみよう。
① リンダは銀行員。
② リンダは銀行員でフェミニスト。
①はフェミニストの銀行員を除外しない。①に該当せずに②に該当することは不可能。よって、論理的に②を選ぶべきではない。こんなにも明白に。
しかし。被験者らには、リンダの背景情報が与えられていた。彼女の特徴的な経歴により、8割の人の中で、リンダは「フェミニストの代表者」になってしまった。

ヒューリスティック(経験則と同意語)を誤って使用しているからだ、とトベルスキーとカーネマンは言ったが。
銀リン問題で被験者らがおかした、いわゆる連想誤謬は、問題の定式化に左右されるものかもしれない。
① リンダは銀行の窓口係だ。「彼女は単に銀行の窓口係でありフェミニストではない」と言っているわけではない。その可能性は残しておく。
② リンダは銀行の窓口係であり、確実にフェミニストでもある。
問題をこのように表現されていたならば。被験者らのほとんどが②を選ぶなどということは、起こらなかっただろう。

PEBKAC(エラーやトラブルの原因は機器でなくユーザーにある)の、逆のような感じ。
キーボードとチェアーの間 = 人間 が生じさせているとしても、だ。それは本当にプロブレムなのか?と。そういう話がしたい。

想像してほしい。
交代で複数人の有識者が語るイベントが、午前の部・午後の部と、繰り返し行われる。間に1.5時間の休憩をはさむ。運営のリーダーがスタッフに、講演者らが昼食を食べたかどうか聞いてくるよう、指示を出す。
スタッフが「A先生とD先生は、昨日は昼食を食べたが今日は昼食を食べていない」「B先生とC先生は、昨日も今日も昼食を食べた」という情報を入手し、「A B C D先生はすでに昼食を食べた」とリーダーに報告しても。意味上の誤りにはならないが。スタッフがリーダーにこう伝えるのは、大きな間違いである。
わざわざ言及しなかっただけで。リーダーが知りたいのは、講演者らが「この休憩時間中に」昼食を食べたかどうかだ。昨日の昼食は関係ないし、1週間前の昼食も関係ない。
そんな当たり前のことw・そんな奴おらんやろwwと思うことなかれ。
「答え」は、実世界の環境で意味的に表現されていない。話者が何を伝えようとしているのかを判断できるという、人間のスキルにもとづいている。先ほど、落ちこむ必要はないと書いたが。本当にそうで。1つの素晴らしい能力なのだ。
この能力の活用が適度でないため、リンダ = フェミニストになった。要するに、いらんことまで読みとりすぎやでと。そんなふうに総括されるのはちょっと違うんじゃないかな……と私は思うのだ。
ジョンとメアリーは結婚して、赤ちゃんが生まれた。/ジョンとメアリーは赤ちゃんが生まれて、結婚した。John and Mary got married and had a baby. /John and Mary had a baby and got married.
文章が「出来事の順序」という情報も伝えてくるため、私たちの中で、これらはイコールの情報ではなくなる。前者と後者に、異なる印象を抱いてしまう・抱くことができるだろう。
どの程度なら読みとりすぎで、どの程度なら適度だと言うのか。
上記の文章をLv.1とすると。空気を読む民族日本人は、対人コミュニケーションの中で、Lv.20くらいを常日頃こなしていると思う。

「古池や 蛙飛びこむ 水の音」は、もちろんのこと。最初に The sound ときては台無し。Old pond. Frog jumped in. Sound of water. こうしても微妙。英語ではダメだ。
「鮟鱇の 骨まで凍てて ぶちきらる」魚(あんこう)の立場で物を考えるし。最後に受け身系で自分があんこうになった瞬間、同時に死ぬ。
「金魚大鱗 夕焼の空の 如きあり」
雄大な自然と並んでも、飲みこまれることなく。夕焼けを背景に、空中にぐるんと回転する大きな金魚。生命力あふるる。スリー・ディメンショナルでファンタジック。(私のイメージ)

私たちは、十七音でたくさん表現できるし想像できる。
芥川龍之介の短編小説『手巾』で。
ある大学教授が生徒の訃報を知る。息子の死を彼に報せにきた母親の様子は、普段と変わらなかった。ひざの上で手巾(ハンカチ)をかたくにぎりしめていたこと以外。


こんなふうに言われると、気分は悪くないけれど。違いって、いろんな背景や理由があって出るものなんじゃあないの。
公用語がいくつもあると言われるスイスだが、本当で。「あの辺り越えたら言葉通じないから」「え、どうするの。困るじゃん」「関わらないから大丈夫」なかなかエポック・メイキングだ。→ 困っていないことに解決策は必要ない。笑
アメリカ人はかなり気づかい屋だ。仕事関係のメールが送られてきて、これはダメ出しだとすぐにわかる時がある。まず、苦労を労ったり・友愛を示したりする文章が長々と書かれている。最後に本題の一文がある。
中国人に関しては。中国のどこに住んでいる人かなどでぜんぜん違ってくる(生活や価値観がアメリカ人のようだったりする)ため、まとめて人種で語ることは、あまり意味がない気がする。
〇〇人は高/低コンテクストだからとかではなく。選択をすることで生じ得る結果を恐れて、選択の自由がないと思いこむ。このような人間の習慣を指摘し、フランス語で mauvaise foi と呼んだのが、サルトルだった。

サルトルの用語として自己欺瞞・直訳的に悪い信仰・悪意・不誠実……どう訳しても、ただ日本語に変えただけでは、何もわからない。
私の一番好きな映画監督、ノーラン監督も。嘘や虚構に対して独特な考え方をもっているが。サルトルも、虚偽は1つの超越的な行為だと言っていたため、嘘や虚構と自己欺瞞とを明確にわけていた。

実存主義において。社会の外的圧力に屈して誤った価値観を受け入れ、感覚をもつ人間としての生来の自由を放棄することで、個人は mauvaise foi 的に行動するーー。
Wikiの説明だけでもけっこうわかる気がするが。もう少し見てみよう。
サルトルは言っていた。演技は幸せな苦悩だと。
「ジェスチャーは生き生きと力強く、少し正確すぎ、お辞儀は熱中しすぎ、声や目はやや懇願している。動きを順序だてようとつとめているため、表情や声さえもメカニズムのように感じる」
これは誰のことなのか。
「ある種の綱渡りのような勇敢さでトレーを運ぶ、自動人形」


ウェイターのことなのだ。
「不安定を安定に導くこと、物事の機敏さと容赦ないスピードを自分自身に与えることで、遊んでいる。ゲームを楽しんでいる」
「彼はウェイターのふりをしているのだ」
サルトルは、自分もウェイターであるとした。いや、みんなウェイターであるとした。名前が外交官やジャーナリストであるだけで。
自分の中の「ウェイター」を使って、世界に流れこむことを試みている。心の底では、それが決してそうではないという事実を知りながら。

そして、サルトルはこう説いた。
ウェイターの役を演じるには、自分はウェイターではなく「ウェイターであると自分自身をあざむいている意識のある人間」であること・自己の中の存在はどこまでも「自己のための存在」であること、を認識し続けていなければならない。


『推しの子』をサルトルに見せてあげたかったな。結末が叩かれてる?のを見た。彼は、どちらのキャラクターも努力して素晴らしい!これは本物の人生だよ!と、言ってくれるんじゃないかな。スカウト時、アイさんに事務所の社長さんが起こした作用は、まさにサルトル的なものだったね。
(あと、ちょっと言ってもいいかな。今どきの子どもは、キャラが死ぬのに耐えられないのか。すぐ鬱鬱言う。浸ってみろよ悲しみに。そういう楽しみ方がわからないのか。若いくせにクレーマーのババアみたいだ。年とったら絶対ああいう感じになるぞ。よく作者さんの悪口とか言える。自分で描けば?)
たしかに。
実用的な関心を追求し、人間の本質とはかけはなれた社会的役割や価値観を採用する時。選択をする自由がなかったからだと、人は自分に言い聞かせているのかもしれない。そうすること自体が選択であると、自分に言い聞かせているのかもしれない。
安全で簡単なデフォルトの選択に固執し、他の多数の選択肢を認識しない。そうやって人は、自分がたまたまおかれた状況に翻弄される。

けれども、ナナミンは言っていた。小さな絶望の積み重ねは人を成長させもすると。

推しの子も呪術廻戦も、この点、違った価値を伝えているなと感じる。私はどちらも好きだよ。
借り物のアイデンティティーと自身のアイデンティティーの、境界があいまいだと。自分の信念や利益に反する行動につながってしまいかねないーーという教えに、最近の日本の政治でもあてはめてみようか。




当時から、多くの人たちがわかっていたことだろうが。ここで合流していたら、この党の今の結果はなかった。
Mr. Tamaki, you made a good choice.
サルトルがあげた他の例。
デート相手から容姿をほめられた女性。性的な意味をもつもの(今風に言うとヤリ目)だと気づかず。もしくは、気づこうとせず。意識のある人間としての自分へ向けられたものであると、とらえようとする(私はこの人に愛されているんだ!)。
男性に手をにぎられ。その手をにぎり返すこともはねのけることもせず・できず。女性は選択を先延ばしにする。

私には選択の自由がないんだ、と自分に言い聞かせることはできても。私は意識ある人間ではないんだ、と自分に言い聞かせることはできない。つきつめると。選択の自由がないと自分に偽るという選択までしているのだから、人間は自由である運命にあると。
サルトルはこのように言いたかったのであるからして、男性も、「チープなスリルに身をまかせても明日におびえている」のかもしれない。
フランスの実存主義者にとって、本物の人生とは誠実に生きることらしい。
心理学者にとって、それは認知的不協和のないことであるかもしれないし。
イソップ童話なら、キツネがブドウが熟していることを認めることかもしれない。

みんな見えるものが違う世界で、必要性があり、(地域ごとから国家単位まで)ルールが決められている。
連想誤謬(Associative Fallacy)に似た言葉に、連座有罪(Guilt by Association)という言葉がある。

あるギャングのメンバーが殺人をおかした可能性を知った米国の警察は、彼らのナワバリを捜索した。逮捕された人たちは、殺人の容疑者でもギャングのメンバーでもなく、無関係の近隣住民だった。
ペンサコーラ海軍航空基地での銃撃事件。サウジアラビア出身の訓練兵が銃撃事件を起こし、数名が亡くなった。一般人の多くが、証拠もなく、基地の他のサウジアラビア国籍の人たちも有罪だと言った。世論におされる形で、それはテロ攻撃だったとされた。
『アミスタッド』の1シーン。メンデ語で語られるセリフ。
「一体、どんな国だよ。ほとんどの場合、法律が正しく機能するって。そんな社会でお前らよく生きていけるな」
黒人奴隷にあきれられる西洋人。


より発展した複雑な社会だから、とは言えるだろうが。「土台が雑で倒壊する高層ビル」は、自慢できるものなのだろうか。
人々は、今まさに議論が行われているものの詳細に固執し、大きなもののビジョンにこだわることを避けがちだ。木ばかり見て森を見ないという意味。
サルトル「同じ時代に生まれ、同じ集団に属し、同じ出来事を経験し、同じ疑問を提起したり避けたりしてきた人々は、同じ味を覚える。同じ共犯関係にあり、同じ死体を彼ら彼女らの中に抱えている」
正義とは何か。人それぞれと言って逃げてばかりいないで、言語化というのをしてみなければならない時もある。
『翔んで埼玉』では、東京都をおとずれる埼玉県民は通行手形を要求される。東京都民は埼玉県民を規制できるが、その逆はできないこと。これは正義ではない。東京と埼玉を入れかえたら成り立たない = 東京や埼玉という固有性ありきで成り立つ「正義」は、正義ではない。

ひるがえって、不正義とは。たとえば、悪人っぽいから逮捕されることだ。(前述した2つの実例を思い出してほしい)
連鎖の誤謬と連座の有罪は、言葉が似ているだけではない。「バイアスを超えれる人間は1割しかいない」の、本当の怖さが伝わるだろうか。
ちなみに。愛は正義ではない。「好き」は究極の依怙贔屓だ。「好き」は固有性でしか説明できない。
愛と正義が両立しない場合、どうする。文字どおり世界中が敵になったら、十中八九、その人が何かしら悪いのだろう。それでもミカタするというのは、人間がよくとる行動の1つだろう。
正義は大変重要な徳であるが。人間が大切にしている徳は正義だけではない。
石上と花岡のことはこの回で書いたため、そちらの組みあわせにはフォーカスしない。
「僕がこの真相を暴いたところで、誰も幸せにはならない」
「私の知っている湯川先生は、感情に流されず常に論理的で、誰よりも真実を追求する人でした。もし先生が痛みに耐えられないなら、私も一緒に受け止めます」
彼女のこのエールがなかったら。おそらく彼は、大切なことのためにアイデンティティーを放棄していた。犯人や犯罪を見逃していた。頭脳戦として人類頂上決戦的であり、他がどれだけ束になってかかっても裁けない。彼が罪ではないと決めれば、罪ではないことになる。そういう一件だった。
ガリレオ・シリーズでは。大学教授と女性刑事の間に信頼関係や絆が芽生えているだけでなく、2人が互いにほのかな恋心を抱いていることが描写されている。
この作品は、正義が愛に勝った話などではない。この物語を動かしていたのは、はじまりからおわりまで、恋愛だ。湯川という個性が存続したのは、本人がさっぱりわからんと言っていた(うそぶいていただけだが)、愛というもののおかげだ。
そろそろ〆ようと思う。話の筋が見えにくいかもしれないが、聞いてほしい。
お金がなければ。物々交換やサービスサービス交換になる。
物々交換・サービスサービス交換の問題点。
トレーダーが入手したい商品やサービスが、別のトレーダーが手放したい商品やサービスと、同じである必要がある。あなたが手に入れたいアイテムを交換したい人や、あなたが交換したいアイテムを欲しがっている人を見つけなければならない。欲求の一致を達成することは困難であるに違いない。取引相手が見つからない場合、自分で生産する必要が出てくる。最終的に、多くの物やサービスに希少性が出る可能性が高い。同じ量のリソースから、より少ないものが生産されるようになる。
そんなことは重々承知の上で、違う世界線を想像してしまうものだ。私はする。物々交換をする人たちを思い描き、協力的で平和的な雰囲気を妄想してしまう。
人間に「不可能なこと」なのではなく、「今さらもう無理なこと」なのではないかと。そんな一例として。

もう一度、全く同じことを書く。
実用的な関心を追求し、人間の本質とはかけはなれた社会的役割や価値観を採用する時。選択をする自由がなかったからだと、人は自分に言い聞かせているのかもしれない。そうすること自体が選択であると、自分に言い聞かせているのかもしれない。
かなり表現の仕方の異なる2人がコラボした、このMVの撮影場所は、ウクライナのキーウだった。あの建物や道路はもうないのではないかと、エドはとても悲しんでいるに違いない。
「こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をはらって、信仰に善意を加え、善意に知識を加え、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を加えなさい」ペテロの第二の手紙4:1-6


