現実の辛苦を制限速度オーバーで置き去りにする青春の疾走 あるいは【映画レビュー】「2ペンスの希望 / Due Soldi Di Speranza」(1952)
2ペンスの希望 Due Soldi Di Speranza
1952年 イタリア 110分
★★★★★ (映画史に残る名作、必見)
監督:レナート・カステラーニ
脚本:レナート・カステラーニ/ティティナ・デ・フィリッポ
出演:マリア・フィオーレ/ヴィンチェンツォ・ムゾリーノ


先日「ニュー・シネマ・パラダイス」を映画館で観て改めて思った。
イタリア映画が好きだ。
好きな理由はいろいろあるのだが、一つには基本的にイタリア語の響きが好きなので安心感があると言うのがある。
自分はラテン語を大学時代にちょっと齧ったくらいで現代イタリア語はカタコトもわからないのだが、わからない分言葉が音楽のように響いてくるのが心地よい。
これは完全な相性のようなもので、同じラテン語系でもフランス語やスペイン語は時折なんだか不快に感じることもあるのに、イタリア語はそういうことがあまりない。
イタリア語の響きはオペラっぽくて素敵だ。
という感覚になるのはたぶんイタリア語で歌ってるオペラが多いせいでそういうイメージが染みついているからなのだろうが、自分はそれほどオペラが好きで聴くわけでもないので、人の思い込みと言うのは不思議だ。
もちろん、言葉の響きだけが理由ではない。
やはりヴィスコンティとフェリーニという二大巨頭の影響は大きい。
「山猫」のレビューにも書いたが、自分が十代の頃は彼らがハリウッド以外の「洋画」の本流のような扱いだったのだ。イタリア映画の黄金時代である。その中でもヴィスコンティとフェリーニは別格だった。
彼らの創作上のピークは1960年代から1970年代前半なので、イタリア映画のピークもそのあたりの時代だと思われがちだが、実際にはイタリア映画の最盛期は1940年代から1950年頃の「ネオレアリズモ」の時代にある。
この「ネオレアリズモ」という映画史上のムーヴメントの重要性については多くの論考がされているが、ファシズムの体制下では描けなかった当時のイタリアの「新しい現実」をありのままに表現しようとした文化芸術運動であり、イタリアという「敗戦国」が置かれた状況を創作表現の中で客観的に叙述し、過去に対する反省や未来に向けての知的営みを活性化させようとした運動でもあった。
映像技法、手法的には、ドキュメンタリー風の構成、スタジオではなく実際の街や建物でのロケーション撮影、素人俳優の起用、偶発性を重視した即興演出、などの特徴を持ち、テーマとして第二次世界大戦下もしくは直後の混乱や社会問題、貧困や庶民の生活など、戦争の影響を受けた人々が置かれた過酷な現実を描いていた。
全体主義に対する抵抗や戦後の混乱を生き抜く市井の人々の描写を通じて映画が社会運動と一体化していたことを表している。
「ネオレアリズモ」の作品群は、戦争で多大な被害を受けたイタリアの映画産業がなお卓越した製作能力を保持していることを世界に知らしめる役割を果たしたのだった。
これは、皮肉なことに、全体主義独裁体制下でプロパガンダ映像の製作に力を入れていたファシスト党政権が映画製作インフラに十分な投資を行った上、一定の人材を確保し続けていたことに負うところが大きい。ドイツ映画やフランス映画が戦後の国土の荒廃の中で産業としては凋落せざるを得なかったのとは対照的だ。
ロッセリーニの「無防備都市」「戦火のかなた」、デ・シーカの「靴みがき」「自転車泥棒」など、映画史に残るような名作が「ネオレアリズモ」運動によってこの時期に生まれている。
ヴィスコンティやフェリーニの出発点も此処だ。ヴィスコンティの幻のデビュー作「郵便配達は二度ベルを鳴らす」はネオレアリズモのはしりとも言われる作品であり、「揺れる大地」や「ベリッシマ」はネオレアリズモの代表作として名前が挙がることも多い。フェリーニは脚本家として、デ・シーカの作品に多数関わっている。ネオレアリズモでイタリア映画の優秀さが評価されたこと、その成立に彼らが直接関わったことは、彼らの後のキャリアを切り開く上で大きなアドヴァンテージになったはずだ。
そういう意味では、フェリーニもヴィスコンティもネオレアリズモの申し子なのだ。
この時期の、「ネオレアリズモ」に代表されるイタリア映画黄金期の作品の良い点は、かなりの数の作品を配信で観られる点だ。
パブリックドメインになってるものが多いのか、10本くらいを一纏めにしたDVDが安価で出ているので、そちらで鑑賞することもできる。
自分はサブスクで映画を観るようになってから、この周辺の映画を定期的に漁っているのだが、若い頃に見たもの、名前だけ知っているけど未見だったものなど含めて1年間ですでに30本以上に上る作品を鑑賞できている。そんな中で名前すら意識していなかった良作に会うこともたびたびあり、この当時のイタリア映画の底力に驚かされているところだ。
前置きが長くなったが、今回レビューする「2ペンスの希望」もそんな一本だ。
Amazon Prime Videoのおすすめに出て来た時は名前すら知らなかったのだが、キャッチには「不景気で貧乏な生活に苦しむ復員兵と、裕福な花火師の娘とのラブ・ロマンス。キャストは無名の新人ばかりながらもカンヌ国際映画祭グランプリに輝いた見応えのある傑作」と書かれている。
調べてみると、1952年のカンヌ国際映画祭のグランプリ(現在でいうパルムドール)を「オーソン・ウェルズのオセロー」と分け合って受賞している。
コンペティションを争ったのが他に「巴里のアメリカ人」「探偵物語」「花咲ける騎士道」「ウンベルトD」「革命児サパタ」であり、なかなか豪華なラインナップだ。
これらを破って受賞しているのであれば、歴史的な名画と言っても良いはず、なのだが、イマイチ知名度は高くない。実際自分も知らなかった。
カンヌのコンペティションで争った上記の映画と比べても知名度は劣るだろう。
一見した印象だとナンセンスコメディっぽい内容で、「これがパルムドール?」と感じる人がいても仕方ない。
だが、この映画、単なる青春コメディとして消費してしまうには惜しい、何とも言えない不思議な魅力を携えているのだ。
その一つの理由として挙げられるのは、この映画が制作手法のレベルでは、きわめて純粋なネオレアリズモの系譜に属しているという点だろうか。
ナポリ近郊の実在の町でロケーション撮影されており、登場人物の多くにはその町の実際の住民が素人俳優として起用されている。背景に映り込む街路や広場、家々の配置、人々の距離感や視線の癖は、演出で作られたものというより、そこに元々あった生活のリズムがそのまま写り込んでいるかのようだ。この点で本作は、表層的なトーンがいかに軽やかに見えようとも、少なくとも方法論の上では、ネオレアリズモそのものの手法で作られた映画であり、ネオレアリズモの直系と言ってよい。
だからリアリティがある、というのはあまりに単純すぎる評価だが、こういう臨場感の作り込み方こそがネオレアリズモの神髄である。扱うテーマも実は戦後の貧困と階級差、社会に残る因習といった「リアルな」問題である。
たしかにその描き方は軽く、登場人物は現実を笑い飛ばすかのように滑稽に振舞う。だが、彼らが走り回り、怒鳴り合い、感情を爆発させても、それが単なる誇張や演技過多に見えないのは、周囲の世界が「作られた世界」ではなく、現実そのものだからだ。
舞台は南イタリアの地方都市。
主人公は失業中の若い男アントニオと、全身全霊を賭けて彼を恋する娘カルメラである。
二人は愛し合っているが、結婚するためには仕事と持参金が必要であり、アントニオは職を得るためにあらゆる手を尽くす。
だが仕事は長続きせず、社会は彼に安定した居場所を与えてくれない。
周囲の大人たち、家族、村社会の規範は、二人の関係に現実的な制約を次々と突きつける。
本作の最大の魅力は、やはり若い二人の爆発するようなバイタリティだろう。
とくにカルメラ役のマリア・フィオーレの騒々しく激情的なパッションと直線的なスピード感に溢れたパフォーマンスは単なる演技を越えて良い意味でも悪い意味でも観るものを惹きつける。
存在自体が騒々しくて映画に集中できないという人もいるだろうし、それだけで厭になるという人がいてもおかしくない。そういうタイプのキャラクターだ。
自分はどちらかというと静かな映画が好きで、できれば登場人物にはあまり喋ってほしくないタイプなのだが、この映画のカルメラにはなぜか不快感を感じなかった。
やはりイタリア語の響きというのは大きいのかもしれない。これを日本語でやられると、おそらく煩くて仕方ないはずだ。言葉の壁というのは映画では良い作用をもたらすことも多い。
カルメラは、走り、怒鳴り、喧嘩し、泣き、笑い、比喩ではなく文字通り火薬を爆発させる。彼女はすべてをアントニオへの愛に捧げており、そこには一点の迷いもない。なのでその行動は常にものすごいスピードで一直線にアントニオに向かう。アントニオは時折そんなカルメラを疎ましく思い物理的に距離を置きながらも、心は離れない。そんな関係だ。
彼らの感情は物理的に解き放たれ、彼らの身体に直結して溢れ出す。その描写の爆発力が単純ながら凄まじい。その迫力は、実際に実家の花火工場に火を付けて爆発させてしまうにまで至るのだから、決して比喩にはとどまらない。馬鹿馬鹿しいがすがすがしい。

途中まで二人の愛情の熱量の公式は不均衡に見える。カルメラのアントニオへの愛情の深さが半端なく、アントニオはそれを真正面から受け止めることができない。
彼にはカルメラが裕福で、自分が貧困であるという負い目がある。今日的な感覚であればうまく取り入って逆玉を狙えばいいだけじゃないかと考えるのだが、当時の常識ではそれは困難だった。アントニオはカルメラの「家」の財力に見合うだけの「格」を身に着ける必要があり、それはカルメラの父から見ると経済力以外にはありえなかった。アントニオはなんとか安定した収入を得るための職に就こうと奔走するが、空回りする。カルメラはそれを支えるわけでもなく、勝手に嫉妬したり自爆したりして、アントニオの足を引っ張り続ける。
皆の前で結婚の許可を拒絶され、見世物にされる屈辱を味わった二人は「家」の支援を拒否して自分たちだけで生きて行くことを選択する。
最後に、アントニオは一転二人を祝福し応援してくれるようになった町の人々の声援に対しこう答える。
「大丈夫、みんなが貧乏じゃない。
神が俺たちを生かしたいなら食べ物を与えてくれるはず」
この無理やり感すらあるポジティブさが潔い。
物語としてはきわめて単純で、深い洞察があるわけでもない。
単に、愛し合う二人が信念を貫き、逆境を越えて結ばれ、その信念の強さ故に前途を祝福される、という割と能天気なお話だ。
だが、この単純さの中で描かれるのが、戦後イタリアの若者が直面していた現実そのものである。
失業、持参金制度、村社会の圧力、カトリック的倫理といった、戦後イタリアの現実は、すべてこの作品の中に刻み込まれている。
だが、二人は嘆かない。社会を告発しない。そんな暇はない。
ただ、生きるために動き続ける。立ち止まっている時間は与えられない。考えている間に貧困の中に呑まれてしまう。そんな時代の空気が映像越しにバイブレーションのように伝わって来る。
だからカルメラの非常識な行動も、スピード感も、アントニオが彼女を愛してながら全力で逃走するのも、どこか納得できてしまう。
とにかく映像のスピードが直線的でかつ速いのだ。
走り、喧嘩し、ぶつかり、時に絶望しながらも、感情を身体に直結させてとにかく一歩でも前へ進む。後ろを振り向くことはない。回想も過去の記憶も、ここでは何の意味も持たない。
人物の動きが速いだけではない、シーンごとのカットもめちゃくちゃ早い。あっという間に次のシーンへと移る。その殆どに何らかのコミカルなオチがあるので、観るものはノンストップで寸劇を見せられているような感覚に陥る。だが、それは笑わせるためだけの演出ではない。町の人々の暮らしのスピード感を表しているのだ。
この物理的なスピード感にこそこの映画が傑作である理由がある。
この映画が作られた1950年代初頭というのは、イタリア映画史の中でもやや中途半端な時代である。
ロッセリーニやデ・シーカによって確立されたネオレアリズモは、すでにその役割を果たし終えつつあり、一方で、後に世界的な評価を受けることになるフェリーニやアントニオーニの作家性が花開くには、まだ少し早い。
後にやや揶揄を込めてイタリア式コメディと呼ばれる作品群で一世を風靡するマリオ・モニチェリ、ルイジ・コメンチーニ、ナンニ・ロイ、エットーレ・スコラらはまだ活動の初期で大ヒットを飛ばすほどの実績はなかった。
興行成績や世界的な評価が落ちたわけではないが、映画界全体をドライブする「核」を失いつつある時代だったと言えるだろう。
映画史的には、ネオレアリズモは1952年、ヴィットリオ・デ・シーカの「ウンベルトD」をもって終焉を迎えた、とされることが多い。
これは作品の質の問題というより、観客動員の失敗や、社会状況の変化によって、ネオレアリズモという運動が役割を終えたという意味での「終わり」である。「ウンベルトD」は今日では傑作として評価されているが、当時の興行的評価は芳しくなく、「もう貧しい老人の話はたくさんだ」という観客の空気を象徴するような存在だった。
一方で、冒頭にも挙げた、この時代の映画への愛を主題にした「ニュー・シネマ・パラダイス」で描かれるトトの子供時代は、意図的に1951年で止められている。
トトが映写技師となり少年期のエピソードが終わるのが1951年で、その後は青年期へと時間が飛ぶため、1952年以降の映画は劇中にほとんど登場しない。
つまり、「ニュー・シネマ・パラダイス」が提示しているのは、ネオレアリズモがまだ生きていた時代までの映画体験なのだ。
この二つを合わせて考えると、1952年に公開されて当時は国際的な評価を得た「2ペンスの希望」が置かれている位置は、かなりはっきりする。
それは、ネオレアリズモが終わった直後であり、同時にイタリアン・コメディやメロドラマが本格的に支配的になる直前、まさに端境期である。
この時期の作品群をまとめるために使われてきたのが、「ピンク・ネオレアリズモ」あるいは「ネオレアリズモ・ローザ」という呼称だ。
これは、ネオレアリズモの技法──ロケ撮影、庶民の生活、下層階級の人物設定──を引き継ぎながら、内容はより軽く、ロマンティックで、観客にとって受け入れやすい方向へと舵を切った作品群を指す言葉である。
ただし、この呼称は当初から褒め言葉だったわけではない。
左派批評の側からすれば、それは「ネオレアリズモを薄め、大衆迎合へと変質させたもの」という否定的ニュアンスを含んでいた。しかも実際には、エンメルの都会的群像劇、コメンチーニのスター・コメディ、リージの青春喜劇など、性質の異なる作品がすべてこの一語で括られてしまっており、分析概念としてはかなり粗い。
「2ペンスの希望」も、しばしばこの「ピンク・ネオレアリズモ」に分類される。だが、前述したように、この映画を単なる軽妙な恋愛映画として理解してしまうのは勿体ない。
ネオレアリズモの抑制的で沈黙の多い演出とも違う、イタリアン・コメディが見せる計算された笑いとも違う「2ペンスの希望」にあるのは、ネオレアリズモが終わり、コメディやメロドラマへと分岐していく直前の、まだ整理されていない生のエネルギーだ。
この映画は、形式的にはネオレアリズモの手法を全面採用しながらもネオレアリズモの代表作として語られることもなく、かといって、完成されたイタリアン・コメディとして消費されることもなかった。結果として、カンヌのパルムドール受賞という栄誉にも拘らず、映画史の中で少し宙に浮いた存在になってしまったのだろう。しかし、その曖昧なポジションこそが、この作品のもつ独特の味わいをよく表しているともいえる。
「ウンベルトD」で一つの時代が終わり、フェリーニやヴィスコンティが次の時代を開くまでの短い期間。
「ニュー・シネマ・パラダイス」で描かれなかった端境期。
その時代の裂け目のようなエアポケットに生まれた「2ペンスの希望」は、現実の辛苦をスピード感で置き去りにしてコメディ化する、という、戦後イタリア映画が持っていた可能性の一つの道を確かに封じ込めている。
だが、この映画の影響を受けた作品という形で探すと、殆ど見つからないのが現実だ。
その孤立こそが本作の特異性だ。
若者の爆発するようなバイタリティを通して、時代の現実をこれほど正直に映し出した映画は、決して多くない。
そういう意味で、この作品は間違いなくイタリア戦後映画を代表する傑作といって良いだろう。
さすがに世界名画歴代ベスト100みたいなところまで行くと褒めすぎだが、少なくとも「死ぬまでに見たい1000本の映画」に載るくらいの評価を受けても良い作品だと思う。
Youtubeに原語版が丸々アップロードされてる。
1番目のキャプションでClassic Cult Comedy Movieと書かれている。2番目は英語字幕付き。
こういうのが放置されているってことはパブリックドメインなのかな。誰か4KレストアしてBD化してほしい<無理
ネオレアリズモに代表される戦後イタリア映画についての考察は、日本語のものとしてはこの書籍が圧倒的に詳しい。学術書的な筆致なので読みやすくはないが、抑えておきたい。
同時代のイタリア映画他ヨーロッパ映画の感想を以下に纏めています。
こちらも併せてどうぞ。
