終わりのない終焉の舞台に託した未来への希望 あるいは【映画レビュー】「山猫 / Il Gattopardo」(1963)
山猫 Il Gattopardo
1963年 イタリア/フランス合作 187分
★★★★★ (映画史に残る名作、必見)
監督:ルキノ・ヴィスコンティ
脚本:ルキノ・ヴィスコンティ/スーゾ・チェッキ・ダミーコ/エンリコ・メディオーリ/パスクァーレ・フェスタ・カンパニーレ/マッシモ・フランチオーザ
出演:バート・ランカスター/アラン・ドロン/クラウディア・カルディナーレ/パオロ・ストッパ/ロモロ・ヴァリ

あらゆる表現、映画でも音楽でも絵画でも書物でも漫画でも、十代後半、いわゆるハイティーンの頃に遭遇して深く感銘を受けた作品は、年を経ても決して褪せることのない強い印象が心の中に刻まれているものが多い。
おそらくそれらは自分の人生における創作表現との関わり方を方向付けているのだろう。
それぞれの表現分野でオールタイムベストを上げろと言われるとまず最初にそれらの作品群が候補に挙がって来る。
音楽ならばJoy Divisionの"Closer"やPeter Gabrielの"III"がそれに当たるし、絵画ならクリムトの「ユディト」やマグリットの「大家族」だし、漫画ならば「日出処の天子」「ポーの一族」「南京路に花吹雪」、アニメならば「カリオストロの城」と「機動戦士ガンダム」、書籍ならば村上春樹の「風の歌を聴け」やブラッドベリの「何かが道をやってくる」等々。
そして、映画ならば何と言ってもヴィスコンティの「山猫」だ。
40年以上経った今となっても、この作品よりも「映画」として優れていると手放しで感じられる表現に自分は出会っていないように思える。
この傑作を、20~30本程度の映画経験しかない時に見ることができたのはまさに僥倖であった。
そのジャンルにおける本物を知ることは、個々の作品の価値を見極めるためにとても大事なことだ。そしてこの作品が「本物」であることは疑いようがない。早い時期に本物に出逢えたことはその後の自分の鑑賞人生をものすごく豊かにしてくれているはずだ。
間違いなく自分の人生を変えた映画でもあり、これを語らずして、映画レビューなどできない。それくらい重要な作品のはずだ。
一方「山猫」について語るのは骨が折れる。
黒歴史とまではいかないが、若い頃のイタい記憶が甦るからだ。
1970年代後半から1980年代初頭、自分が高校生くらいの頃、ヨーロッパ映画と言えばイタリア映画だった。
「♪映画を見るなら/フランス映画さ♪」という一節が1974年にリリースされた甲斐バンドの「ポップコーンをほおばって」の冒頭の歌詞に登場する。
作詞した甲斐よしひろの個人的な趣味もあるのだろうが、1970年代前半はまだフランス映画がヨーロッパ映画の王道だったのだろう。
だが、自分がこの曲を追体験した1970年代後半には、もはやそのフレーズは正直あまりピンと来ないものになっていた。
フランス映画といえばヌーヴェルヴァーグであり、トリュフォーやゴダールということになるのだが、彼らにはオールドスクールな時代遅れの存在っぽいイメージがあったからだ。
トリュフォーはかつての鋭気を失った旧世代の大物という印象だったし、ゴダールに至ってはまともな商業作品が撮れない頭のおかしい人になっていた。
一方イタリア映画はちょっとしたブームだった。フェリーニ、ヴィスコンティ、ベルトルッチ。
「映画を見るならイタリア映画じゃないの?」そんなことを思いながら聴いていた。
当時の自分はまだ一本もイタリア映画を見たことがなかったし、トリュフォーもゴダールも一本の作品も見たことがなかった。
頭でっかちな、スノビズム丸出しのイヤなガキだった。
1979年から1980年にかけて、ヴィスコンティの「家族の肖像」と「ルートヴィヒ」が相次いで日本で初公開され空前のヴィスコンティブームが訪れていた。
田舎の高校生だった自分は学校の図書館にあった「キネマ旬報」を読んでそのブームを知っていたが、それらの作品を実際に見ることは叶わなかった。
1982年、大学受験浪人となって予備校に通うために上京した自分は、ぴあの映画館案内を漁り、ヴィスコンティやフェリーニの名前を発見すると電車に乗って池袋や新宿まで見に行っていた。
ヴィスコンティで最初に見たのは「ベリッシマ」と「郵便配達は二度ベルを鳴らす」だった。それから「イノセント」と「家族の肖像」を見た。
記憶が正しければ、その次が「山猫」だった。場所は岩波ホールだったと思うが、定かではない。
衝撃だった。
それまでに見たヴィスコンティの作品も決して凡作ではない。
「ベリッシマ」は市井の人々のヴァイタリティを描くことに成功しているし、「家族の肖像」はヴィスコンティ自身の自伝的な色合いの強い傑作だ。
「郵便配達は二度ベルを鳴らす」のハードボイルド感も「イノセント」の無常観も感動的だった。
「山猫」は、だが、それらの作品とはかなり色合いが異なる。
それどころか、自分が生まれて18年間で見た数十本程度の映画のいずれとも明らかに異なっていた。
中高生の頃自分が見た映画は、「狼たちの午後」にしても「ロッキー」や「地獄の黙示録」にしても「普通の人々」にしても、登場人物に降りかかる試練や苦難を乗り越える様を描くものだった。
多くの映画の構成はそういうものだろう。
自分がその前に見たヴィスコンティの他の作品も、乱暴な言い方をすればそのフォーマットに沿ったものだ。
しかし、「山猫」は違う。
ここには乗り越えるべき試練がない。
シチリアの貴族であるサリーナ家の当主である主人公ドン・ファブリツィオは、階級闘争を目的とした戦火を傍目に見ながら、数世紀に渡って彼の地に君臨する支配階級としての務めを淡々と果たしている。
試練や苦難に抗うわけではなく、イタリア統一という大きな流れを見据え、凋落する貴族階級としての自らの運命を受けいれようとしている。その流れの中で自らの家門と資産と名誉を可能な限り守るのが彼の使命だ。だが、何かを「乗り越え」ようとはしていない。受け流すだけだ。
ガリバルディによるイタリア統一の戦いの描写はあるが、それが作品の主題ではない。主題はあくまで「滅びゆく貴族の矜持と時代の変化」だ。
この「主題に身を委ねる主人公」という構図は新鮮だった。
それは、映画にとっての「主題」が必ずしもドラマチックなストーリーを意味しないことを半可通の自分に教えてくれた。さらに極言すれば、ストーリーに依存しない映画の可能性を示唆するものでもあった。
その認識の発見は自分のスノビズムを変な方向に刺激した。
ストーリーを映像やスクリプトで説明するような映画は次元が低いのだ、と。
結果、自分は映画のストーリーを追うのが苦手になった。そして、ストーリーの起伏が少ないヨーロッパ映画や、ロードムービーや、アメリカン・ニュー・シネマが好きになった。
もちろん、すべてが「山猫」の影響ではない。
80年代のミニシアターブームのせいもあるだろうし、当時のハリウッド大作がヒット作のリメイク中心で駄作ばかりだったせいもあるだろう。
ただ、当時の自分が鼻持ちならない、スカしたガキだったことは間違いない。
80年代という時代はそういうサブカルかぶれのクソガキをたくさん生み出した時代だったのだ。
これで終わるとなんのこっちゃだが、かと言って、新たに書けることなど何もなさそうなので、昔描いた「山猫」のレビューを少し手直しして再掲してみる。「山猫」に惹かれた当時の自分が鼻持ちならない糞ガキだったとしてもそのことによって「山猫」の映画としての価値が毀損するわけではないことは言うまでもない。
主人公たるシチリアのサリーナ家当主ドン・ファブリツィオ公爵は、リタイア間際の壮年貴族であり、進歩的な革命支持者ではもちろんない。だが、単に革命を拒絶する頑迷な守旧派でもない。公爵家の実質的な権益を守るために現実的で柔軟な思考ができるリアリストとして描かれている。
映画の冒頭、ファブリツィオは、改革派のことを「マフィア同然の連中」と呼んでいる。しかし、彼らがイタリア統一という偉業を成し遂げるだけの力量を持っていることを確認すると、評価を一変させている。彼は統一の潮流を冷静に受け止め、社会の転換を見通す知性とそれを受容する覚悟を備えていた。

一大革命のように思えたイタリア統一という事件によっても、この国は本質的には「何も変わらない」ことを見抜きながら、「変わらないために変わり続けなければならない」というパラドキシカルな認識を支持する。彼は、新しい時代の波が貴族社会を変容させ、最終的には崩壊させられることは避けられないと理解した上で、それに順応しつつ、ソフトランディング的な終わらせ方を模索する。次の世代への経済的な資源・資産を確保した上で、徐々に終焉に向かう準備を整えようとしているかのようだ。
貴族階級は変化する。いつか終わる。だが、彼にとって変えることができないのは、自らが今なお「貴族」であるという現実と、それを支える矜持である。その矜持があるからこそ、彼は時代の流れを受け入れる態度においても一貫して威厳を保ち続けるのである。
この矜持は、彼にとって存在そのものを規定する基盤だ。数世紀にわたり土地と人々を支配し、文化を形成してきた歴史の重みが、彼の威厳に満ちた風貌を形作る。彼はもはや若くはないが、自己の役割を理解し、誇りをもってそれを全うしようとする。その姿勢が物語全体を静謐で荘厳なものにしている。

ファブリツィオは、自分の娘であるコンスタンツと甥タンクレディが恋仲にあったことを知りながら、新時代を切り開こうとするタンクレディの伴侶としてはコンスタンツでは器不足と断じる。コンスタンツは知性も教養も美貌も持ち合わせた申し分のない貴族女性として描かれているが、だからこそ新たな時代の荒波を掻い潜る胆力に欠けると冷徹に判断するのだ。
公爵はタンクレディと新興大地主の娘アンジェリカとの婚姻を支持する。これは単なる縁談ではなく、貴族社会が新興ブルジョワ階級と結びつくことでその影響力を保持する道を選んだことを意味している。彼は、自らの世代がやがて退場しなければならないことを知っているが、家門を未来に繋ぐためには変化を受け入れるしかないことを理解しているのだ。その冷徹な現実認識こそ、彼の知性と成熟の証である。
特筆すべきはアンジェリカを演じるクラウディア・カルディナーレの粗野で下品な美しさである。野望に満ちたタンクレディの伴侶として申し分のない説得力をその仕草や風貌で表現する演技は見事としか言いようがない。
映画終盤のハイライトとなる舞踏会のシーン。ヴィスコンティは、この壮麗な舞踏会を1時間近くもの長尺で描き出す。豪華絢爛で悠長な宴は、終わりそうで終わらない、誰が終わらすことができるのかが不明なまま延々と続いて行く。それは旧時代の残り香であり、終わりのない終焉の舞台でもある。
豪奢なシャンデリアの光、磨き上げられた大理石の床、鮮やかなドレスの群れ。実在の城で自然光と蝋燭の光だけで撮られた映像は映画史上に残るクライマックスと言っても過言ではない重厚さをもって見るものを魅了する。

舞踏会のハイライトとして名高いファブリツィオとアンジェリカのダンス。
甥の婚約者であり、未来を象徴する若き美貌の女性と優雅に踊るその姿は、老境の貴族が未来を次世代に託す象徴であるが、一方で彼は時代の主役を簡単に次世代に渡すことを潔しとしない。
アンジェリカは美しく、粗野だが生命力にあふれ、その笑顔は新しい時代の希望を体現している。ファブリツィオは彼女の手を取り、堂々と舞踏を披露する。一方のアンジェリカも巧みなファブリツィオのステップに対抗し、それまでの下品さとは打って変わった高貴な気品を漂わせ、主役の座を奪い取るかのような華麗な動きを見せる。二人のダンスの共振は、歴史の流れに抗うことのない潔さと、未来を展望する希望を表現する。
このダンスは、ファブリツィオにとっての最後の輝きであると同時に、アンジェリカにとっての未来への第一歩でもある。二人のダンスは一つの時代が過ぎ去ろうとしていることを印象付けながらも、その退場を悲劇としてではなく、自然な歴史の流れとして受容し、見る者の目に焼き付ける。
ヴィスコンティの作り出す映像は、二人の微笑とその眼差しに宿る静かな希望を捉え、観客に強烈な印象を残す。
舞踏会の後、ファブリツィオはひとり静かに夜の街へと出ていく。
街外れの暗がりに佇み、祈るように天を仰ぎ見たその姿は、個人としての生を超え、歴史の中に溶け込む存在であるかのような普遍性を帯びる。
ファブリツィオは抗えぬ時代の流れに身を委ねながらも、最後まで矜持を保ち続ける。そこにあるのは悲壮感よりもむしろ安らぎだ。
その「強さ」と「脆さ」に愛おしさを感じることができるか、この作品の評価を分かつのはその一点に集約されるのかもしれない。

ヴィスコンティは、イタリア統一という壮大な事象を客観的な歴史的事件としてではなく、一人の貴族の主観を通じて描き出すことで、この作品を普遍的な人間ドラマへと昇華させた。人は時代の変化を止めることはできない。だが、その中で自らの存在意義と誇りをどう保つかという問いは、すべての人に通じる普遍性を持っている。ファブリツィオの矜持は、過去の遺物ではなく、人間が変化の中で失ってはならない精神の核心である。
そして、この映画には、以後のヴィスコンティの作品では希薄になる未来への希望がある。タンクレディとアンジェリカという次世代の輝きは、古い秩序の完全な終焉ではなく、新しい秩序への橋渡しとして描かれている。ファブリツィオがその婚姻を祝福したことは、未来への前向きな意思表示である。そこにこそ、この映画の輝きがある。
このように、未来への希望を最後に残す構成はこの作品が最後で、以降のヴィスコンティの作風はより滅亡と終焉を描く美学に傾倒していく。
「熊座の淡き星影」「地獄に堕ちた勇者ども」「ルートヴィヒ」「ベニスに死す」「家族の肖像」。そこにはもはや希望は見えない。
「山猫」はヴィスコンティが未来を描いた最後の作品と言えるのかもしれない。
最後に。
これほどの名作が、現時点ではApple TV+での単品レンタルでしか見ることができない。
定額制の月額サブスクリプションのラインナップには入っていないのだ。
「地獄に堕ちた勇者ども」も同様。FODというマイナーなサービスの有料レンタルでしか見られない。
「ルートヴィヒ」や「熊座の淡き星影」に至ってはどのサービスにもラインナップされていない。
ヴィスコンティに限ったことではなく、前世紀を代表するようなヨーロッパの巨匠の作品はほとんどサブスクでは観ることができない。
フェリーニは「道」や「甘い生活」「8 1/2」といった代表作が定額サブスクで見られるのでまだマシだが、ベルイマンもアンゲロプロスもタルコフスキーもサブスクのラインナップにはほとんど入っていない。
「山猫」は440円出せば見れるので、悪くないともいえるが、もう少し気軽に見られるようになってほしいと思う。
この状況は、サブスクというビジネスモデルが中心になってしまった業界の限界を象徴している。サブスクはあくまで一般ユーザ向けにロングテイルを確保しようとするが、マニアは必ずしもターゲットにならない。効率が悪いからだ。
レンタルがないのでDVDやBDなどの円盤への需要はなくなっていく。
結果として上記のような作品のDVDやBDは軒並み廃盤となっていて、中古は馬鹿高い値段になってしまう。結果として円盤を買うマニアも減っていく。悪循環だ。
映画産業は岐路に立っている。それは間違いない。そんな中で、良心的な作品が残り、それを必要とする人に届く世界であってほしいと切に願う。
