AIには業務でもやらせておけ、人間なら「自分はこう思う」ってちゃんと言え
まったく残念な話ではあるのですが、知らない人のnoteに足を伸ばしてみると、「またAI出力の文章をそのまま載せただけの記事か」と思うことがちらほらあります。
AIの吐き出す文章というのは、基本的には端的で無駄のない文字情報の要約で、画面を一瞥しただけで英語とドイツ語が見分けられる程度には「人間が書いた文章」との違いがわかるものです。一般にみなさんがどういう視覚的な印象を抱かれるかはわかりませんが、ひとことで言えば「すごくのっぺりしている」のですよね。この表現は画像生成AIの吐き出したイラストにも当てはまるので、AI製造の文章と画像に同じ感覚が生じているのは興味深いなと感じます。
純粋な文字情報の要約というのは、仕事で調べものをしているときには役に立つケースもそれなりにあります。しかし、みなさんがnoteの画面を開いているときに求めてるのって、そういうタイプの情報なんでしょうか? たぶん違いますよね?
たとえば「自分は転職すべきだろうか」と悩んでいるとき、必要としているのは「同業他社について過不足なくまとめられた比較検討用の資料」なのでしょうか? そうした客観的な判断材料が要らないと言っているわけでは全然ないのですが、少なくとも当人の「悩み」の本体はそうした「事実としての情報の不足」とはあまり関係ないように思います。
おそらくですが、私たちがそういう悩みの中でネットの世界をさまよっているときには、心の奥底で「世間の他の人々はどういった課題に直面して、どのように悩んで、どのような答えを出すに至ったのか」ということを知りたいと感じています。
これを「結果よりも過程を知りたいのだ」と表現することもできますが、根本的なところはもっと単純で、私たちはただ「同じように悩んだ人の声が聞きたい」「できればそれによって勇気づけられたと感じたい」と思っているのです。
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そこで、生成AI出力の記事はどうでしょうか。
AI製造の記事でよく出てくる「○○しましょう」「○○することが大切です」といった表現に対して、私はそこに空虚な響き……というか、はっきり言ってしまえば大変な「気持ち悪さ」を感じます。
「○○することが大切です」というのは客観的な事実の記述ではなく、その人の意見や態度、解釈や判断指針を表明するときに使う言葉でしょう。「自分としてはそれが大切だと思っています」という意味です。それで、問題のAIが吐き出した「○○しましょう」というのは、誰がそう思って、誰がそう言ったという話なのでしょうか?
AIなんぞでnoteを書いてしまう人は(あるいはブログでも情報まとめサイトでも)、自分が本当に考えたわけでもなく、その身で体験したわけでもなく、心から信じているわけでもないようなことを「○○なのです」「○○が大切です」「だから○○しましょう」と堂々と並べ立てて、それを「自分の名前で発表する」ということに何の違和感も覚えていないようなのですね。
これはちょっと、私の感覚では食堂で床に落とした食べ物を普通に拾って食べることくらい「ありえない」と感じられます。というか、常識的な話として「嘘をつくのはよくない」というのは言うまでもないことだと思うのですけど、これって本人の中では嘘をつくことに含まれていないのでしょうか? 自分が考えてもいないことを自分のアカウントで書いている(書いてすらいない)のに?
転売屋がグッズのキャラクターと作品に何の愛情も敬意も抱いていないように、その人にとっての「言葉」や「文章」というのも、単なる商売の道具か自己顕示の一手段でしかないということのようです。
私がさきほど「気持ち悪さ」と書いたのは、自分の愛する作品世界、同好の仲間たちとの楽しい時間といったものを無神経な転売屋によって台無しにされたときの感情にも似ているかもしれません。それは個別のトピックでの内容の是非といった話ではなく、「考える」ことや「書く」という行為そのものの価値についてです。
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明治時代の知識人の残したものを読むと、当時の人々(それも多少なりとも文化的な素養を持つ人々)の間に存在していた「西洋の言葉ならば何でもありがたがって、自分もそれで偉くなったような気分で喋るし、周りもそれを褒めて持ち上げる」という風潮を指摘したものがときどきあります。(たとえば夏目漱石「私の個人主義」、鈴木大拙「信仰の確立」など)
AIで自分が賢くなった気がするというのは、実際に出力データとして「自分の手で生み出したかのような成果物が得られてしまう」という点で、こうした歴史の繰り返しよりもさらにやっかいな事態のようにも感じられます。
AIというのは情報を加工する道具ですが、実際のところ、人は別に情報を書きたくて文章を書いてるわけではないんですよね。「自分がそれに気づいた」「自分がそう考えるようになった」「自分がそれを書きたいと思った」というのは、科学的な意味での発見と伝達とはまったく意味が異なります。それは実際的に役に立つものならば嬉しいし、客観的にもなるべく正しいほうがいいのはもちろんですが、今ここでしている話に限れば、そうした観点は本質ではありません。
以前、怪しげな副業話を批判したnoteでも指摘した話になりますが、大事なことなのでもう一度書いておきます。その本質とは次のようなものです。
あなたが自らの体験によって気づき、自力でその発見にたどり着いたのなら、その内容がありふれているのか珍しいのか、役に立つのか立たないのかといったこととは何も関係なく、その発見はそれ自体で価値を持つはずです。他の人にとってではなく、あなた自身にとってです。
そして、あなたが「自分はこう思う」と言葉で表明することも、同じような意見が既に世間でも言われているとか有名な本に書かれているとか、賛成する人がどれだけいて反対する人がどれだけいるのかといったこととは何も関係なく、やはりそれ自体で意味があります。
他の人がそれを読んで「考えさせられた」「心を動かされた」と感じるのも、おそらくそうした本人にとっての発見、その人にとっての真実味というものに対してなのではないでしょうか。
私たちは情報処理マシンではないので、上手でなくてもいいし、ときどき間違っていてもいいので、ちゃんと「自分はこう思う」って言いましょう。
関連書籍
この春に出した書籍「人生の意味のつくり方: 正解が『ない』とき、私たちは何をすべきなのか」では、今回考えたような「自己の主観を足場として生きる」ということについてもっと詳しく論じています。
noteに「試し読み版」もあるので、よかったらチェックしていただけると嬉しいです。
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