どうして自己啓発本も哲学書も役に立たないのか - 書籍「人生の意味のつくり方」 試し読み版 2
シロイブックスより刊行した書籍「人生の意味のつくり方:正解が『ない』とき、私たちは何をすべきなのか」の試し読み版です。
このページでは「第一章:最初に捨てておくべきもの」から、章末のまとめ部分とコラムを除いた本文全体を公開しています。
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幻想の拒否と教科書のジレンマ
資格取得などに向けて頑張った経験のある人は、おそらく「教科書のジレンマ」とも呼べる状況を知ってると思います。何か難しいことを勉強する必要があるので、なるべくわかりやすく、なおかつ内容の浅すぎないようなテキストをまず一冊買いたいと考え、大型書店に行くかネットで検索するかしますね。
しかし、そこに書かれている内容はまだ勉強する前のことなのですから(わかり切ったことしか書かれていない本をわざわざ買う人はいません)、そのテキストの内容の過不足のなさや正確さというのは、今この状態でページをめくってみても判断がつきません。似たような本、それから少しばかり面白みのありそうな別の視点を謳った本などが複数の出版社から出ていますが、いったいどれを使えばいいのでしょうか。
ここで探しているのが会計や電気工事の資格のテキストなら、その内容が完全にデタラメということはまずないので、まったく役に立たないハズレを引くということはなさそうです。ところが、人の心とか生き方の話題を扱ったような本では、これは普通にあり得ます。
さて、本書でこれから始めようとしている一連の話について言えば、私がこの本で避けようとしている類型を二つ挙げることができます。片方にあるのはお手軽な通俗心理学書と自己啓発本であり、もう片方は複雑かつ高尚そうに見える哲学的理論や宗教的教義です。
まず、この本は多少なりとも哲学的な傾向が含まれた真面目な本ですが、何か抽象的で難しそうな理論や教訓を立てること自体を目的とはしていません。この本は何よりも、あなた自身が現実に人生の意味や幸せの感覚を得るためにはどうすればいいのかということを考えるために書かれています。先の「はじめに」の中で、自分らしく生きるという方針を取る背景には「そのようにしなければ意味の獲得は原理的に不可能だ」という理由があると述べたように、人間の心理や社会についての「仕組み」をしっかりと押さえた上で、実用的な方法論を提示するということを目指しています。単なる机上の空論もしくは非科学的な話の展開で、何か常人には理解しがたいような突飛な思想を持ち出して「これこそが本当の幸せです」と強弁するようなやり方は否定します。こうしてわざわざ確認しておく必要があるということ自体が妙な話ではありますが、普通の人間に伝わる言葉と、常識的に理解できる理屈で考えなければ何も意味がないからです。
「本当の幸せとは何か」というのは定義の話になるわけですが、こうした言葉の定義ばかりをあれこれ論じようとするのはまずい傾向です。私たちが求めているのは言葉の上での「幸せの定義」ではなく、現実の幸せの感覚そのものであったはずです。そのためには、私たちは自分自身の日々の心の動きや、この世で現に行なっていく職業生活や人間関係の実態というものを詳細に理解していく必要があります。対象の理解なしに「これが答えだ」と決めてしまうことには意味がありません。「これこそが本当の○○だ」「この世界の本質だ」という主張は、せいぜい「きのこの山とたけのこの里のどっちが最高か」といったレベルの議論でしかなく、どれほど深遠な思想に見えたとしても、それは実際には哲学や人生論のふりをした暇つぶしに過ぎません。単なる意見や態度の主張は、現実の物事への理解を何も進めないからです。この「意見は事実ではない」「意見の主張は理解を進めない」という二点は、常にしっかりと意識しておく必要があります。
以上の指摘は「深そうに見えるだけの、実生活上の課題からかけ離れた抽象的議論をしない」という意味ですが、その一方で、本書はお手軽なノウハウもどきを提供する本でもありません。ラフな格好をした賢そうな人物がステージに上がって、「こうすればあなたも成功できます!」という即物的な話芸とプレゼンで拍手喝采を受けていたとしても、それであなた自身の人生が実際に改善されないのならば、そんな話が何の役に立つのでしょうか。こういったものをフィクションの作品世界や、ある種のプロレス的な娯楽として提供するのならばまだ許容できますが、こうしたメッセージを真顔で主張する人がいるから困るのです。私にはそれは詐欺師のやることのように見えます。
シンプルかつ鮮やかな発想の転換によって、頭抜けたキャリアの向上が約束されるのだと謳うビジネス書があります。ただひとつの端的なコンセプトによってすべての悩みが解消でき、誰もが驚くほど幸せになれるのだと主張する心理本も存在します。そのような希望的メッセージに満ち溢れた本を読み進めてみるのなら、そのときは少しばかり感動して気持ちが鼓舞されたように感じますが、一ヶ月もすれば何を読んだのかも全部忘れているし、本当に使えるノウハウなどは何も残っておらず、あなた自身の現実の生活は何も変わっていないでしょう。
ただひとつのメッセージによって人生が劇的に変わるというのは幻想です。そして困ったことに、世の中にはそのような幻想の売り物で商売をしている人たちがたくさんいるようなのです。
知りたいのは「たどり着く方法」と「その身につけ方」
人が抱える悩みというのは、他人から見ればさほど深刻な問題とは思えないことも多いものです。長年引きずっているコンプレックスも、大恋愛の終局も、別にそれで死ぬわけではないので、突き詰めれば「気にしなければよい」で済むようなことがほとんどなのかもしれません。
しかし、私たちはそれができないからこそ苦しむわけです。やろうと決めただけでできるなら、誰も最初から苦労はしません。「何事もポジティブに考えよう」というのは、伸び悩んでいる野球の選手に「もっとホームランをいっぱい打てばいいんじゃない?」とか「誰にも打てないような球をバンバン投げるべきだよね」などと言うようなものです。内容として間違ったことは言っていないのですが、アドバイスとして見るならば、これほど役に立たない話もないでしょう。
方法という視点が欠落したアドバイス(もしくは批判)は、一般的に「精神論」と呼ばれており、それが役に立つような場面は基本的にありません。この点は人生上の課題に対しても同じで、単に「これこそが理想的解決だ」ということは誰にでも言えるので、ネットでも書店でも探せばいくらでも見つかりますし、そうした「正解の提示」は現代ではむしろ供給過剰にすら思えます。まだ見ぬ「正解」の素晴らしさを強調するばかりで、具体的な「やり方」が見えてこないというのは、政治的議論のような場面でもよく見られる光景です。どうなったらいいのかに言及するのが簡単な一方で(言いっぱなしでOKならば楽なものでしょう)、どうすればそれが本当に実現できるのかを示すのは困難です。
つまり、生き方や人生観のような話題の中で、目新しそうな(本当はどれもこれも似たような)「正解」が山ほどあるとしても、そこから「方法」や「ツール」を受け取れないのならば、それは私たちの生活を現実に改善するという仕事にはあまり役に立ってくれないということです。仮に「幸せに生きるための能力」というものが考えられるとしたら、私たちが知りたいのは「そのような能力をどうすれば伸ばすことができるのか」という点にあります。
本書が行おうとしているのは、あなた自身の人生をよりよくしていくための道具として、そのような方法論の一式を受け取ってもらうことです。もう少し正確に言うと、これは手順書として落とし込めるような「やり方」というより、外部の物事や人間の心というものに対する「見方」や「理解の仕方」に属するものが多くなります。単なる知識ではなく、心理的な習慣や対処能力という形で各自が身につけてほしいということです。ここで「方法が大切ならば、誰でも使えるマニュアル本を用意すればいい」という発想にならない理由については、ここまでの内容でも簡単に触れましたし、本書の主に前半でもっと詳しく考えていくつもりです。
心理的な課題であれ実際的な仕事であれ、解決とは何よりも自分自身の力による「観察」と「理解」から始まる(というより、それ以外からは始まらない)ので、理解のための道具立てを習得することは、単なるマニュアル的な解決法を求めるよりもずっと重要なことなのです。
「知っている」と「身についている」は異なる
解決には方法が必要だという指摘と並んで、もうひとつの重要な視点を補足しておきます。それは「知識として知っている」ことは「実際にできる」こととは異なるのだという事実です。さきほど「各自が身につけてほしい」という表現をしたのは、まさにこのポイントが関係しています。
悩み事に対する「気にさえしなければ何も問題ない」という視点を既に出したように、私たちが抱える生活上の悩みや人生の山場というものは、かなりの部分が心理的・感情的な課題として存在しています。つまり、高度な哲学にせよ心理学のトリビアにせよ、ただ頭で知っているというだけでは十分でなく、人はそれを消化・実践していくだけの内面的な処理能力を身につけていなければならないということです。
これはスキルと訓練の問題であると同時に、感情面では「そこに信頼を置けるほどの深さで納得している」という状態でもあります。普通の人ならば深く苦悩させられるような状況や、ひどく動揺させられるような出来事に対して「大丈夫だ」と言えるならば、それを言えるだけの根拠があるはずです。そして、そこには客観的な状況判断や対処方法の見立てといった視点も当然含まれるべきですが、最後の砦は私たち自身の心の内側にあります。いずれにせよ、私たちは自分自身の内部にこうした盤石な何か、内的な根拠とでも呼べるようなものを構築していく必要があるわけです。
これは大変な仕事です。もっとスキル的な側面の強い行為として、仮に「ピアノを弾けるようになりたい」と長年の憧れを持っている人がいたとしましょう。その人に二時間くらいで読める教則本が一冊与えられたとしても、それで万事できるようになるとは誰も考えません。料理でもペン習字でも車の運転でも、実際的な事柄ならば何でもそうです。そうであるとしたら、それよりもずっと内面的で、ずっと難しそうな「幸せに、自信を持って、意味深く生きる」という課題が、紙に書かれたアイデアを読むだけで解決するはずがありません。
本質的には、この課題はそれぞれの人間が「自発的に学び、実践し、反省して改善することを繰り返す」ということでしか達成できない、徹底的に地味な過程です。夢を求める人と、それに応じて夢を売る人が絶えないのは、誰もこのような面倒な仕事をしたいとは思っていないからだという理由によります。
それは可能であり、今始めたほうがよい
さて、こうした手間のかかる学びと実践がどうしても必要だということが一応わかり、最初に主観性というキーワードに触れたとおり、一般論としての正しさではなく「あなた自身にとって意味のある答え」にたどり着く必要があるということも理解できました。
これは大変ではあるものの、「やろうと思えばやれる課題」でもあります。さきほどピアノや料理といったスキルを比喩として出したのは、それが精神的・人間的な豊かさを実現できる趣味の分野であると同時に、学習とトレーニングによって上達できるという単純明快な側面を持っていることを思い出してもらうためです。生きるということはもう少し複雑な課題ですが、上達の観点があることは何も変わりません。これが「私たちは幸せになれる」という主張のひとつの根拠になります。
スポーツの分野であれば、特定のトレーニング方法に対して「多くの人がこのようなやり方をしてしまいがちだが、実はこの方法は体のこの部分を痛める可能性があり、もっと効率的で安全な別の方法があることわかっている」といった知識は確かに存在します。失敗の傾向とその対策については、紙に書かれた知識から学ぶことが可能です。「こうすれば必ずオリンピックに出られます」は明らかに虚偽ですが、「こんなことをしていてオリンピックに出られることはまずありません」という指摘ならば、いくらかパターン化して整理や考察ができそうに見えます。
つまり、発想の転換だけで魔法のように人生の問題が解決するのだという幻想を正しく捨てて、自分自身の手でこの難しい仕事を行うという覚悟ができたなら、それを書籍のような情報源から適切に学ぶことは可能だということです。この例はビジネスの分野で「これからヒット商品を生み出そう」といった場合にも言えることで、「未来の自分が成功するための方法はわからないが、失敗するだけの理由は過去と他者から学べる」というのは覚えておくとよいポイントです。
ここには、人が一定の年齢になったあとに「もっと若いうちに知りたかったなあ」と思うような事柄も含まれるので、そうした知識を今のうちに共有しておくということも、本書で行おうとしていることのひとつです。もしかしたら、今のあなたは学生や新入社員の若さをまぶしく感じるような年齢になったかもしれませんが、少なくとも十年後や二十年後の未来のあなたよりは、まだ若い状態にあります。
そうであるとしたら、今このときよりも適切なタイミングは他にありません。いつだって、誰にとってもそうなのです。
わかっていない答え、まだ手にしていない感覚
答えは容易に理解できないものとして存在する
教科書のジレンマという話の中で幻想の商売を否定したように、私はこれから広げようとしている議論の中で、現実世界には存在しない夢を売るつもりはありません。ある意味では、あなた自身の夢を広げようという話は出てきます。つまり、あなたはまだ「それ」を手にしていないし、まだ見たこともないのだけれど、本当に価値のあるものがこの世のどこかにあって、あなたはそれを獲得できるかもしれない、ということです。「そのために頑張って生きていこう」という意味では、確かに、夢の話も大いにしていきたいと思っています。ただ単に使えるノウハウを提供するというだけではなく、あなたを勇気付け、その背中を少しばかり押すということも、私がこの本を書いた根本的な動機に含まれるからです。
自己啓発本に代表される夢のセールスを考えてみると、ここで扱われる商品は「どんなに素晴らしいのかがすぐに伝わるが、実際にはどこにも存在しないもの」であることが一般的です。読んですぐに「そんなふうになれたらどんなにいいだろう!」と感じさせるタイプのものです。しかし、本書で扱うのはこの逆です。すぐにイメージすることが難しいものの、現実に存在する人生の意味や幸せの感覚について考えていきたいと思っています。
これはハンバーグやカレーが好物だという子どもが、大人になればもっと複雑で多様な味を理解できるようになるものの、現時点ではまだ味の面白さがわかる料理は少ない、といった状況と似ています。二十歳の頃に理解できる人生の意味と、四十歳の頃に理解できる人生の意味は異なるはずです。もし異なっていないのなら、それは内面的に全然成長していないということになるからです。仮に十歳の子どもが「この世で最高の食べ物はハンバーグだ」と結論付けたとして、それは妥当な答えでしょうか? 大人になってもハンバーグが大好きだという人はそれなりにいるとしても、一生ハンバーグだけで満足しますか? そうはならないはずです。それは世界のほんの一部でしかありません。
自分にとって本当に意味があると感じられる何かを手に入れたければ、あなたはまだ自分が理解できないもの、まだ想像できないものを目指す必要があります。「そうか! これこそが答えだ!」とすぐにわかるものがあったとしたら、おそらくそれは表面上それっぽく見えるだけの誤りであるか、ちょうどあなたが幼い頃に遊んだおもちゃに今は満足することがないように、すぐに不十分なものと感じられるようになるでしょう。自分自身の心の成長と、周囲の世界に対する認識の拡大という点も、本書で重視していきたいと思っている観点のひとつです。
人の心もこの社会も、何も単純ではない以上、避けられない本質的な難しさはありますし、広く誤解されて受け入れられている考え方や価値観も無数に存在します。物事をシンプルに考えるということは大切な習慣なので、わざわざ話を難しくしようとするつもりはありません。一般書としてのわかりやすさは重視します。抽象的な理論立てを目的にはしないと既にお伝えしたように、ひたすら難解で高尚とされている哲学思想が本当に私たちの生き方の改善に役立つのだろうかと考えてみれば、それは確かに疑わしい話だからです。
それでも、本書では「避けられない難しさは避けない」という姿勢を取りたいと思っています。あなた自身にとって意味のあることであれば、それは困難でもやる価値があります。
幸せ、自己肯定感、生きがい
「人生の意味」というのは、私たちが切望している「本来名前のつけられない、前向きで肯定的な熱を持った何か」に対する仮の表現のひとつです。もっと普通に「幸せ」と呼んでもいいし、別の用語で「自己肯定感」や「生きがい」を持っている状態だと言うこともできます。本書の方向性を説明してきた第一章の最後に、これらの言葉についても触れておくことにします。
「この人生に何の意味があるのか」という形の問いかけは、元から内省的な傾向を持っている人であれば、十代の早いうちから既に悩み始めていることかもしれません。そうでなくても、ずっと大切に思っていた異性のパートナーから裏切りを受けたとか、長年自分自身の時間を捧げてきた職場で左遷されたといった、具体的な事件によって引き起こされることもあります。また、人生の後半戦とも呼べるフェーズに差し掛かる中で、それまでの生き方に疑問を感じるようになったなど、徐々に起こってくることもありそうです。
人生の「意味」という抽象的な表現よりも、普通の人が自然な感情として意識するのは「幸せになりたい」という単純な欲求でしょう。幸せというのは、気の置けない友人と一緒にお茶をしながら時間を忘れて喋り続けるとか、静かな秋の晩にひとり夜風に当たるとか、もっと直接的で身体感覚的とも呼べる形式を取ることがあります。これは言ってみれば「意味すら必要としない幸せ」であり、その点で、意味の感覚と幸せの感覚は区別できると考えることもできます。
ただ、これはどちらかというと一時的な状況に限られた話で、長期の視点で見るなら、自分の人生に特に意味がなくても瞬間的な愉快さだけあれば幸せだというのは、ちょっと考えにくい話です。人が生きていて、さきほど例に挙げたような心穏やかな風景だけが続くということはまずないので、雨の日も晴れの日もある人生の時間全体を支えるものとして、意味の感覚というものはやはり求められてきそうです。「たくさん悩みも苦労もしたが、全体としては幸せだった」と言えるようになるためには、一時的な快不快といったものを超えて、人生の意味という感覚はどうしても必要になってきます。
意味と幸せの次に出した用語は、自己肯定感と呼ばれるものでした。意味の感覚なしに幸せになるということが考えにくいように、自分という人間のことがあまり好きではない状態で幸せだというのも、やはり難しいでしょう。「人からどう評価されようとも、自分はこのような人間でいい」「このままの自分にはちゃんと価値がある」という感覚は、自分自身を幸せにしていく上ではほとんど必須となるはずです。
自己を根拠とできないのなら、主観性の問題であるところの自己肯定や人生の肯定がどうして可能なのでしょう? これは「自分を肯定するためには、自分を肯定できている必要がある」という、ほとんどトートロジー(同語反復)と呼ぶしかないような主張です。しかし、人生の意味付けという仕事をやり抜くためには、こうした論理的な扱いを拒否するような構造を避けることはできません。ひとまず、この自己肯定というものが将来の達成目標であると同時に、人生の探究と実践を推し進めるために必要な装備品でもあるという、前後の矛盾したような感覚を理解しておくことが必要になります。
最後に、生きがいという言葉で指し示されるものがあります。幸せと自己肯定感が心の内部にある感覚や状態を表すものであるとしたら、生きがいはある種の趣味や仕事のように、外的な対象として存在するかのように思われがちです。しかし、ある人にとっての生きがいが別の人にとっても同じ価値を持つとは限らないように、これは正確には「その対象から生きがいを受け取れるような心のあり方、ものの見方、関わり方を自分の中に見つけることができた」ということです。ここで重要となるのは、あくまで外界の物事に対する理解力や感受性といった本人の資質であり、これを伸ばすということが、生きがいを見つけて人生の意味付けを行っていくという作業の一部になります。これはさきほども述べた、内面の成長によって今まで見えなかったものや感じられなかったものが受け取れるようになるというプロセスとも関係しています。意味の感覚と同じく、生きがいが外部から完成品・既製品として与えられるということも、やはりないわけです。
人生の意味、幸せ、自己肯定感、生きがい、これらはすべてあなたにとって大切なものであり、ぜひとも獲得すべきものです。本書はあなた自身の努力と行動によって、それを現実に得ることを助けるために書かれています。私は本書の全体で「それは存在するし、その努力はする価値があるのだ」ということをお伝えしたいと思っています。
当然、努力だけで成功が約束されることはありません。それでも、この世であなたにできることはそれが唯一なのです。
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