事実よりも「信じる」「主張する」を優先する人々について
顔も知らないネット上の誰かを言い負かしたところで、私たち自身の人生はよくなるでしょうか? 主義主張の「正しさ」って、そんなに重要なことでしょうか。
質問には「質」の良し悪しがある
世の中に存在している(ように見える)問題には、「そもそも問いの立て方が間違っている」というものがけっこうあります。
一例として、「努力か才能か」というよくあるアレを取り上げてみます。「成功するためには努力のほうが大切なのか、それとも才能のほうが大切なのか」という質問ですね。この問いかけの別の形として、具体的に誰か成功した人物を指して「その成功は努力によるものなのか、それとも才能によるものなのか」と言われたりもします。
これはかなり質の悪い質問です。すぐさま思いつく指摘として、以下のようなものが考えられます。
努力と才能はそもそも排他関係ではなく、同時に存在しうる。「努力なしに才能のみで成功した」も「才能がないのに努力だけで成功した」も両方とも説明として不自然であり、成功者もそうでない人も含め、現実世界で競争しているのは「一定の才能を持ちながら、一定の努力をしている人間たち」である(→これに類似した悪い質問:「健康になるためには、肉と野菜とどちらを食べるべきでしょうか?」)
ここに「ある/なし」ではなく「量」や「程度」の概念を導入すると多少はマシになりそうだが、そもそも「努力」も「才能」も測定することができない。仮に測定できたとしても、それはおそらく単位が違うので、結局のところ単純な比較はできない(→「ゴリラとサメはどちらが強いですか?」)
努力は自分の力でしたりしなかったりできる(らしい)が、才能は変えられない。変えられないものについて議論したところで、何か得るものがあるのか(→「今から自力で宝くじの一等を当てられたとして……」)
成功に関係する要因は努力と才能だけではない。他に重要な要因が無数にあり(環境、タイミング、人的な出会い等)、通常はこれをひとまとめにして「運」ないし「ご縁」と呼ぶ。この影響はとても無視できないほど大きいのに、当初の質問には含まれていない(→「モテるためには身長と収入とどちらが大事だろうか」)
これらの点を理解すれば、「努力か才能か」ということを真剣に考えたとしても、そこから学べるものはほとんどないと言わざるを得ません。というか、考え始めて少し経った時点で、今述べたような理由から「これは問いかけの設定がそもそもおかしい」と気がつくはずです。
もしそれに気がつかないのなら、おそらくその人は「主張する」ということを行いたいだけで、その内面で「考える」ということはほとんど行なっていないのでしょう。
なぜみんなこのように議論したがるのか
人がどうしてわざわざこういう議論をするのかというと、それは現実の社会の仕組みがどうあるかを客観的に理解したいのではなく、その人にとって世界がどうあってほしいのかを主張したいのだと思います。つまり、願望や信念の話をしているわけです。
こうした議論で「努力が大切だ」と言う人は「努力した者が報われる世界であってほしい」と思っているし、逆に「結局は才能だ」と主張する人は、前者のように信じる人間がなんとなく気に食わず、それをなんとか否定してやりたいと思っています。
普通に「信念」というと、何かよいもののように思われがちですね。これが「世界がどのようなものであったとしても、自分という人間はこういう態度を取るぞ」という、自分の中での自覚的な「決意」ならば、確かにそれはいいです。目標に向けて前向きに頑張りたいと思ったとき、そのような気持ちは大切です。特に、結果が約束されておらず、道のりが長く困難になるのなら、そうした内的な決意の強さはほとんど必須になるはずです。
しかし、「世界はこのように動いているはずだ」という意味での信念はどうでしょうか。事実と異なる世界観を信じるというのは、基本的に有害な習慣です。自分の人生がうまくいかなくなるという意味でもよくないですし、多くの場合、周囲の人々にとっても傍迷惑な存在になります。心理学をかじったことのある人ならばご存知かと思いますが、ちょうどこの「努力した者が報われる」「正義は勝つ」という思い込みに対しては、心理学の分野では「公正世界信念」という用語が当てられています。
善や悪をどう定義するにしろ、悪者が勝つ世界を望む人などいないでしょう。しかし、「どのような世界であってほしいか」と「現実の世界はどうなっているのか」は別々の質問です。これを混同して、物事を正しく考えるということはできません。
ケンカに勝ったら、それで満足かな?
残念ながら、「信じたい」「主張したい」と思っている人たちは、現実の世界がどうであるかということにあまり関心を持っていません。彼らはそれを知りたいとは全然思っていません。彼らの使う「正しい」という言葉は、認識と理解の「正確さ」というより、単に口論の「勝ち負け」を表すだけのものです。
「事実を知りたい」と思う人ならば、現実の世界が何か不愉快で気に入らない種類のものであったとしても(例:善意や努力が報われるとは限らない)、いったんはそれを事実として受け止めるはずです。それができれば、「では、そのような現実に対して、私たちはどのような対処ができるのだろうか」ということを冷静に考えることができます。理解は解決への可能性を生みます。
一方で、「信じたい」「主張したい」の側にいる人たちは、永久に口喧嘩の勝った負けたのレベルにとどまることになります。そこには事実の理解というものが何もないので、物事の実際的な前進や、その人自身の内面的な成長といった結果が生まれることはありません。
「理想」と「現実」というものは、よく対立事項として語られますね。しかし、何らかの「理想」に近づける人は、今目の前にある「現実」を正しく理解しようとした人だけです。
そして、このような理解を前進させるためには、「今の自分の考え方は誤っているかもしれない」「自分の価値観にそぐわない実態があるかもしれない」ということを認め、この不快感に耐える力が必要とされます。
不愉快でも理解しよう、それは自分自身のためだ
ここで、冒頭で箇条書きにした「努力か才能か」への指摘を振り返ってみると、「変えられるもの」と「変えられないもの」を切り分けるという視点が出ていますね。こうした視点に気づくことは、「考える」「理解する」というプロセスを前進させることです。
仮に「才能」が変えられないものだとしたら、自分がたまたま「才能」に恵まれなかった分野で「努力」を重ねても、あまりいい結果は出なさそうです。そうであれば「自分が戦うべきフィールドをよく考えて選択する」という方針が出てきます。現実への対処のための、新たな道具が得られたわけです。
学生であれ社会人であれ、職業選択について今まで一度も悩んだ経験がないという人はいないでしょう。仕事、趣味、プライベートの人間関係、こうした領域で自らの「できなさ」「要領の悪さ」というものに悩んだことのない人もいなさそうです。向き不向きというものは確実にあります。さらには、「才能」に限らず、この世のほとんどの物事は「自分の力では変えられないもの」によって構成されています。
つまり、今回の記事で考えたような内容は、SNSで繰り広げられる不毛な口論について考察するときだけでなく、あなた自身のもっと身近な悩みに対しても適用できるわけです。
信じること、主張することをやめましょう。何よりもまず、事実について理解するべきです。
言うまでもなく、それはすごく面倒な過程で、楽しいことばかりではないものです。だからこそ、みんなやりたがりません。それでも、あなたが抱える実際的な課題、そして内面的な根深い苦悩を解消できる可能性があるのは、あなたがそれを理解しようとしたときだけです。
関連書籍
「口先だけの議論を捨てて、自分の人生を生き始める」という点については、以下の本で詳しく考えています。
また、この世に「願望と思い込みの話ばかり」というジャンルは山ほどありますが、代表例のひとつが「投資」です。これについては、経済の専門知識を常識的な理屈でわかりやすく解説した本も出しています。
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