ぼくと彼女は戦争と子どもたち展へ行く
ぼくと彼女は『戦争と子どもたち』展へ行く。正確には『戦後80年 戦争と子どもたち』展である。板橋区立美術館というところでやっていたこの展覧会に、ぼくと由梨(彼女)は戦後81年目のお正月に行ってきた。
新年一発目のデート先に板橋区立美術館『戦争と子どもたち』展を提案してきた由梨はなかなかの変わり者だと思う。ぼくが大田区民で、由梨が横浜市民であることを考えると、これはもう相当な変わり者だと言わざるを得ない。もしぼくらが板橋区民だったり、この展覧会の関係者だったりしたなら話はまだ分かる。しかし、ぼくらは板橋区からまあまあ離れた地域に住んでいて、この展覧会とも無関係な人間なのである。由梨は相当な変わり者だ。由梨が美術展が好きで、子どもが好きで、ぼくらにとって板橋区立美術館がお気に入りスポットであることをぼくが知らなかったなら、ぼくは由梨を変質者扱いしているところだったぜ。
まあ、変わり者というなら、新年早々、坂田靖子のマンガを読んでいるぼくも他人のことは言えないんですけどね。二回りも三回りも上の世代のコンテンツだもの。とっくの昔に絶版・品切れになっている紙のマンガを入手させてくれるブックオフさまには感謝しかありません。もし坂田靖子をリアルタイムで読んでいる02(03)lineがいたらコメントください。「あなた変わり者だね」って返信してあげます。
新年最初の日曜日。JR京浜東北線蒲田駅のホーム(大宮方面)で待ち合わせ。集合時間の5分前に着いたが、すでに由梨が待っていたので申し訳ない気持ちになる。なんだかんだで外は寒いからな。本人は「寒くない」って言ってたけど。LINEや通話ではすでに新年の挨拶を済ませているが、会うのは今年初なので改めて対面で「明けましておめでとう」と言い合う。由梨からは続けて「お誕生日おめでとう」とも言われたが、ぼくは誕生日のお祝いなどを言われると無性に照れてしまう人間なので(?)、一応「ありがとう」と返したあと、軽くボケて慌てて話を逸らした。
有楽町駅で下車。都営三田線日比谷駅まで歩いて都営三田線に乗り換え。ここから終点の西高島平駅まで40分間のゆったりタイムとなる。さっき「板橋区立美術館はぼくらのお気に入りスポット」とか言っておいてなんだが、由梨と一緒に板橋区立美術館へ行くとき、ぼくはこの三田線での移動時間がいちばん好きかもしれない。いつも絶対座れるし(終点に近付くほど乗客が少なくなる)、冬は暖房が効いていて寒くないし(足元が暖かい)、誰かと雑談するにはこれ以上ないほど快適な空間だといえる。
この日もぼくらは色んな話をした。いちばん印象に残っているのは四谷大塚(中学受験塾)の話かなあ。駅の広告に「四谷大塚 入塾テストの合格は2人に1人!」と書いてあるのを見て、ぼくが「落ちる子がかわいそう。希望者は全員入塾させてやればいいのに」と言ったら、由梨は「四谷大塚の入塾テストは何度でも再受験できるよ。入塾テストに不合格だった子は四谷大塚から学習指導を受けられる。四谷大塚の入塾テストは希望者を切り捨てるためというより、その子の本気度を確かめるためのものなんだよね」と教えてくれた。……なんか急に四谷大塚のPRみたいになって申し訳ないが、要は、中学受験というのはそれぐらい本気の覚悟が必要なもので、四谷大塚は熱心で良心的な中学受験塾だということのようである。ぼくは中学受験なんてしたことないのでよく知らないけど。でも、由梨がそう言うならぼくは信じることにする。由梨は大学時代に小学生の家庭教師をしていたわけだし。っていうか、ぼくは自分で自分が恥ずかしいよ。気の利いたことを言ったつもりでスベっちゃってさ。いかにぼくは世の中を表面的にしか見ていないかっていうことだ。そのせいで心も荒みがち。対して由梨は……
……とかいう話はともかくとして、終点の西高島平駅に到着。改札を出て首都高をまたぐ歩道橋を渡る。高所恐怖症なのでこの眺めはふつうに怖い。歩道橋を降りて住宅街を歩くこと約10分。赤塚溜池公園という公園を突っ切り、板橋区立美術館についに到着。はい、目的地に到着するまで1,703字かかりましたね。蒲田から西高島平まで距離があるとはいえ、さすがにこれは字数かかりすぎですよ。なんでこんなに前置きが長いんだよ。どう考えても四谷大塚の話いらなかっただろ。坂田靖子って誰だ。ぼくのnoteの使い方これで合ってんのか!?(今さら!?)

板橋区立美術館『戦後80年 戦争と子どもたち』展は、太平洋戦争前後に描かれた「子ども」が題材の絵画の展覧会である。板橋区立美術館が所蔵する作品だけでなく、全国各地の美術館や資料館に収蔵されている「子ども」関係の作品がこの展覧会のために集められた。作品の数はぜんぶで80点ぐらいかな(資料除く)。展示室内は撮影禁止だった。
まずは、第1章「童心の表象」。青柳喜兵衛というひとが描いた《天翔ける神々》(1937年)という絵が展示されてある。大きくてカラフルな絵だ。張り子の虎に乗った中央の子どもは、数年前に亡くなった自分の子どもがモデルらしい。亡くなった自分の子どもを絵に描くってどういう気持ちなんだろう。ぼくには子どもがいないので想像でしかないけど、子どもを失うことは相当つらい出来事だったんじゃないかなあ。でも、そのつらさをキャンバスにぶつけることが画家の業ということなんだろうか。
この第1章では少年の裸を描いた絵も展示されていて、彼女がいるけど実はゲイであるぼくとしては若干気になったが、隣に由梨がいる以上はポーカーフェイスを貫いた。まあ、この少年は少年すぎたしな。もう少し年齢が上の青年の裸の絵だったらぼくは興奮していたに違いない。とりあえず、90年近く前の日本の少年にもペニスがついていたことを知れたのはよかった。
小杉放菴というひとが描いた《金太郎遊行》(1944年)は、まさかりをかつぎがちなことでおなじみの金太郎がクマにまたがっている光景を描いた、やはりとても大きなサイズの絵だ。当時、童話に出てくる金太郎のイメージは戦意を高揚するためにちょうどよかったらしい。そういう話を聞いた上でこういうことを言うのは不謹慎かもしれないが、この絵では金太郎にまたがわれているクマがかわいらしかった。
続いて、第2章「不安の表象」。水原房次郎というひとが描いた《夏の夜 戦果をきき入る少年達》(1942年)という作品も、やはりこれまた大きなサイズの絵である。ラジオの大本営発表に少年たちが耳を傾けている。熱心に聞いているのか、それとも適当に聞き流しているのか、少年たちの表情が判然としないところがいい。それにしても、当時の子どもたちは大本営発表をどういうつもりで聴いていたんだろう。ぼくが「大本営発表を信じない子どもも一人ぐらいはいたのかな?」と言ったら、由梨は「そういう子は生きづらかったかもね」と言っていたけど。
ヘンリー杉本というひとが描いた《我々のバス》(1943年)という絵は、アメリカの日系人たちが強制収容所に運ばれていく様子を描いた絵だ。牛を乗せた車を隣に描き、日系人を乗せた車(バス)と対比させている。当時としてはかなり攻めた絵というか、メッセージ性が強い絵だったんじゃないかと思う。バスの向かう先には薄暗い道がずっと続いていて、強制収容所に運ばれる日系人たちの未来が暗示されている。この絵は第2章のコーナーで特にぼくの印象に残った絵だった。
石井正夫というひとが描いた《模型建艦》(1943年)も印象に残ったな。模型建艦(いわゆるプラモデル的なもの?)を組み立てている少年の絵なんだけど、なんとこの少年の顔が「気持ち悪くない」のだ。……いや、この『戦争と子どもたち』展に来てここまで見てきた絵に描かれている子どもたちっていうのは、こう言っては失礼なんだけど、どこか不気味な顔をした子どもたちばかりだったのだ。生気がなかったり、死んだ魚のような目をしていたり。その点、この《模型建艦》の少年は令和にも存在しそうなふつうの男の子という感じで、戦時中の日本にこんな雰囲気の絵を描く画家がいたのかと印象に残ったのである。ぼくが由梨に「この少年、ふつうな感じだね。さっきまでの少年たちはどこか不気味だったけど……」と言ったら、由梨はぼくの感想を70%ぐらい理解してくれた。
藤野天光というひとが作ったという、銃を構えた少年のブロンズ像《父にまさる》(1940年)を「こわ」「うわあ」などと言いながら鑑賞したあと、第3章「理念の表象」へ。まず目に入ってきたのは、白谷登というひとが描いた《征途の別れ》(1941年)という大きな絵だ。幼い我が子を残して戦地へ赴く女性看護師の姿が描かれている。この絵ではこの看護師はいわば「聖母」として位置付けられていて、体自体がかなり巨大に描かれている。「体の大きさ=尊さ」ってことなんだろうけど、一緒に描かれている子どもと比べて明らかにビッグサイズすぎて、もはや巨人みたいになっちゃっていて気持ち悪い。戦争のプロパガンダ的な香りを感じる絵だ。
一方(?)、北川民次というひとが描いた《作文を書く少女(慰問文を書く少女)》(1939年)という絵は親しみやすい感じの絵だった。戦地の兵士宛ての「慰問文」(励ましのお手紙的なやつ)に何を書こうか悩んでいる少女を描いた絵なんだけど、どこかのんきな空気を感じる絵だった。右上の鳥籠にいる鳥もかわいらしかったし。まあ、少女の顔は不気味だったけど。
第3章のコーナーには作者不明の絵もあった。去年、由梨と一緒に行った港区立郷土歴史館『暮らしの中のお菓子展』でも紹介されていた「慰問袋」を描いた作者不明の絵だ。まあ、正確には「慰問袋を描いた絵」っていうか「慰問袋にお菓子を詰めている少女たちの絵」なんですけどね。1943年以降に描かれた絵と推測される。作者不明の絵ではあるのだが、これは明らかにプロの画家が描いた絵だろう(「プロの画家」の定義はともかくとして)。この絵に描かれている少女たちは楽しそうな顔をしていない。そういえば、この『戦争と子どもたち』展で展示されている絵の中の子どもたちには笑顔がない。みんな無表情だったり意味深そうな表情だったりして、少なくとも笑顔ではない。ぼくがそのことに気付いて由梨に言ったところ、由梨からは「うん、たしかにそうだね。よく気付いたね!」と褒めてもらった。由梨から褒められたの何千年ぶりだろう……
刑部人というひとが描いた《少年通信兵》(1944年)という絵は、戦地へ赴いた少年兵たちが森の中(?)で作戦を実行している様子を描いた絵だ。この『戦争と子どもたち』展で展示されている絵の中では、たぶん唯一の「少年兵を描いた絵」なんじゃないかと思う。太平洋戦争では子どもたちも戦地へ駆り出されていたんだよなあ。なんともひどい話だし、むなしい気持ちになる。この絵には少年兵たちと一緒に馬の姿も描かれていて、ぼくは「おっ、かっこいい馬だぞ」と胸がときめいたりもしたが、そんなことではぼくのむなしい気持ちは消えなかった。
第4章「明日の表象」では、戦争を題材にしているわけではないが戦時中に描かれた絵が紹介されている。もちろん、どれも「子ども」が描かれてた絵ではある。松本竣介というひとの作品がいくつか展示されていて、ぼくは「線画っぽい絵だな」としか思わなかったのだが(失礼)、由梨は「横浜美術館にも絵が展示されてあったひとだよ」と教えてくれた。ぼくが「えっ? どの絵?」と聞いたら由梨は「(ぼくの下の名前)くんが気になるって言っていたやつだよ。鉄の橋がかかっていて……」と教えてくれたけど、あいにくまったく思い出せません……と思ってあとでスマホを確認したら、ぼくは横浜美術館で松本竣介の絵を何枚も撮っていたし、しかもこのnoteに写真まで上げていたではないか! ぼくの記憶力大丈夫か?
佐藤哲三というひとが描いた《コドモと柿の夢》(1943年)を見ながら「横尾忠則っぽいな」などと口走りつつ(いや、横尾忠則の絵がこれに似ているってことか?)、第5章「再建の表象」へ。『戦争と子どもたち』展最後のコーナーだ。ここでは戦後の子どもたちを描いた絵が展示されている。大塚睦というひとが描いた《孤児》(1946年)という絵は、駅(たしか上野駅)の構内にいる戦災孤児の兄妹を描いた絵だ。帽子を斜めに被っている兄と、松葉杖を携えて座り込んでいる妹。どちらも服が薄汚れていて、うつろな表情をしている。なんとなく『火垂るの墓』っぽい絵だな。由梨にそのことを言おうとした瞬間、由梨から「『火垂るの墓』を思い出すね」と言われたのでぼくはびっくりした。まあ、『高畑勲展』、去年の夏に行ったしな。
ぼくがいちばん気に入った……という言い方でいいのか分からないが、絵画として気に入ったのは、大沢昌助というひとが描いた《虚像を耕す(瓦れきの歌)》(1947年)という絵だ。がれきが並ぶ焼け跡。小学生ぐらいの二人の男の子がメンコのようなもので遊んでいる。その隣では高校生ぐらいの男の子が一人でがれきを片付けている。そこに大人はいない。戦後の焼け跡を描いた絵のはずなのに、ぼくはこの絵に「日常」を感じてしまった。なんでだろう。この絵に大人がいなかったからかな。大人がいない状況では、「下の子」は子どもらしく遊んでいていいけど、「上の子」は大人っぽく振舞わないといけない、大人がやるべきこと(がれきの片づけとか)も率先してやらないといけない、っていう風景にぼくは「日常」を感じたのかもしれない。ほら、公共の場に弟と二人でいるとき、兄は「保護者」の役を演じないといけなかったりするじゃないですか。ぼくはきょうだいがいないから体験したことはないけど。でも、ぼくにも年下の従兄弟はいるのでなんとなく分かる。小学6年生の時、ぼくは年下の従兄弟と二人でいる時に「保護者」を演じていた。従兄弟のお父さんのお葬式でのことだった。40歳ぐらいで亡くなったんだよな、たしか。
戦時中の雑誌やマンガを紹介する資料コーナーでは、1941年、長谷川町子が22歳の時に描いた『翼賛一家大和さん』というマンガが展示されていた。この『翼賛一家大和さん』というのは複数の漫画家が同じキャラクターを使って描いたシリーズだったらしい。まあ、メディアミックス的なことかな。戦意高揚のために制作されたマンガだそうだが、長谷川町子が描いたそれは「節約のため自分で作った足袋がどちらも左足用になってしまった」というのんきな物語になっている。長谷川町子としてはまともに戦意高揚なんてやるつもりなかったんだろうな。絵柄も雰囲気もほとんど『サザエさん』みたいな感じだし、『サザエさん』のプロトタイプみたいなところがあった。
ぼくと彼女は『戦後80年 戦争と子どもたち』へ行く。このあとぼくらは板橋区立美術館を出て、西高島平駅まで歩いて、都営三田線に乗って、電車の中で雑談し続けて、日比谷駅で降りて、JR有楽町駅方面のカレー屋さんに向かった。これはぼくのリクエストである。行きの電車の中で由梨から「ご飯は何を食べたいか」と聞かれたので、ぼくは「なんでもいい」と答える代わりになんとなく「カレーかな?」と答えたのだった。……いや、本当に食べたくはあったんですよ? 思いつきで口走っただけだけど、カレーを食べたい欲求があったのは事実だ。
カレー屋さんでは由梨から誕生日プレゼントをもらった。メインのプレゼントは、元町ショッピングストリートのお店で買ったという紺色のお財布だった。学生時代から使っているお財布がだいぶくたびれてきていて、紺色が好きなぼくとしては、これ以上ないほどうれしいプレゼントだ。あまりにもうれしかったので、カレー屋さんを出たあと、ぼくはプレゼントが入った袋を見てテンションが上がって、JR有楽町駅前の普通にひとがいるところで由梨を抱きしめてしまった。ゲイのくせにやば。軽く抱きつく程度だったとはいえやば。まあ、内容的には友情のハグだと思っていただければ……
ここで無理やり『戦争と子どもたち』展と話をつなげるなら、ぼくがこうやって誕生日プレゼントをもらえるのも、うれしく思えるのも、公衆の面前で彼女に抱きつけるのも、そしてそれを反省してnoteに書けるのも、すべてはこの社会がなんだかんだで平和だからだ。『戦争と子どもたち』展で見た戦災孤児の兄妹や、焼け跡のがれきを片付けていた男子の姿を思い出すと、ぼくは彼らに申し訳ない気持ちになる。ぼくだけ平和を享受しちゃってごめんっていうか。あの子たち、あのあとどうなったんだろうか。ライスカレーを食べたりしただろうか。自分の好きな色のお財布を持てたりしたかな。あんな時代もあったねといつか笑って話せただろうか。
この日、ぼくらが帰りの都営三田線の車内で話したことは、「戦争はよくない」ということだった。なぜなら、戦時中はもちろん悲惨だが、戦争が終わってからも人々の苦しみは続くからということだった。7,000字書いておいてそんな月並みなオチかよと笑われそうだけど、でも、『戦争と子どもたち』展で見た絵の子どもたちに笑顔がなかったことを思い返すと、いまのぼくはそんなことぐらいしか言えないのである。
