ChatGPTと学ぶ日本史・第二夜~第26回――制度疲労の臨界点~鎌倉幕府はなぜ限界に達したのか
鎌倉幕府は、なぜ滅びたのか。
その原因は、本当に「元寇」や「後醍醐天皇の倒幕」にあったのでしょうか。
本稿では一度時を鎌倉幕府末期まで巻き戻し、教科書的な流れをあえてなぞりながら、その裏側にあった「構造」に注目して歴史を読み直します。
元寇後の恩賞不足、神領興行令と寺社訴訟の激増、そして永仁の徳政令――
一見バラバラに見えるこれらの出来事は、すべて「制度の限界」という一点に収斂していきます。
さらに、悪党追捕や非御家人動員といった管轄の拡大、そして本来は朝廷の専権事項であったはずの「皇位継承問題」にまで及んだ幕府への依存。
こうして鎌倉幕府は、「本来担うべきではなかったもの」まで背負い込むことになります。
その結果、幕府は外敵ではなく、むしろ自らの制度によって疲弊し、限界へと追い込まれていきました。
本稿では、両統迭立の運用や花園天皇・後醍醐天皇の即位の背景にも触れながら、鎌倉幕府滅亡前夜の実像を「構造」と「編年」の両面から整理します。
「なぜこの順番で歴史が進んだのか」
その答え(の一端)が見えてくる(かも知れない)回です。※約14000文字
はじめに
前回は、「足利尊氏の事情」の続きとして、「なぜ尊氏は後醍醐天皇と袂を分かつことになったのか」という問題を、主として尊氏の「属人性」に着目しながら概観しました。
この問いに対する答えとしては、尊氏の持つカリスマが多くの武士の支持を急速に集めてしまった結果、後醍醐天皇から見れば尊氏は「第二の幕府」にも等しい存在となり、両者の対立は構造的に避けがたいものとなっていった、ということを述べました。
なお、一点だけ補足しておくと、最終的に両者の関係を決定的に断ち切った契機は、後醍醐天皇側の措置に求める見方が一般的です。ただし、尊氏側もまた独自の行動を強めており、いずれにせよ両者の対立はすでに不可逆の段階に入っていたと考えるべきでしょう。もっとも、尊氏の側は終生にわたって後醍醐に一定の敬意を抱き続けたともされており、この点は両者の関係を考える上で注意しておいてよいと思います。
それでは、どうして尊氏はそれほどまでに武士たちの人気を集めたのでしょうか。
以前の記事では、足利氏の持つ「高い家格と権威」、さらに尊氏の持つ官位が、武士の視点から見て「高過ぎず低過ぎず」という、いわば「最適サイズの神輿」であったことなど、その「構造」を確認しました。前回はそれに加えて、尊氏の「属人性」、つまり「カリスマ」にもスポットを当てて眺めてみました。
簡単にまとめると、足利尊氏は「ヨッシャヨッシャ系の非常に頼れる上に大変気前の良い親分」肌の人物であり、『梅松論』には「戦場にあっては冷静かつ勇敢で、身分を問わず功績に感じ入り、その場で恩賞を約束する」という、これで「参らなければ武士ではない」とも言えそうな、まことに“どストライク”な「頼れる親分」として描かれています(ただし、全ての武士が”シビれる”とは限らない点は注意)。
もっとも、『梅松論』は作者・成立年代ともに諸説があり、その叙述姿勢も概ね「室町幕府・足利氏寄り」と考えられています。いわゆる一次史料とは言い難いものの、成立時期は描かれている時代から大きく隔たってはいないと見られ、一定の史料的価値は認められています。従って、そこに描かれる「尊氏のカリスマ」については、いわば「身内びいき(ヨイショ)」が含まれている可能性には注意が必要です。
とはいえ、多少の「盛り」を差し引いても、尊氏のキャラクターが武士たちにとってきわめて魅力的なものであったことは充分に想像できます。特に「大変気前が良い」という部分は、よりスムーズで確実な恩賞を求める武士層にとって、現代のミーム風に表現するなら「尊氏様しか勝たん」くらいのインパクトを持っていたのかもしれません。しかも、そのキャラクターは「自己演出」というより、むしろ「天然」に近いものだったのではないかと思われる節もあり、そうであれば、その「裏表のなさ」もまた武士たちの目には「これは本物だ」と映った可能性があります。
このように、尊氏の「カリスマ」性とは、まさに「武士のハートを直撃」するようなものであり、しかも計算のない、あるいは少なくともそう見える「天然」であることが、その強みになっていたとも考えられます。そこに「神輿としての適正サイズ」といった構造的条件が加わることで、武士たちが尊氏を神輿として「ワッショイ、ワッショイ」と担ぎながら、自分たちに都合の良い方向へ驀進していくような状況が生み出されたのではないか、ということを前回は述べました。
しかしながら、この「尊氏の美点(カリスマ)」は、いわばコインの裏表のような一面も持っていました。たとえば「戦場にあっては冷静かつ勇敢」という美点の裏返しとして、事態がいよいよ切迫すると、軽々しく切腹を口にして周囲を慌てさせたとする逸話も伝えられています。これは、ある種の「物事への無頓着さ」が裏返ったものとも言えるでしょう。さらに、肝心の局面で判断が遅れがちであったとも考えられ(優柔不断にやや近い)、これが最悪の形で表れてしまったものの一つが「観応の擾乱」であったとも整理できます。もちろん、これは主要因ではありませんが、尊氏が対立の調停や決断において明確な方針を打ち出せなかったことが、結果として対立の拡大を招いた側面は否定しにくいように思われます。
また、「気前の良さ」にも当然「限度」というものがあります。尊氏の場合、ときにそれが「度を越していた」と言える場面があったようです。以前の記事では、尊氏が息子の義詮に宛てて、「関東にあった赤松則祐の所領を、事情もよく確かめないまま他人に与えてしまった。京都の方に代替地があれば至急世話してやってくれ」といった意味の書状を紹介しましたが、感激のままに充分な精査もなく恩賞(土地)を与えてしまう、あるいは約束してしまうため、最終的に整合性を取るために誰かが苦労して調整する、ということが少なからずあったとされています。
そして、「室町幕府」最初期に見られる「二頭体制」もまた、尊氏のこうした「悪い癖」が表れた一例と見ることができるかもしれません。一般にこの「二頭体制」あるいは「両将軍体制」については、尊氏が恩賞授与・守護職任免・軍事指揮といった主従制的支配を担当し、直義が裁判・政務・所領安堵などの統治的支配を担当したと整理されます。ただし、両者の関係が機械的に均衡していたと考えるのはやや不自然でしょう。尊氏自身はもともと「統治実務」を大変不得手にしていたとされるため、むしろその「兄の不得手な部分に長けていた」実弟の直義が、将軍としての尊氏の権威を前提としつつ、その下で実務と調整を強く担っていたと捉える方が、実相に近い可能性があります。
ここで思い出されるのが、中国古典『韓非子』の「二柄(にへい)」論です。
『韓非子』では、「賞」と「罰」、簡単に言えば「アメ」と「ムチ」の権限を、君主が絶対に手放してはならないものとして「二柄」と呼びます。そしてこれを臣下と分け合うことを、君主が決して行ってはならないことの第一としています。
人主なる者は、刑徳を以て臣を制する者なり。今、人に君たる者、其の刑徳を釈てて、臣をしてこれを用いしむれば、則ち君は反って臣に制せられん。
さらに『韓非子』は、「徳(アメ)」だけを掌握して君主を弑した田常(でんじょう)や、「刑(ムチ)」だけを掌握して君主の地位を脅かした子罕(しかん)の例を挙げながら、「二柄」のどちらか一方だけでも手放せば君主は必ず危機に陥ると強く戒めています。
この視点に立つなら、室町幕府の最初期における「二頭体制」とは、尊氏が主として「徳」、直義が主として「刑」に関わる側面を担っていた状態と見ることができ、まさに『韓非子』のいう「其の刑徳を釈てて、臣をしてこれを用いしむれば、則ち君は反って臣に制せられん」という構図にかなり近いものだったとも言えるでしょう。
それでもこの体制がしばらくの間は機能したのは、一つには先述の通り、「兄の不得手な部分(統治実務)に長けていた」直義が、将軍としての尊氏の権威を前提としながら、その下で実務と調整を強く担っていた、いわば「適材適所」の構造があったからだと考えられます。もう一つには、尊氏と直義の双方に、「源頼朝と北条義時」、あるいは「鎌倉殿と執権」という「古き良き鎌倉幕府」を理想とする意識があった可能性も想像されます。
それは、建武三年に公布されたとされる「建武式目」にも表れています。なお、建武式目は厳密な意味での「法典」というより、むしろ「施政方針に近い性格を持つもの」と捉えるべきでしょう。
建武式目は冒頭で、「鎌倉元の如く柳営たる可きか、他所たる可きか否かの事」と、政権所在地について論じたうえで、
就中(なかんずく)、鎌倉郡は文治右幕下(頼朝を指す)、始めて武館を構へ、承久義時朝臣(あそん)天下を併呑(へいどん)し、武家に於ては尤(もっと)も吉土と謂ふべき哉(か)、居所の興廃は政道の善悪によるべし
として、鎌倉を「源頼朝が初めて武家政権の拠点を築き、北条義時が天下を差配した、武士にとって最も縁起の良い土地」と位置づけています。冒頭では一応、「政権所在地の良し悪しは、場所そのものではなく、そこで行われる政治の善し悪しによって決まるべきである」と留保を置いていますが、続く「政道の事」では、
右、時を量り制を設くるに、和漢の間、何法を用ひらるべきや。先ず武家全盛の跡を遂ひ、尤も善政を施さるべし。然らば宿老・評定衆・公人などの済々たり、故実を訪(おとな)はんにおいては、何の不足あるべきか。
として、「先ず武家全盛の跡を遂ひ、尤も善政を施さるべし」、すなわち「武家が最も栄えた時代に倣い善政を行うべきだ」と述べています。ここには、「古き良き鎌倉幕府」を明確に理想化する姿勢が表れていると言ってよいでしょう。
また、これは単なる懐古ではなく、“武家政権の成功モデルに回帰せよ”という政策宣言とも捉える事が出来ます。
特に直義は「非常に真面目」であったと伝えられますから、かなり本気で「統治者としてはやや頼りない兄を助けつつ、“理想の鎌倉殿”を再興する」ことに邁進していた可能性があります。
このように、当初は「適材適所」的に機能していた体制でしたが、やはり「刑徳」が分離した「歪な」状態であることに変わりはありません。たとえば、尊氏が整合性も考えずに「気軽に」恩賞を与えてしまえば、そのたびに直義が苦労して調整することになりますし、それは逆に直義の権力を相対的に高めることにもつながります。これは、以前の記事で見たように、鎌倉幕府における北条氏が「有能な実務官僚」として幕府の制度に深く食い込むことで権力を伸長させていった姿を思い出していただくと、比較的イメージしやすいのではないかと思います。
また、幕府に従う武士たちの側でも、直義の裁定によって恩賞を失った者は尊氏に泣きつき、逆に尊氏の気前の良さによる混乱を嫌う者は直義を支持する、というように、「より早く恩賞が欲しい」層と「法に則った確実な恩賞が欲しい」層とのあいだで、しだいに派閥的な緊張が生まれていきます。
こうして「尊氏推し」と「直義推し」のような対立は、やがて尊氏のもとで「実務」を担っていた高師直と、直義との対立へと収斂していきます。ところが、ここで尊氏の「悪い癖」が出ます。すなわち、「愛する実弟である直義」と、「文武ともに有能で頼りになる高師直」のどちらも切り捨てる(選択する)ことができず、事実上この対立を放置してしまったのです。
やがて対立が「沸点」を超えると、直義派と師直派は双方ともに実力行使に至り、幕府そのものを二分する大内乱、すなわち「観応の擾乱」へと発展していきます。これは単なる師直と直義の「個人的な争い」というより、むしろ「二柄」をいかにあるべき形へ回収するかをめぐる「構造選択」の戦いと捉えることもできるでしょう。そして、ここで尊氏の「腰の重さ」が結果として最悪の形で作用し、両者をほぼ同時に失うという「痛恨」の結果を招いてしまいました。
なぜこれが「痛恨」なのかと言えば、高師直も足利直義も、政権運営を実務面・制度面から支えることのできる希少な人材だったからです。この二人をほぼ同時に失ったことによって、その後の室町幕府は、「人(属人性)から制度(システム)へ」という方向転換の大きな機会を失い、以後は属人性に強く依存した体制を構築せざるを得なくなった、と整理することができます。
ここまで、「足利尊氏の事情」について、多少の勇み足を含みつつ駆け足で概観してきました。
今回は予定通り、「後醍醐天皇による倒幕から、尊氏主導による北朝成立のあたりまで」を、やや編年的に眺めてみたいと思います。
とはいえ、その前提として、時をいったん鎌倉幕府晩期のあたりまで巻き戻してみます。前回まで二十五回にわたって積み上げてきた「背景」を踏まえると、これから見ていく一連の出来事は、単なる「教科書的な流れ」ではなく、「なぜその順番で起きたのか」が見えてくるはずです。
その意味で今回は、これまでの構造的理解を踏まえたうえで、あらためて鎌倉幕府滅亡から南北朝成立へ至る流れを読み直してみたいと思います。
ヘロヘロの”鎌倉幕府”
文永11年(1274年)と弘安4年(1281年)の二度にわたる「蒙古軍襲来(元寇)」を辛うじて退けた鎌倉幕府は、その後、いわば「青息吐息」とも言うべき状況に陥っていました。
迫り来る元(蒙古)軍を迎え撃つため、幕府が「本所一円地住人」、すなわち非御家人層を動員する権限を朝廷から得たことについては、以前の記事でも触れましたが、それに加えて、この時期には幕府もまた独自に全国各地の寺社に祈祷を命じるなど、宗教的動員への関与を強めていたと考えられます。
現代人から見ればやや理解しにくい部分かもしれませんが、中世社会において「神仏」は疑う余地のない実在であり、その為に「鎮護国家」を担う延暦寺のような大寺社は強い権威と影響力を持っていました。つまり、元寇においては「人対人」の物理的迎撃と並行して、「神仏の加護」による霊的迎撃もまた、本気で期待されていたのです。
当然ながら、「公権力」からの命令を果たした以上、その報酬を踏み倒すことはできません。とりわけ、史実性については議論があるものの、いわゆる「神風」の存在も広く信じられていた以上、その霊験は極めて大きなものとして認識されていたと考えられます。
その結果、幕府は報償の一環として「神領興行令」を発しました。これは、荒廃していた(「知行」が困難になっていた)寺社所領を本来の状態に回復させることを目的とするものであり、質流れしていた所領などを取り戻すことを可能にするものでした(「所領」は「荘園」の事と考えて下さい)。
もっとも、この「神領興行」は本来「朝廷」の管轄に属する領域であり、元寇に際しての祈祷命令もまた朝廷から出されていました。そして恩賞として、幕府のものと同様の趣旨を持つ「綸旨」も発給されていたのです。
しかし、寺社側はその実効性を幕府の側に求めることになります。その結果、幕府の法廷に確認を求める訴えが殺到することとなりました。石原比伊呂氏はこの状況について、「なぜ御家人でもない者たちが幕府を頼ってくるのか、幕府側も当惑していたであろう」と分かりやすく表現しています(『北朝の天皇ー「室町幕府に翻弄された皇統」の実像』/中公新書)。
これは当時の朝廷が、軍事・警察といった実力装置を事実上ほとんど保持していなかったことに起因します(全く存在しなかったわけではありません)。極論すれば、同じ「神領興行」を命じる文書であっても、綸旨は実力による裏付けを欠くため、実効性という意味での「信用」は相対的に弱かった可能性があります。
さらに、荘園の「不知行」の要因の一つには「悪党」の存在がありました。彼らは単なる無法者(や反幕府(体制)勢力)というより、既存の支配秩序に対する抵抗的な性格を持つ場合も多く、その追捕はすでに朝廷から幕府へと事実上委ねられていました。従って、寺社領の回復にあたって幕府が頼られるのは、構造的に見て当然の帰結であったと言えるでしょう。
一方で、幕府内部の統治(権利調整)能力も徐々に低下していました。鎌倉幕府後半、より正確に言えば北条時宗による得宗専制体制が確立して以降、評定衆や引付衆を中核とする権利関係の調整機能は、次第にその機能を低下させていったと考えられます。いわば「ショートカット」による統治が常態化していたためです。
そこに、「神領興行令」や「本所一円地住人」に見られるような管轄範囲の拡大が重なり、訴訟件数は急増します。その結果、ただでさえ弱体化しつつあった幕府の訴訟処理機構は、急速にキャパシティーオーバーへと向かっていきました。
こうした状況の中で、永仁5年(1297年)に執権・北条貞時によって発せられたのが、いわゆる「永仁の徳政令」です。
教科書的には「借金棒引き」として語られることの多いこの徳政令ですが、その本質はむしろ、越訴(おっそ/再審請求)の停止と、債権・債務に関する訴訟の不受理にあり、幕府の訴訟機構が限界に達したことを示す、いわば「制度的な敗北宣言」として捉えることができます。
当然ながら、貸し手(債権者)にとっては深刻な問題であり、社会的な混乱を招いたとされています。特に、本来は御家人を主な対象としていたこの徳政令の「売却済み所領の回復」という側面が、非御家人層にも拡大解釈され、広く武士層に利用されてしまったことが、その混乱を一層拡大させたと考えられます。
なお、このような一方的な契約破棄が行われれば「誰も貸さなくなるのではないか」と説明されることもありますが、実際にはそのような事態はほとんど発生しませんでした。なぜなら、貸し手側が徳政令の発動を前提とした契約を組むようになっていったからです。すなわち、「どの範囲までが徳政令の適用対象となるのか」を事前に契約条項として組み込むことでリスクを制御するようになり、結果として徳政令の実効性は徐々に低下していきました。
それでもなお、なぜ貸し手がいなくならなかったのかと言えば、当時は現代のように多様な投資対象が存在せず、「富が富を生む」手段としては、こうした高リスクの金融活動が数少ない選択肢であったためと考えられます。
また、武士や貴族が借金を必要とした理由も構造的に明らかです。「土地が富の源泉」である以上、その収入は基本的に年一回に限られ、しかも天候などの自然条件に大きく左右される不安定なものでした。現代のような定期的な給与収入とは異なり、いわば「不安定な年俸制」であり、かつ変動リスクの高い収入形態であったため、借金は避けがたい「必要悪」として機能していたと言えるでしょう。
このように、「元寇の恩賞」以前の段階から、御家人たちの困窮はすでに不可逆的に進行しており、それに伴って多発する「相論(訴訟)」は、幕府の権利調整機能を限界へと追い込んでいました。
「先生! お願いします!」じゃないのだが……
このような「構造的な制度疲労」に加えて、「王家を含む朝廷(貴族層)」による「幕府依存」の進行も、幕府にとっては頭の痛い問題でした。先述の「悪党追捕」のような本来は管轄外であった業務の常態化に加えて、「皇位継承」という、王家および上級貴族層の専権事項であった問題にまで、幕府の裁定が求められるようになっていきます。
もっとも、これについては幕府側にも責任の一端があったと言えます。承久3年(1221年)の承久の乱とその戦後処理の一環として、幕府が皇位継承に介入したこと自体は、当時の政治状況から見て「やむを得ない」側面もありました。
しかし、その後に成立した後高倉皇統が早々に断絶するという事態に見舞われた結果、幕府は再び皇位継承問題への関与を余儀なくされます。仁治3年(1242年)には、いわば「無理を重ねる」形で後嵯峨天皇を擁立することとなりました。
このようにして成立した皇統は、当然ながら貴族層との間に軋轢を生みます。そのため幕府は、後嵯峨を全面的に支えざるを得なくなりました。そしてこの力関係をよく理解していた後嵯峨自身も、幕府を適切に頼ることで朝廷の安定を回復していきます。
ここまでであれば、一応は「安定の回復」と評価することも可能でしょう。しかし、後嵯峨は結果として、後世に大きな問題を残すことになります。
後嵯峨には、中宮所生の久仁親王(後の後深草天皇)と恒仁親王(後の亀山天皇)という二人の有力な後継候補がいましたが、文永5年(1268年)の崩御に際して、「どちらが治天の君を継承するのか」を明確に示しませんでした(幕府の裁定に委ねる余地を残したともされます)。
突如として判断を委ねられた幕府も困惑したと考えられますが、そもそも後嵯峨皇統自体が幕府の関与によって成立した経緯を持つ以上、これを無視することもできませんでした。そこで幕府は、後嵯峨の中宮であり両親王の生母である大宮院(西園寺姞子)に意向を確認するという、比較的穏当な対応をとり、「亀山天皇」を後継の治天の君とする裁定を下します。
こうして亀山天皇による親政が開始されます(践祚は正元元年〈1259年〉、即位礼は正元2年〈1260年〉)。さらに亀山は、父後嵯峨の意向を受けて、自身の皇子である世仁親王(後の後宇多天皇)を立太子させ、皇位継承を自系統に固定しようとしました(これが後嵯峨の”真意”とされます)。
ところが、後嵯峨崩御後に兄の後深草が巻き返しを図ります。後深草は「太上天皇号を返上して出家」を宣言するという強硬な手段に出たのです。なお、太上天皇号は譲位すれば自動的に得られるものではなく、次の天皇から宣下(奉呈)されるものであるため、その返上は明確な政治的抗議の意味を持っていました。
この動きを、関東申次であった西園寺実兼が幕府に伝えます。これを受けた執権・北条時宗は、後深草の皇子である「煕仁(ひろひと)親王」を、後宇多天皇の皇太子として立てるよう、亀山側に求めます。当時の力関係において、朝廷側にこれを拒否する余地はほとんどありませんでした。
こうして建治元年(1275年)、幕府の介入によって、後深草皇統(持明院統)と亀山皇統(大覚寺統)という二つの皇統が並立する状態が成立します。いわゆる「両統迭立」の出発点です。
もっとも、この時宗の介入については、明確な長期的ビジョンに基づくものというよりは、当面の政治的安定を優先した対応であった(どちらかというと”場当たり的”な対応)と考えられています。
なお、本シリーズ第5回『両統迭立の陰に“お気持ち”あり~時宗と実兼、その人間的な選択』では、この時宗の介入について、やや踏み込んだ仮説も提示しています。ご興味のある方は、あわせてご覧いただければと思います。
それは”常態化”した
さて、このようにして、やや意地悪く言えば時宗の「余計なお節介」によって、皇統は持明院統と大覚寺統の二つに割れることになったのですが、この時の「幕府を後ろ盾に利用すれば、皇位継承を比較的スムーズに運べる」という一種の「成功体験」は、王家と貴族層の「幕府依存」をさらに進行させることになり、幕府の側もまた、その経緯上「責任の一端」を背負い込む羽目になったと言えます。後嵯峨崩御後、幕府が大宮院に照会したうえで亀山を治天と認め、さらに時宗の介入によって煕仁親王の立太子が実現したことは、その象徴的な事例でした。
もっとも、煕仁親王立太子の時点では、まだ「持明院統」「大覚寺統」という政治派閥が後世のように明確に固まっていたとは言い難く、両系統には確かな萌芽がありつつも、後深草院と亀山院は表面上なお一定の協調(或いは友好)関係を維持していました。
次に大きく事態が動くのは、元寇後の弘安8年(1285年)に鎌倉で発生した霜月騒動です。これは、安達泰盛(あだち・やすもり)が進めていた政治改革(いわゆる弘安徳政)が行き詰まる中、得宗専制の強化を志向する平頼綱(たいらの・よりつな)ら御内人勢力との対立が激化し、ついには鎌倉市中を戦場とする武力抗争(内戦)に発展した政変でした。この結果、泰盛とその一族は滅ぼされ、有力御家人に代わって御内人が幕府政治を主導する傾向が一段と強まります。
当時の執権・北条貞時はまだ若年で、時宗没後もしばらく執権不在の期間(4カ月程度)があったことから見ても、その治世はまだ安定には程遠かったと考えられます。また将軍・惟康(これやす)親王も、この時点ではすでに幕府の実権から遠ざけられた「飾り物」に近い存在であり、この内乱を抑え込める立場にはありませんでした。惟康はこの時期は「源惟康」と称しており、この点にも当時の将軍権威の変質を見てとれます。
そして、この霜月騒動は朝廷側にも影響を及ぼします。治天の君として朝廷を主導していた亀山上皇は、滅ぼされた安達泰盛と親しかったと見なされたため、平頼綱主導の幕府から警戒されるようになりました。その結果、弘安10年(1287年)には後宇多天皇が煕仁親王に譲位し、伏見天皇が即位します。これに伴って治天の座も後深草上皇側へ移り、持明院統は天皇・治天・将軍(久明親王)を押さえるという、きわめて有利な立場を得ることになりました。
ただし、ここで注意したいのは、後深草が「院政を行わなかった」とまでは言えないことです。伏見即位と同時に後深草院政が開始されたとされており、むしろ持明院統優位の体制が制度的にも整えられていったと見る方が実態に近いでしょう。もっとも、その中で伏見天皇自身が一定の主導性を発揮したこともまた事実であり、単なる傀儡と見るのも適切ではありません。
しかし、この「持明院統優位」の状態も永続はしませんでした。朝廷内部では、京極為兼の台頭などを背景に人脈と力学が動き、関東申次の西園寺公衡もまた亀山院側との距離を調整していきます。さらに幕府内部では、持明院統の権威を利用していた平頼綱自身が、正応6年(1293年)の平禅門の乱で北条貞時に討たれました。こうした変化の中で、幕府の皇統政策も「持明院統一本」から、両統の均衡を意識する方向へと修正されていったと考えられます。
その結果、皇位は一時的に大覚寺統へ戻り、正安3年(1301年)には後二条天皇が即位して、後宇多上皇が治天の君となります。しかしその一方で、春宮(とうぐう/皇太子)には持明院統の富仁(とみひと)親王、後の花園天皇が立てられており、「両統迭立」の構図自体は維持されていました。ところが後二条天皇が若くして崩御したことで、再び「次の皇位」と「その次の春宮」をどうするかという問題が前面化し、皇位継承をめぐる緊張はむしろ一段と高まることになります。
こちらを立てれば、あちらが立たず……
「次の天皇」については、既定路線通りに富仁親王が践祚し、「花園天皇」として即位することで、大きな問題は生じませんでした。ただし、この即位の背景には、譲位の時点で後伏見天皇がまだ14歳で皇子を持たなかったため、異母弟である富仁親王を後伏見の猶子としたうえで春宮に立てていた、という事情がありました。
この構図は、持明院統の内部においても潜在的には分岐(皇統の分裂)を孕むものでしたが、持明院統の主導者であった伏見院の意図は、あくまで「後伏見皇統」を嫡流として一本化することにありました。その意味で花園天皇は、実質的には「中継ぎ的」な役割、いわば「一代主(いちだいしゅ)」に近い性格を帯びた存在であったと考えられます。
一方、後二条天皇崩御時における次の春宮候補は、大覚寺統の邦良親王(9歳)と、持明院統の量仁親王(5歳)でした(どちらも「嫡流」です)。両統迭立の原則に従うのであれば、花園天皇の春宮としては大覚寺統の皇子を立てるのが自然であり、邦良親王の年齢も特段問題となるものではありませんでした。
ところがここで、大覚寺統を主導する後宇多院は大きな「変化球」を投じます。後二条天皇の異母弟である尊治(たかはる)親王(後の後醍醐天皇)を立ててきたのです。この時、尊治親王は21歳であり、天皇よりも年長の春宮という異例の構図が生じました。
この人選の背景には、後宇多院の明確な意図があったと考えられます。すなわち、後二条皇統を軸として大覚寺統を一本化し、その主流を確定させようとする構想です。そのために、健康面に不安があったとされる邦良親王を謂わば温存し、すでに成人して政治的にも一定の評価を得ていた尊治親王を「中継ぎ」として立てることで、皇統の連続性を維持しようとしたと見ることができます。
このように見れば、花園天皇と後の後醍醐天皇はいずれも「一代主」に近い存在であったとも言えますが、その性格は大きく異なっていました。前者が調整の産物としての中継ぎであったのに対し、後者は明確な戦略の中で配置された政治的存在だったと言えるでしょう。
文保元年(1317年)、持明院統の支柱であった伏見院が崩御します。一般に、このように両統間のパワーバランスが大きく揺らぐ局面では、皇位継承問題が激しく顕在化する傾向があります。加えてこの時期は、花園天皇の在位が10年に近づき、交代が現実的な問題として浮上していたタイミングでもありました。
なお注意すべきは、伏見院の崩御によって初めて交渉が始まったのではなく、すでに交渉が進行している最中に支柱を失った、という点です。この結果、持明院統は交渉において守勢に回らざるを得なくなり、大覚寺統に有利な形での決着を余儀なくされたと考えられます。
この際に成立したとされるのが、いわゆる「文保の和談」です。ただし現在では、この和談の具体的内容については疑問視されており、とりわけ「在位10年交代」や「明確な交互継承」といった条項は、後世的な整理である可能性が高いとされています。
重要なのは、和談そのものの詳細ではなく、両統と幕府の間で継承問題をめぐる交渉が行われていたという事実です。むしろその実態は、「皇位継承は王家内部で調整すべきであり、幕府はこれ以上深く関与したくない」という幕府側の意向が強く表れたものであったと理解する方が適切でしょう。
そもそも中世における「公式な全国政権」はあくまで王家を含む朝廷であり、鎌倉幕府は制度上、軍事・警察機能を担う補完的な機関(分担統治)に過ぎませんでした。いかに実力を持とうとも、形式上は朝廷を超越する存在ではなかったのです。
その意味で、皇位継承の裁定は本来幕府の責務ではありません。しかし、後嵯峨皇統の成立に関与した経緯から、幕府はその問題に対して「無関係ではいられない」立場に置かれてしまいました。とはいえ、どのように裁定しても一方からは強い反発を招く皇位継承問題は、幕府にとって極めて負担の大きいものであり、その本音は「王家内部で解決してほしい」というものであったと考えるのが自然でしょう。
おわりに
以上、必ずしも充分なスピード感があったとは言えないかもしれませんが、鎌倉幕府末期のあたりまで時を巻き戻しつつ、そこから多少編年的に歴史の流れをざっくりと再確認してきました。
まず鎌倉後期、特に北条時宗没後の幕府が「青息吐息」とも言うべき状態に陥っていたことを確認しました。その要因としては、元寇後の恩賞不足も確かに存在しますが、それ以上に、元寇以前から続いていた構造的問題が御家人層の困窮を不可逆的に進行させていた点が重要であり、元寇はその問題を一挙に顕在化させた契機と捉えることができるでしょう。
その一例として「神領興行令」の問題を取り上げました。中世において神仏は疑うべくもなく実在するものであり、祈祷は現実に作用する「技術」として認識されていました。そのため、その対価としての恩賞を踏み倒すことは制度上も観念上も許されませんでした。
しかし、本来は朝廷の管轄であるべき領域において、実効的な執行力を持たない綸旨に代わり、幕府の法令と訴訟機構が依拠されるようになり、その結果として訴訟は激増し、幕府の処理能力は限界へと追い込まれていきました。
さらに、悪党追捕の代執行や非御家人層の動員など、本来の管轄を超えた業務が常態化したことにより、幕府および御家人層の負担は一層増大していきます。
こうした状況の中で発令された永仁の徳政令は、単なる借金帳消しではなく、訴訟機構の限界を示す「制度的な敗北宣言」として理解する方が実態に近いものでした。
加えて、王家および貴族層による幕府依存の進行もまた、幕府にとっては深刻な問題でした。本来は王家の専権事項である皇位継承問題にまで幕府の裁定が求められるようになった背景には、承久の乱以降の経緯と、後嵯峨皇統成立への関与という事情がありました。
こうして、幕府と朝廷の関係は、単なる役割分担を超えて相互依存の関係へと変質し、将軍位と皇位継承が複雑に絡み合う構造が形成されていきます。
そして、この構造の中で成立した両統迭立は、一見すると安定的な制度のように見えながらも、「必要な時に適切な後継者が存在する」という偶然に大きく依存した不安定なものでした。その前提が崩れ始めた時、花園天皇や後醍醐天皇のような「一代主」的な即位が不可避的に生じていきます。
以上を踏まえると、鎌倉幕府末期とは、外敵ではなく「制度そのもの」によって疲弊していった時代であったとも言えるでしょう。
そして、同じような立場にあった花園と後醍醐は、その後全く異なる選択を取ることになります。この違いが、持明院統と大覚寺統、さらには北朝と南朝の運命を大きく分けることになっていきます。
次回は、花園(上皇)と後醍醐(天皇)の選択の違いにも触れつつ、後醍醐天皇の討幕に至る流れを、もう少しスピード感を意識しながら編年的に追ってみたいと思います。
今回の内容に関連する過去記事についても、下記にリンクを掲載しておきますので、ぜひあわせてご覧ください。
それでは、また。
※この文章は、私が原文を執筆し、それをChatGPTが事実確認とリライトするという協業によって作成されています(最終的に若干の手修正を入れています)。
