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ChatGPTと学ぶ日本史・第二夜~第5回――両統迭立の陰に“お気持ち”あり~時宗と実兼、その人間的な選択

承久の乱後の皇統問題は、制度・権威・政治判断が複雑に絡み合う「難しいテーマ」として語られがちです。しかし、その背景にはもう少し人間臭く、時に切なくもある“動機”が潜んでいたのかもしれません。

第5回では、前回に続き北条時宗の介入をめぐる動機を補足的に掘り下げつつ、もう一人のキーパーソン・西園寺実兼の立場と心情にも目を向けてみます。
合理性だけでは説明しきれない、
「親切心」「義侠心」「出世欲」そして「恋心」
といった人間的な感情が「両統迭立」という歴史的分岐点にどのように影響を与えたのか──。

制度史の奥に隠れがちな、当時の人々の“想い”に触れることで、日本史が少しだけ違った姿に見えてきます。
次回以降につながる「両統迭立期の院政・朝廷政治」への導入としてもお楽しみいただければ幸いです。※約7500字


はじめに

前回は、まず後嵯峨天皇崩御後の混乱について概観しました。
最大の問題点であった「次の治天の君」を後嵯峨が指名しなかった理由については、幕府に対する遠慮に加えて、「幕府を半ば公式に巻き込むことで亀山に権威と後見、そして正統性を与えたい」という父親としての思惑、さらには「お膳立ては整えておいたのだから、あとは察して亀山を支えてほしい」という幕府への都合の良い期待、すなわち一種の“甘え”があった可能性を述べました。

また、後深草は広大な王家領である長講堂領を正式に相続しており、本来であれば皇位継承争いを退く選択肢も存在したことにも触れました。しかし、それでも後深草は最終的に「出家カード」を切り、その意を受けた関東申次・西園寺実兼が幕府との調整役を担い、結果として北条時宗の積極的な介入を呼び込むことになりました。

その際、時宗の行動には「明確な政治的利益や、制度的必然性を見出すことは難しい」一方で、親切心や義侠心といったおよそ政治家らしからぬ“お気持ち”が少なからず影響していた可能性にも、前回は簡単に触れました。

今回はまず、この「北条時宗の動機」について、補足的にもう少し掘り下げてみたいと思います。そして合わせて、西園寺実兼側の動機についても考察を進めます。

そこには、のちに「両統迭立」を決定づけ、さらには関東申次=西園寺家を“王権と幕府をつなぐフィクサー”へと押し上げることになった、あまり語られることのない歴史の“核心”の一端が浮かび上がるはずです。

”両統迭立”しか手立てが無かったのか?

前回にも簡単に触れた通り、この「後深草院の出家騒ぎ」は、元朝の大軍が現在の博多湾に押し寄せた「文永の役」のすぐ翌年にあたる出来事です。
このことから、時宗の介入も、元軍の再侵攻が確実視される中でのこととして、「このような非常時に王家が分裂して争うのは不利である」という、いわば軍事的な思惑に基づくものだったのではないか、とする見方があります。その延長線上で、「なるべく双方を立てつつ事態をソフトランディングさせる」ための方策こそが、のちに「両統迭立」と呼ばれる枠組みであった──と説明されることもあります。

確かに、話としてはよく筋が通っていますし、実際に当時、そのような発想や危機感がまったく存在しなかったとは言い切れないでしょう。
しかし、視点を少し変えると、「それでもなお、幕府にとって両統迭立そのものに積極的なメリットがあったとは言いがたい」のではないか、という疑問も湧いてきます。

というのも、もし後深草院が「本気で出家して仏道に邁進する」つもりであるなら、幕府としては、せいぜい「太上天皇号の返上」だけは思いとどまってもらい、「法王」としての立場を維持してもらえば足りるはずだからです。そうしておけば、後深草院は広大な長講堂領という経済基盤によって、自らの皇子たちを充分に養うことができますし、万が一、亀山皇統が断絶するような事態になれば、すかさず「後深草皇統」からの皇位継承に切り替えることも可能になります。少し時代は下りますが、イメージとしては江戸幕府の「御三家」や「御三卿」のような“予備ライン”を想像していただくと分かりやすいかもしれません。

この場合、問題になってくるのは、「亀山が治天の君としての権威を担い、後深草が長講堂領という経済力を握る」という、いわば「権威」と「経済」が分裂した状態が長期化してしまう点です。仮に後深草自身が、父・後嵯峨や先祖の菩提を弔うことに専念し、目に見える政治的野心を持たなかったとしても、「お金のあるところに人は集まる」のが世の常であり、そこにはしばしば独自の権威や権力が発生します。

この危険性については、鳥羽上皇崩御後の混乱期を思い出していただくと、少しイメージしやすいかもしれません。王家領の経済力を背景に大きな影響力を持った「暲子内親王」、すなわち八条院は、皇位継承に小さくない影響を及ぼしましたし、平氏の視点から見れば、反乱軍である「以仁王」のバックボーンの一端ともなっていました(前シリーズでも何度か触れているので、宜しければ御参照下さい)。
同じように、長講堂領という巨大な経済基盤を押さえた後深草院が、たとえ本人の意図にかかわらず、政治的・軍事的な“磁場”の中心になってしまう危険性は、決して小さくありません。

もし時宗が本当に「対元軍のために王家の分裂を避けたい」という一点だけを考えていたのだとすれば、むしろ後深草を丁重に「宥め申し上げ」たうえで、長講堂領を亀山、あるいは然るべき女院に譲渡させ、そのうえで出家してもらい、皇統そのものは亀山側に一本化する、という選択肢も理屈のうえでは取り得たはずです(この場合でも、後深草皇統そのものは、別の所領や立場によって“予備ライン”として温存する余地は残ります)。

”お気持ち”を想像する余地は充分ある

以上の点は、私自身の素人考えの部分も多分に含まれていることを、まずはお断りしておきたいと思います。
それでも、もし「亀山皇統」への一本化、あるいはそれに近い方向性へと事態を収めることが可能だったとすれば、それを最も実現し得る立場にいたのは、やはり北条時宗という人物だったと考えられます。

この時期の時宗は、しばしば「独裁者」と表現されるほど強大な実権を握っていました。
といっても、これは決して北条氏や時宗自身の権力欲の産物ではなく、あくまで「元軍の侵攻」という未曾有の国難に対処するため、幕府が“挙国一致体制”を取らざるを得なかった結果としての権力集中と理解すべきでしょう。
歴史学者の中には、「日本史上の独裁者は二人だけ──北条時宗と豊臣秀吉である」と評する向きすらあります。

結局のところ、この“時宗の独裁化”こそが、のちに鎌倉幕府滅亡の一因ともなるのですが、この点については稿を改めたいと思います。

ともあれ、こうした背景を考えると、時宗が「両統迭立」という、後の時代から見れば実にやっかいな着地点へと進んだ理由は、必ずしも政治的・制度的・軍事的合理性だけで説明できるものではありません。
むしろ、

  • 「兄弟で争うのは悲しいこと」

  • 「双方に角が立たない形で穏やかにおさめたい」

という、親切心や義侠心といった“お気持ち”の比重が案外大きかったのではないか、と推測する余地は充分にあります。

つまり時宗は、将来の皇統問題の火種がどう発展するかという長期的展望よりも、
「今この時、不遇にある後深草院をお助け申し上げ」
「御兄弟の仲を取り持つ」
という、きわめて近視眼的で人間的な動機のもとで介入した可能性が高い、ということです。

さらに、ここからはまったくの想像でしかありませんが、時宗自身には、この問題を「自らの手腕でうまくコントロールし、最終的な解決へ導ける」という強い自信があったのではないでしょうか。
もちろん、その“最終的な解決”がどのようなものであったかは想像するほかありません。しかし、北条時宗という人物像を思い浮かべると、

  • 親切心

  • 義侠心

  • そして自信

この三つが重なり合い、
「御二流れにて、位にもおはしまさなむ(両統で交互に皇位につけばよいでしょう)」
という結論へ至った背景として、決して荒唐無稽ではないように思われるのです。

西園寺実兼の事情

さて、時宗についてはここで一旦区切りとし、もう一人の重要人物──「両統迭立」成立へのキーパーソンである西園寺実兼に視点を移してみたいと思います。

これまでも触れてきた通り、後深草・亀山の皇位継承問題については、外戚である西園寺家から見れば「どちらが即位しても問題はない」状況にありました。
繰り返しになりますが、「後嵯峨」「後深草」「亀山」、いずれの中宮も西園寺家の子女です。少し込み入った話になりますが、実兼から見れば「後嵯峨」と「後深草」の中宮は叔母、「亀山」の中宮は同母妹にあたります。

つまり実兼は、王家の外戚としてこれ以上ないほど深く結びついた立場にあり、本来であれば「どちらの皇統であれ構わない」という中立的姿勢を取ってもおかしくありません。むしろ場合によっては、後深草院の出家を「どうぞどうぞ」と後押しし、彼を政界から退場させるよう誘導しても不思議ではありません。古くは花山天皇の出家を扇動した藤原道兼の例を思い起こしてもよいでしょう(自分も出家するからと花山天皇を連れ出し、いざ自分が頭を剃る段階になってトンズラした事件)。

ところが実際には、実兼は結果として「後深草」を選んだように振る舞っています。
では、なぜなのでしょうか。

研究によれば、この時期にはすでに「亀山派」「後深草派」という、後の「大覚寺統」「持明院統」の原型とも言える派閥が萌芽し始めていたと考えられています。そして実兼は、亀山天皇の治世下ではほとんど昇進の機会が得られなかった一方、後深草院政期には目覚ましい出世を遂げています。
このことから、実兼はもともと「後深草派」として行動していたのではないか、と指摘されることが多いのです。

そうであるならば、実兼の動機の第一は、率直に言えば 「自身の立身出世のため」 であったと推測しても、荒唐無稽とは言い切れないでしょう。

さらに、一口に「西園寺家」といっても、必ずしも内部で意見が一致していたわけではありません。兄弟・親族間の出世争いは相当に激しく、外から見える「名門・西園寺家」という看板とは裏腹に、内部では足の引っ張り合いもあり得ます。かの藤原道長が「望月の歌」を詠むまでに、凄惨な親族間闘争があったことを思えば、これはむしろ自然なことと言えるかもしれません。

別の言い方をすれば、実兼は「後深草というお値打ち株を買った」のかもしれませんし、もっと率直に言えば「万馬券の可能性に賭けて後深草を一点買いした」ような側面があったとも考えられます。
すなわち、実兼が最初から後深草グループに属していたのか、それとも亀山グループに受け入れられなかった結果として後深草側に肩入れしたのかは断定できませんが、少なくとも「自己の利益を最大化するための選択であった」という推測には、充分な蓋然性があるのです。

恋心?

そしてもう一つ──これは史料的な裏付けのない、まったくの私見に過ぎないのですが、私は西園寺実兼には「自分の想い人のために後深草を支えた」という側面も、少なからず存在したのではないかと考えています。
繰り返しになりますが、以下はあくまで「素人の想像」の域を出ないものであり、その点を充分ご留意いただいたうえで読み進めていただければと思います。

前回少し触れた『とはずがたり』という女流日記があります。作者は後深草院の寵愛を受けた女房、通称「二条」。詳しい人物紹介は本筋から外れるため省略しますが、父方は村上源氏の流れを汲む有力な院近臣の一族であり、後宮に仕える立場としても申し分ない血筋でした。

そして、この『とはずがたり』に登場する「雪の曙」と呼ばれる人物こそ、他ならぬ西園寺実兼とされています。作者自身が記しているところによれば、二人は作者が院の後宮に上がる以前から、相思相愛の恋人同士であったというのです。

もしこれが事実であれば、実兼が「愛する二条を守るために後深草を支えた」と考えることは、決して不自然ではありません。
後宮に入った女房は、仕える主人が失脚すれば同じく没落を余儀なくされます。実家に戻るか、あるいは出家して生きる道を探すか──しかし、二条の場合は両親がすでに亡くなっており、帰る家すらない状況でした。主人が没落すれば、彼女は支える家を失ったまま、事実上「社会から消える」ように生きるほかありません。つまり実兼にとっては、

「このままでは、愛する女性と二度と会えなくなる」

という危機でもあったのです。

だとすれば、実兼が後深草の窮状を北条時宗に訴え、時宗の“親切心”と“義侠心”を強く刺激した結果として、あの「積極的な」介入が生まれた──という推測にも、一応のリアリティが生まれます。

こう考えてみると、「南北朝時代」の前史とも言える「両統迭立」とは、

  • 後嵯峨上皇の末子びいきと甘え、

  • 西園寺実兼の恋心(そして出世欲)、

  • 北条時宗の親切心と義侠心、

──これら極めて“人間的な感情”の連鎖が扉を開けた結果だった、とさえ言えるのではないでしょうか。

少なくとも、このように見てみると、無味乾燥で暗記しがちな教科書の記述が、途端に生き生きとしたドラマとして立ち上がってくるように思われます。

時宗の”介入”が齎したもの

これまで述べてきたように、時宗の介入によって後深草院の第二皇子である煕仁(ひろひと)親王が後宇多天皇の皇太子に立てられ、「両統迭立」への第一歩が踏み出されました。

ここで一点、お詫びと訂正を申し上げます。
前回の本文などで、煕仁親王を「中宮所生の第一皇子」であるかのように記述してしまいましたが、正確には中宮所生ではなく、さらに第二皇子です。ただし、母は西園寺家の子女であり、のちに玄輝門院(げんきもんいん)の院号宣下を受けるなど厚い待遇を受けていることから、血筋・身分として「申し分ない皇子」であったことには変わりありません。
論旨に大きな影響はございませんが、明らかな誤りでしたので、あらためてお詫び申し上げます。

さて、ここで注意すべきは、この立太子の一件をもって、直ちに「両統が対立し始めた」と考えてはならないという点です。
後嵯峨崩御の際にも、後深草は生母である大宮院の招きで酒宴に参加しており、また、煕仁親王立太子後にも、亀山院が後深草院を訪ねて遊行・酒宴を共にしたと『とはずがたり』に記されています。

とくに後者の訪問は、「鎌倉の方で(つまり幕府内で)兄弟対立が激しくなっているらしい」という噂が流れたため、
「私たちは仲良くしておりますよ?」
というアピールの意味も込めて催された、ととれるように同書に書かれています。
母子の融和や兄弟間の交流など、少なくとも表向き(あるいは政治的レベル)では平穏であったことが読み取れます。

『とはずがたり』は文学作品ではありますが、時宗の異母兄・北条時輔の討滅(いわゆる二月騒動)についても、史料的にほぼ正確な時期で記されており、一定の史料的価値を認める見解も少なくありません。

ともあれ、表面上は大きな波風が立っていたわけではなく、また「両統迭立」がただちに制度化・慣習化したわけでもありませんでした。

しかし、ここには二つの問題が潜んでいました。

◆ 第一の問題 — 「言い出しっぺ」である時宗がまもなく死去すること「両統迭立」という“王者の沙汰”について、時宗が最終的にどのような構想を持っていたのかは分かりません。しかし、彼の死後、幕府は基本方針としてこの“御二流れ”を受け継ぎます。
ここで、時宗個人の“調整力”“仲裁力”“人格的重み”といったソフト面が、制度的裏付けのないまま失われてしまったのは、大きな構造的損失でした。

◆ 第二の問題 — 煕仁親王立太子が、貴族・王家にとって「成功体験」になってしまったこと
この一件は、貴族たちに 「幕府に強く働きかければ、皇統の流れを変えられる」 という確信を与えてしまいました。
以後、「そろそろ皇統を交代してほしい」という時期になると、王家・貴族は幕府に対して積極的かつ強力な政治運動を展開するようになります。

こうして、

  • 王家・貴族の“武家政権依存”の進行、

  • 北条得宗家が時宗の遺訓として「御二流れにて、位にもおはしまさなむ」を墨守したこと、

  • そして、その間に立つ西園寺家がフィクサー的な権威を強めていくこと、

これらが組み合わさり、当初は“場当たり的”であった両統迭立が、次第に半ば制度として固定化していくことになります。

おわりに

以上、今回は北条時宗の動機について補足的に概観するとともに、西園寺実兼の動機についても、いくつかの推測を交えて考えてみました。

元軍と戦うための「挙国一致」体制という視点から見れば、「両統迭立」は必ずしも合理的な結論とは言えません。そのため、時宗の介入には、政治的・軍事的判断だけでは説明しきれない、個人としての「親切心」や「義侠心」が作用していた可能性が高いことを指摘しました。

また、この時期にはすでに「亀山派」と「後深草派」という派閥が成立しつつあり、その中で西園寺実兼は「自身の立身出世のため」に後深草側へ傾いた可能性があることにも触れました。さらに、後深草院の寵愛を受けた女房・二条をめぐる物語を素材にしつつ、「恋人を守るため」に行動したという、あくまで想像の域ではあるものの、人間的な動機の存在も検討してみました。

制度や慣習、政治構造だけでなく、こうした人間的な感情が歴史を動かすことがあると考えてみると、歴史は単なる「無味乾燥な暗記科目」ではなく、より生き生きとしたドラマとして立ち上がってくるのではないでしょうか。

次回は、「両統迭立期の朝廷・院政とはどのような政治構造だったのか」という点から概観してみたいと思います。
何やら難しそうな予告になってしまいましたが、私自身は研究者でも専門家でもなく、ただの一般人にすぎませんので、ご安心下さい。学術的な議論というより、これまでと同様「素人が素人なりに、歴史を少し違った角度から眺めてみる」試みです。

とはいえ、その中には「後醍醐天皇の“親政至上主義”はどこから来たのか?」という、のちの建武新政や南北朝時代にもつながる興味深い視点も含まれます。
どうぞ、次回もお付き合いいただければ幸いです。

※この文章は、私が原文を執筆し、それをChatGPTが事実確認とリライトするという協業によって作成されています(最終的に若干の手修正を入れています)。

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