ChatGPTと学ぶ日本史・第二夜~第2回――南北朝への小さな入口──後深草と亀山の分岐点
本稿では、後嵯峨天皇の即位にいたる複雑な背景と、宗尊親王の鎌倉下向に象徴される朝幕関係の安定、そして後深草から亀山への“静かな譲位”までを概観します。
一見すると平穏に進んだ兄弟間の譲位──しかし、この小さな交代劇こそが、のちに日本史を大きく揺るがす「南北朝時代」への入口となりました。
承久の乱後の政治的後始末が生んだ歪み、幕府の利害と後嵯峨の親心、さらには帝位継承の構造そのものが、どのようにして“二つの皇統”の分岐を準備していったのか。本稿では、その前史の輪郭を追っていきます。
次回は、今回の譲位がどのように「両統迭立」という特異な制度へ結びつき、南北朝分裂の下地となっていくのかを見ていきます。
※約7600字
はじめに
前回は、承久の乱後に鎌倉幕府が“後高倉院皇統”を擁立することで無理なツジツマ合わせを図ったこと、そしてその“幕府期待の皇統”が早々に断絶してしまうという大誤算について触れました。
結果として、いったん排除したはずの“後鳥羽院の皇統”へと再び戻らざるを得なくなり、その中から選ばれたのが後嵯峨天皇であった、というところまでを概観しました。
今回は、まずこの後嵯峨天皇(上皇)とはどのような存在であったのか、その人物像と政治的位置づけから見ていきたいと思います。
”後嵯峨天皇”
前回も簡単に触れましたが、後嵯峨天皇の諱(いみな——現代で言えばほぼ本名に相当)は「邦仁(くにひと)」といい、父は土御門天皇です。ただしその生母は「源通子(みなもとのみちこ/つうし)」という典侍(ないしのすけ)で、いわゆる宮廷女官の出身でした。
土御門天皇の中宮は藤原北家(良門流)の系統を引く高貴な出自でしたが、結局男子をもうけることはなく、邦仁王は典侍腹の皇子として育ちます。
通子が属する「村上源氏」は、武家源氏とは違い、ほとんどが京都の中央で活躍した“公家源氏”の名門です。武家の側で言えば、播磨の赤松氏がこの村上源氏の支流を称していることが比較的よく知られています。
特に通子の祖父筋には、後白河院・高倉院、さらには後鳥羽院などに仕えた有力な院近臣が並び、院政期を通じて存在感のある家柄でした。
そうなると、あの「承久の乱」が彼らの運命を大きくひっくり返したことは、ここで改めて説明するまでもないでしょう。
後の後嵯峨天皇となる邦仁王は承久の乱のわずか一年前——1220(承久2)年に誕生しますが、父・土御門上皇が土佐へ下向した後は、“実家方”である「中院通方(なかのいん・みちかた)」や「土御門定通(つちみかど・さだみち)」のもとで養育されました。
名前がばらばらで分かりにくく感じられるかもしれませんが、彼らはいずれも源通親(みなもとのみちちか)を父とする兄弟です。
同じ藤原氏の兄弟が、それぞれ「近衛」「九条」「松殿」といった異なる家名を名乗った例を思い出していただければ、当時の“院近臣ネットワーク”の中で家名が分岐していく事情が理解しやすいでしょう。
わびしい前半生
邦仁王は先述の通り中宮所生ではありませんが、土御門天皇の子女の中では生母の身分が最も高く、さらに同母の兄たちはいずれも早くに出家していたため、事実上「第一皇子」と目される存在でした。
承久の乱さえ起きなければ、たとえ皇位継承の本線から外れたとしても、院近臣として力を持つ実家方の経済力に支えられ、“それなりに”王族らしい生活を送ることは充分可能だったでしょう。かつて雅仁(まさひと)王時代の後白河院が、継承争いとは”ほとんど可能性が無い”中で文化活動に全力投球した——いわば「インテリ系ウェーイ」だった例を思い出していただければ、邦仁王の将来にもそうした道が開けていた可能性は決して低くなかったと思われます。
ところが、事態を大きく変えたのが承久の乱でした。父・土御門上皇は乱とはほぼ無関係ながら自ら望んで後鳥羽院方に連座して土佐配流(下向)、加えて有力院近臣であった“実家方”も権勢を失って没落します。率直に言えば、邦仁王は一転して「ド貧乏王族」となってしまったのです。
そのため、20歳を過ぎても「元服も出家もできない」という困窮ぶりが記録に見えます。王族の元服には相応の儀礼と費用が必要で、また出家するにしても、門を叩く寺院への寄進や礼金を“手ぶらで”済ませることはまずありえません。具体的な額の記録は残りませんが、何らかの形で費用が必要だったことは想像に難くなく、むしろ“お金がないから出家も満足にできなかった”という状況は、当時の王族社会の常識から考えても充分に納得できる話でしょう。
しかし、この「お金が無いゆえに出家も進まない」という状態こそが、皮肉にも邦仁王の運命を大きく転換させる“幸運”となっていきます
運命の歯車が回りだす
このような状況ですので、四条天皇が突然崩御した際、邦仁王自身が「ハイッ!」と名乗り出ることなど到底不可能でしたし、実家方にも朝廷内部で強く後押しできるほどの権勢は残っていませんでした。
しかし、この時点では既に“鎌倉殿”という、きわめて強力な“外圧”が政治構造として確立しており、これを利用できれば邦仁王にも大きなチャンスが生まれます。そして、彼を後見していた土御門定通は、その鎌倉幕府へと繋がる有力なパイプを持っていました。
というのも、定通の側室のひとりが、他ならぬ北条義時の娘「竹殿」であったためです。
承久の乱後、武家と貴族が結びつきを強めるための“純度高めの政略婚”という側面は確かにありますが、竹殿は定通との間に男子をもうけ、その男子は後に土御門家を支えることになる人物です。義時が従四位下・相模守、定通が正二位・内大臣という“富士山の山頂と四合目”ほどの身分差を思えば、側室所生の子が正室の子に劣らぬ出世を遂げているのは注目すべき点で、両者の間にある程度の情があった可能性も、まったく突飛な想像ではありません。
いずれにせよ、竹殿の兄こそが、言うまでもなく北条泰時——“鎌倉殿の執権”その人です。これ以上のパイプは他に望みようがありません。
そのため定通は四条天皇崩御後ただちに幕府へ密使を送り、泰時に邦仁王擁立を積極的に働きかけたと伝えられています。
これに対し、土御門定通と肩を並べる強力なパイプを持っていたのが九条家でした。こちらは何といっても“征夷大将軍の実家”として幕府との深い公式的関係を持ち、朝廷内で「摂関家プラスアルファ」とも表現できるほどの権勢を誇っていました。そして九条家が推したのが、順徳上皇の第五皇子・忠成王です。九条家とは姻戚関係にあったとされます。
もはや朝廷での地位をほぼ失い不利な立場にあった土御門定通に対し、圧倒的権威を持つ摂関家が担ぎ上げた忠成王には貴族たちの大勢が傾き、天皇用の装束が忠成王の体格に合わせて仕立てられた、とさえ伝えられています。
しかし、前回述べた通り、最終的に“幕府が選んだ”のは邦仁王でした。
幕府の選択とその背景
鎌倉幕府、もう少し正確に言えば北条泰時が邦仁王を推したのは、決して「妹の嫁ぎ先だから」といった情実ではありません。
前回も触れたように、忠成王の父である順徳上皇は「承久の乱の最積極派」と評される人物です。もし忠成王が即位すれば、まだ存命であった順徳上皇が帰京し、院政を開始する可能性は極めて高い。
そうなれば順徳が幕府に良い感情を持つはずもなく、状況次第では“第二次承久の乱”が勃発してもおかしくはないと、幕府側は当然ながら危惧したはずです。
結果論として順徳は同年中に崩御するため、後にそうした危険は現実化する可能性は低かったのですが、当時の泰時らがその未来を知る由もありません。
そのような中、同じ後鳥羽皇統とはいえ承久の乱にほとんど関与しなかった土御門上皇の皇子・邦仁王が候補に挙がったのです。これは泰時にとって「乗るしかない」……ビッグウェーブというほどではないかもしれませんが、確実に“安定をもたらす潮流”ではありました。
さらに、泰時と竹殿(義時の娘で定通の側室)の関係も、幕府にとって魅力的な要素でした。
兄妹という私的な繋がりは、朝廷内部の“公式ルートでは得にくい内情”や“微妙な空気”を把握する上で強力なチャンネルとなります。将来的な朝幕関係を調整する上でも、このルートを確保できる点は非常に大きかったと考えられます。
こうして、鎌倉幕府が邦仁王を推挙したことは、前回述べた通り、事実上の「後継指名」でした。相手が摂関家であろうとも、もはや貴族たちにこれを拒む術はなく、流れは決定的となります。
邦仁王は仁治3年(1242年)1月に践祚し、同年3月に即位礼を挙行して「後嵯峨天皇」となりました。
現実はそんなに”滑らか”ではない
と、ここまで比較的気軽に書いてきましたが、実際には朝廷・幕府ともに権力抗争が渦巻く“ドロドロの内実”の果てに到達した決定であって、「邦仁王でどうです?」「アッ、ハイ……」という単純な話では、もちろんありませんでした。
詳細に踏み込むと本題から離れてしまうためここでは割愛しますが、一つだけ覚えておいていただきたいのは、後嵯峨天皇の政治的立場は、決して安定したスタートラインではなかったという点です。
ついでに少し余談を挟むと、このすぐ後に、朝幕の連絡役として朝廷側に新たな役職が設けられます。それが「関東申次(かんとうもうしつぎ)」——あるいは「関東執奏(かんとうしっそう)」と呼ばれる役職です。
鎌倉幕府との調整窓口として、後の政治史ではなかなか重要な位置を占めることになりますが、今は「へえ、そんな役ができたんだ」程度に押さえておいていただければ充分でしょう。
さて、後嵯峨天皇は即位後ほどなくして、西園寺(さいおんじ)家から中宮を迎えます。西園寺家は藤原北家の支流で、中でも藤原公季(きんすえ)を祖とする“閑院流”に属する有力貴族で、「摂関家に次ぐ家格」とされる清華家の筆頭格でした。
この家は外戚、すなわち王家(天皇家)との婚姻関係を通じて勢力を築いたことで知られ、後嵯峨としても自らの立場を固めるため、まずはこの強力な貴族集団と手を結ぶ必要があったわけです。
そして、その背景には、いち早く「邦仁王擁立」に舵を切り、践祚の調整を主導したとされる西園寺公経(きんつね)の存在がありました。後嵯峨が中宮に西園寺家の娘を迎えたのは、こうした公経の功績への“政治的な筋の通し方”でもあったと考えられます。
比較的穏やかな”後嵯峨”の治世
ともあれ、多少足元の怪しい船出ではあったものの、後嵯峨天皇の治世そのものは大きな混乱もなく過ぎていきました。もちろん、朝廷内の権力争いは“いつものこと”として存在していましたが、それが致命的な政治危機に発展することはなかったようです。
先ほどから述べている通り、「幕府の強い後押し」で即位した後嵯峨は、朝幕関係の安定・良好化にも心を配りました。その象徴的な出来事が、事実上の第一皇子にあたる宗尊親王(むねたかしんのう)の鎌倉下向と、「征夷大将軍宣下」です。
皇族が将軍となることを「宮将軍(みやしょうぐん)」、現代的には「親王将軍」「皇族将軍」とも呼びます。
前シリーズでも触れたように、源氏将軍が三代で絶えた後、幕府が迎えたのは摂関家の嫡流から出た幼児「九条三寅(2歳)」であり、彼を“摂家将軍”と呼びます。三寅は元服して「頼経」と名乗り、形式上は名実ともに“鎌倉幕府の将軍”となりましたが、実際の権限はきわめて限られていたとされます。
それでも成長するにつれ、将軍としての自負が芽生え、さらには「反北条」を掲げる武士たちが頼経のもとに集まり始めました。
加えて、頼経の実家である九条家も朝廷だけでなく幕政にも何かと意見するようになり、いわば“パイプが張り出して部屋の中を圧迫し始める”ような状態となっていきます。
こうして、朝廷側・幕府側双方の利害が一致した結果、摂家将軍は二代限りで鎌倉を去ることになり、代わって宗尊親王に始まる「宮将軍」の時代が開かれました。
なお、北条政子や義時がかつて“後鳥羽院の皇子を下向させての親王将軍”を望んでいたとされることを思えば、これは数十年越しに実現した形とも言えます。
ただし正確に言うと、宗尊親王の鎌倉下向は後嵯峨“天皇”ではなく、後嵯峨“上皇”の時代の出来事です。
さて、その後嵯峨は即位4年目に、わずか数え4歳の久仁(ひさひと)親王に譲位し、自身は院政を開始します。久仁親王は「後深草天皇」となり、ここにようやく“院と朝廷”という本来の政治構造が回復しました。
後嵯峨上皇は“治天の君”として君臨し、後深草天皇も大きくつまずくことなく政務をこなし、「宮将軍」をいただく幕府との関係もおおむね良好……。ドラマであればここでエンドマークが出ても不思議ではありません。
しかし、「そうは問屋が卸さない」のが歴史の常であることも、また事実です。
父の愛
さて、この「後嵯峨上皇」という人物ですが、どうやら我が子への情が比較的深いタイプであったようです。
先ほど登場した宗尊親王は確かに“第一子”にあたりますが、正室所生ではなく、生母の身分も高くなかったため、皇位継承レースには“最初から参加できない”立場でした。それでも後嵯峨は宗尊を寵愛したとされ、そもそも親王宣下を受けていること自体、当時としてはその寵愛の象徴と理解されています。
すなわち、宗尊を「将軍」として鎌倉へ下向させたのは政治的判断が大きいものの、「せめて身の立つ立場を与えたい」という親心も相応に含まれていた、と解釈されるわけです。
そして、後嵯峨が深く愛したもう一人の皇子が、後に「亀山天皇」となる第七皇子、恒仁(つねひと)親王です。後深草天皇にとっては“実の弟”にあたります。
建長元年(1249年)、後嵯峨29歳の時に誕生した恒仁は、「なぜか」と言いたくなるほど父母の愛情を一身に受け、その深さは史料に「鍾愛(しょうあい)」と記されるほどでした。
“鍾愛”とは辞書的には「非常に大切にしてかわいがること」「深く愛すること」を意味します。印象としては、単なる“寵愛”より濃く、しかし“溺愛”よりはいくぶん理性的なニュアンスといったところでしょうか。
なお、対照的に後深草天皇が父母から“嫌われていた”といった記録はなく、人物的に問題があったという伝承も見当たりません。つまり、恒仁が特別視されたのは“後深草に欠点があったから”などではなく、“ただそういう巡り合わせだった”——要するに「恒仁がとても可愛かった」という、それだけの話だった可能性が高いのです。
その時、歴史が動いちゃった
そして正元元年(1259年)、後深草天皇は「瘧病(ぎゃくへい)」を患ったとされ、その年のうちに「後嵯峨上皇の要請によって」弟の恒仁へ譲位したと記録されています。以後、後深草は上皇となり、“本院”と呼ばれるようになります。
「瘧病」とは、古代以来よく知られていた熱性の病で、現代で言う“マラリア”とされることが多いものです。「平清盛の死因はマラリアではないか」という説があることは、前シリーズ第19回でも触れました。
ただし、後深草が本当にマラリアに罹っていたかどうかは分かりません。高熱を伴う別の疾患であった可能性もありますし、そもそも“罹病自体”が政治的理由から付された説明である可能性すら排除できません。
しかし、このとき後深草から亀山への“譲位が実際に行われた”こと、そして“その背後に後嵯峨上皇の強い意思が働いていた”ことは、史料的にもほぼ確かなようです。
後深草17歳、亀山10歳——「院政」視点で見るなら、譲位するにはやや早く、譲位されるには少々遅い。こうした“妙に中途半端な年齢”の交代劇は、政治的な計算というより、むしろ後嵯峨の個人的な情愛の発露と見る方が自然でしょう(後深草が譲位を受けたのは”数え4歳”の時です)。
そもそも後深草と亀山は同母兄弟であり、外戚(西園寺家)の利害として「どちらを天皇にするべきか」という対立軸は最初から存在しません。西園寺家から見ても“どちらでも支障がない”わけです。
また院政絡みでよく引き合いに出される例として、鳥羽上皇が“崇徳を嫌って近衛へ譲位させた”という有名な伝承がありますが、後深草と後嵯峨の間には、そのような“不信の物語”は一切ありません。
後深草の人物に特段の瑕疵があったという伝承もなく、好色の気があったと言われる程度で——それを言うなら弟の亀山も負けず劣らずです。
しかし、後深草から亀山への譲位そのものは、朝廷内部でも幕府側でも“不自然な決定”とは受け取られなかったようで、動揺や混乱を招いたという記録もほとんど見られません。
兄弟仲も少なくとも表面上は良好で、“目が合ったら殴り合いが始まる”といった深刻な対立とは無縁だったとされています。
——ところが、この“純粋な兄弟間の譲位”が、後に「南北朝時代」へと至る大きな引き金の一つになってしまうのです。
おわりに
以上、後嵯峨天皇即位に至る背景、その後の朝幕関係、そして「後深草から亀山への譲位」までを概観しました。
承久の乱という、やや無理のある後始末が思わぬ形で崩壊した結果、さまざまな“生々しい”動機と駆け引きの末に誕生した後嵯峨朝廷は、船出こそ多少危うかったものの、婚姻関係や幕府の支援もあって概ね恙なく運営され、やがて“院と朝廷”という本来の政治的姿を取り戻すに至ります。
朝幕関係の良好さを象徴する出来事として、後嵯峨の第一皇子・宗尊親王が鎌倉に下向して将軍となったことを挙げました。ここには朝廷と幕府双方にとっての“利害の一致”という政治的側面があっただけでなく、生母の身分が低く、皇位継承の本線に立てなかった宗尊に“せめて身の立つ道を”という後嵯峨の純粋な親心が少なからず含まれていた点についても触れました。
また、後嵯峨の“愛情”がより明確に表れた例として、「後深草から亀山への譲位」についても簡単に述べました。そこには激しい権力抗争も深い憎悪もなく、実際には“ただ可愛くて仕方がなかった恒仁(つねひと)親王の将来を開いてやりたい”という、ごく素朴な情愛が背景にあったと考えるのが最も自然でしょう。
しかし、この一見“無風”に見える兄弟間の譲位こそが、後に「南北朝時代」へとつながる最初の小さなほころびとなります。
次回は、この譲位劇がどのようにして「両統迭立」という奇妙な制度へと結びついていくのか、その過程を概観してみたいと思います。
※この文章は、私が原文を執筆し、それをChatGPTが事実確認とリライトするという協業によって作成されています(最終的に若干の手修正を入れています)。
